五感
フィオラは唇を開く。しかし声は出なかった。答えようとしても、喉の奥で言葉が引っ掛かる。
その沈黙だけで十分だったのだろう。カルロは小さく頷くと穏やかな口調で言った。
「ないのですね」
責める響きはない。それでも図星を突かれたようで、フィオラは俯いた。
「……前、貴方に治癒魔法をかけてもらった時だけ」
観念したように絞り出した声は、風に溶けそうなほど小さい。
「あれが初めてだったわ」
彼女の沈黙から予想はしていたものの、カルロは目を丸くする。以前から大公家の歪さを感じてはいた。けれど本来なら大公令嬢ともあれば、幼い頃から人の魔力を感じる機会はいくらでもあったはずなのだ。それなのに、彼女にはその経験が与えられることはなかった。
言いたいことは山ほどある。けれどそれは彼女にではない。大公家に対してだ。一治癒術師として憤りを感じる。もちろん、言いたいことがあっても平民出身の彼には何も言えるはずがないのだが。
彼は奥歯を噛み締めてから口を開いた。
「それなら改めて私の魔力を感じていただきましょうか」
「貴方の魔力を?」
「そうです。自然の魔力は多く広く、曖昧です。五感を感じるのがつらいと思われている今のお嬢様には難しいと思います。もっと分かりやすいところから始めていきましょう」
そう言ってカルロは両手を差し出す。
「私の手を、握ることはできそうですか?」
「え、ええ……」
フィオラはごくりと喉を上下させる。昨日できたのだから、今日もできるはずだ。
目の前のこの手はあの男の手とは違ったのだから。カルロの手は少し骨ばった年相応の少年の手。それを思い返しながら、襲った男のことは意図的に思い出さないように意識して、恐る恐るカルロの手を握る。
(良かった、大丈夫だ……)
ほっとして小さく息を漏らす。カルロを見ると彼は穏やかな笑顔でフィオラを見つめていた。
「良かった。大丈夫そうですね。では今から私の魔力をお嬢様の中に流してもよろしいですか?」
「魔力を……流す?私に?」
カルロは頷いて言葉を続ける。
「痛くはないのでご安心ください。ただ、変な感じはすると思うので途中で手を離さないでくださいね」
「変な感じ?」
その言葉に身構えて身を固くしていると手のひらから温かさが伝わってくる。ぬるま湯のような穏やかな感覚。決して変な感じだとは思えない。むしろ心地よい。そう思っていたその時だった。
「……っ」
突如感覚が変わり、フィオラの肩が震える。
「お嬢様、落ち着いてください。大丈夫ですから」
体の中を細い何かが巡っていく感覚。くすぐったくもない。痛くもない。ただただ、変な感覚。
けれどこの感覚には覚えがあった。たった二年前なのに、遥か昔のように感じる記憶。治癒魔法を覚えた当初、自身が感じていた感覚だ。
「懐かしい……」
思わず言葉が漏れる。
「良かったです。思い出していただけたみたいで。これが本来の魔力の流れです」
優しい声音に顔を上げると、カルロがほっとしたような表情でフィオラを見ていた。出来の悪い教え子がようやく一歩踏み出せて安心したのだろう。
「ここから必要な分だけ魔力を取り出して使う、それが魔法の使い方です」
そう言ってフィオラの手の平を上に向けて、カルロはその下に手を添える。
「お嬢様、水には嫌な記憶が紐づいていますか?」
「え、いや、大丈夫だと思うけど……」
「それなら水にしてみましょうか」
するとカルロは魔力をゆっくりと変化させる。フィオラの手の平がひんやりしてきたかと思うと、小さな水球がふわりと浮かび上がってきた。
「え?私が?水魔法?」
「流れているのは私の魔力なので私の魔法ですね。治癒術師ではありますが魔塔所属なので、全属性扱えるんですよ」
戸惑う彼女を見て笑いながらカルロは説明する。
「では、この水球で五感を感じる練習をしてみましょう。正解はないのでお嬢様の感じたままで大丈夫です」
「感じたまま……」
フィオラはふわふわと浮かぶ水球に視線を落とす。
「可愛い……まるい……でも……」
水の中はまるで庭園の花が閉じ込められているように見えている。陽の光を受けてキラキラと光っている。
「怖い……」
花が香り袋と銀灯花を、光が夜の魔物の瞳を思い出させてつい出た言葉。小さい水球の中の景色だからか強い恐怖ではない。けれど確かな怖れだった。
そこまで言ってはっとする。
「あ、怖いじゃなくて、えっと……」
カルロは正解はないと言った。けれどそれでも、怖いと感じたことを知られたくない。弱い自分を見せたくない。下に見られたくない。そんな思いから咄嗟に自身が感じたことに蓋をしようとした。
「大丈夫ですよ。何を感じるも自由ですから」
そう言って彼は言葉を続ける。
「五感を感じることが土台だというような話はしましたよね?」
「あ、ええ、そうね」
「それは、自分が今ここに在るということを感じるためなんです。自分が分からないと外の魔力を取り入れることがそもそもできませんから」
自分がどこに在るか。フィオラはそんなことを考えたことすらなかった。
自分には価値がない。人に求められた時だけ自分が有用だと感じる。他人によって左右される生き方しかしてきていない。彼女が在るのはいつも他人の中だった。
(まるで幽霊みたいね)
呆れたように自嘲しながら水球を眺める。
丸くて、透明。だけど色とりどりの花が閉じ込められていて、キラキラしている。そしてそんな水球を眺めて怖いと思う、自分自身。
フィオラは初めて自分がここに在るということを感じていた。




