お受けします、と言いたいのです
舞踏会の翌朝、まだ朝食の皿が並びきらないうちに、玄関へ箱が届いた。
受け取ったのはグウェンで、届けに来たのは、北の訛りのある無口な若い従者だったという。箱の上のカードに、一行だけ、四角い字が並んでいた。
午後二時に伺う。ダンカン
蓋を取ると、林檎のタルトが一つ、切らずに丸ごと入っていた。焼き上がってまだ間がないらしく、湯気が立っている。昨夜、踊りながら一度だけ口にした、あのタルトだった。
(一回、話しただけなのに)
「わあ、タルト! 私が先に食べる!」
ジニーが椅子から身を乗り出した。母はもうナイフを握っていて、いつもどおり、切った最初の一切れをジニーの皿へ移そうとしている。
その前に、グウェンが箱ごと持ち上げた。
「奥様、こちらは辺境伯様から、ウィラお嬢様にと承っております。届けに来た従者の方が、そう念を押していかれました」
母のナイフが、宙で止まった。
グウェンは箱を私の前へ置き直して、自分でナイフを入れ、最初の一切れを私の皿に移した。この食卓で、林檎のタルトの最初の一切れが私のところへ来たことは、一度もなかった。口に入れると甘くて、まだ温かかった。
次の一切れは、私が切ってジニーの皿に置いた。ジニーは、今度は床に落とさなかった。父は新聞を顔の前に立てたまま、一度だけ咳払いをした。
* * *
昼前になると、母はジニーの着替えに取りかかった。
「辺境伯様は、昨夜ジニーをご覧になっていたのよ。ウィラと踊ったのは、ウィラから申し込んだからでしょう。お断りになれなかっただけよ」
母の頭の中では、話はそういう筋になっているらしかった。
「でも、北なんて寒いところ、嫌よ。お母様、私、王都にいたい」
「大丈夫よ。ジニーが行くなら、お母様もついていくわ」
私は客間の隅の小机に向かって、八人目の家庭教師への引き継ぎを書いていた。ジニーがどこまで進んで、どこで何を投げたか。地理は北の山脈の名前でつまずき、算術は分数で一度、帳面を窓から投げている。これを書かずに渡したら、この先生も長くはもたない。
二時の鐘が鳴り終わらないうちに、辺境伯は玄関に立っていた。
客間へ通された辺境伯は、父に向かって一礼すると、挨拶の続きもなく言った。
「ウィラ嬢に、結婚を申し込みに来た」
母の扇が、手から床へ落ちた。
「まあ……ウィラ? ジニーではなく?」
「ウィラ嬢だ」
ジニーが、髪に挿したばかりの真珠を指でいじりながら、鼻を鳴らした。
「北なんて寒いところ、お姉様にちょうどいいわ」
父は喉を鳴らして、椅子の背に体を預け直した。
「閣下、身に余るお話ですが、お受けできません。ウィラは家に要るのです。あの子がいなくなれば、ジニーの面倒を見る者がいなくなる」
それから、こちらへ顔を向けた。
「ウィラ、お前は聞き分けがいいから、わかるだろう」
(一回目)
「お父様。私は、お受けしたいです」
「話は終わりだ」
(二回目)
「お受けしたいのです」
父は答えず、辺境伯に向かって「北の冬は、娘には厳しすぎましょう」と話し始めた。娘、というのが私のことなのか、ジニーのことなのか、父自身も分かっていない声だった。
(三回目)
「お父様。お受けします、と言いたいのです」
ちょうどそのとき、ジニーのカップが手から滑った。お気に入りのドレスの膝に、紅茶の染みがみるみる広がっていく。ジニーが泣き出し、母が「誰か、布を!」と声を上げ、父は椅子から立ってジニーの肩を抱いた。
届かなかった。
こちらに向いた三つの背中を眺めながら、私の胸は、自分で驚くほど静かだった。三回、言った。祖母の教えのとおりなら、ここから先は、泣くことも待つこともいらない。決めるのは、どこへ取りに行くかだけだ。
けれど、結婚の同意を取りに行く先を、私は知らなかった。仕立て屋なら知っている。広間の向こうの柱も、昨夜知った。でも当主の同意は、当主のところにしかないはずだ。
だから、聞いた。
「閣下。取りに行くには、どちらへ伺えばよろしいでしょう」
辺境伯は上着の内側に手を入れて、封書を一通取り出した。宛名の字を、私はよく知っていた。毎月の手紙で見ている、兄の字だった。
「君の兄上から預かってきた。父上がまた『ウィラは聞き分けがいいから』と言ったら、妹にこれを渡してくれと」
封を切ると、中の便箋には、王宮の古い定めが一字ずつ丁寧に写してあった。
春の舞踏会でお披露目された令嬢は、その季節、夏至の日まで王妃陛下の後見を受ける。後見を受ける令嬢の縁組に、当主が正当な理由なく同意しないとき、令嬢は自分で王妃陛下に申し立てることができる。正当な理由とは、相手の家の不行跡、本人が望まないこと、家の存続に関わることに限る。
その下に一行だけ、写しではない兄自身の言葉があった。
ウィラ、三回言ったら、ここへ取りに行け。
(お兄様は、六年分、知っていたのだ)
私が何を言わずにきたのかを。
便箋から目を上げると、辺境伯と目が合った。
「順番が逆になった。一回で言う」
そう言うと、辺境伯は私の前の床に片膝をついた。
「ウィラ。私と結婚してほしい」
客間に響いていたジニーの泣き声が、そこで途切れた。
「はい」
一回で、言えた。
母は、床の扇を拾おうとした格好のまま止まっていた。戸口では、ジニーのための布を抱えて駆けつけたグウェンが、布を抱えたまま目を丸くしている。それから、誰にも見えないように、私にだけ小さく頷いた。
「待ちなさい!」
父が、ジニーの肩に回していた腕をほどいて、こちらを向いた。三回呼んでも向かなかった顔が、四回目を待たずにこちらを向いていた。
「当主は私だ。私の同意なしに――」
「だから、王妃陛下に聞いていただく」
立ち上がったダンカン様に正面から見下ろされて、父は口を開きかけ、そのまま閉じた。
夜、私は自分の部屋で、王妃陛下への申し立てを書いた。ジニーの謝りの手紙なら何十通と書いてきたのに、自分のために書く書面は、これが最初の一通だった。父の言った「お前は聞き分けがいいから、わかるだろう」は、一字も変えずに書き写した。
書面は次の朝、ダンカン様の馬車で王妃宮へ運ばれ、取次の女官の手に渡った。
その翌日の昼、王妃宮から私を迎えに馬車が来た。王妃陛下が謁見の間で、私と父から話をお聞きになるという。




