夜に
夜になりダリアスが騎士棟に戻ってからも、フィオラはベッドに入ることはなく部屋の中を行ったり来たりしていた。
何をしているのか彼女自身もよく分かっていない。机の上に置かれた魔法についての教本を開いては閉じる。引き出しの中をおもむろに整理し始めては、すぐに元へ戻す。そんな意味のない行動ばかりを繰り返していた。
侍女が用意した寝巻きに着替えた後も落ち着かず、彼女は部屋の中をうろついている。
「……何で……どうして……どういうこと……」
フィオラは誰に向けるでもなくぶつぶつと呟く。
頭から離れない。ダリアスの言葉が。
――『貴女は、命を落とした記憶があるのですか』
あまりにも唐突だった彼の言葉が脳にべったりとこびりついている。
真剣な、そしてどこか焦っているように見えたダリアスの表情。あの時の彼の顔を思い出すと、ただ冗談を言っただけだとは到底思えない。
そもそも、彼は冗談を言うような類の人間ではないはずだ。しかもあんな、普通の人間ですら頭がおかしいと鼻で笑いそうな妄言をダリアスが口にするなんて、ありえない。
「じゃあどうして、あんなこと……」
なぜそこに思い至ったのかは分からない。けれど、ダリアスは本気でフィオラが一度命を落としたと思っている。そしてそれを半ば確信している。彼女にはそうとしか思えなかった。
「それに……」
――『私が一度死んでいるのだとしたら、貴女はどうなさるのですか?』
あれは何だったのだろう。本当に自分と同じなのだろうか。ダリアスも一度死んで、今この時を生きているのだろうか。それとも、何か別の意味が孕んでいたのだろうか。
考えれば考えるほど分からなくなっていく。フィオラは頭の奥に痛みを感じ、頭を振った。
(私一人で色々考えたって答えなんて出ないのに……。馬鹿みたい)
身体がずっしりと重く感じる。フィオラは長椅子に座って息を吐いた。
せっかく今日の訓練は順調だったのに。カルロが香り袋を取り出して以降、すべてが崩れ落ちたように感じる。心も体も、ひどく疲れている。
フィオラの頭の中はまるでびっしりと濃霧に覆われているようで、上手く考えがまとまらない。目をごしごしと擦るも、やはり思考が明瞭になることはない。
もうそろそろ眠ろうか。けれど心も頭もごちゃごちゃしていて眠れる気もしない。そんなことを考えて部屋の中を見回した、その時だった。
「……?」
彼女の視界の端に見慣れないものが映った。小さめの戸棚の上に、花瓶と一緒に何かが置かれている。昨日、いや、今朝もあそこには何も置かれていなかったはずだ。彼女は眉根を寄せて戸棚へと向かう。
「……うさぎ?」
それは木彫りのうさぎだった。おずおずと手を伸ばして手に取ってみる。フィオラの掌に収まるほどの大きさをした特に変哲のない、ただの素朴なうさぎだ。
なぜこんなものがこの部屋に?フィオラは小首を傾げる。
「ねえ、こんなもの部屋になかったわよね?何なのこれ?」
言いながら振り返ると、少し離れた場所で片付けをしていた侍女が、びくりと肩を揺らした。
「え、あ、何でしょうか?」
「これよ。これ」
フィオラが木彫りのうさぎを掲げると、侍女が慌てて近づいてくる。先日ナイフを投げて以来すっかり自分に怯えきっている侍女を見て、フィオラは心の中で苦笑する。
「あ、え、そのうさぎですか」
「そうよ。見れば分かるでしょ。今朝はなかったわよね?」
フィオラの顔色を伺いながら鈍い反応を返す侍女に少しの苛立ちを感じる。そうなるように仕向けたのは自分なのに。
「は、はい。先ほど、ダリアス様が……」
「……ダリアス?」
彼女の眉がぴくりと動く。思わず聞き返したその声は低く、掠れていた。その様子に侍女はますます怯えたように身を縮める。
「あ、はい!ダリアス様が昨日の非番の際に……ろ、露店で購入されたそうで……」
もごもごと侍女は言葉を続ける。
「さ、先ほど、ダリアス様が……き、騎士棟に戻られる前に私が受け取って……お嬢様に、お渡しするよう頼まれたのですが……お、お渡しできないまま、そちらへ……」
「何ですぐに言わないのよ!」
フィオラの怒声に侍女の肩が跳ねる。
「も、申し訳ございません!」
「気づかなかったらどうするつもりだったのよ!」
なぜこんなにムキになっているのだろう。自分でもその理由は分からない。けれど、無性に怒りが込み上げてきて止まらなかった。
ダリアスが露店で木彫りのうさぎを自分に買った。それを知るのが少し遅くなった。ただそれだけのことなのに。そもそも、それに気づかなかったとしても何に困るわけでもないというのに。
フィオラは大きく息を吐く。
「……もういいわ。でも、何で私に渡さず勝手に飾ったの?」
「そ、それは……申し訳ございません……。お嬢様がずっと何か……ひ、独り言をおっしゃりながら……忙しなく動き回っていらっしゃったので……。お声掛けするのが憚られたと、いいますか……」
侍女が言葉を詰まらせながら必死に言い訳をするが、それはフィオラの感情を逆撫でさせるだけだった。彼女はぎろりと侍女を睨んだ。
「……それは、私の頭がおかしそうに見えたから声を掛けなかったって言いたいわけ?」




