依頼と震え
「少しは落ち着いたかしら」
イゾッタの優しい声にフィオラは顔を上げる。どれくらい泣いていたのだろうか。気づけば窓の外はすっかり茜色に染まっていた。
「お姉様ごめんなさい、私ったら長い時間……」
「いいのよ」
姉の笑顔にほっと心が落ち着くのを感じる。イゾッタがいてくれて良かった。心からそう思う。
イゾッタは妹が落ち着いているのを確認すると、小さな布袋を差し出した。ふわりと甘い香りが漂う。フィオラは小首を傾げる。
「これは……香り袋……?」
「いい香りでしょう?あげるわ。フィオラの悲しい気持ちが消えますように」
そう言って微笑むイゾッタ。胸の奥がじんわりと温かくなる。なんて優しいのだろう。目が潤んでしまうのを必死に堪えながらフィオラは口を開いた。
「ありがとうございます……っわ、私、私、こんなに色々してもらって、お姉様に何をお返しすれば……」
「お返しなんていいんだけど……あ、でも……いえ、いいの。気にしないで」
気遣いの言葉。けれど視線を泳がせながら躊躇っている。その言葉が決して本音ではないということがフィオラにも伝わってきた。――こんなにも自分に良くしてくれる姉に恩返しをしたい。
「お姉様、本当は何かあるんですよね!なんでも言ってください!治療ですか?私なんでもします!」
フィオラがそう告げると、イゾッタの口角が上がった。
「そう?それなら一つだけ、お願いしたいことがあるのだけど……」
***
すっかり日が落ち夜空には星が美しく瞬いている。そんな中フィオラは庭園を歩いていた。庭園を抜けた先の小門を目指して。
(お姉様、喜んでくれるといいな)
イゾッタのお願い。それは銀灯花を摘み取ってくることだった。
『北の森にね、夜に魔力に反応して淡く光る銀灯花という花が咲いているらしくて、見てみたいの』
『私は魔法が使えないけど、フィオラになら反応するはずでしょう?』
『小門の外に馬車を待たせておくから、摘んできてくれないかしら?』
どんな形をしているんだろう。何色に光るんだろう。イゾッタに見せたらどんな顔をするだろう。神秘的な花を想像してフィオラは思わず笑顔になる。
ダリアスと一緒に見てみたい気持ちもあったが、この時間には彼はもう騎士棟に戻っている。明日銀灯花の話を土産話にしよう。きっとこれが関係を元に戻すきっかけになってくれるはずだ。
「フィ、フィオラお嬢様!」
心を弾ませて歩いていると、後ろから声を掛けられた。振り返ると、そこには今朝転びそうになったところを助けてくれた庭師見習いがいた。
なぜこんな時間に彼が?フィオラは首を傾げた。
「やっぱり、そうだ……。おっしゃっていた通りだ……やっぱり、やっぱり……」
ぶつぶつと意味が分からないことを呟きながら興奮気味に近づいてくる男に、若干の恐怖と戸惑いを覚える。彼の目はぎらぎらと光っており、それがさらにフィオラの血の気を引かせた。
「あ、あの……?どうかされましたか?私、用事があって……」
「今朝は……お、俺の気を引きたかっただけですよね?照れ隠しですよね?だ、大丈夫です。分かってます」
じわじわと後ずさりながら尋ねると、支離滅裂な答えを返されてしまう。どんどん距離を詰められて背筋がぞわりと冷える。
――逃げよう。
そう思うが早いか、フィオラは駆け出した。しかし弱った身体は思うようには動かない。それどころか、すぐに石に躓いて転んでしまった。
「ああ、お嬢様……大丈夫ですか?恥ずかしがらなくていいんですよ……」
呼吸を荒くしながら近づいてくる男に、フィオラは身を固くする。怖くて身体が動かない。
男はしゃがみこみ恍惚の表情で彼女を見つめた。その視線に全身の毛が逆立つような感覚が走る。そして次の瞬間、男がフィオラに覆いかぶさった。
「は、離して……!」
懸命に力を入れるがその体はびくともしない。男はフィオラの首筋に顔を埋め、大きく息を吸っている。体の輪郭を撫でる手の感触はまるで虫が体を這っているようだった。
声が、出ない。助けて。誰か助けて。
その願いは届くこともなく、男の手が胸の膨らみへと移動する。涙がぽろぽろと溢れるが、それも男の気持ち悪い舌で舐め取られる。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
懸命に暴れていると、不意に指が硬い物に触れた。それは先ほど躓いた石だった。
石を取り、その手を振り下ろす。何度も。その度に鈍い音がする。
そのうち倒れこんだ男をフィオラは必死の力で押しのけ、痛みで身悶えながらうずくまっている間に走り出した。
逃げなくては。あと少しで小門にたどり着く。外には馬車が待っている。乗りさえすれば、身の安全は確保できる。
フィオラはもつれる足で無我夢中に走り、小門をくぐって馬車に乗り込んだ。
両腕を抱え込むその手が、全身が震えている。彼女の顔は真っ白だった。
御者が馬に鞭を入れてもなお、フィオラの震えは収まらない。彼女はおぼつかない動きでポケットに手を入れる。
取り出したのはイゾッタからもらった香り袋。その甘い香りを嗅ぎながら、フィオラはひたすらに自身の気持ちを落ち着けようとしていた。




