はじまり
「誰もいらない……!許さない……!信じない……
!死んで、死んで、死んで……!」
月明かりがかすかに差し込む暗い部屋からギリギリと音がする。ナイフが机の木目を噛み、ささくれを散らしながら机を深く抉っていく。机にぽたりと染みが広がった。
ナイフを持つ少女の顔は涙でぼろぼろだった。頬を伝いながら涙がいくつもの染みを作っていく。憎悪、絶望、自責、恐怖。さまざまな感情が全身を支配して、もはや自分でも何の涙なのか分からない。
彼女は自身の手が血で滲んでもなお、その手を止めることはできなかった。
彼女はかつて聖女と言われていた。
自分のことよりもまず他人を労り、苦労を厭わず人々に尽くし続ける慈愛に満ちた少女。
人の喜びが彼女の喜びでもあった。一言礼を言われれば、それだけでどんなつらく苦しいことも報われる思いがしていた。
人に求められること。それが彼女にとって自身の存在価値だった。
――命が尽きる、その瞬間までは。
***
役に立たなければ無関心。石ころのような存在。フィオラは物心がついた時からそんな環境で生きていた。
母ルクレツィアにとって有益なことをすれば褒めてもらえる。良い駒になれた時にだけ母から愛情を意味する言葉をもらえる。それが少女にとっては紛うことなき愛そのものだった。
「いい子ね」「すごいわ」「愛してる」
それっぽい表情を作っただけで感情などまるで込めていない言葉。けれど少女はそれらを本物だと信じて疑わない。
母が自分に笑顔を向けてくれるのならば。頭を撫でてもらえるのならば。そのためなら、フィオラは自分をいくらでも犠牲にできた。
グレスタ大公家に後妻として嫁いだルクレツィアは当初、使用人たちから歓迎されてはいなかった。とは言え、大公妃である彼女を冷遇の対象とする愚か者はなかなかいない。
しかし発散しなければ彼らの鬱屈が晴れることもない。じわじわと鬱憤は溜まっていく。そしてその矛先が弱者へと向かうのはごく自然な流れだった。――ルクレツィアの連れ子である幼い少女へと。
フィオラの食事には虫や異物が混入されることすらあった。食べたくない。やめて欲しい。そう必死で訴えても無理やり使用人たちから食べさせられる。少女はしょっちゅう体調を崩して寝込んでいた。
そんな娘の苦しむ姿を嘆きながら看病をするのがルクレツィアの毎回のパターンだった。悲劇の母として。涙を頬に伝わせて。顔をやつれさせて。より自分が献身的に見えるような振る舞いで。
そうして彼女は周囲の同情を集め、一歩ずつ足場を築いていった。
地位を固め、権勢を広げ、屋敷を掌握して、着実に。可哀想な子を守る母親という評判を定着させながら。
ルクレツィアにとって不都合な人間が排除されていく。屋敷の空気は次第に彼女の支配へと傾いていく。彼女は磐石の体制を築いていった。
少女は死ぬような思いをしても、使用人たちを恨んだりすることはなかった。それは、母からフィオラのおかげで助かったと言われたから。
「つらい思いをさせたわね。でもお前のおかげで助かったのよ。ありがとう」
フィオラの苦しみも恐怖も、その一言で報われた気がした。ルクレツィアが自分に笑ってくれるならそれでいい。母が少女の世界のすべてだった。
だから、八歳の時に治癒魔法を初めて使えるようになった時の喜びはひとしおだった。
これで、母にもっと認めてもらえる。そう思ったから。これで、姉と同じくらい母から愛情の言葉をもらえるかもしれない。そう思ったから。
姉のイゾッタは賢く優秀で、それだけでなく人の懐に入るのが上手い。使用人たちから嫌がらせを受けることもなかった。いつも器用に立ち回る。
ルクレツィアからもよく褒められるイゾッタ。そんな姉をフィオラは常に羨望と尊敬の眼差しで見つめていた。姉が少女に視線を向けることはなかったけれど。
そんな姉でも魔法は使えない。だから、これで姉と対等な立場に近づけるかもしれない。姉から笑顔を向けてもらえるかもしれない。少女はそう思ったのだ。
実際、妹が治癒魔法を使えると知り姉は笑顔を向けてくれるようになった。
そしてその日からだった。フィオラが休む暇もなく治癒魔法を求められるようになったのは。
母も姉も、誰も少女の体調など気にしない。少しの怪我や不調でフィオラを呼び、魔法を行使させる。使用人でさえ当たり前かのように少女を便利な回復役として見ていた。領内の人々の治療にも毎日のように駆り出された。大公家の慈悲として。
魔力が尽きて激しい頭痛と吐き気に襲われ、翌日にはまた魔法を使わされる。そんな日々の繰り返し。
それでも、フィオラは嬉しかった。
必要とされている。母も姉も使用人たちも、自分を見てくれている。それだけで、少女にとって激しい痛みを伴う苦しさが些細なことへと成り代わる。
そんな生活を二年続け、人々は少女をこう呼ぶようになっていく。――聖女だと。
そうしてようやく、義父である大公からも笑顔を向けてもらえるようになっていった。
少女は幸せだった。たとえ身体はつらくとも。たまに血を吐くようになっていても。
その頃だった。フィオラに護衛として見習いの騎士が付くようになったのは。
「ダリアス・ガレオン・バデアラと申します」
イゾッタと同い年のまだ十四歳の少年。彼はあまりにも綺麗だった。人とはここまで美しくなれるのかと、幼いながらにフィオラは本気で思った。
柔らかな髪が額にかかり、長い睫毛が影を落とす。その切れ長の瞳が静かにこちらを向いた瞬間、胸が大きく跳ねる。絵画から抜け出してきた貴公子とは、きっとこういう人のことを言うのだろう。
顔に熱が集まる。鼓動が早鐘を打つ。フィオラの時が止まる。
それは恋の始まりであり、少女の命が終わるカウントダウンの始まりでもあった。




