あなたへの帰り道
人生は、静かに壊れていくことがある。
大きな音を立てるわけでもない。
突然すべてが終わるわけでもない。
小さなひびが少しずつ広がり、
気づいた時には心が崩れそうになっている。
そんな時、人は思う。
自分はひとりだと。
誰もここまで来られないと。
距離が遠すぎるのだと。
けれど――
心の奥深くに住み着いた人は違う。
街が離れていても。
何百キロ離れていても。
涙で前が見えなくても。
その人は必ず帰ってくる。
時には言葉で。
時には思い出で。
そして時には、
本当に会いに来る。
これは、大切な人のもとへ向かう物語。
不安を抱えながらでも。
傷つきながらでも。
それでも歩き続ける物語だ。
なぜなら――
帰る場所と呼べる人がいるから。
数分が何時間にも感じられた。浴室には再び静寂が訪れ、聞こえるのは蛇口から滴る水滴の音と、亮太郎の荒い呼吸音だけだった。
5分。
10分。
20分。
時計が30分を告げた時、亮太郎ははっと目を覚ました。鉛のように重く、手がズキズキと痛む。手を見ると、ところどころ血が固まり始めていた。保健室に行くことにした。出かける前に、大きな破片を手で引きちぎった。下唇を強く噛みしめ、皮膚が破れそうになった。それが終わると、トイレットペーパーを乱暴に手に巻きつけ、外に出た。幸い、外で待っている人はいなかった。
歩きながら、怪我をした手をズボンのポケットに入れ、隠そうとした。感情や表情を隠すように訓練された彼の顔は、無表情を保っていたが、内心は激痛に叫んでいた。しかし、視界の端がぼやけ、呼吸は乱れていた。彼は危うくバランスを崩し、壁にもたれかかった。部屋は空になり始めたが、誰も彼に注意を払ってはいなかった。それでも、遠くから誰かに見られているような気がした。すでに高鳴っていた心臓は、さらに速く鼓動しているように感じた。角を曲がると、青い文字で書かれた保健室の黄色いドアが見えた。開いていた。
大阪大学の保健室は、六本木高校の保健室より少し小さかった。ストレッチャーが2台、包帯や絆創膏などが入った棚が3つ、そして小さな受付カウンターがあり、そこには白髪交じりの黒髪で、まばらな髭を生やした看護師が座っていた。
「ん?」と彼は言った。「あ、こんにちは、坊や!大丈夫ですか?」
「まあまあです、先生」と亮太郎はポケットから手を出して答えた。「ちょっと…事故に遭って…」
看護師は血のついた手を見ても驚いた様子もなく、ただ立ち上がり、ストレッチャーに座るように促した。彼は包帯を外し、専門家の目で傷口を調べた。指と関節に小さなガラスの破片が刺さっているのに気づいた。
「麻酔をかけましょうか?」と看護師が尋ねた。
「いいえ」と亮太郎は答えた。「大丈夫です」
「本当に大丈夫ですか?」
「もちろんです」
看護師は肩をすくめ、ピンセットを手に取り、破片を取り除き始めた。亮太郎は目をぎゅっと閉じ、拳を握りしめ、叫び声を必死にこらえた。
「どうしてこんなことになったの?」と看護師が尋ねた。
「僕…ちょっとパニックになって…鏡を割ってしまったんです」と少年は小声で呟いた。
「どんなパニックだったの?不安?ストレス?パニック?」
「たぶん…全部同時にだったと思います」
看護師は何も言わなかった。破片を取り除いた後、傷口に生理食塩水を塗った。冷たい液体がしみ、良太郎の腕はかすかに震えた。その後、彼は糸と針を手に取った。
「縫合が必要です」と看護師が告げた。「大丈夫ですか?」
「ええ」と彼女は小声で答えた。
看護師は外科医のような手際で傷口を縫合した。最初の針が皮膚に刺さると、亮太郎は震えるような重いため息をついた。針が皮膚に出入りする感覚は慣れ親しんだもので、暗い夜、肉体的な痛みだけが彼の暗い心の中で唯一はっきりと感じられたものだった頃を思い出させた。
