林檎の木の下で
結婚して最初の朝、私は夫より先に目を覚ました。
窓の外はもう明るかった。北の夏は、夜が短い。隣で眠っているダンカン様の黒い髪を見て、昨日の誓いが一回で済んだことを、もう一度だけ思い出した。
それから、枕元に置いた手紙を見た。
お姉様へ。字の震えた宛名は、夜のうちに変わったりはしていなかった。
* * *
東の斜面の上の三本の林檎の木まで、ダンカン様は約束どおり連れていってくれた。
花は、もうどこにもなかった。代わりに、枝の先に指先ほどの青い実がついている。私は一本目の木の実を数え始めて、十七で数えるのをやめた。葉の陰にまだありそうで、きりがなかった。
「いくつだった」
「十七までは数えました」
「父は、毎年数えていた」
ダンカン様はそれだけ言って、木の幹に手を置いた。自分では数えないのだと分かった。
私は木の根元に腰を下ろして、ジニーの手紙の封を切った。
ダンカン様は、手紙をのぞき込まなかった。一歩離れたところに立って、斜面の下の町のほうを見ている。そばにいてください、と頼んだのは私で、この人はそのとおりにしていた。
便箋は一枚だった。
お姉様へ。寄宿舎に持っていくものが、わかりません。お母様に聞いたら、お母様もわからないって。グウェンもいないし、執事は男の人だから、衣装のことはわからないって。トランクが三つあって、三つとも閉まりません。お姉様なら、すぐでしょう。詰めて送ってくれたら、とても助かります。それから、先生への手紙は、まだ書けていません。ジニー
読み終えて、もう一度、真ん中の一行に目を戻した。
お姉様なら、すぐでしょう。
このあいだ届いた母の手紙にも、同じ言い回しがあった。あなたなら、すぐでしょう。母とジニーは、同じ家で同じ言葉を覚えて育った。私も同じ家にいたのに、その言葉を誰かに言ったことは一度もない。
便箋の字は、三か所で震えていた。「わかりません」の「わ」と、「閉まりません」の「ま」と、自分の名前のところだ。
(泣きながら書いたのね)
インクの滲みは、たぶん涙の跡だった。
* * *
王都まで、馬車で十日かかる。
今から返事を書いて、荷造りの仕方を細かく教えれば、秋の入寮には間に合うかもしれない。グウェンの侍女仲間に頼んで、誰かに詰めさせることもできる。私が王都まで行けば、三つのトランクは一日で閉まる。
そう考えて、私は自分が何をしようとしているのかに気づいた。
この六年、私はジニーの割った物の弁償を手配し、ジニーの怒らせた先生に謝りの手紙を書いてきた。今度は、ジニーのトランクを閉めに行こうとしている。
「ウィラ」
ダンカン様が、町へ目を向けたまま言った。
「君が王都へ行くと言うなら、馬車を出す」
一回だけ、言われた。
この人は、私が行くと言えば本当に馬車を出す。十日の道を、もう一度往復させてくれる。そう分かっていたから、答えるのに迷わなかった。
「行きません」
ダンカン様は、それ以上何も言わなかった。斜面の下で、館の町の煙突から朝の煙が一本ずつ上がり始めていた。
行かないと決めたら、返事に何を書くかを決めなければならなかった。
荷造りの仕方は書かない。書けば、私が詰めるのと変わらない。けれど、何も書かずに放っておくのも違う気がした。ジニーは初めて、自分で宛名を書いて私に手紙をくれた。それには、何か一つ返したかった。
一つだけ、渡せるものがあった。
祖母の教えだ。
欲しいものは、はっきり三回言いなさい。三回言っても聞き届けられなければ、それは相手に聞き届ける気がないの。そのときは泣かずに、自分の足で取りに行きなさい。
あの夜、祖母の膝の上で聞いたのは、私だけだった。まだ幼いジニーは、床に落としたタルトのことで泣き疲れて、もう眠っていた。それから十一年、ジニーは欲しいものを三回言う必要がなかった。一回泣けば、誰かが先に持ってきたからだ。
寄宿舎には、先に持ってきてくれる人がいない。
* * *
館へ戻ってすぐに、返事を書いた。
宛名は、ジニーへ。祖母の教えを、祖母の言ったとおりの言葉で一行ずつ書いた。言い回しを、私の言葉に直さなかった。それから、最後にもう一行だけ足した。
トランクが閉まらないなら、三つのうち一つは要らないものです。
書き終えて読み返すと、なんだか祖母に叱られている気分になった。叱られているのは、私ではなくジニーのはずなのに。
封をして顔を上げると、戸口にダンカン様が立っていた。
「書けたか」
「はい。詰め方は、書きませんでした」
「そうか」
ダンカン様は、それ以上聞かなかった。私の手を取って、館の坂を一緒に下りた。手紙を郵便の袋に入れるところまで、ついてきてくれるらしい。
坂の途中で、ヘスター様が待っていた。
朝の台所から抜けてきたらしく、前掛けをしたままだった。手に紙を一枚持っている。
「ウィラ。これを見ときな」
渡されたのは、去年の夏の日付の書き付けだった。宛先は王宮の軍務院の補給掛。騎士団の冬の物資の注文だという。
書いてあるのは、一行だけだった。
例年どおり。ストラウド。
私は、紙の裏を返した。裏は白紙だった。
「冬の物を、これで注文してるんだよ。毎年」
ヘスター様はそう言って、私ではなく、私の隣を見た。
「今年も、これで出すつもりかい」
ダンカン様は、峠のほうへ目をそらした。




