きっかけは意外と単純で
次の日から、仕事を頼まれた。与えられた、ではなく頼まれたと思うような言い方だった。最近そんな丁寧に頼まれたことのない俺が思わず頷いてしまうくらい。でも、俺は無償奉仕をしていて、そりゃ三食と住む場所は無料でもらっているが、給料を払ってない分丁寧になるのだろうとも思う。けれど、意外に悪くないと思う自分もいて。とりあえず、頼まれた仕事は時間がかかってもやることにした。仮に部屋に引きこもったとしてもここには何もなかったから、頼まれたことをするしかなかったともいえるのかもしれない。
頼まれる仕事は様々だ。洗濯ものをそれぞれの部屋にもっていくことだったり、配膳の手伝いだったり。電球を取り換えるとかもあった。介護する側もされる側も様々な年代の人がいた。俺と同じ年代で、病気には到底見えないくらい元気に見える人。お年寄りで車いすの穏やかな人。絵を描くのが好きで院内のどこにいるのかわからない人。そういえば、絵を書き始めたら何も気にしなくなるその人を探してきてほしいと言う仕事もあった。彼は見つけた時、もうそんな時間?と頭をかいていた。なんとなくそれからもよく話す。後、最初に会った少女に勉強を教えてやってほしいというような仕事もある。
「お兄さん、わかりやすいね。頭いい人?」
「昔、バイトで家庭教師してたからな。そのせいだろ」
「でも、誰に聞くより一番わかりやすいよ。ありがと」
問題集を持ち上げて、そいつはおーと声をあげる。ぱらぱらと見た以前のページよりは正答率がいいからだろう。教えていて思うのだが、少し思考がどこかへ行きやすいだけで頭が悪いわけじゃない。そこにどうやって興味を持っていくかがカギとなるタイプの人間なのだろう。
「俺は教えただけだ。やったのはお前だろ」
「教えてくれなかったらできなかったよ?だからありがとう」
「…べつに」
俺が視線を逸らしてもそいつはにこにことしていた。本当にうれしそうに。点数が上がるだけで喜ばなくなったのはいつからだろう。他人の点数を気にするようになったのは、そんなことを考える自分がおかしい。世の中あくまでも競争社会だ。蹴り落とさなければ、蹴り落とされるそういう世の中で、こんなまま成長できるはずがない。そう、それが真実だ。そいつの勉強が終わると、俺は外に出た。外の蛇口にホースをつけるが、蛇口をひねる前に俺はその辺りを注意深くきょろきょろと見まわした。
「…今日もか」
違和感として目に入ってきたのは垣根の下から伸びるパジャマに包まれた二本の足。俺はため息をついてそれに近づき、その足を思い切り叩く。
「うわっ」
「おっまえ、いい加減にしろよ。もうちょっと人目につくところで描け。子供がかくれんぼしてるわけじゃねぇんだから。俺じゃなかったら水撒かれてたぞ」
「ごめんごめん。つい。ここから見える海いいんだぞー」
「良い悪いは聞いてないがな」
俺が呆れても、茂みの下から顔を出した奴はほけほけと笑う。しまりのない笑みに溜め息。奴は初めて会った時に高村望と名乗った。なんでも現役の画家らしい。死ぬまで描きたいといつだったか奴は言っていた。
「お前、そんなとこでなんか起こったら死んでても見つけてもらえねぇぞ」
「大丈夫、大丈夫」
「大丈夫そうにみえねぇから言ってんだろ」
がしがしと頭を描いていると、奴は茂みの下に持ち込んでいた絵具一式などを引っ張り出していた。少し浮世離れしたところが昔の友人に似ていてどうも目が離せないのだ。
「大丈夫だよ。君はこうして見つけてくれてるじゃん」
「ずっと俺がここにいるわけじゃねぇぞ」
「俺が死ぬまでいないとも限らないでしょ」
俺は面食らった。こいつを含めた何人かはこうして軽く死を口にする。疲れている感じも絶望した感じも見受けられないのに。目の前にあることとして死を口にする。それに俺は慣れることなく揺らいでしまう。もし慣れることができるとしてももっと先のことだろう。恋人を事故で亡くす以前は、死にたいとか殺してやるとか簡単に口にできたのに。もちろんそんなのいい言葉ではないが。今では聞くことにさえビクついてしまう。
「あんまり、軽々しく言うな」
「ごめんごめん。君って見かけによらず繊細だよね」
「お前は本当に一言余計だ」
凄んで見せても、あはは、と軽く笑う奴にどうしても力が抜ける。はぁ、とため息をつくが、奴は相変わらず笑うばかり。
「でもさ、仕方ないでしょ。受け入れないと、自然現象だもん」
「それでも、」
「それでも、だよ。じゃないと残り時間計り間違えるし。計り間違えたら好きなこと出来る時間減るし」
