第2話 三か月前、俺はリストラされた
会社を追われる少し前まで、俺は世界の最前線で戦っているつもりだった。
三葉物産、資源部門。
それが俺の所属であり、誇りでもあった。
担当していたのは、南米にある巨大なリチウム鉱山の開発案件だ。
莫大な資金が動くプロジェクト。
俺は毎日、表計算ソフトの緻密な数字と睨み合い、現地政府との契約書を何十回も精査し、輸送ルートの確保とリスクヘッジに奔走していた。
現地の労働環境の調整。
海運のスケジュール管理。
為替変動リスクの計算。
地球の裏側にある資源を、いかにして日本へ運び、産業の血液として循環させるか。
それは商社マンとしての醍醐味であり、俺自身の存在意義でもあった。
数年がかりで進めてきたプロジェクトは、ようやく実を結ぼうとしていた。
しかし、世界は俺の想定を、いや、人類の想定そのものをはるかに超える速度で激変した。
突如として、世界中に出現した「ダンジョン」。
当初は未知の脅威として恐れられていたそれは、またたく間に『新時代の資源の宝庫』へと姿を変えた。
ダンジョンから産出される「魔石」。
それが、すべての前提をひっくり返したのだ。
魔石は、既存のエネルギー資源を過去のものにするほどの、圧倒的な変換効率を示した。
電力、輸送、製造。
あらゆる産業が、一斉に魔石という新たな戦略資源の争奪戦へと舵を切った。
当然、俺が心血を注いでいた南米のリチウム鉱山案件も、採算計画を根底から失った。
「無期凍結」
それが、会社の下した決断だった。
*
東京・丸の内。
三葉物産の本社ビル。
空調の効いた冷たい会議室で、俺は一人の男と向かい合っていた。
新規事業部長、御堂龍之介。
南米の案件を部門横断で監督し、ダンジョン出現後は、資源部門の再編も任されている男だ。
「会社は、お前をこのまま残すことはできない」
御堂の声は、ひどく事務的で、一切の感情を排したものだった。
机の上を滑ってきたのは、退職勧奨の書類だ。
「能力以前の問題だ。案件そのものが死んだんだよ、九条」
南米案件の凍結だけではない。
魔石への急速な事業転換に伴い、三葉物産は既存資源部門の大規模な再編を進めていた。
案件専任のチームは解体され、投資計画の中止と人員削減を、株主へ早急に示す必要がある。
その中で、長期間にわたって南米案件の実務を取りまとめてきた俺は、退職勧奨の対象に選ばれた。
「お前のこれまでの働きは評価している。だが、この案件へ投じた資金と人員を、なかったことにはできない」
御堂は書類を指で叩いた。
「会社は、魔石関連事業へ経営資源を移す。既存の資源案件を抱えたままでは、巨大な船の進路は変えられない」
御堂は有能な男だ。
だからこそ、俺の能力を否定して辞めさせようとはしなかった。
陰謀でも、個人的な嫌がらせでもない。
会社が生き残るために、不採算となった部門と人員を切る。
ただの、冷徹な大企業の論理だった。
もし御堂が無能な上司で、理不尽な感情論だけで俺を追い出そうとしているのなら、徹底的に抗戦しただろう。
だが、商社マンとして会社の数字と論理を理解している俺には、その判断に経営上の合理性があることが分かってしまった。
分かることと、納得できることは別だった。
「配置転換の選択肢はありませんか」
「現時点では用意できない。魔石関連事業へ移る人員も、すでに選定されている」
俺は選ばれなかった。
過去の資源案件へ深く関わりすぎた人間より、最初から魔石市場だけを見られる人材を、会社は選んだのだ。
「……承知しました」
奥歯を噛み締め、内側に渦巻く悔しさを呑み込む。
提示された条件と書類を持ち帰り、専門窓口にも確認した。
そのうえで、俺は退職勧奨を受け入れた。
反論できなかったのではない。
残ったところで、自分に任される仕事も、取り戻せる案件もないと理解してしまったのだ。
三葉物産という巨大な看板から、俺の名前が外れた。
*
失ったのは、仕事だけではなかった。
退職から一週間後。
かつて二人でよく通っていた、落ち着いた雰囲気のカフェで、俺は婚約者だった七瀬美月と向かい合っていた。
「ごめんなさい」
テーブルの上に、婚約指輪が静かに置かれた。
美月の表情に、悪意や嘲笑はなかった。
ただ、冷静に現実を見据える大人の女の顔があった。
「誠を嫌いになったわけじゃないの。それは本当よ」
彼女の声は静かだった。
「でも……私は、これからどうなるか分からない未来に、自分の人生を預けることはできない」
三葉物産という看板を失い、次の仕事も決まっていない男。
そんな不安定な相手と予定どおり結婚し、人生を共にするリスクを、彼女は取らなかった。
安定した将来を思い描き、計算できる未来を選んだ。
それは、彼女なりの人生に対する責任だった。
「俺が、君を幸せにする保証を失ったからか」
