淡い恋
「ダリアス!」
花が綻ぶような笑顔でフィオラは護衛騎士へと駆け寄ろうとする。しかし足がもつれ、思い通りには動かない。
「危ないです。私が行きますのでお嬢様はじっとしていて下さい」
近づいてくるダリアスに、フィオラはさらに目尻を下げて嬉しそうに笑う。
「どうされましたか」
「あのね、これ、ダリアスに渡したくて」
そう言って彼女が渡したのは一枚のハンカチ。そこには少し歪な百合が刺繍されている。
「これは……」
「バデアラ家の紋章を縫ってみたの!ダリアスと出会ってもう三年も経ったでしょ?いつも私を守ってくれてありがとう」
穏やかに澄み切った蒼い瞳がダリアスを捉え、まっすぐな笑顔を向ける。彼はその瞳から目を離さず、しばらく黙ったままだった。
(……こんなの渡されて迷惑だったかな)
無反応を相手からの拒否だと解釈したフィオラは、急に自身が刺繍した不格好な百合が情けなく思えてきた。こんな不出来な物をさも大層なものかのように差し出した自分が恥ずかしい。
「へ、下手くそだよね、ごめんね……!」
そう言って引き戻そうとするが、しっかりと掴まれているハンカチはぴんと張るだけだった。
「ありがとうございます。大切にいたします」
その言葉にフィオラの手が緩むと、ダリアスがハンカチを丁寧に畳み直し自身の内ポケットへと仕舞った。
表情一つ変えない。淡々とした声音。それでも飛び上がりそうなくらい嬉しかった。
もちろん実際に飛び上がりはしない。いや、そもそも飛び上がることができない。身体が言うことを聞かないのだ。
ダリアスと出会い三年の月日が流れ、その期間も治癒魔法を常に酷使し続けていた彼女の身体は、あちこち悲鳴を上げていた。
常に身体の中のどこかが痛い。耳鳴りもする。目眩もしょっちゅうだ。足の感覚にいたっては不意に消えてしまうことがあり、その度に足をもつれさせてしまう。吐血の頻度も少しずつ増えていた。
けれど、フィオラは笑顔を失わなかった。
明るい希望を持ち続けていたわけではない。彼女の中で自身の命の重みが軽すぎて、この現状をもってしてもなお人から必要とされている証として、喜びを彼女は認識していた。
ルクレツィアに、イゾッタに、大公に、使用人たちに、領民に必要とされる日々。そして傍にはダリアスがいてくれる。フィオラは幸せだった。
愛されていると、本気でそう思っていた。
「あらフィオラ、そんなところにいたのね」
かつりと大理石を踏む音と共に凛とした声が聞こえてくる。声の方を振り向くと、そこにはイゾッタがいた。
「お姉様!」
精一杯の速度で姉の元へと近づくと、彼女は優しい手つきで妹を撫でた。それをフィオラは嬉しそうに享受する。
「どうなさったのですか?」
「これ、商人から買ったの。フィオラにあげるわ」
イゾッタが銀色の缶を差し出すと、フィオラは小首を傾げた。
「……お茶、ですか?」
「そう。異国の珍しいお茶だそうよ。少ししか買えなかったんだけど、フィオラに飲んで欲しくて」
穏やかに微笑む姉にフィオラはぎこちなく笑う。もちろん嬉しい。しかしその反面、こんな貴重な物を自分ごときが受け取っていいのか。身に余る厚意に戸惑い、フィオラは困ったように視線を彷徨わせた。
躊躇いから、伸ばしかけた手はそのまま宙で静止する。それを見ていたイゾッタが口を開いた。
「いつも私たちのために頑張っているでしょう?その対価だと思って受け取ってくれないかしら?」
その言葉にフィオラの顔がぱあっと明るくなる。やはり自分は認めてもらえているのだ。そう思うとお茶を受け取ってもいいのだと思えた。
「ありがとうございます……!」
おずおずと受け取るとイゾッタは満足気に口角を上げた。そしてちらりとダリアスに目を向ける。
「フィオラへの贈り物だから、他の人には内緒よ。ああ、でもダリアスは飲んでもいいわよ」
そこまで言うと彼女は妹へぐっと顔を近づける。そしてニヤリと笑って耳打ちした。
「ダリアスのことが好きなんでしょう?一緒にお茶でも飲むといいわ」
「お、お姉様……!?私はそんな……!」
顔を真っ赤にして否定の言葉を口にしようとするも、イゾッタはもう背を向けて歩きだしている。優雅に、軽やかに。
美しく成長している健康的な姉の後ろ姿を見つめながら、フィオラは眩しそうに目を細めた。
姉からもらったお茶はほんのり甘い香りが広がり、とてもまろやかな味わいだった。それが花の香りなのか果物の香りかはフィオラには分からない。けれど飲み慣れた茶葉とは全然違う。
敬愛する姉が自分のために買ってくれたのだと思うと、それだけで美味しく感じた。そしてダリアスとお茶を飲むことができている。彼女にとってそれは何よりも幸福で尊い時間だった。
「それでね、私昨日は五十九人も治療できたの!過去最高なんだよ」
「存じております。傍におりましたので」
「……あ、そっか、そうだよね。私ったらごめんね。……あ、えと、お茶美味しい?」
「はい」
フィオラばかりが一生懸命喋るこの時間。決してダリアスは多くを語らない。相槌を打つ時間ばかりで、表情も変わらないし、声に抑揚もない。もしかしたら彼はこの時間を嫌だと思っているかもしれない。それでも彼女はこの時間が愛おしかった。
けれどダリアスとお茶を飲むのが日課となり、彼に不快な時間を強要し続けているのではとフィオラは段々と申し訳ない気持ちになっていった。幸福感と罪悪感とダリアスに嫌われたくないという恐怖。
日ごと大きくなる負の感情がついに幸福感を上回り、ある日彼女は恐る恐るダリアスに尋ねた。
「毎日お茶に付き合ってくれてありがとう」
「いえ」
「あ、あの……迷惑じゃない、かな?正直に言ってもらって大丈夫だから……」
「迷惑だと思ったことはございません」
「本当にっ?」
「はい」
つい念押しのように確認してしまう。いつも通り必要最低限の返事ではあるが、その言葉に彼女は安堵の息を吐く。
「良かったぁ」
へにゃりと笑いながら言うフィオラ。ダリアスの口元が気のせいかほんの僅かに緩んだように見えたが、瞬きをするといつもの表現に戻っていた。
この心地よい時間がいつまでも続いて欲しい。
こんな崩れかけた身体で想いを伝えようとは思わない。けれど願わくば、このまま騎士としてずっと傍にいて欲しい。
フィオラはそう祈っていた。




