銀糸を一筋
新しいほうの馬車は、ジニーが午後に髪結いへ行くので使えなかった。
だから私は、侍女のグウェンを連れて、家の古いほうの馬車でマダム・ロシェの店へ向かった。座席のばねが一本折れていて、角を曲がるたびに右へ傾く馬車だ。グウェンは膝の上に、二年前の白を包んだ布を抱えている。
「お嬢様。今朝、何回お言いになりました」
グウェンは祖母に長く仕えて、祖母が亡くなってからは私に付いてくれている。髪が白くなっても、祖母の口癖を一つも忘れていない。今朝は衣装部屋の外の廊下で、針箱を抱えて控えていた。中の声は全部聞こえていたはずだ。
「三回」
「では、大奥様のお言いつけどおりですね」
グウェンはそれ以上何も聞かず、馬車が右へ傾くたびに、私の肩を手で支えてくれた。
マダム・ロシェの店は、王都の仕立て屋通りの角にある。
マダムは、私が持ってきた二年前の白を作業台に広げ、私の肩に巻き尺を当てて、すぐに首を振った。
「肩も丈も足りません。縫い代を全部出しても届きませんね。あれから、お育ちになりましたから」
靴を買い替えてきたのは、伊達ではなかったらしい。
「では、新しく仕立てていただくのは」
「舞踏会までに、一からは縫えません」
マダムはそう言って奥へ入り、白い布を掛けた人形を押して戻ってきた。布を取ると、飾りのない白のドレスが現れた。
「ある子爵家のお嬢様のお仕立てでした。お身内にご不幸があって、今年のお披露目をお取りやめになったんです。子爵家は手付けを置いたまま、ご注文をお取り消しになりました。ドレスは仕上がる前に店のものになって、どうするかは私に任されています」
マダムは人形の裾を持ち上げて、縫い目を私に見せた。
「お嬢様の寸法に直すだけなら、舞踏会に間に合います。残りの布代と直しの手間賃で、金貨二枚と銀貨五枚。手付けの分はお代に入れておりません」
私は財布を開いた。毎月の小遣いを、本と刺繍糸のほかにはほとんど使わずに残してきた。
(足りる)
「お願いします」
お代を払うと、財布はずいぶん軽くなったけれど、林檎のタルトよりはずっと大きなものが買えた。
マダムは私の手を取って、袖の長さを測った。巻き尺が手首から指先へ動いて、右の中指のところで一度止まった。そこには、ペンだこがある。
「お手紙を、よくお書きになるのですね」
「妹のぶんを、少し」
マダムは何も言わずに、袖の長さを帳面に書き付けた。
それから待ち針をくわえ、私に直しの白を着せていった。しばらく黙って針を打っていたが、腰の線を合わせながら、ぽつりと言った。
「今朝のお話ですけれど。私は、針と布のことしか申しません」
「はい」
「お嬢様の寸法で一から縫ったドレスを、身頃だけ詰めて、裾は切るなと。妹御はお嬢様より指三本分お背が低い。裾がそのぶん長いまま着れば、菫は床を掃きます。歩くたびに、半分は踏まれるでしょうね」
マダムは待ち針をもう一本抜いた。
「前のお仕立ても、一度も袖を通していただけませんでした。私はお嬢様のお披露目のドレスを、これで三度縫うことになります」
鏡の中の私は、まだ待ち針だらけで、少しも令嬢らしく見えなかった。
三度。私は二度までしか数えていなかった。今まさに着せてもらっている白を、数に入れるのを忘れていたのだ。数えるのは得意なつもりでいたのに、自分のドレスのことになると、マダムのほうがよく数えていた。
「飾りは、どうなさいます。菫をもう一度入れることもできますけれど」
「菫は、もういいです」
少し考えてから、私は言った。
「銀糸で、一筋だけ。裾に」
マダムが、今日はじめて笑った。
「お似合いになりますよ」
店を出ると、後ろでグウェンが鼻をすすった。
「大奥様がご覧になったら、手を叩かれますよ。お嬢様が、ご自分で取りにいらしたって」
「グウェン、泣くところではないでしょう」
「泣いておりません。王都の埃です」
グウェンは前を向いたまま、もう一度鼻をすすった。
* * *
直しの白が屋敷に届いたのは、舞踏会の前の日の夕方だった。
玄関の広間で箱を受け取ったのは私で、ちょうど通りかかった母が、箱に付いたマダムの店の札に目を留めた。
「あら、自分で用意したの」
「はい。マダムに直していただきました」
「そう。あなたは本当に、手がかからなくて助かるわ」
母は箱の中も見ずにそう言って、ジニーの髪飾りの話に戻っていった。真珠と青い石のどちらにするかで、ジニーは昼から三度泣いている。
私は数えなかった。母から欲しいものは、もうなかったからだ。
その夜、自分の部屋で、私は直しの白に袖を通した。肩も丈も、私の体にぴたりと合っている。鏡の前で少しだけ回ると、裾の銀糸が、燭台の火を一筋だけ拾って光った。
菫のように目を引く色ではない。けれど、これは誰にも回されなかった私の白だ。
鏡台の引き出しから、ひと月前に届いた兄の手紙を出して、もう一度読んだ。兄のジャーヴィスは北の騎士団にいて、北の辺境伯の副官を務めている。几帳面な字で、峠の雪解けの見回りのことが書いてあり、最後にこうあった。
父上に、休みを取ってウィラの一曲目を務めたいと書いた。返事は「ウィラは聞き分けがいいから、一人で大丈夫だ」だった。すまない。
お兄様が謝ることではないのに、と私は思った。一曲目の相手は父か兄が務める習わしで、兄が来られないなら、父が務める。それだけのことだ。
手紙を引き出しに戻して、私は燭台の火を消した。
* * *
舞踏会の夜、王宮へ向かう馬車は二台出た。
新しいほうには、父と母と、菫のドレスを着たジニーが乗った。長すぎる裾は、乗り込むときにジニーの靴の踵に踏まれて、小さく音を立てた。
古いほうには、私とグウェンが乗った。ばねの折れた座席は、相変わらず右へ傾いた。
王宮の灯が近づいてくる。春の舞踏会が始まる。




