第7話 貯金五十万、全部突っ込む
大理石で覆われた銀行の応接室は、空調が効きすぎていて肌寒かった。
目の前に座る融資担当の行員は、ひどく申し訳なさそうな、それでいて少しだけ困惑したような作り笑いを浮かべていた。
彼の手によって、俺が書き上げた試作の事業計画書が、テーブルの上を静かに滑って戻ってくる。
「九条様。ご提案いただいた『対魔鋼』という新素材の着眼点、そしてダンジョン消耗品市場の分析は、非常に論理的で興味深いものです。ですが……」
行員は言葉を区切り、手元の資料に視線を落とした。
「いかんせん、九条様は法人格をお持ちでなく、事業実績のない個人です。事業の担保となる不動産や資産もお持ちではない。何より、この素材はまだ紙の上の仮説であり、安全性も製造可能性も検証されていない段階です。試作品も、確約された顧客も存在しません」
彼は少しだけ言いよどみ、言葉を継いだ。
「ダンジョン関連装備の製造という分野は、現在非常にボラティリティが高い……要するに、市場価格も国の制度も変化が激しすぎるのです。当行の融資基準を、どうしても満たすことができません」
予想していた通りの言葉だった。
安全性が未検証の仮説に対し、無担保で数百万円単位の金を貸す銀行などない。
融資のセオリーからすれば、彼の判断は百パーセント正しい。俺が彼の立場でも、間違いなく同じ理由で突き返す。
「……貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
俺は深く頭を下げ、計画書を鞄にしまった。
低金利で調達できる正規ルートに、わずかな期待を持っていなかったわけではない。だが、これが現実だ。
銀行の自動ドアを抜け、照りつける都会の太陽の下に出る。
俺は歩きながら、手元のスマートフォンを操作した。
銀行口座の残高アプリを開く。
そこに表示されている数字は、倉庫での日雇い労働を続けながら極限まで切り詰めて残した貯金、五十万円。
家賃、食費、不測の事態への備え。今の俺にとって、絶対に守らなければならない生活防衛資金だ。
この五十万円を使えば、もう生活の余裕は一切なくなる。
それでも、俺は画面を見つめたまま、心を決めた。
三葉物産を退職した際に出た、退職金の残りを確認する。それだけではまだ、西原が試算した初期試験の費用には届かない。
俺はそのまま足早に、家賃五万円の狭いアパートへと向かった。
*
アパートのクローゼットを開ける。
そこには、三葉物産の資源部門で働いていた頃の俺を形作っていたものが並んでいる。
体型に合わせて仕立てた、数着のオーダーメイドスーツ。
そして、引き出しの奥底には、南米の案件を一つまとめた時に買った、海外製の高級機械式腕時計のケースがしまってあった。
どれも、今の倉庫での労働には全く使わないものだ。
だが、これを手放すということは、俺がかつて商社マンであったという事実を、物理的に捨てることを意味していた。
俺はスーツを丁寧にハンガーから外し、腕時計のケースと一緒にボストンバッグに詰めた。
向かった先は、繁華街にある買取専門店だ。
オーダーメイドスーツは個人の体型に合わせているため、中古市場での価値は無いに等しかった。俺の想像をはるかに下回る、惨めな査定額だった。
一方、腕時計は箱や保証書が残っていたため、ある程度まとまった金額になった。
現金の入った封筒を受け取り、店を出る。
俺は空になったボストンバッグを手に、かつての自分を証明する品がすべて無くなったことを実感していた。
それでも、まだ少しだけ試作費には足りない。
俺はスマートフォンのブラウザを開き、消費者金融の申し込みページにアクセスした。
金利は、正規の融資とは比べ物にならないほど高い。
試作が失敗すれば、倉庫の日雇い収入から、この高金利の借金を返し続ける生活が待っている。
仮に試作が成功したとしても、製品として売れる保証はどこにもない。会社の金ではなく、俺個人がすべての債務を負うのだ。
指先が、わずかに震えた。
だが、俺は必要事項を入力し、審査の申し込みボタンを押した。
