第72話 十五億円、個人保証なしで借りる
銀行から最初の融資を断られてから、六週間が経過した。
俺は再び、同じメガバンク本店の応接室へ座っていた。
前回と違うのは、資料の厚さではない。
その中身だった。
「新設法人、合同精錬株式会社」
融資担当者が、一枚ずつ確認する。
「九条補給店、真壁精錬所、西原鋼業を含む六工場が出資。工場各社とは、品質適合を条件とした三年間の最低引取契約。桐生陽菜氏とは、高負荷仕様の装備、検査、保守に関する三年間の供給契約」
「いずれも、品質不適合時の停止条件を設けています」
「承知しています。売上を無条件に保証する契約ではない」
担当者は、次の資料へ進んだ。
「建設候補地の条件付き合意。自治体との協議記録。安全停止権を定めた規程。外部監査を含む供給委員会。そして、代替精錬先の候補調査」
前回は、全国からの期待を売上の代わりに見せようとしていた。
今回は、成功条件だけでなく、止める条件と失敗時の損失管理まで書いている。
「資金の出し方も変更しました」
俺は、設備工程表を提示した。
「十五億円を一括で借りるのではありません。土地、基礎工事、設備調達、据付、試運転、量産移行の各段階で、達成条件を確認して実行する融資枠を希望します」
工事が進まなければ、次の借入は発生しない。
品質試験を通らなければ、量産段階の資金は出さない。
建設費の一部は出資金と外部の事業投資で賄い、予備費と当面の利払い資金も別枠で確保する。
新会社の設備と契約上の債権を担保へ入れ、経営者個人へすべてを背負わせない構造へ変えた。
「九条様個人の連帯保証は、今回追加しない条件ですね」
「ええ」
「既存の個人借入と、短期融資に付された保証が消えるわけではありません」
「理解しています」
試作時の消費者金融の残債も、初回ロットの支払いをつないだ短期借入の個人保証も残っている。
この融資が通ったからといって、俺個人の首輪が外れるわけではない。
それでも、新たな十五億円まで個人保証へ積み上げれば、事業の失敗がそのまま一人の破滅になる。
そんな経営は、継続性を掲げる供給網と矛盾していた。
「審査部から、最後の質問です」
担当者は眼鏡を直し、俺を見た。
「もし九条様が明日、業務を継続できなくなった場合、この会社は動きますか」
以前なら、答えに詰まっていただろう。
「動きます」
俺は、役割分担表を開いた。
「精錬工程は真壁が止められる。品質判断は相馬と外部検査機関が行う。六工場は各社の契約に従って製造を続ける。供給順位は委員会が審査する。九条補給店の市場窓口についても、芽衣さんを含む複数人で引き継げる手順を整えました」
俺にしかできない仕事は、まだ多い。
だが、俺がいなければ全記録と判断が消える会社ではなくなった。
担当者は静かに頷き、書類を閉じた。
「分かりました。十五億円を上限とする、段階実行型の法人融資枠を設定します」
一瞬、その言葉の意味が耳へ届かなかった。
「……承認された、ということですか」
「はい。各段階で、契約と進捗の確認を行います。資金用途の変更には事前承認が必要です。また、重大な安全違反や記録不備が確認された場合、未実行分は停止します」
「当然です」
「今回は、九条様個人の追加保証を条件としません」
俺は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
十五億円が、その場で口座へ振り込まれたわけではない。
条件を満たすごとに、必要な額だけが実行される。
自由に使える勝利金ではなく、工程と責任に縛られた資金だ。
それでいい。
供給網を作る金は、一人の賭け金であるべきではない。
*
西原鋼業へ戻り、融資枠の承認を伝えると、事務所に歓声が上がった。
「十五億……本当に借りたの?」
芽衣が、融資条件書を何度も見返している。
「上限枠です。工事の進捗がなければ一円も出ません」
「それでも、個人保証なしじゃろう」
西原が、俺の肩を強く叩いた。
「ようやく、あんた一人の首へ縄を掛ける商売から抜け出せたな」
「前の借金は残っています」
「今くらいは素直に喜べ」
真壁はスピーカー越しに豪快に笑い、相馬はすぐ設備仕様書を開いた。
『では、主要メーカーへ正式見積もりを出します。反応炉、防爆集塵機、搬送設備、監視系統。納期を並行して確認しましょう』
「お願いします」
融資の壁は越えた。
次は設備を確保し、建設を始める。
そう思った翌朝。
発注候補の設備メーカーから、最初の正式回答が届いた。
『現在、大規模な先行発注により製造ラインが逼迫しております。
ご指定設備の最短納期は、十八か月後となります』
金が用意できても、機械がない。
資本の壁の向こうから、今度は時間という新しい壁が立ち上がっていた。




