不運
その日は朝から悲しかった。
ダリアスはいつもより一時間遅れて来るし、その間に何かに滑って転びそうになった。間一髪のところで庭師見習いが抱きとめてくれなかったら、フィオラは泥だらけになっていたことだろう。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ、お嬢様に怪我がなくて何よりです!」
にこりと笑って礼を言うと、庭師見習いは顔を真っ赤にして彼女の手を握って鼻息混じりで返事をする。
「お嬢様、何をなさっているのですか」
振り向かなくとも分かる声。声の主――ダリアスの方を向き彼の姿を見るだけで、自然と彼女の表情は満面の笑みになった。
パッと手を離してダリアスに近づく。そして気づく。いつもと表情が違う、と。
フィオラに向けるその瞳が、深淵のように昏い。
ダリアスと出会って三年以上経つが、これまでそんな目で見られたことは一度もなかった。その冷たさに背筋が凍る。
何か嫌われるようなことを言ってしまったのかもしれない。変なことをしてしまったのかもしれない。フィオラの頭の中は真っ白になった。
「ダリアス、えっと、その、あの……」
何も思い当たることがない。けれどこのままだと嫌われてしまう。何か言い訳をしなければ。そうぐるぐると考えながら、彼女は手を伸ばして彼に触れようとした。
しかしその瞬間、弾かれたように身を引かれてしまった。昏い瞳のままで。
「ダリ、アス……?」
完全なる拒絶にフィオラの目の前が真っ暗になる。彼女のその表情にようやくダリアスがハッとした顔で謝罪をするが、その言葉は彼女の耳には入らなかった。
目眩がする。足に力が入らない。それが体調のせいなのか現状への反応なのかは分からない。
でも、今よろめいてダリアスに頼るわけにはいかない。これ以上嫌われたくない。その一心で震える足に力を入れて立ち続けた。
***
「お父様が肩が痛いと言っていたからお願いしたいの」
姉のその言葉を受け、午後になるとフィオラは執務室へと向かっていた。傍にダリアスはいない。まだ彼女は気持ちを切り替えられず、彼には下がってもらっていた。
治療が終わったらまたいつもの自分に戻らないと。明るく何もなかったかのように。そうすればきっと、少しずつでも関係は戻していけるはずだ。
そう自分に言い聞かせながら廊下を歩いていると、使用人たちの話し声が聞こえてきた。
「お前また聖女様に治してもらったのか?」
「あー、そうなのよ。ちょっと赤切れが痛くて」
自分のことを話していることに早々に気づいた彼女は表情を明るくした。自分が役に立てた話をしてくれているのかもしれない。そう思った。
「それにしても聖女様は便利だよなぁ」
「それくらいしか利用価値なんてないでしょう、あの子なんて。イゾッタ様のように賢くないし」
「賢いどころか食事に虫入れられても許してるんだから、ちょっと……頭は弱いよなぁ?」
咄嗟にフィオラは身を隠した。耳の奥で使用人たちの笑い声が聞こえてくる。
そんなふうに思われていたのか。彼女は頬の内側を噛んだ。
大丈夫、大丈夫だ。こんなふうに思われても仕方ないのだから。元々自分は食事に異物を入れられるくらい疎まれて嫌われていた人間だ。ちょっと治癒魔法を使ったくらいで、自分が必要とされていると考えていたことこそが思い上がりなのだ。
それに自分には家族がいる。
そう心の中で言い聞かせて落ち着かせながら、フィオラは使用人たちに気づかれないように歩みを進めていった。
「フィオラ!お願いを聞いてくれたのね。ありがとう」
到着する少し前にイゾッタにそう声を掛けられ、姉妹は共に執務室に向かった。そして重厚な扉をノックしようとしたその時、扉の向こうから聞こえてきたのは話し声。義父と母の声だった。
「フィオラは最近どうだ?」
「あぁ、五十何人治療できるようになったとか言ってましたわ。もっと要領よく治療すればいいのに」
「鈍臭いと困りものだな」
「ええ、本当に。最近は頭が痛いだとか歩きにくいだとか、構って欲しくて嘘ばかりつくんですのよ」
その言葉に思わず立ち竦めてしまう。義父には悪く思われても構わない。自分はよそ者で、そう思われて当然だから。けれど、母は。母だけは。褒めてくれなくてもいい。認めてくれなくてもいい。だけどせめて、嘘つきだとは思って欲しくなかった。
(ねぇ、お母様。私、嘘なんてついてないよ?)
固まったまま動けずにいるとそっと腕に触れる感触があり、フィオラは思わず肩をびくりと震わせる。イゾッタが心配そうな顔をして彼女を見ていた。
「お姉、様……」
「大丈夫……なわけがないわよね?」
そう言って優しく背中を撫でながら、イゾッタは誰も使っていない客間へとフィオラを促した。長椅子に座ると、イゾッタはその手で妹の顔を包み込んだ。
「ごめんなさい。私がお願いしなければあんなことを聞かずにすんだのに……」
「あ、いえ、お姉様のせいなんかじゃ」
「でも、傷ついたでしょう?」
まっすぐにフィオラを射抜くその瞳を見ていると、視界がどんどん歪み頬が濡れていく。気づけば涙がぼろぼろと流れていた。
使用人たちに嘲笑され。両親に否定され。ダリアスに拒絶され。孤独の中にいたフィオラへの一筋の優しさ。その暖かさにこれまで堪えていたものが決壊して涙として溢れて止まらない。
そんな彼女が泣き止むまで、イゾッタはずっと抱きしめていた。




