根深く
翌日、カルロから渡された教本をぱらぱらと捲りながらフィオラがダリアスに話しかけた。
「ねぇ、五感を感じる練習になる場所ってどこだと思う?」
「……庭園が無難かと」
「……庭園……やっぱり……そうよね……」
分かってはいる。一番練習に適した場所だと。けれど、フィオラにとって庭園は恐怖の対象でしかない。死んでまた十歳の身体になってから、一度も庭園に足を運んではいなかった。
――庭師見習いの男に襲われた場所。
思い出すだけで全身の毛が逆立つ。思い出したくもない。体が震える。血の気が引いていく。
フィオラにとって庭園は部屋の窓から見るのが精一杯の場所だった。
怖い。行きたくない。避けたい。逃げたい。
けれどカルロが来た時に何も進展してなければ、話は何も進まない。魔力制御ができるようにならないままになってしまう。
そしてそうなった場合の末路を、彼女は嫌と言うほどに身をもって知っている。
今は魔力制御の訓練があるということで大公から治癒魔法を休む許可を得ているが、それも経過が悪ければ訓練を中止して治癒魔法を使うよう指示が出るようになるだろう。その末路はやはり地獄だ。
フィオラは唇を震わせながら口を開いた。
「今日も……カルロは来るのよね?」
「はい」
「じゃあ、行くわ。庭園に」
ドレスをぎゅっと握りしめて彼女は歩き出す。いつもなら何でもない距離のはずなのに、目的地が庭園だと思うだけで足が沼に沈んだように重かった。
行きたくない。けれど行かなければならない。相反する感情に引き裂かれながら、フィオラは唇を噛み締めて歩みを進める。
グレートホールを抜け、石造りの回廊へ出る。柱の向こうでは風にラベンダーの花穂がゆるやかに揺れ、その甘く爽やかな香りに白薔薇のほのかな芳香が混じって流れ込んでくる。
穏やかな景色。誰もが美しいと口にする庭園。
けれどフィオラにとっては違う。そこは悍ましい記憶の象徴とも言える場所だ。怖い。一歩、また一歩と近づくたびに指先から血の気が引いていく。
喉が乾く。呼吸が浅くなる。心臓だけが、逃げろと警鐘を鳴らしていた。もう目の前が庭園だというのに、足がぴたりと止まって動かない。
「……無理をする必要はないかと思いますが」
「む、無理なんかしてないわ!」
ダリアスの言葉に反射的に言い返すと、フィオラは足を踏み出した。浅い呼吸のまま、少しずつ庭園の中央の噴水近くまで歩いていく。
花を見ては最後の日の銀灯花の記憶が開かれて、そこから引きずられるように魔物を思い出してしまう。小鳥の囀りさえ、魔物の恐ろしい咆哮を呼び起こす。花の香りが魔物寄せの香りのように感じてしまう。
そして美しい庭園を見渡すと、どこからか庭師見習いの男がやって来そうな気がしてならない。身体が震え出す。
「……っ!」
フィオラは腕を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「違う……違う……」
今日は違う。あの日ではない。分かっているのに、
頭では理解しているのに。心がまったく追いついていかない。身体が言うことを聞いてくれない。
たったこれだけのことが、自分にはできない。
下を向いて浅く荒い呼吸を繰り返していると、目の前がふと影になる。フィオラが顔を上げるとそこには彼女の視線の高さに合わせてしゃがんだダリアスの姿があった。
至近距離のダリアスに思わず息を呑む。彼は両腕を抱えているフィオラの手に自身の手を重ね、彼女をまっすぐに見つめた。冬空を思わせるその青灰色の瞳に吸い込まれそうになる。
「落ち着いて」
「……な……」
「息を吐いて」
ダリアスに指示された通り息を吐く。男の人に接触しているというのに、何故だか彼に対しては身体が震えなかった。ただ、重ねられたその手が妙に熱い。
「息を吸って」
彼の言葉に合わせて何度か呼吸を繰り返していくうちに少しずつ落ち着いていく。声が耳に心地いい。
「落ち着かれましたか」
「あ、え、だいぶ……」
そこまで言ってふと気づく。まだ手が重ねられたままだということに。不快ではない。けれど恥ずかしくて居た堪れない気持ちになった。
ダリアスがそっと手を離す。手の温もりが離れた途端、ひやりとした風が指先を撫でる。何だか心にも隙間風が流れた気がした。
「立てますか」
そう言って差し出したダリアスの手を取ろうとして、フィオラの手は空中で止まる。
「じ、自分で立てるわ!」
こんなことはダリアスにとって業務でしかない。それなのに妙に意識してしまって彼女は手を取ることができなかった。気まずさを誤魔化すように強い口調で言い返して勢いよく立ち上がる。
ダリアスは何も言わず、差し出していた手を静かに下ろした。彼女の視線はその手を追ってしまう。
(何してるの、私)
素直に手を借りればいいだけなのに、どうして自分は変に意地を張ってしまったのだろう。
そこまで考えてフィオラは頬の内側を噛んで視線を逸らした。これ以上考えてはいけない。そう自分に言い聞かせるかのように。