「10針です」と看護師は糸を切り、縫合部分に滅菌ガーゼを当てながら告げた。「きれいな傷跡にはなりませんが、きれいに治りますよ。」
「はい」と亮太郎は無表情に呟いた。
その後、看護師はガーゼの上から包帯を巻き、きつく締めすぎないように注意した。処置が終わると、包帯を巻いた手を軽く叩いた。
「48時間は手を濡らさないようにしてください。もし熱が出たり、赤くなったり、膿が出たりしたら、すぐに戻ってきてください。感染症の可能性があります。」
「はい。」
静かな少年はストレッチャーから降り、ドアに向かった。看護師は去る前に言った。「坊や…もし話したいことがあったら、難波に私の個人診療所があるわ。あの住所よ。」
良太郎は看護師が指差した方向を見ると、壁に「伊藤明 臨床心理士」と書かれた紙と電話番号が貼ってあるのが見えた。
「ありがとうございます」と彼は小声で呟き、部屋を出た。
保健室を出ると、廊下は再びがらんとしていた。授業が早く終わって食堂で勉強している数人の学生がいるだけだった。その日は最後の授業が一つだけだったが、彼は遅刻していた。彼はできる限り速く歩き、到着すると失礼して中に入った。隣にいた由美は友人の包帯を巻いた手に気づいたが、今は何も言わないことにした。
授業が終わると、良太郎と友人たちは校門へと向かった。途中で由美がようやく尋ねた。「どうしたの、手?」
「ちょっと…発作が起きたんだ」と良太郎は目をそらしながら答えた。
「危機?」
「トイレにいた時…パニック発作みたいな感じで、不安とストレスが全部一緒に襲ってきたの。」それで…鏡を割っちゃった。
―え?鏡を割ったの?
―そう言ったでしょ。
―弁償しなきゃいけないって分かってるよね?
―金持ちだから大丈夫。
―じゃあ、柳井忠。私のアイデア…まだ聞きたい?
―うん。
―実は、それともう一つアイデアがあるんだ。
―どうぞ。
―まず一つ目…今日、愛子に会いに行ってあげたらどう?
―美羽?今日?
―そう!週末まで一日も待たせるなんて、美羽にはもったいない。美羽のために行ってあげて。
―ユミ、授業はどうするの?
―マコトと私が代わりに授業に出るから、心配しないで。
―え? 「――」後ろから、真琴が戸惑った様子で言った。「僕の名前が聞こえた?」
「教えてあげるわ、友よ」と由美は振り返り、ウインクしながら言った。「二つ目の案は…愛子を海に連れて行くことよ」
「海?」と亮太郎は二度瞬きして繰り返した。
「そうよ!沖縄に連れて行って!鎌倉でもいいわ、どっちでもいいわ」
「でも…今は春だし!あまりいい時期じゃないわ…」
「今じゃなくてもいいのよ。夏休みに連れて行けばいい。一週間か二週間滞在して、それから東京に戻ってくる。いい考えでしょ?」
「ほら…悪くないわ。むしろ…かなりいいわ」
「じゃあ、そうして!私を信じて、愛子はきっと喜ぶわよ!」
亮太郎は携帯電話を取り出し、JRアプリを開いた。東京行きの電車は午後7時30分発で、到着は午後10時10分。遅いが、待つ価値はある。切符を買う直前、彼の指は画面上で止まった。胸が締め付けられるような感覚に襲われた。悲しげで弱々しい愛子の姿が脳裏に浮かんだ。彼女を助けられないのではないか、彼女はあまりにも傷ついていて、自分にはどうすることもできないのではないかと、彼は恐れた。
しかし、彼は自分に言い聞かせた。愛子を救う。たとえ自分の力の全てを捧げることになっても。そうして、彼は切符を買った。
「よし」亮太郎は肩をすくめて言った。「行くぞ。後悔する前に。」
「頑張れよ!」由美が励ました。「彼女を再び黄金のプリンセスにしてあげて!」
彼は頷き、家に向かって走り出した。愛子と過ごす4日間。彼女を助けるための4日間。
彼はこの時間を無駄にするつもりはなかった。
東京・六本木。愛子の家、午後11時30分。
