第1話 S級探索者が土下座してきた
目の前で、艶やかな銀色の髪が大理石の床に広がっていた。
誰かが息を呑む音だけが、不自然なほど静まり返った空間に響き渡る。
場所は都心の一等地にそびえ立つ高層ビル。その最上階に位置する、重厚なマホガニーの円卓が置かれた特別会議室である。
同席しているのは、高級なスーツに身を包んだダンジョン協会の理事クラスや、大企業の役員たち。
壁際には、彼らを護衛する屈強なSPたちが控えている。
普段であれば、この国を動かす側の人間たちだ。
だが今、彼らは一様に顔を引きつらせ、床に額をつける少女と、俺の顔を交互に見ていた。
「どうか、お願いします」
沈黙を破ったのは、床に伏した少女の、絞り出すような声だった。
彼女の名前は、桐生陽菜。
日本ランキング三位に君臨する、正真正銘のS級探索者。
『白銀の陽炎』の異名を持つ彼女は、本来であれば、ここにいるスーツの大人たちが束になっても無視できないほどの力と影響力を持っている。
ダンジョンという人類の脅威の最前線に立ち、莫大な富と名声を得ている英雄。
そんな彼女が、無名の補給店を営む俺に向かって頭を下げているのだ。
「私専用の供給枠を、検討してください。必要な対価は支払います」
陽菜の声には、悲壮感が滲んでいた。
プライドも、周囲の目も投げ捨てて、装備の供給を求めている。
「今の装備のまま全力を出せば、私は死ぬ可能性があります」
その言葉に、周囲の大人たちの間へ再び動揺が走った。
彼らの視線が、まるで得体の知れないものを見るかのように俺へ突き刺さる。
この男は、S級探索者をここまで追い詰めるほどの何者なのか。
彼女の弱みを握り、裏でどんな条件を突きつけているのか。
彼らは、目の前の光景をそう誤解しているらしい。
だが、俺は至って冷静だった。
むしろ、彼らの過剰な反応の方が理解できない。
俺は本革の椅子に座ったまま、手元のタブレットへ視線を落とした。
表示されているのは、緻密に計算された試験体の製造予定と、検査工程の一覧だ。
「桐生さん。頭を上げてください」
静かな会議室に、俺の淡々とした声が響く。
「いくらお金を積まれても、今すぐあなた専用の供給枠を確保するとはお約束できません」
「そんな……」
陽菜が顔を上げる。
その端正な顔立ちには、隠しきれない焦りが浮かんでいた。
周囲の役員の一人が、耐えきれなくなったように口を挟んだ。
「おい、君! 相手はあの『白銀の陽炎』だぞ! 金なら協会側が用立てる。彼女に万が一のことがあれば、この国の防衛にも関わるんだぞ!」
権力を笠に着た、いかにもな物言いだった。
俺はタブレットから視線を上げ、静かに答えた。
「これは、感情や誠意、あるいは金額だけで解決できる問題ではありません。純粋な生産能力と、現行の検証・供給計画の問題です」
画面をスワイプし、各試験体へ割り当てられた工程を表示する。
「特急料金を払えば、他の人間を押しのけられるという商売にはしません。現在待っている仮予約者や、検証へ協力する一般探索者への供給機会を、地位や金額だけで恣意的に奪うことはできない」
まだ量産工程は存在しない。
納期を約束できる完成品もない。
だからこそ、限られた試験体を誰へ、どんな条件で渡すのかは慎重に決めなければならなかった。
「S級であることだけを理由に、一般向けの検証計画をすべて後回しにすることはできません」
冷たく聞こえるかもしれない。
だが、それが供給者の責任だ。
俺は陽菜へ視線を戻した。
「どうしても九条補給店からの供給が必要だというのであれば、協議のテーブルには着きます。ただし、条件があります」
「……条件を確認させてください」
陽菜は床から身体を起こし、俺の目を真っ直ぐに見た。
「必要な条件であれば、受け入れます」
先ほどまでの懇願とは違う。
自分の命を預ける供給契約について、自分の意思で判断しようとする、一人の探索者の目だった。
「第一に、一般向けの検証・供給計画へ不当な影響を与えない範囲での供給になること」
俺は指を折りながら、条件を並べていく。
「第二に、専用の試験工程と製造準備を維持するため、最低購入数を確約していただくこと」
陽菜は黙って聞いている。
「第三に、破損品と警告が現れた装備を返却し、どのような状況で使用したかを、製造改善に必要な範囲で報告していただくこと。この三点が基本条件です」
「供給数は、保証されるのですか?」
「いいえ。検査で基準を満たさなければ出荷しません。製造に失敗した場合まで、納品を保証することはできない」
「分かりました」
陽菜は即答せず、タブレットに表示された条件を一つずつ確認した。
言い値で装備を買うのではない。
自分が守るべき義務と、供給側が約束できる範囲を理解したうえで判断している。
「その条件で、正式な契約内容を協議してください」
周囲の大人たちが、息を呑んでいた。
日本トップクラスの探索者に媚びることなく、供給可能な範囲と使用条件を突きつける無名の男。
彼らには、俺が市場を意図的に支配し、S級の命すら手玉に取る冷酷なフィクサーのように見えているのだろう。
だが、陽菜の表情は違った。
特別扱いを求めても、安全や検査の基準までは曲げられない。
そのことを確認し、彼女はむしろ安堵したように息を吐いた。
「……お願いします」
「分かりました。ただし、今日ここで成立するのは、あくまで予備交渉です」
俺は念を押した。
「西原鋼業をはじめとする製造側と、専用仕様の検査工程や供給上限を確認する必要があります。正式な契約は、その条件をすべて書面へ落とし込んでからです」
「異論はありません」
陽菜が頷く。
この異様な光景。
日本のダンジョン産業の上位にいる者たちが、まだ量産すらできていない一つの補給店の装備を求め、会議室へ集まっている。
俺は冷めた頭の片隅で、少しだけ自嘲したくなるのを堪えた。
彼らは俺を、何か特別な存在だと勘違いしている。
卓越した先見の明を持つ天才か、あるいは冷酷な策士か。
だが、それはとんだ買い被りだ。
俺には魔法の才能など欠片もないし、モンスターと戦う力もない。
ただ、現場に何が足りないのかを見極め、それを安定して届ける仕組みを作ろうとしているだけだ。
商社マン時代に叩き込まれた、数字と契約のロジックを回しているにすぎない。
視線を窓の外へ向ける。
眼下には、見慣れた東京のビル群が広がっていた。
今の俺は、高層ビルの最上階で、S級探索者を相手に供給条件を詰めている。
だが、ほんの少し前まで、俺はこんな場所にいる人間ではなかった。
そう。
ほんの三か月前。
俺は埃っぽい倉庫の中で、段ボールを運びながらその日の生活をつないでいた、ただのリストラ男だったのだ。




