第29話 資金繰りの首輪
中小事業者向け金融機関の応接室。
分厚い資料を挟み、俺は融資担当者と向かい合っていた。
試作前に銀行から融資を断られた時とは、持っている材料が違う。
協会の公開比較試験記録。
KUJO-G規格案。
初回ロットの検査記録と在庫一覧。
数件の確定売上。
百件の旧仮予約と、KUJO-G0の利用希望。
保険会社から届いた、情報交換のための面談希望。
そして、各工場からの請求書と支払い予定表だ。
「事業の着眼点は、非常に興味深いと思います」
担当者は、資料を閉じずに言った。
「ですが、KUJO-Gは協会公認ではない。公開試験も一例です。確定売上は数件で、在庫をいくらで換金できるか、当方では評価できません」
「おっしゃる通りです」
「G0の利用希望は契約ではなく、保険会社からの連絡も収益契約ではない。新しい点検と物流には、さらに資金が必要です」
担当者は、俺が提出した個人債務の一覧にも目を落とした。
「試作時の消費者金融からの借入も残っています。この状態で、長期の無担保融資をお出しすることはできません」
反論の余地はなかった。
俺自身が、仮予約と現金を混同して失敗したばかりだ。
将来性を、現在の返済原資として扱えとは言えない。
「ただし、すでに発生している工場請求の決済だけを目的とするなら、短期資金として検討できます」
担当者が、別の条件表を差し出した。
借入額は、工場への支払いに必要な最低限。
返済期間は短く、金利は通常の事業融資より高い。
資金用途は請求書の決済に限定され、今後の売上入金も管理対象になる。
「加えて、九条補給店の事業債務について、九条さん個人の連帯保証が必要です」
担当者の声が、わずかに重くなった。
「事業から返済できなくなっても、債務は消えません。九条さん個人へ返済義務が残ります。既存借入に重ねて保証を負えば、今後の信用や選択肢を狭める可能性があります」
脅しではない。
契約前に、最も重い条件を確認しているだけだ。
「構いません」
俺は答えた。
「新しい設備や広告は後回しにします。ですが、工場への支払いを止める選択肢はありません」
自己犠牲のつもりはなかった。
俺が発注し、工場は合意した工程と検査を終えた。
需要を読み違えたから支払わない、では商売そのものが成立しない。
「分かりました。急いで審査へ回します」
*
それからの数日、追加資料を求められるたびに提出した。
在庫の内訳。
売上口座の記録。
工場ごとの請求金額と契約書。
担当者も支払い期限を把握し、手続きを進めてくれた。
期限の前日。
短期融資の資金が、事業口座へ入った。
俺はすぐに振込画面を開いた。
G0の試験費用でも、管理システムの開発費でもない。
初回ロットの素材費、加工費、検査費。
契約どおり仕事を終えた、すべての参加工場へ送金する。
一社だけを先に払うことも、値引きを求めることもしなかった。
最後の送金結果に『完了』と表示される。
一時は大きく増えた口座残高が、数分でほとんど元へ戻った。
手元に利益が残ったわけではない。
新しい事業へ使える余裕もない。
すでに受け取った仕事の対価を、借りた金でようやく渡せただけだ。
収益の問題は、何も解決していない。
工場を一社でも資金難に追い込み、支払いへの信用まで失えば、供給網はそこで切れる。
七日間続いた支払い危機は、ひとまずつながった。
ただし、消えたわけではない。
不足していた現金が、そのまま返済義務へ形を変えただけだ。
*
「九条さん。個人保証まで付けたんか」
西原鋼業の事務所で報告すると、西原の顔が険しくなった。
「せめて、うちの支払いくらい待てと言えたじゃろう」
「西原鋼業だけを待たせれば、他の工場との扱いが変わります」
俺は首を振った。
「皆さんは契約どおりの仕事をした。俺の読み違いを理由に、工場へ負担を移すことはできません」
「じゃからって、全部あんたが背負うことは――」
「発注者として負うべき分です」
西原は言葉を止め、深く息を吐いた。
俺の鞄には、融資契約書の控えが入っている。
個人保証欄に押した印鑑。
返済が終わるまで、事業に失敗しても逃げられない。
首へ冷たい輪をはめられたような感覚が、消えずに残っていた。
「おじいちゃん、九条さん」
パソコンの前にいた芽衣が、緊張した声を上げた。
「三葉物産から、正式な提案書が届いた」
西原がマウスを操作し、電子文書を開く。
表題は、『資本提携および株式取得に関するご提案』。
西原鋼業との面会に先立つ、初期提案書だった。
詳細な条件は、別紙と面談で協議すると記されている。
最初のページにある企業価値評価を見た瞬間、西原の太い指が止まった。
「……十億?」
俺も、表示された桁を見直した。
十億円規模。
三葉物産は、西原鋼業の技術と事業に、それだけの価値を提示してきた。
俺が個人保証を差し出して守った供給網の中心へ、今度は桁の違う、正当な選択肢が置かれた。




