菫のドレス
本作は、短編「『妹が先よ。あなたは手がかからないから』と母が言うので、三回言って届かないものは自分で取りに行きます」の連載版です。第1〜6話は短編版をもとに加筆し、辺境伯の視点の回を足しています。第7話から短編の先へ進み、妹と兄の視点の回を挟んで、北の辺境伯領でのお話になります。
「妹が先よ。あなたは手がかからないから」
母はそう言いながら、衣装台から私のドレスを外した。
絹の白地の、裾と胸元に菫を刺したドレスだった。王宮の春の舞踏会でお披露目を受ける娘は白しか着られないけれど、刺繍の色だけは好きに選んでいい。だから菫にした。マダム・ロシェが私の体に合わせて裁ち、一から縫い上げて、今朝はその最後の試着だった。ついさっきまで、私はそれを着て鏡の前に立っていた。
「マダム、これをジニーの寸法に詰めてちょうだい。身頃だけでいいわ。裾の菫は切らないでね。四日あれば間に合うでしょう?」
差し出されたドレスを前に、マダム・ロシェは針山へ伸ばしかけた手を止めた。受け取らないマダムの前で、ドレスは母の腕に掛かったままになった。
妹のジニーは母の腰に腕を回して、ぐずぐずと鼻を鳴らしている。ジニー自身のドレスは、部屋の隅の人形に着せられたまま、片袖が取れていた。昨日の夕方、レースの柄が嫌だと泣きながら、自分で鋏を入れたのだ。東方から取り寄せたレースで、舞踏会までには同じものが手に入らない。
「だって、お姉様の菫のほうが、私に似合うもの」
「そうね。ジニーには菫がよく似合うわ」
母はジニーの髪をひと撫でしてから、ついでのように私のほうを見た。
「あなたは、二年前の白を出せば足りるでしょう」
(二年前の私の寸法を、お母様は覚えているのだろうか)
覚えていないと思う。母はあのドレスの仮縫いにも来なかった。
(一回目)
「お母様。そのドレスは私のです。返してください」
「ジニーが泣くでしょう」
母は振り向かなかった。
(二回目)
「返してください」
今度は、返事もなかった。母はジニーの髪を撫で続け、ジニーは母の腕から私の菫を引き寄せて胸に当て、鏡のほうへ首を伸ばしている。
開けたままの扉の向こうを、書類を抱えた父が通った。立ち止まって部屋を覗き込み、泣いているジニー、その胸の白いドレス、それから私と、順に目を移す。そして、いつもと同じ調子で言った。
「ウィラ、お前は聞き分けがいいから、わかるだろう」
言い終わると、父はもう書斎へ足を向けていた。
(三回目)
「私のドレスを、返してください」
ジニーが、声を上げて泣き始めた。母がその体を抱え込み、廊下から戻ってきた父が「どうした、ジニー」と床に膝をつく。菫のドレスはジニーの腕からすべって、床に落ちた。三人とも、私に背を向けていた。
届かなかった。
二年前の白というのは、お披露目のために仕立てたきり、一度も着る機会のなかったドレスのことだ。
その年の春、ジニーがポニーから落ちて腕を折ったので、家族は領地から動かなかった。私は領地の屋敷の机で、お見舞いをくださった家々へのお礼状と、私のお披露目を取りやめるお詫びの書面を、ひと月かけて書いた。次の年は、ジニーがまた家庭教師と揉めて先生が辞め、母はジニーに付きっきりになった。私は辞めた先生のお宅へ、謝りの手紙と、月謝の残りの始末の書面を書いた。父は最後に署名をするだけで、何通あったのかは、たぶん知らない。数えていたのは私だ。辞めた先生たちの分を合わせて、十一通だった。
どちらの年も、母は同じことを言った。あなたは来年でも大丈夫でしょう。
そして今年は、ドレスが来年に回ったらしい。
小さいころの春の、お茶の時間を思い出す。林檎のタルトが一切れだけ残って、私が欲しいと言うと、母は「ジニーが先よ」と言って、まだ幼いジニーの皿に載せた。ジニーはそれを一口かじって、床に落とした。
その夜、祖母のイモジェンが私を膝に乗せて言った。
「ウィラ。欲しいものは、はっきり三回言いなさい。三回言っても聞き届けられなければ、それは相手に聞き届ける気がないの。そのときは泣かずに、自分の足で取りに行きなさい」
私が「三回も言わなきゃいけないの」と聞くと、祖母は笑った。
「三回言うのはね、相手に三回、聞き届ける機会をあげることなの。一回目は聞こえなかったのかもしれない。二回目は忙しかったのかもしれない。でも三回目まで届かなかったら、あなたはもう十分に待ったのよ。取りに行くのは、意地悪じゃないわ」
次の朝、祖母は私を馬車に乗せて町の菓子屋へ連れて行った。祖母はお金を出してくれなかったし、店の人に私の代わりに頼んでもくれなかった。林檎のタルトを丸ごと一つくださいと言ったのは私で、代金は私の貯金箱から出した。帰りの馬車で、祖母は「よく取りに来たわね」とだけ言った。
祖母はもういない。けれど教えは、まだ使えるはずだ。
「わかりました」
私が言うと、母は振り向かないまま「いい子ね」と言った。ジニーに言ったのか、私に言ったのかは分からなかった。
私に分かったのは、この部屋ではもう届かない、ということだけだ。
では、どうするか。
舞踏会まで、あと四日。二年前の白は、袖を通してみなければ分からないけれど、たぶん足りない。この二年で、私は靴を何度か買い替えた。新しく仕立てるなら、それまでに何とかしてくれそうな人を、私は王都に一人しか知らない。お金は、毎月の小遣いを、本と刺繍糸のほかにはほとんど使わずに残してきた。それで足りるかどうかは、聞いてみなければ分からない。
聞きに行く先は、目の前にいた。
私はマダム・ロシェに向き直った。マダムは床から拾い上げた菫のドレスを腕に掛けて、泣いているジニーではなく、私を見ていた。その目が、菫の裾と、ジニーの背丈と、私の背丈を、順に測っているのが分かった。母の目ではなく、仕立て屋の目だった。
「マダム。午後、お店に伺ってもよろしいですか」
マダムは針山から待ち針を一本抜いて、私の目を見て、一度だけ頷いた。
お読みいただきありがとうございます。短編版をもとに、辺境伯や家族の目も足しながら、ウィラが北へ嫁いだその先まで書いていきます。ブックマークと、下の☆での評価で応援していただけると嬉しいです。




