第31話 兄ちゃん、あんたを信じる
翌朝、西原鋼業の休憩スペースには、西原と芽衣のほか、主要な職人たちが集まっていた。
全従業員へ提案書を回したわけではない。
西原は守秘義務の範囲を確認した上で、雇用と工場の将来に関わる条件だけを、必要な者へ説明していた。
「九条さん。待たせたな」
西原が、パイプ椅子から立ち上がった。
「最初にはっきり言う。三葉の条件は、本当に良かった」
設備を更新できる。
原材料と研究費を確保できる。
従業員の雇用を守りやすくなり、待遇改善の可能性もある。
西原が引退した後も、三葉グループの中で工場を残せる可能性は高い。
芽衣にも、大企業の教育や就業という選択肢が増える。
「昨夜、こいつらにも説明した」
西原が、職人たちを見た。
「安定を選びたい、三葉へ入るのも悪くないという意見も出た。家族を食わせとるんじゃ。当然じゃ」
一人の職人が、ゆっくり頷いた。
「正直、俺は迷いました。設備が止まれば仕事も止まる。三葉が更新してくれるなら、安心できると思った」
全員が最初から、九条補給店と運命を共にすると決めていたわけではない。
三葉を選ぶことも、十分に合理的だった。
「じゃが、傘下に入った後のことも考えた」
西原が続けた。
「資本と市場は手に入る。その代わり、価格、製造の優先順位、技術をどの事業へ使うか。大きな判断には、三葉全体の方針と承認が入るようになる」
それは不幸な未来ではない。
経営上の危険を減らす代わりに、判断の一部を親会社へ預ける選択だ。
「わしらは長いこと、大手から渡された図面と価格に合わせて仕事をしてきた」
西原の油染みが残る手が、机の上で握られた。
「それで工場を守ってきたことを、恥じとるわけじゃない。じゃが今、自分たちの名前で規格を作れるところまで来た。もう一度、自分たちで決める道を選んでみたい」
西原は俺を見た。
「あんたは、品質を落として数を作れとは言わんかった。わしらを安い下請けとして扱わず、工賃と責任範囲を規格案へ入れた」
需要予測を外した時も、工場へ損失を押しつけなかった。
個人保証を負って、契約どおり全工場へ支払った。
買収提案が来ても、恩義で西原を縛らなかった。
「兄ちゃん、あんたを信じる」
西原が言った。
「必ず成功すると思っとるわけじゃない。あんたも読みを外す。それはもう知っとる」
周囲から、小さな苦笑が漏れた。
「それでも、失敗の責任を他人へ投げんことは分かった。わしらの技術と名前を、対等な相手として扱うこともな」
西原は、三葉の提案書へ手を置いた。
「この買収提案は、正式に断る。専門家を通して、礼を失わん書面で返事をする」
提案書を破り捨てることも、三葉を罵ることもしなかった。
良い条件を理解した上で、別の未来を選んだ。
「私も、おじいちゃんの決断を支持する」
芽衣が言った。
「心配がなくなったわけじゃないよ。だから、選んだ道で失敗しないよう、私もG0の説明と利用者側の仕組みを作る」
職人たちも、それぞれの言葉で参加を続ける意思を示した。
「ただし、九条さん」
別の職人が、念を押すように言った。
「工賃を削る、検査を省く、無理な納期を押しつける。そうなったら、俺たちは抜けます。社長が残るから、何でも従うわけじゃない」
「当然です」
俺は答えた。
「そのために、工賃と検査と離脱条件を文書にします。俺の言葉ではなく、守られた条件を基準に判断してください」
盲信ではない。
安定を捨てる怖さを承知し、工賃、品質、判断する自由が守られる限り、この挑戦へ加わるという意思だった。
「……ありがとうございます」
それ以上の言葉が、すぐには出なかった。
俺は深く頭を下げた。
*
その後、規格協議へ参加する他の五工場とも、個別に条件を再確認した。
適正工賃。
検査基準。
責任分界と支払条件。
各社が独立企業であり、条件再協議や離脱の権利を持つこと。
西原の判断に自動的に従うのではなく、それぞれが条件を確認した上で、共同開発と試験製造への参加継続を表明した。
「残っていただいた以上、必ず成功するとは約束できません」
俺は、集まった代表者たちへ伝えた。
「ですが、いただいた信頼は、契約、支払い、検査、供給の一つ一つで返します」
買収を断ったから、借金が消えるわけではない。
G0も、定期点検の仕組みも、まだ始まっていない。
彼らが残ったことで、俺の責任は軽くなるどころか重くなった。
この信頼を、感情のまま消費してはならない。
実務へ変え、結果が追える形で返す責任がある。
*
同日。
三葉物産本社で、御堂龍之介は西原鋼業から届いた正式な辞退回答を読んでいた。
十億円規模の条件を比較し、従業員とも話し合った末での辞退だった。
「……そうか」
御堂は怒鳴らず、回答書を閉じた。
九条は、資本だけでは切り離せない関係を工場と作っていた。
ならば、その事実を前提に戦略を変えるだけだ。
「次の案を出せ」
御堂は担当者を呼んだ。
具体的な指示は、閉じた会議室の中へ消えた。




