君は私だ。
人前で起こる戦いもある。
そして、誰にも見えない場所で起こる戦いもある。
傷跡も残さず、悲鳴も聞こえず、世界の流れを止めることもない。
それでも、その戦いは最も過酷だ。
なぜなら、それは自分自身の心の中で行われるから。
どれだけ前へ進んでも、過去の自分は消え去るとは限らない。
弱った瞬間を。
恐れた瞬間を。
迷った瞬間を。
ずっと待っている。
そして再び現れる時、それは鎖や刃を持って現れるのではない。
自分自身の声を使って現れるのだ。
この章で、良太郎は知ることになる。
癒えた傷が、必ずしも消えたわけではないことを。
時には――その傷が語り始めることを。
大阪大学。同じ時間。
授業中、亮太郎は教授の話を全く聞いていなかった。彼の心は遥か遠く、秋葉原の診療所に飛んでいた。紀子は彼と一緒にいなかった。彼女の授業は物理だった。
「佐藤くん?」教授が声をかけた。「ちゃんと聞いてる?」
「ん?」と、彼はぼんやりとした状態から我に返った。「すみません、ちょっと分からなくなってしまいました。もう一度言っていただけますか?」
教授はやや諦めたようにため息をつき、もう一度説明した。亮太郎はできる限り集中しようとしたが、どうにもならなかった。由美がそっと振り返り、低い声で尋ねた。
「どうしたの?いつもよりぼんやりしてるみたいだけど。」
「愛子が…」亮太郎は小声で答えた。「今日、心理療法士のところに行ったんだ。」
「うわっ」ユミは教授がこちらを見ているか確認するように視線を向け、小声で言った。
「もし彼女が怒ったらどうするつもりなの?」
「週末に会いに行くよ」と教授は説明した。ユミは考え込むように頬を指でトントンと叩いた。何か思いついたようで、小声で言った。
「いい考えが浮かんだ。授業の終わりに教えるね」
リョウタロウは頷き、授業に集中し直した。ノートを見ると、書き込みが不十分で、隅に金色の目の絵が描かれていた。彼はため息をついた。
「ちくしょう」と苛立ちながら思った。
胸が締め付けられ、呼吸が少し速くなった。彼の心は、歪んだ声で囁き始めた。
「君には彼女を助けられない」「彼女は君のもとを去る」「彼女は姿を消す」
考えが頭の中を支配し始め、彼は部屋を出てトイレに向かわざるを得なかった。トイレに着くと、彼は壁にもたれかかり、両手で頭を抱えた。涙をこらえようとしたが、静かに涙が頬を伝った。
すると、彼の声と瓜二つの声が、彼の心の中で笑い始めた。彼は鏡を見上げ、そこに映っていたものを見た。
自分ではない。何か別のもの。
もう一人の自分。
くすんだ灰色の瞳。
色褪せた黒いパーカーにフードを被っている。
歪んだ笑みを浮かべた顔。
黒い幽霊。
「おめでとう!」彼はゆっくりと手を叩きながら、一音一音を強調して言った。「君は全てを手に入れた!だが、もう何も残らない!」
「お前…」涼太郎は鏡に近づきながら唸った。
「お前を置いていったわけじゃない、愛しい人。ただ、適切な時を待っていただけだ。」
トイレは静まり返り、遠くで蛇口から水が滴る音だけが響いていた。しかし、良太郎の心の中では、まるで地獄の太鼓が鳴り響いているかのようだった。彼の目はもはや自分のものではなかった。黒い幽霊の笑みは歪んでいた。
「彼女は君のもとを去るだろう」と、鏡像は顎に手を当てて囁いた。「君はそれをよく分かっている。ただ認めたくないだけだ。君は重荷、足かせだ。彼女はまだそれに気づいていない。」
「黙れ…」彼は囁いたが、声は震えていた。
「ああ、今更黙るつもりか?本当のことだと分かっているだろう。君が何をしたか見てみろ!黄金の姫君が、粉々に砕け散った!目の下にはクマができ、髪はパサパサだ!全部君のせいだ!」
良太郎は拳を強く握りしめ、爪が皮膚に食い込んだ。呼吸は荒く、不規則になった。
「僕のせいじゃない」彼は反論しようとしたが、声には自信がなかった。 「彼女がこんな風なのは、僕がいなくて寂しいからなんだ!」
「本当にそうなのか?彼女は本当に君がいなくて寂しいのか?それとも、心の底では君がいなくてホッとしているだけなのか?」
物静かな少年は顎を食いしばり、目が光った。しかし、それは黒幽霊の笑みをさらに深めるだけだった。
「警告しただろう?」「いつか君は触れるもの全てを破壊するだろうと」
「嘘だ!」少年は震える声ながらも、力強く叫んだ。「僕は東京に行く!彼女を助けに行くんだ!」
「本当か?本当だって!?」「ああ、涼太郎、君は面白いね。君にできることといえば、彼女が衰弱していくのをただ見守りながら、可愛いメッセージを送り続けることだけだ。彼女は東京で、悲しそうにしている。ブー!ブー!ブー!」
「やめろ…」物静かな少年は叫び、震え始めた。
―それで、誰が彼女を助けるか知ってる? あなたじゃない。違う、違う。彼女の友達だよ。ミカ、アヤセ、ユウタ、ジュン、ナタリア、カイト、マヒナ。心理学者も彼女を助ける。でも、あなたじゃない。なぜだか分かる? なぜなら、あなたは病気だから。癌だ! あなたは、私だ!!
涙でいっぱいの瞳をした良太郎は、うつむいた。一瞬、浴室に静寂が訪れた。涙が流れ落ちるのを見て、黒い幽霊は笑い出した。最初は低い笑い声だったが、やがてヒステリックな笑いに変わった。静かな少年は、目に怒りを燃え上がらせ、叫び声をあげて鏡を殴りつけた。鏡は粉々に砕け散った。少年の手は震え、腕を引っ込めると、拳にはガラスの破片がびっしりと詰まっていた。彼は膝から崩れ落ちた。絶望的な声で泣き叫んだ。
「出て行け…」彼は弱々しくどもりながら言った。「出て行け…俺の頭から…」そして、涙と血が混じり合う床に両手を置き、囁いた。
「お願い…放っておいて…静かに…」
彼は再び手に持った破片を見つめた。決意に満ちた表情で、左手で破片の一つを拾い上げ、力強く引きちぎった。涼太郎は激痛に叫び声を上げ、さらに泣き出した。もう一本抜こうとしたが、手が震えすぎて抜けなかった。息を荒くして、ついに気を失った。
ブラック・ファントムは、ただのあだ名ではない。
ただの過去でもない。
ただの仮面でもない。
それは孤独から生まれた。
罪悪感から生まれた。
喪失から生まれた。
そして、自分には愛される価値がないと信じ続けた年月から生まれた。
だからこそ、簡単には消えない。
苦しみがつく最も恐ろしい嘘は、
「それが真実だ」
と思わせることだ。
この章でブラック・ファントムが使った武器は力ではない。
疑いだった。
恐怖だった。
罪悪感だった。
そして、
「お前は愛するものを傷つける存在だ」
という古い呪いだった。
しかし、この章には大切なことがある。
良太郎は泣いた。
崩れた。
傷ついた。
それでも――受け入れなかった。
彼は戦った。
時に、自分自身の怪物と向き合う戦いでは、
戦い続けることそのものが勝利になる。
勇気とは、倒れないことではない。
何度倒れても、
立ち上がろうとすることなのだから。




