違和感
ダリアスの手から視線を逸らしたフィオラは庭園を見渡す。まだ緊張感は拭いきれてはいない。ほんの僅かな拍子にまた先ほどの状態に戻ってしまいそうだった。そうなるのが怖くて、彼女は目を瞑り何度か深呼吸を繰り返す。そしてゆっくりと目を開けて再び庭園を見渡した。
風に揺れるラベンダー。噴水の水音。白薔薇の甘い香り。小鳥の囀り。どれもさっきまで忌まわしい記憶しか運んでこなかったものなのに、今は少しだけ違って見えた。肺を満たす空気も。
落ち着いてようやく、フィオラはダリアスの顔を見ることができた。彼のその整った顔立ちに胸が騒ぐのを感じる。――これは、動揺を引きずっていた余韻だ。そう思い込むようにしてその違和感に蓋をした。
視線の先にはいつもと変わらず無表情のダリアスが立っている。呼吸ができなくなっていた自分を落ち着かせてくれたダリアス。彼にとっては業務の一環でしかないだろうが、そのおかげで救われたことには変わりない。彼女は唇を噛んでから口を開いた。
「ダリアス、その、えっと……ありがとう」
「礼を言われるようなことはしていません」
減らず口を言われたようで少しむっとするも、下手に優しくされるよりいつもと変わらない彼の様子が逆にフィオラを安心させる。
(……そういえば……)
そこで彼女はふと気づく。先ほどだけじゃなく、ダリアスに触れられる時はいつも震えも恐怖も出てこないことに。
侍女に手を出して止められた時も、イゾッタとの対面での冷や汗を拭われた時も。
「どうして……?」
無意識に零れた呟きにダリアスが眉をひそめる。
「何か」
「あ、いや、別に何でもない」
どちらも咄嗟のことだった。だから気づかなかっただけなのかもしれない。
――そういうことにしておこう。
これ以上考えるべきではない気がして、フィオラはその疑問ごと胸の奥へ押し込めた。
それからカルロが庭園へやって来たのは間もなくのことだった。
「五感を感じる練習をされてらっしゃったんですね。成果のほどはいかがですか?」
にこやかに話しかけてくるカルロ。その言葉にフィオラは気まずそうに目を伏せる。
「あまり芳しくはなさそうですね」
カルロは彼女の様子から進捗状況を把握して、眉を八の字にして苦笑する。
「ち、違うの!今はその、これは、えっと……」
呆れられてしまった。出来損ないだと思われてしまう。見限られてしまう。そんな思いから必死に言い訳をしようとするも、言葉は何も浮かばない。
「焦らなくて大丈夫ですよ」
それが、説明のことを指しているのか訓練のことを指しているのかは分からない。けれどその言葉に小さな安堵感を覚え、フィオラは小さく息を吐いた。
「……どうしても、上手くできないの」
ぽつりとそう言ってから彼女は言葉を続ける。
「何かを感じようとしたら、苦しさとか、嫌なことを思い出してつらくて、感じるのも怖くて、上手く出来ない。でもやる気がないとかじゃなくて、魔力制御、覚えたいの。嘘じゃないの、本当なの」
ルクレツィアは過去に身体のつらさを訴えても信じてはくれなかった。構って欲しいだけの嘘だと。実の親にすら信じてもらえない自分のことなんか、誰が信じてくれるというのだろう。そんな思いが交錯して、上手く言葉を紡げない。
カルロは黙ったまま口を開かない。ただ片手を顎の下に当て、何かを考え込むように黙ったままだった。嫌な予感がフィオラを襲う。
「五感を感じようとすると負の記憶が紐づいて上手くできない、と。そういう解釈でよろしいですか?」
「え、あ……そうね」
ようやく口を開いたカルロはすぐには何も言わなかった。ただ顎に手を添えて、静かに考え込んでいる。
「全部がダメってわけじゃないの。だから、その、ダメなのじゃなければやれるから……」
フィオラの様子にカルロはふっと吹き出す。そして顔の前で手を振る。
「ああ、訓練をやめようとか思ってないから大丈夫ですよ」
そう言われた途端、張り詰めていた糸が切れた。それと同時に、胸の奥からむくむくと腹立たしさが込み上げてくる。カルロに対してなのか、あれほど必死に言い訳を並べ立てた自分に対してなのか、それは自分でも分からなかった。けれどそれを誤魔化したくなり彼女はきっと目を吊り上げる。
「な、それなら最初からそう言いなさいよ!」
「すみません、現状を踏まえて訓練方法を考え直していたもので……。それに必死に弁明している姿がお可愛らしいなと」
まったく申し訳ないとは思っていなさそうな口ぶりにフィオラは眉を寄せる。文句の一つでも言い返したかった。けれど、自分のために訓練方法を練り直させてしまったことを思うと、何も言えなくなってしまう。
「お嬢様は人の魔力を感じたことはありますか?」
その問いにフィオラは戸惑う。元々大公家には専属治癒術師がいた。しかし彼女が治癒魔法に目覚めて以降、母が専属治癒術師を解雇してしまった。フィオラに希少価値を出してルクレツィア自身の基盤をさらに磐石にするために。
治癒魔法に目覚めて以降はフィオラ自身が治す側になってしまった。自分が診てもらうことはない。体調を崩しても薬師が薬を処方するだけ。
先日カルロに治癒魔法を施された時。あれがフィオラにとって、生まれて初めて他人の魔力を身近に感じた瞬間だった。けれど大公の娘としてこんな扱いを受けていたことを知られたくない。価値のない人間だと知られたくない。惨めな思いはもうしたくない。
そんな思いが喉にへばりついてフィオラから言葉を奪っていた。




