手をかけてこなかったのでしょう
王妃宮から来た馬車に乗ったのは、私とグウェンの二人きりだった。
申し立てをした者は、当主とは馬車を分けて呼ばれる。そういう慣例なのだと、迎えの従僕が教えてくれた。父と母は家の馬車で、私たちより少し後に着く。侍女は謁見の間に入れない決まりで、グウェンは王妃宮の控えの間で待つことになっていた。
柔らかい座席の上で、私は膝の上の手を組んで、言うことを一つに決めた。
三回言う練習なら、小さいころから十一年してきた。一回で言う練習は、したことがない。何を聞かれても、言いたいことは一つしかない。それを、言い直さずに言う。吹雪の中で、二回目が届かないつもりで。
王宮の門をくぐる頃には、決まっていた。
* * *
通された謁見の間は、玉座の広間を想像していた私には、拍子抜けするほどこぢんまりしていた。高い窓から、春も終わりの日が差し込んでいる。壁沿いに女官たちが並んでいる。陛下の椅子の少し後ろには、紋章院の書記が、両腕でやっと抱えるほどの帳を持って立っていた。
父と母は、私に続いて入ってきた。母の陰に、ジニーの顔がのぞいている。家に一人で置いていかれるのは嫌だと泣いて、ついてきたのだろう。
縁組の相手として呼び出されたダンカン様が、私の隣に並んだ。私を見下ろして、何も言わずに一度だけ頷く。それで足りた。
「ペンローズ伯爵」
陛下のお声は、柔らかかった。
「ウィラ嬢とストラウド辺境伯の縁組に同意しない理由を、聞かせてちょうだい」
父は深く頭を下げた。
「ウィラは、聞き分けのいい娘です。家には、あの子が要ります。下の娘は手がかかりますので、ウィラがおりませんと」
「下の娘御の世話のために、上の娘御の縁組を止める、と」
「……家の事情でございます」
「そう」
陛下は膝の上で、組んでいた指をほどいて、組み直された。
「わたくしは、春の舞踏会の夜、壇の上から見ておりました。一曲目の前、ウィラ嬢はあなたのそばで三度、口を開きましたね。あなたは一度も振り向かずに、下の娘御の手を取って、広間の真ん中へ歩いて行った」
父の顔が、見る間に白くなった。
(ご覧になっていた)
お披露目のとき、陛下が銀糸の裾に目を落とされた気がしたのは、気のせいではなかったのだ。
「ウィラは、手のかからない子なのです」
黙っていられなくなったのか、母が横から言った。
「昔から、何も欲しがらない子で。ですから、ジニーを先に――」
「伯爵夫人」
陛下のお顔が、母のほうを向いた。
「手がかからないのではなく、手をかけてこなかったのでしょう」
部屋の中から、音という音が消えた。女官の一人が、そっと目を伏せた。母は唇を開いたまま、続きを言えずにいた。ジニーが母の袖を引いたけれど、母は振り向かなかった。
「もう一つ」
陛下は、後ろの書記に目をやった。
「縁組には、婚資の預けが関わります。紋章院の帳を持たせました。読みなさい」
書記が帳をめくった。古い紙の、乾いた音がした。
「先代ペンローズ伯爵夫人イモジェン様より、金貨三百枚のお預かり。使い道は『孫娘ウィラの婚資として』」
息が、喉のところで止まった。
そんなものがあることを、私は一度も聞かされていなかった。祖母は私にお金を出してくれたことがない。タルトの代金も、私の貯金箱から出させた人だ。その人が、私の結婚のために、金貨を三百枚。
「お引き出しがございます。いずれも当主ペンローズ伯爵のご署名です。ポニーの代金、辞めた家庭教師たちへの謝礼と違約の金、東方の磁器の壺の弁償、今年の春の衣装の代金。合わせて、金貨百二十枚」
私は、読み上げられたものを順に思い返した。
ポニーは、ジニーが乗って落ちて、腕を折った子だ。家庭教師は、ジニーが追い出した先生たち。東方の壺は、ジニーがよそのお茶会で割ったもので、先方への謝りの手紙は三通とも私が書いた。衣装は、この春ジニーが仕立てさせたドレスに違いない。
私が嫁ぐときのためのお金は、そのたびに、ジニーのところへ流れていた。
(林檎のタルトと、同じ)
最後の一切れは、いつもジニーの皿へ行った。祖母の三百枚も、同じ道をたどっていた。
「家のためでした」
父の声は、ひび割れていた。
「遺言に背く引き出しです」
陛下のお声は、最初と同じ高さのままだった。
「婚礼までに、全額を戻しなさい」
そこで陛下は、はじめて私をまっすぐご覧になった。
「ウィラ嬢。あなたの申し立ては読みました。けれど、あなたの口から聞いておきたいの。あなたは、何が欲しいの」
何が欲しいかと人に尋ねられることは、祖母がいなくなってから、一度もなかった。
馬車の中で決めてきたことを、私は一回で言った。
「ストラウド辺境伯様と結婚して、北へ行きたいです」
陛下の口元が、わずかにほころんだ。
「一回で言えるのね。結構です。ウィラ嬢の縁組への同意は、わたくしの名で代えます。ストラウド辺境伯、異存はありますか」
「ありません。陛下に感謝いたします」
ダンカン様が頭を垂れ、私も隣で膝を折った。
そのとき、ジニーが泣き出した。
「嫌よ! お姉様がいなくなったら、誰が私の謝りの手紙を書くの! 誰が先生に謝りに行くの!」
女官たちが、一斉にジニーのほうを見た。誰もが、まったく同じ顔をしていた。
母はジニーの肩を抱き寄せてから、私に目を向けた。
(一回目)
「ウィラ、帰ってきて。ジニーが手に負えないの」
(二回目)
「ウィラ、家に戻りなさい。話はそれからだ」
父が言った。
(三回目)
「お願い、ウィラ。帰ってきて」
母が、もう一度言った。
私は顔を上げた。
「三回、伺いました。三回とも、ちゃんと聞きました」
母の肩から、ふっと力が抜けた。
「お断りします」
抜けかけた力が、そこで固まった。
「お父様もお母様も、聞き分けのいい方ですから。わかってくださいますね」
父も母も、言葉を返さなかった。部屋に聞こえるのは、ジニーのしゃくりあげる声だけだった。
陛下が、小さく喉を鳴らされた。
「ジニー嬢」
ジニーの肩が跳ねて、顔が上がった。
「秋から、王都の女学院の寄宿舎にお入りなさい。わたくしから口を利いておきます。自分の身の回りのことを、自分でするところから習うといいわ」
* * *
謁見の間を出ると、長い回廊に春の終わりの光が斜めに差していた。
ダンカン様は、私の歩幅に合わせて歩きながら、一回だけ聞いた。
「北へは、いつ発てる」
私は数えた。マダムの店へ行く日。荷造りの日。屋敷の机に残した手紙の束を、片付ける日。
「四日あれば」
「では、四日後の朝に迎えに行く」
回廊の先の控えの間の扉が開いて、グウェンが私を見つけ、ハンカチを握ったまま立ち上がった。




