無力
イゾッタの言葉はまるで地獄への片道切符のようだ。――嫌だ。魔力制御を覚えるまでは治癒魔法はしたくない。
でないと、また、身体がぼろぼろになってしまう。
「でも、お父様からも、ち、治癒魔法を休む許可をいただいてて……」
青ざめながら必死に話す。もっと強く拒みたいのに。イゾッタを前にすると言葉が飛んでいってしまう。
「ええ、もちろん知ってるわ。でも、訓練は芳しくないのでしょう?それなら一刻も早く治癒魔法を再開すべきだわ」
「でも私は」
「大公家は領民あってのものだもの。賢いフィオラなら分かるわよね?だから今日は……そうね、領民の治療をしてはどうかしら?数日治癒魔法を休んだ分、できるだけたくさんの人を治癒できるといいわね」
畳み掛けるかのように語りかけるイゾッタ。その声音はとても穏やかで優しい。けれど反論を許さない威圧感がそこにはあった。
(嫌……嫌だ……)
苦しい。否定の言葉を発したいのに、それができない。まるで喉に石を詰められているかのように、声が出てこない。
何も答えられずにいると、イゾッタがそっとフィオラを抱きしめてくる。その瞬間全身の毛が逆立つ。まるで首元に剣を突き立てられたかのような感覚に陥る。
「お姉……様……」
声が震える。それを歓喜の声だと受け取ったのか、僅かに腕の力が強まる。甘い香油の香りが鼻を掠める。
怖い。逃げたい。離れて欲しい。けれど足は縫いつけられたように動かない。
姉が抱きしめたまま優しく妹の頭を撫でる。
「きつくても頑張れて、フィオラは本当に偉いわね。もちろん無理にとは言わないわ。でも……」
イゾッタはフィオラの毛先を弄ぶようにいじりながら言葉を続ける。
「大公家のために治療してくれると私は嬉しいし……何よりお母様もきっと喜ぶわ」
耳の奥にイゾッタの言葉がべたりとこびりついていく。鎖のようにフィオラを絡め取る。
母が喜ぶという過去の自分にとってはご褒美のような言葉も、今は死の宣告にしか聞こえない。
拒絶したい。それなのに呪いのように否定の言葉を口に出せない。
「わ、かり……ました……」
それを聞くや否や、イゾッタがフィオラから体を離して嬉しそうな笑顔を向ける。
「ありがとう。フィオラなら分かってくれると思ってたわ」
お父様には私から伝えておくわね、とだけ最後に告げて軽い足取りでイゾッタは部屋を後にした。扉がしまるとフィオラはへなへなとその場に座り込んだ。足に力が入らない。立ち上がれない。心はすっかり摩耗していた。
――拒否、できなかった。
フィオラは震える手をぼんやりと眺める。今日は何人に治癒魔法をさせられるのだろう。魔力制御をまったく覚えていないのに。これでまた一歩、死へと近づいてしまう。
「やっぱり私は、何にもできない……」
情けなくて、悔しくて。乾いた笑いが込み上げてくる。どうして自分はこうなんだろう。現実を何一つ変えることができない。柔らかな絨毯にぽたりと雫が落ちる。フィオラは頬を手で拭ってゆっくりと立ち上がった。
***
「本当に行かれるのですか」
ダリアスの言葉にゆっくりと視線を上げる。
「……仕方ないじゃない。お姉様と約束してしまったんだから」
「また気圧されてしまわれたのですか」
「な……っ」
図星を突かれて何も言い返せない。また、という単語が妙にぐさりと突き刺さる。先日イゾッタと対峙した時も、自分は舌が回らずろくに喋ることができなかった。冷や汗をダラダラかかなかった分だけ、今回は幾分マシだったかもしれない。けれど……。
「べ、別に怯えたわけじゃないから」
そう言うと、ダリアスは気怠げにゆっくりとフィオラに視線を向けた。
「ちょっと、まあ、今日は治癒魔法をしてみようかなって気になっただけだから、勘違いしないでよね」
――『怯えきった態度はお控えいただきたく存じます』
ダリアスに言われた言葉が脳裏を過ぎる。怯えていると思われたら、また嫌味のようなことを言われるかもしれない。
しばらくダリアスは無言のままだった。見え透いた虚勢に呆れたのか、小さく息を吐く。
「ご自身の命よりもイゾッタ様の願いの方が大事だとは、見上げた崇高さですね」
フィオラの顔が強ばる。ダリアスに迷惑を掛けるわけではないのに。善行をするというのに。ここまで露骨に嫌味を言われるなんて。
奥歯を噛んで、悔しい気持ちを無理やり飲み込む。
比べるまでもない。自分の命の方が大事に決まっているじゃないか。一度激しい痛みと惨たらしい死を経験しているのだ。二度と経験したくないに決まっているじゃないか。
それなのに、自分はイゾッタの願いを受け入れてしまった。目の前の恐怖に負けて。その場の苦しさから逃れたくて。
「何も、分かってないくせに……」
大きな声で真っ向からの反論はできなかった。決して命を投げ出したかったわけではない。けれど、イゾッタから逃げ出したのは事実だったから。
――無様で、無力で、惨めだ。
「そうですね」
ダリアスは一言だけそう言うと、それ以上何も言わなかった。聞き分けの悪い子供に対してとうとう諦めたかのように。
「……違うんだから……」
小さな声で呟くと、フィオラはゆっくりと目を伏せた。




