君は、手がかかるな
マダム・ロシェの箱は、館の騎士が二人がかりで坂の上まで運んでくれて、ヘスター様の屋敷の東の一室で開けた。
蓋を持ち上げると、薄紙が幾重にも重ねてあった。一枚めくるごとに、グウェンの息が浅くなっていった。
一番上に、白が一着あった。
飾りは少ない。襟は北の風に合わせて詰めてあり、袖は細い。裾に、銀糸が一筋だけ通っていた。春の舞踏会で着た白と、同じ一筋だ。胸元には、小さな刺繍の花が一つ咲いていた。白い花びらに、真ん中だけ薄い紅。
林檎の花だった。
薄紙の間に、マダムの几帳面な字のカードが一枚挟んであった。
胸元の林檎の花は、辺境伯様のご注文です。お帰りぎわに、一回だけ仰いました。
謁見の翌日の、あの店でだ。私が作業台に広げた二年前の白を見ていた、ほんの少しの間に。
あのときはまだ、斜面の上の三本の木を、私は見ていなかった。
グウェンが、黙って白をもう一枚持ち上げた。二年前の白だった。肩に共布が足され、裾に別の布が継いであって、襟も袖も細くなっている。王都では一度も着る場のなかった白が、毎日着られる形になって、北まで来ていた。
同じ荷馬車が運んできた郵便の中に、グウェン宛ての封書が一通あった。王都の侍女仲間からだという。グウェンは読みながら、私に聞こえる声で、要るところだけを拾ってくれた。
引き出した金は、もう紋章院へ戻されたこと。王都の東の別邸は、人の手に渡ったこと。ジニーは秋から入る女学院の寄宿舎の支度をしていて、荷物の詰め方が分からないと毎日泣いていること。
「誰が詰めてやってるんでしょうね」
グウェンはそれだけ言って、封書をたたんだ。
* * *
婚礼は、夏至を過ぎた昼、北の館の礼拝堂で挙げた。
石の礼拝堂は小さくて、長椅子は数えるほどしかない。それが、後ろの壁まで埋まっていた。騎士たちと、騎士の妻たち。キルスティは、黒い服ではなく、灰色の服を着ていた。粉屋がいた。書き写しを習った若い騎士たちは、まだ指にインクをつけたまま、一番後ろに立っていた。
家族の席の最前列には、ヘスター様とグウェンが座った。
兄は、座らなかった。礼拝堂の入口で、私に腕を差し出した。
「遅くなったな。一曲目の分だ」
春の舞踏会で、兄は私の一曲目を務めると、父に手紙で申し出てくれた。父は、聞き分けのいい娘だからと、その申し出を断った。
私は兄の腕を取って、長椅子の間を歩いた。兄は私の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いた。
祭壇の前で、ダンカン様が待っていた。兄は私の手をダンカン様の手に預けて、家族の席のヘスター様の隣に座った。
振り返ると、家族の席の三人は、三人ともこちらを見ていた。
ダンカン様は、まず私の足元に目をやった。新しい靴が合っているかを見たのだと思う。それから胸元の林檎の花に目を上げて、そこで止まった。黒い髪の下の耳が、祭壇の蝋燭より先に赤くなった。
司祭が、北の婚礼の決まりを読み上げた。誓いの言葉は、一回だけ。言い直しはできない。
私は、心の中で数えなかった。
「私、ウィラ・ペンローズは、ダンカン・ストラウドを夫とします。欲しいものは、一回で言います」
一回で、言えた。
ダンカン様が、預けられた私の手を握り直した。
「私、ダンカン・ストラウドは、ウィラを妻とする。ウィラが一回で言ったことは、一回で聞く」
そこで終わるのかと思ったら、ダンカン様は、もう一言だけ続けた。
「ただし、大丈夫、だけは三回聞く」
礼拝堂の後ろのほうで、騎士の妻の誰かが吹き出した。それが伝わって、長椅子が前から順に揺れた。兄は、家族の席で天井を仰いでいた。ヘスター様だけが、咳払いをした。
司祭は笑いを堪えて、二人の誓いが一回ずつ立ったことを告げた。
* * *
宴は、館の大広間で日暮れまで続いた。
騎士たちが一人ずつ杯を持って私の前に来て、「奥方様」と言っていった。まだ婚礼の前です、とは、もう言わなくてよかった。キルスティは灰色の服の膝を折って、小さな包みを一つ置いていった。中には、林檎の花の形に焼いた固い焼き菓子が入っていた。粉屋は、粉を一袋、肩に担いできた。帳場から返ってきた銀貨三枚の分だと言って、ダンカン様が何を言っても引かなかった。
ヘスター様が、林檎酒の杯を持って、私の隣に腰を下ろした。
「北の冬は、半年近く雪に閉ざされるよ。雪で街道が閉じたら、王都の手紙も届かない。今のうちに、欲しいものは一回で言っときな」
そう言って、杯を置いて、台所のほうへ戻っていった。
宴の終わりがけに、グウェンが一通の手紙を持ってきた。昼の郵便馬車で、王都から届いたという。
宛名の字が、震えていた。お姉様へ。インクが一か所、丸く滲んでいる。
ジニーの字だった。ジニーが自分で書いた宛名を、私は初めて見た。
封は、切らなかった。
* * *
宴の後、ダンカン様と二人で、館の庭に出た。
夏至を過ぎても、北の夕方の風は肌に冷たい。東の斜面の上に、三本の林檎の木の影が見えた。花の頃は、もう一月近く前に終わっている。
私は立ち止まった。
頼みたいことがあった。数えずに、一回で言った。
「明日の朝、林檎の木のところへ連れていってください。実がついたか、見たいのです。それから、ジニーの手紙を読むので、そのとき、そばにいてください」
一回で、二つ頼んでしまった。
ダンカン様は、私の顔を見下ろした。それから、峠のほうへ顔を向けて、言った。
「君は、手がかかるな」
声が、笑っていた。嬉しくてたまらない人の声だった。
手のかからない子だと、十八年言われてきた。その反対の言葉が、こんなふうに聞こえるものだとは、知らなかった。
ダンカン様の手が、私の手を取った。今度は、私が頼む前だった。
手紙は、明日、一回で読む。
今夜だけは、私が先だ。




