第69話 S級が、三年分の契約書を持ってきた
翌朝。
西原鋼業の応接室へ現れた桐生陽菜は、ダンジョン協会の装備担当者と、彼女の契約実務を担う代理人を伴っていた。
テーブルの上へ置かれたのは、数ページの簡単な申込書ではない。
製品仕様、供給条件、検査、代金、契約解除まで細かく定めた、分厚い契約案だった。
「期間は三年です」
代理人が説明を始めた。
「桐生は、深層探索および協会から要請される高負荷任務に使用するKUJO-G適合装備について、九条補給店を優先交渉先とします」
俺は、条文を一つずつ追った。
対象は、陽菜の出力へ合わせた高負荷仕様の刀剣、予備装備、交換部材。そして使用後の点検、破壊解析、次回試験の費用。
年間の最低発注額は定められているが、無条件に品物を買い取る内容ではない。
各製品とロットがKUJO-Gの適合検査を通ること。
必要な数量と納期を事前に協議すること。
安全上の疑義がある場合、九条補給店側が出荷を停止できること。
供給が間に合わなければ、陽菜側も探索予定を変更できること。
重大な不適合が続いた場合には、契約を解除できること。
どの条項も、俺たちだけを守るためのものではなかった。
「これは、建設資金の保証ではありませんね」
俺が確認すると、陽菜は頷いた。
「ええ。私が九条さんの借金を保証することも、名前だけを貸すこともありません」
「前払いで資金を提供する契約でもない」
「納品と検査、実際に行われた試験や点検に対して、相場に基づく対価を支払います」
陽菜の目は、真っ直ぐだった。
「私は、善意で九条補給店を助けに来たのではありません。今後も深層で活動するために、検証済みの装備と継続的な点検が必要です」
そのために三年間の需要を明文化し、供給側にも責任を求める。
対等な取引相手として、合理的な契約を持ってきたのだ。
「一点、直したい箇所があります」
俺は、供給優先順位に関する条文を指した。
「この契約があるからといって、救助任務でもない私的な探索まで、他の供給希望者より無条件で優先することはできません」
「分かっています」
陽菜は即答した。
「既存契約上の義務は暫定優先基準の一項目ですが、それだけで最優先になるわけではない。私の供給も、任務内容、切迫度、検証済み範囲に照らして判断してください」
「その代わり、契約で確保した製造枠を他へ振り替える場合は、理由と代替日程を説明する」
「お願いします」
俺たちは、条文を書き換えた。
有名なS級探索者だから特別扱いするのでもなく、批判を避けるために不当に後回しにするのでもない。
同じ基準と、明文化された契約に従う。
それが、互いの命と事業を預ける最低条件だった。
*
契約内容を確認していた相馬が、別紙の試験計画へ目を止めた。
「使用後の装備は全数返却。活動階層、戦闘時間、警告表示の有無、目立った衝撃の概要を記録。必要に応じて破壊検査にも回す……ここまで協力していただけるんですか」
「私にとっても、次の装備の安全性を高めるデータになります」
陽菜は淡々と答えた。
「ただし、任務上の機密や救助対象者の個人情報は除外します。提供範囲は協会と事前に確認してください」
「もちろんです。必要最小限の情報だけを、利用目的を限定して扱います」
相馬が頷く。
西原は契約書の最低発注額を見て、腕を組んだ。
「三年分っちゅうても、これ一本で十五億円を返せる額じゃないぞ」
「分かっています」
俺は答えた。
「ですが、誰が、どの仕様を、何年間必要とするのかを示す最初の確定需要になります。金融機関へ出す事業計画の精度は大きく変わる」
同時に、この契約だけへ依存してはいけない。
陽菜が負傷し、引退し、あるいは探索方針を変えれば、高負荷仕様の需要は減る。
一人のS級の信用へ寄りかかった資金計画は、供給網とは呼べない。
「六工場とは、適合粉末の最低引取量を協議します。救助隊や地方支部についても、確定した必要数量だけを契約へ変えられないか確認する。それらを積み上げて、初めて継続需要になります」
「ええ。それでいいと思います」
陽菜は、署名欄へペンを走らせた。
俺も内容を再確認し、九条補給店の代表として署名する。
三年間の優先供給契約が、そこで成立した。
拍手も歓声もなかった。
ただ、紙の上に記された数字と義務が、これまで曖昧だった将来の需要を、初めて輪郭のあるものへ変えていた。
*
契約後、協会職員と代理人が書類の控えを整理している間、陽菜が俺の机に並んだ紙コップへ視線を落とした。
「昨日も、あまり寝ていませんね」
「銀行に断られた原因を整理していました」
「断られた日のうちに、次の契約構造まで考えたんですか」
「止まっている時間がありませんから」
陽菜は、少しだけ眉を寄せた。
「供給を止めないために、供給する人が倒れるのは契約違反です」
「契約書に、俺の睡眠時間までは書かれていません」
「では、次の改訂時に検討します」
真顔で返され、俺は言葉に詰まった。
西原と芽衣が、横で小さく笑っている。
「……今日は休みます」
「確認しました」
陽菜はそれ以上踏み込まず、契約当事者として一礼した。
彼女が帰った後、俺は三年分の契約書を鞄へ収めた。
これはS級の名を借りた宣伝材料ではない。
供給を続けろと求める、重い需要の証明だった。




