一曲目のお相手を
大広間には大燭台が下がっていて、夜なのに、窓の外の暗さが嘘のように明るかった。
今年お披露目される娘たちは、みな白を着て、壁沿いに一列に立っている。広間の奥の壇では国王陛下と王妃陛下が椅子に掛けていらして、お二人がご覧になるのは、礼と、はじめの何曲かと決まっている。
ジニーは私の菫を着ていた。身頃だけを詰めて裾は切らなかったから、マダムの言ったとおり、余った裾が床を掃いている。ジニーが一歩出るごとに、刺繍の菫は半分ずつ、床と靴の陰に消えた。
「ペンローズ伯爵家、ジニー嬢」
呼ばれたジニーの手を引いて、母が壇の前へ出た。ジニーの礼の声は震えていて、列に戻ると、すぐ母の胸に顔を押しつけた。
「ペンローズ伯爵家、ウィラ嬢」
母は胸のジニーを、仕方がないという顔で離して、列から出てきた。私の横を歩きながら、目は肩越しにジニーを追っている。私が膝を折る頃には、母の体の半分は、もうジニーのいる列のほうを向いていた。
壇の上で、王妃陛下の視線が、私の裾の銀糸に一度だけ下りた。そんな気がした。
礼が済めば、デビュタントの一曲目だ。最初の円舞はデビュタントしか踊らず、その相手は父か兄と決まっている。兄は北にいる。残るのは父だけだった。
楽団の席で、弦を合わせる音がし始めた。
(一回目)
「お父様。一曲目は、どなたと踊ればよろしいでしょう」
「ジニーが震えている。少し待ちなさい」
父の両手は、ジニーの手を包んでさすっていた。ジニーは父の袖をつかんで、「足が動かないの」と言っている。さっき列に戻ってくるときは、ちゃんと動いていた。
(二回目)
「お父様、もうすぐ一曲目です」
「お前は聞き分けがいいから、誰か見つけなさい」
言い終えると、父はジニーの手を取った。
(三回目)
「お父様。私の一曲目のお相手を」
返事の代わりに見えたのは、広間の真ん中へ向かう父の背中だった。長い裾を引きずって歩くジニーの横で、父は最後まで振り返らなかった。
届かなかった。
ほかの娘たちは、父親や兄の腕に手を添えて、次々に真ん中へ出ていく。一曲目を誰とも踊らなかった娘は、その夜、ほかの誰からも申し込まれにくい。作法の本にそう書いてあった。
では、取りに行く。けれど、誰のところへ。
すぐ後ろで、壁際の夫人たちが扇を寄せて話していた。
「ご覧になって、あの柱のそば。北の辺境伯ですって」
「八年ぶりの王都だそうよ。陛下がお呼びになったとか」
「踊らないのよ、あの方は。前にいらしたときも、一曲も」
「頬の痕、凍傷ですってね。北の峠では、冬に兵の指が落ちるそうよ」
柱の陰に、黒い礼装の男の人が一人でいた。背が高く、短い黒髪で、頬に白い引きつれが走っている。人の流れが、その人の手前でよけていく。
北の辺境伯。兄の手紙には、何度もその名が出てきた。ストラウド辺境伯ダンカン。兄の上官で、口数が少なく、一度聞いたことは忘れない人。兄は一度、団長は笑わないが、笑うと止まらない、と書いてきたことがある。
(踊らないのではなく、誰も申し込まなかったのでは)
八年、誰も。そう考えたら、足が先に動いていた。
私は広間の真ん中を、まっすぐ横切った。父の腕も兄の腕も借りずに、白いドレスが一人で歩いていく。広間じゅうの目が、その白を追っていた。
「辺境伯閣下」
見上げると、灰色の目と合った。噂から想像していたのとは違って、静かな目だった。
「私と一曲目を踊っていただけませんか」
「喜んで」
私が言い終わるのと、返事とが、ほとんど重なった。差し出された手は大きくて、手袋を通しても温かかった。
広間の空気が、目に見えるほど揺れた。
「踊るわ」
「北の辺境伯が……」
「どこのお嬢さん?」
「ペンローズ家の、上のお嬢さんよ。お父上は、さっき下のお嬢さんと……」
楽団が一曲目を始めた。
踊らないと聞いていたのに、辺境伯の足運びには、少しも踊り慣れないところがなかった。背中に添えられた手は、強すぎも弱すぎもしない。一度回されたとき、裾の銀糸が燭台の火を拾った。
「ウィラ・ペンローズ嬢だな」
「ご存じなのですか」
「君の兄上は、私の副官だ。王都へ発つ前に、妹を一目見てきてくれと頼まれた。誰かに聞かれたら、兄上の代わりに踊ったと答えておこう」
兄らしい、と思った。私には一言も書いてこなかったくせに。
「父上のそばで、三回、口を動かしていたな」
足がもつれかけた。
「……見ていらしたのですか」
「数えていたのか」
この人に隠しても、意味がない気がした。回りながら、私は祖母の教えを話した。小さいころの林檎のタルトのこと、このあいだの朝の菫のこと、マダムの店で裾に銀糸を一筋入れてもらったこと。
聞き終えた辺境伯が、笑い出した。
初めは喉の奥で堪えていたのが、こらえきれずに声になった。隣で踊っていた組が、そろってこちらを振り向いた。ジニーと踊っていた父も、そのとき初めてこちらを見た。
(兄の手紙は、正しかった)
笑うと止まらない。本当に、止まらない。
「すまない。笑うところではないな」
「いいえ。笑っていただけて、少し楽になりました」
「北では」
まだ笑いの残る声で、辺境伯は言った。
「大事なことは一回で言う。吹雪の中では、二回目を言う前に声が届かなくなるからだ。言われたほうも、一回で聞く」
「では、北に生まれていたら、私は三回も言わずに済んだのですね」
「君の家に、聞く耳が一回分もなかっただけだ」
最後の和音が鳴った。辺境伯は、私の手を放す前に一回だけ言った。
「明日、伯爵家を訪ねてもいいか」
私も、一回で答えた。
「……はい」
壁際まで送ってもらうと、扇を閉じた年配の夫人が、待ちかねたように寄ってきた。
「ペンローズ家の、上のお嬢さんね。一曲目、拝見しましたよ。お父上を待たずに、ご自分で歩いていらしたのね」
夫人の後ろには、次の曲をと申し込みに来た若い子爵がいて、その後ろには、そのまた次をと言うどこかのお兄様が待っていた。
作法の本の言うことは、その夜は外れた。私は一度も、壁の花にならなかった。
広間の向こうで、ジニーの声がした。
「お姉様ずるい! 北の辺境伯と踊るなんて!」
母が、すぐにジニーのほうへ駆け寄って行った。




