混乱
「……お嬢様、そろそろ失礼してよろしいでしょうか」
フィオラは突然聞こえてきた声にびくりと肩を震わせ、弾かれたように振り返った。ダリアスが部屋にいることをすっかり忘れていた。にも関わらず感傷に浸った独り言を呟いてしまい、顔に熱が集まる。
「お嬢様、失礼してもよろしいでしょうか」
羞恥心から思わず両手で顔を覆っていると、彼はお構いなしに再度フィオラに確認を取ってくる。
「あの、き、聞いてた?」
赤く染まった顔を上げ、ダリアスを見つめながら出た言葉。それは質問に対する答えではなかった。彼はフィオラをじっと見た後ため息を吐く。
「意図的ではありませんが、聞こえてきましたので」
「な、何よ!ため息吐くなんて失礼ね!」
「……馬鹿だとは思いませんが、お嬢様はもう少し色々と学ばれるべきかと」
「な……!結局馬鹿にしてるんじゃない!カルロからこれから教えてもらうんだからいいでしょう!?」
恥ずかしい気持ちを誤魔化すかのように声を荒らげるフィオラに、ダリアスは片眉を上げる。再び彼の口から小さなため息が漏れた。
「その話ではありません」
「じゃあ何……」
ダリアスはフィオラの言葉を遮り、彼女の疑問には答えずに一礼する。
「そろそろ失礼させていただきます」
部屋から出て遠ざかっていく足音を聞きながら、一人残された彼女は不満気な顔で窓際へと歩き出した。窓に顔を近づけてしばらく外を見下ろしていると、騎士棟へと戻るダリアスの姿が見えてくる。
背筋を伸ばし迷いのない足取りで歩くダリアス。彼の姿をフィオラは無意識に目で追ってしまう。そして執拗に視線で追いかけている自分に気づき、慌ててカーテンを閉めて窓に背を向けた。
「……何してるんだか」
いまだにダリアスを気にしてしまう自分。乾いた笑いが込み上げてくる。なんて滑稽なんだろう。
過去も今も、ダリアスは自分に関心なんてありはしないのに。今考えるべきことは他にあるのに。すぐに彼へと意識を向けてしまう自分にうんざりする。彼女は小さく頭を振った。
フィオラはゆっくりと机への前まで歩き、自分がナイフでがりがりと削ったささくれた部分を触る。
「がさがさ……」
不意に木の破片が指に刺さり反射的に手を引くも、彼女の人差し指からは血が滲んでいる。
「……っ痛い……赤い……」
カルロから今日教わったことは五感をきちんと感じること。ただそれだけだった。外の魔力を感じて体内に取り入れることができるように。そして何より心を落ち着けるために。
どうして心を落ち着かせる必要があるのかはよく分からない。けれどカルロはそれが一番大事だと言った。土台となるものだから、と。
流れる血液を見ながら彼女の呼吸はだんだんと浅くなっていく。五感で感じようとするたびに動悸がフィオラを襲う。
過去も今も心の安寧とは程遠いところで生きているフィオラにとって、それを得ようとすることはとても困難なことだった。
過去を当時の自分はこう感じていた。幸せだと。けれど実際は治癒魔法を酷使して日々満身創痍で。他人に自分の幸せを委ね、心の平穏はいつも周りに左右されていた。
そしてすべてを知った今は。もう誰も信用できなくなっていた。いつ何時誰に命を狙われるかもしれない。そう思うといつも気を張らなくてはならなかった。
――平和な世界なんて、どこにもない。
そして、五感を感じようとすることも彼女にとっては苦痛だった。実践しようとするとどうしても過去の記憶が甦ってきてしまうから。
ダリアスの冷たく昏い瞳が。魔物寄せの香りが。襲ってきた男の手が虫のように身体を這う感覚が、ねっとりと頬を舐める感覚が。馬車の揺れの気持ち悪さが。全身の激痛と激しい吐き気と目眩が。魔物に殺された時のちぎれていく音が、痛みが。
「……っ」
押し寄せる胃の奥がせり上がってくる感覚に、フィオラは口に手を当てる。
五感を感じる。心を落ち着ける。そんなことすら自分はできない。
誰でも当たり前にできることが、自分にはできない。
最初は、できていたことなのに。できていたはずなのに。どうして?あの人たちのせいで。あの人たちのせいで。違う。自分がすべて悪いんだ。違う、違う、違う。あの人たちが悪いんだ。できていたのに、どうして。苦しい。つらい。自分はどうしてこんな思いを味あわなくてはならないのか。
ごちゃごちゃした感情が渦巻く。何度胃の中のものを吐き出してもちっとも身体は落ち着かない。
カルロは言った。五感を感じ心を落ち着かせることは土台だと。その土台が自分はもうとっくに壊れている。過去に粉々に砕け散ってしまったから。
こんな序盤から躓いていては話にならないと頭では分かっている。けれど、どうしていいか分からない。フィオラは声を押し殺して一人嗚咽を漏らしていた。