「……そういう言い方はしないで」
美月が目を伏せる。
「でも、ごめんなさい。私には、あなたの隣で一緒に泥水をすする覚悟はないの」
俺は、何も言い返せなかった。
彼女を責める権利など、俺にはない。
俺自身が、数字と確率で物事を判断してきた人間だったからだ。
冷めていくコーヒーを見つめながら、俺は自分の人生が、これまで乗っていたレールから完全に外れたことを実感した。
*
それから、俺の生活は大きく変わった。
再就職活動は、想像以上に難航した。
魔石の登場で既存資源業界の投資計画は一斉に見直され、同業他社も採用どころか人員整理を進めていた。
俺が積み上げてきた南米資源案件の経験は、数か月前までなら高く評価されたはずだ。
だが今は、採算を失った旧市場の経験として見られる。
異業種へ応募すれば、今度は経歴と希望条件が噛み合わないと判断された。
大企業の看板を外した二十八歳の男に、次の席が自動的に用意されているわけではなかった。
当座の生活費を稼ぐため、俺は物流倉庫での日雇い勤務を始めた。
「おい、新人! そのパレット、奥へ運んでくれ!」
「はい!」
汗と埃の匂いが充満する薄暗い倉庫。
響き渡る作業指示と、フォークリフトの駆動音。
俺は安全靴を引きずりながら、重い段ボールが積まれたパレットをハンドリフトで運んでいく。
倉庫の仕事を見下すつもりはなかった。
誰かが荷物を運ばなければ、どれほど立派な契約書があっても、商品は顧客の手元へ届かない。
それは、商社にいた頃から理解している。
苦しかったのは、仕事の種類ではない。
自分で次の進路を選べないまま、今日の家賃と食費だけをつなぐ生活へ変わったことだった。
南米から日本への輸送ルートを組み上げていた俺が、今は目の前の荷物を、決められた棚へ運んでいる。
扱う規模が変わっても、荷物が正しい場所へ届かなければ仕事は終わらない。
そう考えて手を動かしても、自分が何者なのか分からなくなる感覚までは消えなかった。
休憩時間。
汚れた作業着のまま、倉庫の隅にあるパイプ椅子へ座り込む。
財布を開くと、かつて使っていた名刺が一枚だけ残っていた。
『三葉物産 資源部門 九条誠』
それを取り出し、自嘲気味に見つめる。
ほんの少し前まで、この一枚の紙には、億単位の金を動かすだけの信用が結びついていた。
だが今、その信用は俺個人のものではなかったのだと、嫌でも理解できる。
三葉物産という社名が消えれば、この名刺には何の力もない。
俺の能力まで消えたわけではない。
それでも、それを証明する場所と手段を失っていた。
このまま、誰かに決められた仕事をこなしながら、過去の肩書にすがり続けるのか。
会社を見返したい。
俺を切った御堂に、自分の判断がすべて正しかったわけではないと証明したい。
俺の将来を選ばなかった美月にも、何も残っていない男ではなかったと示したい。
そんな感情が胸へ浮かんだことは、否定できない。
だが、怒りだけでは金にも仕事にもならない。
今の俺には、戦うための市場も、商品も、資金もなかった。
*
深く息を吐き、名刺を財布の奥へ押し込む。
気分を切り替えるため、スマートフォンを取り出した。
安い缶コーヒーを流し込みながら、何気なく短文SNS『Cross』を開く。
タイムラインには、相変わらずダンジョンバブルに沸く世間のニュースや、探索者たちの投稿が溢れていた。
誰も彼もが、魔石を掘り当てて一攫千金を夢見ている。
そんな中、ある一つの投稿が俺の目に留まった。
『中層ソロ探索者 @mid_solo · 2分
また武器が折れた。これで今月三本目だぞ。
ダンジョンの中だと、普通の鉄の剣ってなんでこんなに持たないんだ?
三日で折れるとか、金がいくらあっても足りないわ』
その投稿には、いくつもの返信がついていた。
『帰還した新人 @newbie_return · 1分
分かる。俺の剣もすぐ刃こぼれした。
ダンジョンの中だと、普通の鉄が持ちにくいって噂、本当なのかも』
『救難待機班の人 @rescue_wait · 45秒
原因は分からないけど、武器の破損は本当に多い。
安物買いの銭失いになるだけだから、予備は多めに持っていけ』
普通の人間なら、これをただの現場の愚痴として読み流すだろう。
探索者なら、自分も同じだと共感するだけかもしれない。
だが、俺の中では、止まっていた何かが音を立てて再起動していた。
三日で折れる?
その言葉だけが、缶コーヒーの苦味よりも強く喉の奥へ残った。
休憩終了を告げる合図が鳴っても、俺はしばらく画面から目を離せなかった。
武器が、三日で折れる。
それが事実なら、探索者は継続的に買い替えざるを得ない。
必要としている人間がいる。
今の製品では、その必要を満たせていない。
――ニーズが、そこにある。




