第30話 買収オファー十億円
西原鋼業の二階にある応接室。
色褪せたソファを挟み、三葉物産の新規事業部と事業投資部の担当者が座っていた。
こちら側は、西原、芽衣、そして西原の了承を得た俺だ。
「以上が、資本提携および株式取得案の概要です」
三葉の担当者が、提案書を開いた。
「西原鋼業様の企業価値を、十億円規模と評価しております」
西原個人へ十億円を渡す話ではない。
評価対象は、特殊鋼の加工技術、炉の温度管理、鍛造ノウハウ、対魔鋼の試作で蓄積した製造知見。
工場の設備、熟練職人、既存事業も含め、西原鋼業という会社全体へ付けられた価値だ。
「資本参加後も、現在の従業員は原則として雇用を維持します。待遇は三葉グループの基準を踏まえて見直し、老朽設備の更新費用も弊社が負担します」
担当者が、条件表をめくる。
「西原社長には、技術責任者または顧問として残っていただきたい。研究開発費と原材料調達は弊社が支えます」
芽衣を含む若い世代には、教育と就業の選択肢を用意する。
法務、安全審査、製造物責任への対応は、三葉の専門部門が支援する。
完成した製品は、国内外の販売網へ乗せられる。
もちろん、十億円が無条件で確定したわけではない。
設備、契約、財務、知的財産について三葉側の調査を受け、取締役会の承認も必要になる。
雇用維持や設備投資も、最終契約で範囲と期間を詰めなければならない。
それでも、口約束ではなく、初期提案の段階から書面へ条件が置かれていた。
簡単に拒絶できる条件ではなかった。
買い叩いて技術だけを奪い、工場を捨てる内容ではない。
契約後の運用まで検討しなければ分からないことは残る。それでも、古い設備、資金、販路、承継という西原鋼業の弱点を、大幅に減らし得る提案だった。
「九条補給店様の規格案は、興味深い試みです」
担当者が、初めて俺へ視線を向けた。
「ですが、公開情報では現在も審査中で、安定量産前です。販売実績も限定されている。三葉物産であれば、より大きな市場と長期的な安定を提供できます」
俺の借入や資金繰りを知っている口ぶりではない。
公開されている事実だけでも、九条補給店の不安定さは十分に分かる。
西原は、提案書を見つめたまま黙っていた。
分厚い指が、紙の角を何度も撫でている。
設備更新のページ。
従業員の雇用条件。
次世代の教育支援。
視線が止まる場所は、買収金額だけではなかった。
西原は以前から、古い炉や従業員の将来、芽衣が卒業した後のことを気にしていた。
工場には、西原以外にも生活を預けている職人がいる。
機械を更新できず仕事が先細れば、誇りだけでは給料を払えない。
九条補給店へ残ることは、西原一人の賭けではない。
従業員と家族まで、不安定な事業へ付き合わせる判断になる。
断る方にも、経営者として重い責任があった。
「本日、回答をいただく必要はありません」
三葉の担当者が、提案書を閉じた。
「ご家族、従業員、顧問の専門家ともご検討ください。秘密保持の範囲と回答期限は、こちらの文書に記載しております」
三葉側は、返事を迫らずに席を立った。
*
担当者たちが去った後、応接室へ重い沈黙が残った。
「九条さん」
西原が顔を上げた。
「あんたは、どうしてほしい」
西原鋼業が抜ければ、対魔鋼の試作と熱処理の中心を失う。
KUJO-G0の開発は、少なくとも一度止まる。
規格協議へ参加する他の工場が、今後の関わり方を見直す可能性もある。
個人保証を背負ったまま供給計画が崩れる、致命的な打撃だ。
それでも、その恐怖を西原の人生へ結びつける権利はない。
「選ぶ権利は、西原社長にあります」
俺は答えた。
「これは、西原鋼業にとって検討する価値のある条件です。従業員、ご家族、芽衣さん、工場の将来を基準に決めてください」
「わしらが三葉へ行けば、あんたの規格はどうなる」
「供給計画は崩れます。大きな打撃です」
強がっても意味はない。
「ですが、九条補給店に残ることを、恩義や契約外の義務にはしません。現在の契約と支払いは、どちらを選んでも約束どおり処理します」
「個人保証まで付けて、うちを守ったんじゃろうが」
「借金をしたのは、俺の判断です」
西原の目を見返した。
「それを、西原社長の人生を縛る理由にはできません。俺は、選ばれた結果を受け止めます」
西原は長い間、何も言わなかった。
何かを言いかけ、一度口を閉じる。
やがて、提案書を自分の方へ引き寄せた。
「……一晩、考えさせてくれ」
「分かりました」
「従業員と家族、芽衣とも話す。明日、返事をする」
俺は頭を下げ、応接室を出た。
夕方の工場では、機械がいつもと同じ音を立てている。
炉の熱と、削られた鉄の匂い。
最初の試作から、何度も見てきた場所だ。
西原鋼業は、もう単なる発注先ではなかった。
それでも、俺の所有物ではない。
*
その夜は、倉敷駅近くの宿へ泊まった。
翌朝。
西原から、短いメッセージが届いた。
『工場へ来てくれ。返事をする』
俺は宿を出て、西原鋼業へ向かった。




