密会
部屋を出てからというもの、フィオラの足取りは妙に軽かった。
夜もすっかり更けている。廊下を抜けて階段を降りる間も、ホールを抜けるまでの間も、侍女や使用人の姿はほとんどない。それでも彼女は歩みを緩めない。むしろ内密の話をするのに人がいない方が好都合だとすら思えた。
外に出ると生温い風がフィオラの髪を踊らせる。練兵場が近いからか、少し砂っぽい。木彫りのうさぎをしっかりと胸元に抱えて、騎士棟へ向かう。まるで、宝物を守ると言わんばかりに。
(……馬鹿みたい)
自分でもおかしいと思う。きっとこのうさぎには何の意味もない。ただ、ダリアスが何の気なしに買ったもの。それなのにそれを、さも大切な物のように抱えている自分。そして、今からダリアスと話すことに対してどこか浮き足立っている自分。
フィオラは心の中で小さく自嘲する。
つい昼間まで、誰も信じないと決めていたはずなのに。それなのに今は、ダリアスになら話してみてもいいのではないかと思っている。彼になら……。
そんな考えが自然と浮かんでくる自分が不思議だった。けれど、そんな自分が嫌ではない。それがまたさらにフィオラを奇妙な感覚に陥らせた。
やがて騎士棟が見えてくる。夜の騎士棟は、屋敷とはまた違った静けさに包まれていた。明かりのついている窓はいくつかあるものの、人の気配は少ない。フィオラは暗い建物の中へ入り、ダリアスのいる部屋へ向かう。
けれど、扉の前まで来たところで足が止まった。
――声がする。
小さく開いた扉の向こうから、誰かの話し声が聞こえる。フィオラがゆっくりと扉へ近づくと、その声がはっきりと輪郭を見せる。ダリアスと――イゾッタの声。
フィオラは思わず息を呑み、扉の影に身を隠した。
(どうして……ダリアスがお姉様と……?)
動揺するフィオラの耳にイゾッタの澄んだ声が入ってくる。
「だからほら、袖のここよ。ほつれてる」
「……気にするほどではないので大丈夫です」
「なぁにそれ、伯爵令息なんだから気にしないと駄目じゃない。侍女に渡しておきましょうか?」
「ご心配には及びません」
「そうよね。今目の前で脱ぐわけにはいかないものね」
(……お姉様……)
顔は見えない。けれど、姉のこんな声を聞いたのは生まれて初めてだった。どこか嬉しそうで楽しそうで、弾んだ声音。見えなくとも、姉がどんな表情をしているかありありと脳に浮かんでくるような声だった。
胸の奥がざわつく。きっと帰るべきなのだろう。けれど、足は縫い付けられたかのように動かなかった。
「ねえダリアス?前にも言ったけど、貴方私の護衛騎士にならない?」
その言葉にフィオラの心臓が大きく鳴る。頭が真っ白になり、急に全身が冷えていく。
「……イゾッタ様のことは副団長が既に護衛されています。そもそも見習い騎士など大公閣下がお許しにならないでしょう」
「そうなのよね。お父様ったら心配性なんだから。ダリアスが傍にいてくれたら嬉しいのに」
「大公家の長女の護衛なのですから、副団長が適任かと」
フィオラはダリアスが受諾しないことに小さく安堵する。死んで過去に戻った当初は、彼に護衛を辞めてもらう言葉まで吐こうとしていたのに。自分で自分の気持ちがよく分からない。
「それにしても昨日は楽しかったわ。ありがとうダリアス」
(……昨日?)
心臓の音がさらに大きくなるのを感じる。
「……礼には及びません」
「一日中貴方と一緒にいられて嬉しかったわ。私と過ごすためにわざわざ休みを申請してくれたんでしょう?」
「……イゾッタ様のご命令に従ったまでです」
昨日。ダリアスがわざわざイゾッタのために休みを申請した。そして一日中、一緒に……。
フィオラの心がすっと冷えていく。
「そう言えば、最後に寄ったあの露店も変わってて面白かったと思わない?」
「そうですね」
「貴方があんなものを買うなんて思わなかったけれど。ほらあの木彫りのうさぎ」
(木彫りの……うさぎ……)
ぎゅっと手元のうさぎを握りしめていると、イゾッタは言葉を続ける。
「結構可愛かったわよね。私にくれない?」
「……あれは……フィオラお嬢様に差し上げたので、お渡しすることはできません」
ダリアスの声にフィオラの胸は小さく高鳴る。胸の奥に、先ほどまで灯っていた小さな光が僅かに戻ってくるのを感じた。
「……フィオラに?……そうなの……」
イゾッタのその声は驚くほど冷たい。その声にフィオラの背筋に寒気が走る。
二人の間には短い沈黙が流れ、フィオラは知らず知らずのうちに、扉へ身体を寄せていた。
「……ダリアス」
イゾッタの声が少しだけ柔らかくなる。
「……何でしょう」
「私、少し疲れたわ」
「お加減が悪いのであれば、もう休まれては」
「違うの」
イゾッタが小さく笑った。
「……ねえ、抱きしめて」
一瞬、イゾッタが何を言ったのか分からなかった。けれどその言葉の意味を理解した瞬間。フィオラの胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
扉の向こうから、衣擦れの音がする。
「……ダリアス?」
イゾッタの声。その返事は聞こえない。代わりに、もう一度衣擦れの音がした。
見てはいけない。そう思う。けれど。
確かめなければならないような気がした。何を確かめたいのかも分からない。ただ、身体が勝手に動いた。扉の隙間から、そっと中を覗く。そして――。
ダリアスが、イゾッタを抱きしめている。
いつもの無表情な横顔。けれど、その腕は確かにイゾッタの身体を包んでいた。
フィオラの指から力が抜ける。木彫りのうさぎが落ちそうになり、慌てて抱え直した。
「……っ」
声にならない声が喉の奥から漏れる。
香り袋を見て取り乱した自分を見ていたダリアス。死の記憶があるのかと問いかけてきたダリアス。
自分と同じなのかもしれないと期待した。彼なら自分の味方になってくれるかもしれないと期待した。
木彫りのうさぎの礼を言おうと思ったのに。自分の秘密を打ち明けようと思ったのに。それなのに。
(……どうして……)
胸が苦しい。息ができない。フィオラは扉から離れた。逃げるように踵を返す。
手の中の木彫りのうさぎだけが、やけに温かかった。その温もりが、今はひどく痛い。
部屋の外の二つの影はぴったりと重なり合って、離れることなく長く伸びていた。




