彼のはじまり
きつい薔薇の香油が鼻につく。鼻腔をくすぐるような彼女の柔らかで甘い香りとは全然違う。いや、今の香油は確か――。
***
「喜べダリアス!聖女様の護衛騎士にお前が選ばれたぞ!」
「そうですか」
父の無駄に大きな声を聞きながらダリアスは思う。心からどうでも良い、と。自分は命じられたことに従うのみだ。伯爵家の次男としてこの世に生を受けた彼は小さく息を漏らす。
生まれた時から子供たちの役割は父に決められていた。長男は伯爵家の家督を継ぐ人間として。長女は裕福な家との婚姻によって資金をもたらす存在として。そして次男は上位貴族と縁を結ばせ政治的基盤を強化する存在として。
ゆえに大公が後妻を娶って以降、後妻の連れ子である令嬢とダリアスが繋がるきっかけを伯爵は虎視眈々と狙っていた。
しかし、それを不満に思うことも疑問に思うこともなかった。貴族として生まれたのだから生まれもった責務を果たすだけのこと。そう考えていたし、そう考えるのは当たり前だと思っていた。
そのため父が興奮気味に話してくる内容が彼の関心を引くことはない。ダリアスはただ淡々と受け入れていた。
(しかし……)
「姉の方は副団長が護衛についていますが。私はまだ見習い騎士ですが、よろしいのですか」
彼はただ一点、見習い騎士に過ぎない己が大公令嬢の護衛となることそれ自体を懸念していた。護衛対象は聖女とすら巷で呼ばれている大公令嬢だ。姉を副団長が護衛しているというのに、聖女の護衛が見習い騎士というのはどう考えても不釣り合いだ。後からそんなに差があるなんて知らなかったと聖女から追及されては、伯爵家はひとたまりもないだろう。
「もちろんその点は大公閣下に確認済みだ!安心しろ!」
その言葉にダリアスは眉根を寄せる。事情は分からないが明らかな姉妹格差を感じる。
大方、聖女と持て囃されて天狗になっているから厚遇せずに見習い騎士を護衛に据えたというところだろう。彼は深く気にせず自身でそう結論づけた。任されたからにはその責務を果たす。それだけのことだ。
(流石に大公令嬢は高望みし過ぎだろうが……。護衛として実績を積んでから侯爵令嬢との婚姻を狙うのが現実的だろう)
***
本当に見習い騎士である自分が護衛で良いのか。父の勘違いの可能性はないのか。万一何かあっては、護衛の任を任されてからでは遅い。下手したら己の首が飛ぶ。
聖女との初対面の日、ダリアスは念の為にグレスタ大公に再度確認をした。しかしやはり大公の答えは父の発言と相違ない。
(ということは、やはり高飛車で我儘なご令嬢である可能性が高そうだな)
そんなことをぼんやりと考えていると、控えめなノック音と共に小さな鈴をそっと鳴らしたような声が聞こえてくる。
「お義父様、フィオラです。失礼します」
入って来たのは大公家の次女であり、聖女と呼ばれる少女――己の主となるフィオラだ。
ダリアスはなぜか彼女から目が離せなかった。
陽光を溶かしたような金の髪が僅かに揺れ、澄み切った蒼い瞳が静かに彼をを見上げている。まるで絵本に描かれた天使が、そのまま人の姿で現れたかのようだ。あまりにも儚く、あまりにも美しい少女だった。
大公が娘に何か話をしているが、ダリアスの耳には入ってこない。まるで脳が思考を拒んでいるかのようだ。
「ダリアス・ガレオン・バデアラと申します」
彼はそう答えるのがやっとだった。けれど、声を発したことにより先ほどの不可思議な感覚は薄れ、落ち着きを取り戻していく。
(疲れていたのかもしれない。気を緩めないようにせねば)
気を引き締め直していると、不意にフィオラと目が合う。彼女はすぐにはにかんだような笑顔を浮かべ、それがまたダリアスを妙な感覚に陥らせた。胃の底が浮いてくるような気持ちの悪い感覚に彼は奥歯を噛んだ。
「あ、フィオラ・ネリア・グレスタです!こちらこそよろしくお願いしますね」
ぎこちないカーテシーで応えるフィオラの姿にダリアスは眉根を寄せる。
(確か彼女は……十歳なはず)
女性の作法についてはあまり詳しくはない。しかしそれでも、姉が十歳の頃はもっと美しいカーテシーをしていた気がする。
伯爵令嬢である姉よりも大公令嬢であるフィオラの方が不格好なカーテシーをしていることに、彼は違和感を感じていた。
(……我儘ばかりでろくに作法を学んでいないということか)
海のような青色の瞳はきらきらと輝き、どこまでも澄んでいる。思わず吸い込まれそうだ。けれど純粋無垢に見えるこの少女はその実、恐らく高慢で自己中心的な人間なのだろう。
(護衛中に当たり散らされることもあるのだろうな)
目の前でにこにこと笑っている少女に対する妙な感覚が消えないまま、自分の前途が暗いのを感じてダリアスは小さく溜息を吐いた。




