異変
フィオラは治癒魔法を施そうとするカルロを制止する。心因性のものに治癒魔法が効かないことも、この状態が心因性であることも、自分が一番よく分かっている。
「……や、めて。大丈夫、だから……」
心拍数も上がっているようで、体の中で心音が響く。話をすることすらつらい。
「いやいやどこがですか。少しも大丈夫そうには見えませんよ」
「ほんとに、大丈夫、だから……。香り、袋、私……嫌い、なの……だから、早く、どこかにやって。それで、大丈夫に、なるから……」
息も絶え絶えにどうにかそう訴えると、カルロは慌てて香り袋を革鞄へと仕舞う。それを視界の端でぼんやりと確認すると無意識に安心感を得られたのか、ようやくフィオラの恐怖がほんの僅かに緩んでいった。
「……申し訳ありませんでした」
「……え?」
まだまだ呼吸は荒く、体温も冷えきっている。意識が朦朧としているというわけではないが、それでも頭はろくに回っていない。そのせいで、カルロの謝罪の声にも数拍遅れて反応してしまった。
ゆっくりと顔を上げてカルロの顔を見ると、彼の顔は青くなっている。なぜかその姿が滑稽に見えてフィオラは笑いそうになってしまう。
「……は、何で貴方がそんな青くなってるのよ」
「私の、確認不足でした。治癒術師としてあるまじき失態です。本当に申し訳ございません」
そう言って彼は深々と頭を下げる。それを見てフィオラは小さく鼻で笑う。
「何言ってるのよ。……治癒術師はその時その時……目の前の患者を治すのが、仕事でしょ。症状も出ていない人間の事情を……予め配慮するなんて、仕事の範疇を、越えてるわ」
長く話すまではまだ呼吸が回復していないフィオラは、ぽつりぽつりと言葉を続ける。
「むしろ、謝るなら……私の方でしょ。……せっかく、持って来てくれたのに。ごめんなさい」
いつもなら変に意地を張って謝罪なんてできなかっただろう。幸か不幸か、意識が明瞭でないおかげで彼女はすんなりと自分の思いを口にしていた。
その言葉に、カルロは眉を八の字にして小さく口角を上げる。
それを見て、フィオラも僅かに目尻を下げた。
***
「お加減はいかがですか」
「もう何ともないわ。鬱陶しいわね。そんな変な顔しないでよ」
夕暮れの光が窓から差し込む頃にはフィオラの調子はすっかり戻っていた。そんな彼女の様子を見てカルロは安堵の息を吐く。
「今日は本当にすみませんでした」
「だから、別にいいって言ってるじゃない。しつこいわね」
気怠そうに答えると、カルロは気まずそうに頭をがしがしと掻いた。
「いや、本当に恥ずかしい限りです。香油をつけていらっしゃるなら香り袋も大丈夫だと安直に決めつけてしまって……」
「貴方は男性なんだから疎くて仕方ないし、そもそも香り袋が苦手な人間自体珍しいと思うわ。貴方の問題じゃないわ」
素っ気なく言いながら、フィオラはハーブティーを口に運ぶ。冷めた声音で話しているというのに、彼の表情は心なしか明るい。
次は香油で先輩に作ってもらえないか確認してみますねなどと言う彼を眺めながら、彼女は爽やかな香りを感じつつ喉を潤わせる。
いつも自分はカルロに理不尽を強いている。しょっちゅう声を荒らげてしまう。手を上げようとすることだってある。ダリアスに止められていなければ、実際に彼は怪我をさせられていたことだろう。
自分は指導される側の人間としてどころか、一人の人間としてどうかと思うような態度を取っている。その上、出来損ないだ。それなのに、彼は見限らない。無茶をしない限り、怒りすらしない。
――誰も信じない。それはカルロについても同じだ。けれど、たまに彼は少し眩しい。眩しすぎて直視できないと思うくらいに。
それは自分が過去に失った何かなのかもしれない。フィオラはぼんやりとそんなことを考えていた。
***
「では、失礼いたします」
日もすっかり落ちてから、カルロはそう告げて退室していく。今日はいつもより長く彼を拘束してしまった。フィオラ自身が制御できない出来事があったとはいえ、カルロには他にも仕事があったはずなのに。
少し反省しながらフィオラが小さく息を吐いた、そのほんの僅か一瞬のことだった。
「……っ!?」
ダリアスに思い切り腕を引っ張られる。その勢いにフィオラはよろめいて倒れそうになった。
「ちょ、何するのよ!危ないじゃない!」
これまでダリアスに制止されていた時とは全然違う強い力。その強引さが思わず庭師見習いの男を一瞬彷彿させてしまいそうになる。けれど、相手がダリアスだというだけでなぜか恐怖は湧かなかった。
「聞いてるの!?何とか言いなさいよ!ダリア……」
言い終えることなくフィオラは息を呑んだ。
――彼があまりにも真剣な瞳で自身を射抜いていたから。
冬の海を思わせるその双眸の底に沈められてしまいそうな感覚に陥る。
「お嬢様は……」
「え?」
「お嬢様は……香り袋がお嫌いなのですか」
いつもの抑揚のない声。感情の見えない端正な顔立ち。それなのに……。
「ダリアス?……何?……大丈夫?」
彼の声は、驚くほど掠れていた。