愛子はまだ眠れずに、恋愛アニメを見ていた。気を紛らわせようとしたのだが、涼太郎がいない寂しさは募るばかりだった。3話目に入ると、もう涙が止まらなくなっていた。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。もう遅い時間なのに、来客の気配はなかった。声を震わせないようにしながら、愛子は言った。「明日また来て。ミカでも綾瀬でも、出ないから!」
「じゃあ、僕は?」ドアの向こうから、聞き覚えのある声がした。
愛子の心臓は一瞬止まり、それから激しく鼓動し始めた。
愛子は慌てて立ち上がり、ドアにたどり着くまでに何度も転びそうになった。手が震えて、ドアノブを回すのもやっとだった。しかし、ドアを開けると……そこにいたのは……。
佐藤涼太郎。
愛子の涼ちゃん。
「涼……ちゃん?」彼女は信じられないといった様子で囁いた。
「やあ、愛しい人」涼太郎は彼女に会った時だけ見せる、あの愛らしい笑顔で囁いた。「寂しかったかい?」
愛子は言葉で答えなかった。
まるで磁石に引き寄せられるように、彼女は彼の腕の中に飛び込んだ。あまりの勢いに、涼太郎は倒れないように一歩後ろに下がらなければならなかった。少女は彼の胸に顔を埋め、泣き出した。それは抑えられた、美しい泣き声ではなかった。魂の奥底から湧き上がるような、激しく、醜く、絶望的な泣き声だった。
「涼ちゃん…」彼女はすすり泣いた。「私の涼ちゃん…帰ってきたのね…」
「帰ってきたよ、愛しい人」彼は囁き、彼女を抱きしめる力を強めた。「帰るって言っただろ」
その瞬間、夜の冷気も、風も、未来も…何もかもがどうでもよくなった。二人は、幾日にもわたる苦悩と切望を込めた抱擁の中で、ただそこに存在していた。
「ど、どうして?」彼女はどもりながら、彼の目を見つめるために少しだけ身を離した。「どうしてここにいるの?」
「前に話したサプライズを覚えているかい?」涼太郎は尋ねた。「駅が関係するやつ?」
「覚えてる…あれだったっけ? あなた自身が?」
「僕だよ。これ以上のサプライズってあるかい?」
「もちろんないわ」
愛子は心からの、涙ぐんだ笑い声をあげ、二人はキスをした。それは長く、激しく、情熱的なキスだった。キスを終えると、二人は互いの額を寄せ合った。
「愛してる」愛子は囁き、その瞳はかつてないほど輝いていた。
「僕も愛してる」涼太郎はそう答え、恋人のしつこい涙を拭った。
まだ、これから先は長い道のりだった。愛子と亮太郎にはまだ癒えるべきことや立て直すべきことがたくさんあったが、二人は久しぶりに、少なくとも今は、すべてがうまくいくかもしれないと感じていた。
ブラック・ファントムは消えていない。
不安も消えていない。
愛子の苦しみも終わっていない。
現実はそんなに簡単ではないからだ。
一度の会話ですべてが治ることはない。
一度の抱擁ですべての傷が消えることもない。
愛だけで苦しみをなくすこともできない。
けれど――
愛には別の力がある。
苦しみを分かち合う力だ。
良太郎は長い間、
自分は重荷だと思っていた。
人を不幸にする存在だと思っていた。
ひとりで生きるしかないと思っていた。
しかし、
愛子があの扉を開いた瞬間、
ひとつの真実が明らかになった。
彼女は完璧な人を求めていたわけではない。
英雄を求めていたわけでもない。
すべてを解決してくれる誰かを求めていたわけでもない。
ただ、
良太郎を求めていた。
それだけだった。
人は時々、
特別にならなければ愛されないと思い込む。
けれど本当は、
そばにいることだけで救いになることがある。
二人の戦いはまだ終わらない。
回復への道も続いていく。
それでも今は、
もうひとりではない。
それだけで、
未来は少しだけ優しく見えるのだ。