紙の上の仮説を、現場で検証可能なものへ進める。
会社を追われた時とは違い、誰かに命じられたのではなく、自分自身の選択として動く。
そのための、最低限の試作費が揃った。
*
岡山県、倉敷市。
再び西原鋼業の薄暗い事務所を訪れた俺は、西原徹の前に、数枚の書類を並べた。
「これは……」
「試作委託に関する合意書と、初期試験費用の振込明細です」
俺は、西原に確認を促した。
「今回お願いするのは、初期試験のみです。成功の保証は求めません。失敗しても材料費の返還は要求せず、試作品の安全性についても一切の責任を問いません。試験結果を、あくまで次の判断材料にするための委託です」
西原は書類に目を通し、それから振込明細の金額を見た。
そして、険しい顔で俺を睨みつけた。
「あんた、この金はどうやって作った」
「退職金の残りと、生活費のための貯金五十万円。それに私物の売却と、足りない分は消費者金融からの借り入れです」
西原は小さく舌打ちをした。
「馬鹿野郎。生活費まで突っ込んで、その上高金利の借金まで背負ったんか。もし失敗したらどうなるか分かっとるのか。家賃も払えんようになるぞ」
「分かっています」
「仮にこの初期試験で良いデータが出たとしても、それで完成じゃない。売れる製品になる保証なんかどこにもないんじゃぞ。再起するための金まで失うことになるんだ」
西原の言葉は、俺を案じての現実的な警告だった。
「九条さん。あんた、怖くないんか」
「怖いです」
俺は正直に答えた。
「数字だけを見れば、撤退すべき案件です。成功確率も回収期間も計算できない。これは、俺が会社で行っていた通常の投資判断ではありません。倉庫の収入から借金を返し続ける生活になるのも、心底怖いです」
俺は書類から手を離し、西原の目を見返した。
「この怖さは、市場の有望さを証明するものではありません。ですが、現場で装備の破損に苦しむ人間がいる。供給上の致命的な欠陥がある。この仮説を検証せずに捨てることは、俺にはできません。合理性を証明できないからこそ、最後は自分が責任を取って選びます」
事務所の中に、重い沈黙が落ちた。
外から聞こえてくる機械の稼働音だけが、やけに大きく聞こえる。
西原はしばらくの間、俺の顔と、デスクの上の合意書を交互に見つめていた。
やがて、彼は深く、長いため息をついた。
「……失敗しても責任は問わん、自分の判断として損失を引き受ける。そこまで腹を括って書面にしてきたんなら、これ以上は止めん」
西原はデスクの上のペンを取り、合意書に無骨なサインを書き込んだ。
「ただし、うちにも通常業務と従業員の生活がある。あんたの未検証の仮説のために、工場のラインを全面ストップさせるわけにはいかん」
「はい。当然です」
「通常業務が終わった後の、夕方以降に小型の試験炉を使う。最初は、俺と数人の職人だけで、ごく小さな試験片から始める。それでいいな」
本業への影響を最小限に抑えつつ、俺の仮説を検証する。
それは、経営者としての冷静な判断と、技術者としての挑戦を両立させる、西原なりの答えだった。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
西原との間に、全面的な信頼や友情が生まれたわけではない。
だが、お互いにリスクを理解し、契約上の責任を明確にした上で、一つの技術課題に向き合う。
ほんの少しだけ、同じ方向を向いた気がした。
*
夕刻。
通常の業務を終え、職人たちが帰り支度を始める中、工場の奥にある小型の試験炉の前に、西原と俺が立っていた。
ごう、と重い音を立てて、試験炉に火が入る。
オレンジ色の光が薄暗い工場内を照らし出し、熱波が顔に当たる。
タングステン、希土類、そして魔石の粉末が用意され、これから初期試験が始まる。
まだ、何一つ成功していない。
魔力疲労の仮説が正しいという保証も、合金が形になる保証もない。
俺の五十万円の貯金と、借金と、これからの生活だけが、先にあの炎の中へ投じられた。
後戻りできない試験が、今、始まったのだ。