突然真面目なことを相変わらずな気の抜けた笑顔で言う奴に思わず俺の動きが止まる。
「俺はやりたいことやってたいし。だから現実とちゃんと向き合わなきゃいけないんだよ」
へらへらと笑う奴の方が俺よりよほどしっかりしている。苦くて、辛くて、感情がごちゃごちゃだ。
「俺にとって死は恐れるものじゃない。でもいやおうなく期限は決めてしまうから。きちんと向き合ってその期限まで俺は俺がやりたいことをやりきる。病気になって、治らないって言われてからからそう決めた」
奴はいつもの気が抜けた笑顔じゃなく、しっかり笑った。覚悟も腹も決めた。強い笑み。
「それから、味気なかった世界が輝いて見えた。今までなんでもない。いつでもあるって思ってた物がそうじゃなくなった途端だよ。人間って馬鹿だよねー。失くすことになって、失くして初めて自分が持ってた物の大切さに気付く。持ってるうちに気付けたらいいのにさ。いつでも、なんでも気付くのは失くしてから。もし、神様がそういう風に人間を作ったならすっごい意地悪だよね」
「そう、だな…」
苦く同意した俺に奴は少し表情を戻す。どこかやさしく、慈しむような笑み。それは俺の胸をついて、大声をあげてしまいたいほど苦しくさせる。
「君も同じ経験があるんだね」
「…あぁ」
ここで嘘を吐くのも違う気がして、頷いた。そっか。奴はそういうと俺からあっさりと視線を外して垣根の向こうの海に向ける。
「海ってさー。大きいよねー」
「は?…まぁ、そうだな」
怪訝な声で問い返した俺に奴は少し視線を向けただけですぐに海に視線を戻した。そのくせ、続きを言わないから仕方なく同意する。こいつは俺が反応しないと沈黙を保つくせに返事を無言で要求するから少しやりづらい。
「海見てると人間ってちっぽけだなぁって思うよ。…ベタだけど」
「本当にベタすぎるほどベタだな」
「あはは」
奴は軽く笑った。わざとではなく、素直に。本当に自分に素直に生きていることがうらやましくもある。
「海は悠久の時を経てもそこにある。それから見たら人間の人生なんて短くて、人間のできることなんてちっぽけで。争いごともくだらないと思う」
「お前、ときどきついてけない」
「よく言われる。だけど、もう気にしないことにした。これが俺だから。変えられないくらい俺はこうだから」
もう何も恐れないとでも言うような姿勢は眩しく、うらやましく。少し妬ましい。
「今更変えたって仕方ないしね。俺は俺だ!って言えるくらい俺でいたい。なんか日本語変だわ」
自分の言った言葉に奴はけらけらと笑いだす。文法的にはどこかおかしいが、言いたいことはなんとなく伝わった。
「藤野君に言ったら微妙な顔されたけど、君はわかるんだね」
「なんとなくだけどな」
「でも、そうだと思った」
「そっか」
「うん。そうだ」
彼はその後しばらく何も言わなかった。俺も何も言わない。必要性がないと思った。そんなに長い時間一緒にいるわけじゃない。なのに、昔からの友人のように、話さない時間でも居心地は悪くない。
「そのうちさ」
「あ?」
「もらってよ。俺の絵」
「あぁ」
奴の絵を見たことはない。毎日描いているなとは思いながら、俺に見せようとしないものを見る気がなかった。
「君にあげたくなった。だからもらって」
「…そうか」
「うん。俺の生きた証。持っててほしくなった」
その言い方はどこかせつない。生きた証。それは亡き恋人が良く口にしていた言葉だった。同じ一瞬はこないから、一瞬一瞬に自分が生きた証を刻みつけるんだ。そう言って浮かべた笑顔はなによりも輝いて愛しかった。
「俺が死んだあとは好きにしていいよ。煮ようが焼こうが」
「さぁな」
どうするかな、と言葉を濁せば、奴はへにゃり、と笑った。気休めの言葉はいらない。常々そう言う奴には曖昧で不確かな言葉の方がいいらしい。良くわからない。
「だけど、お前のそういうところ、嫌いだ」
「言うと思った」
でも、いいんじゃない?奴はそんな風に笑う。そういう空気は嫌いじゃない。俺は小さく笑って、奴に退くように言うと蛇口を捻る。ホースの先を押さえて広範囲に散布させると、水は光を反射してきらきらと光った。
「きれーだな」
「…そうだな」
こんな些細なことに綺麗だと言える感情が羨ましいと思う。俺はそんな感情をどこかに置き去ってきてしまったから。
「あ、虹」
「お」
すげぇな、自然に笑みが浮かんだ。奴も笑っている。俺はこんな時間が嫌いじゃなかった。だから、めんどくさいとか言いつつも庭の水撒きを頼まれるたび、奴を探したんだろう。




