刻印
「でも、私のために伝えてくれてありがとう」
「……いえ」
礼を告げて彼女は笑う。また。いつも彼女は笑っている。別に特別嬉しいことがあったわけでも楽しいことがあったわけでもないというのに。そもそも自分は彼女より下の身分だ。たかが見習い護衛騎士からの進言など、愉快なものではないだろうに。
――理解できない。
確かに貴族というものは笑顔でいることが多い。笑っているのでない。笑顔の仮面を貼り付けているだけだ。彼らは他人に腹の内を見せはしない。まるで狐と狸の化かし合いだ。しかしそれをダリアスは不快だともおかしいとも思わなかった。それが貴族としてのあるべき姿なのだから。
だからこそ、彼には彼女が奇妙な存在に思えた。何の意味もなく、何の思惑もなく、ただまっすぐに笑うフィオラが。
それもまた、彼女が貴族としての教育をまともに受けていない所以なのだろう。
***
「本日も施療院へ?」
「うん、そうなの。今日もよろしくね」
そう言って歩き出したフィオラの後ろをついて歩くダリアス。回廊に出ると、彼女の柔らかな淡い蜂蜜色をした髪がキラキラと輝きながら風に靡いている。彼女の顔は少し先にある庭園の方を向いて微笑んでいる。
何が琴線に触れて笑っているのか、ダリアスにはさっぱり分からない。不可解な彼女に彼の表情は僅かに歪む。
すると突然フィオラがくるりと振り返る。その様子に一瞬彼は頭の中を覗かれてしまったような気持ちになり、小さく肩を跳ねさせる。
「ねぇ、風が気持ちいいね」
「……は」
つい空気の抜けたような返事をしてしまう。
回廊に出ているのだから、風くらい吹くだろう。ほぼ毎日のように歩いているところじゃないか。何を改まって言う必要があるのか分からない。
風が気持ちいいから微笑んでいたという事実は認識できる。しかし、それが笑顔を作る理由になるとは到底理解しがたい。
かと言って自分の考えを述べる必要はない。己の役目はあくまで護衛なのだから。当たり障りなく関係を築き、実績を上げて侯爵令嬢との婚姻に繋げる。彼女との関わりはその程度のものでよいのだから。
「……そうですね」
ダリアスが同意するとフィオラは頬を赤らめて嬉しそうに笑った。無垢な笑顔に彼は奥歯を噛む。
その時不意に風に乗って甘い香りが漂ってくる。鼻腔に流れこんでくる香りに視線を彷徨わせ、ダリアスは口を開く。
「スミレ……」
「あ、ごめんね。匂いきつい、かな。スミレの香油なの」
「……いえ」
匂いがきついわけではない。ただダリアスは、鼻腔に流れこんでくるスミレの香りを不快に感じていた。まるで刻印を押されたような感覚になったからだった。
これからスミレを見るたびに、スミレの香りを感じるたびに、フィオラを思い出してしまいそうな、そんな楔を打ち込まれたような刻印を。
***
「聖女様、助かりました!ありがとうございます!」
「いえ、お役に立てて良かったです!」
「聖女様、患者はたくさんいるのですから雑談はお控えください」
「あ、ごめんなさい……」
施療院に到着して休むことなくすぐにフィオラは治療にあたる。そしてすべての患者の治癒魔法を終えるまで、ほとんど休憩もしない。
毎日のように施療院に行って治療をしているフィオラ。それも短時間ではなく、一日中であることが多い。施療院の一員なのではないかと思うほどに。
「聖女様、ちょっとこっちもお願いしてよろしいですかー!」
「あ、はい!今行きます!」
彼女は施療師に言われるがまま、促されるまま治癒魔法を施している。
治癒魔法がどれだけ身体に負担のかかるものなのか、魔力のないダリアスには分からない。しかしいつも額に汗を滲ませているのを見る限り、決して負担がないわけではないだろう。
慌ただしく絶え間なく働いている彼女を見て、彼は小さく息を吐く。
(これでは学ぶ時間もないだろう)
ダリアスが改めたフィオラへの二つ目の認識はこれだった。当初彼は彼女を怠惰ゆえに学がないのだと考えていた。しかし、そうではない。治癒魔法ばかりしていて彼女には時間がないのだ。
彼女の歳ならば、しかも大公令嬢ともあれば、週に四、五回は勉強に充てるのが一般的だ。しかし彼女は違う。週に一回、多くても週二回家庭教師が来ているだけだ。
(……優先順位を履き違えているな。大公令嬢なのだから、治癒魔法ばかりにかまけず勉学に励むべきだろう)
目の前のフィオラは患者へにこにこと絶やすことなく笑顔を浮かべ、明るい声音で対応している。よほど聖女として特別なことをしている自分が楽しいのだろう。勉学を後回しにするほどに。
――下界に降りてきた天使が施しを与えているみたいだな。
ダリアスはぼんやりとそう考えながら、すべては自分には関係のないことだと思考に蓋をした。




