北の頼みごとは、一回で来る
書状は、ヘスター様の屋敷の台所の卓で開いた。
坂の下で立ち話をする紙ではないと、ダンカン様が言ったからだ。キルスティは卓の端に、黒い服の膝を揃えて座った。ヘスター様は何も聞かずに、皆の茶を淹れた。
王都の役所の紙は、どこの役所でも手触りが同じだ。硬くて、少しざらついていて、大事なことほど下のほうに、難しい言葉で書いてある。軍務院の書状には、こうあった。
騎士故ロブ寡婦キルスティ殿。恩給受給の件につき、本年春季分の存命届、騎士団長の印を付して当院へ提出のこと。期日までに提出なき場合、翌月分より支給を差し止めるものとす。軍務院恩給掛。
「受け取りました、のお知らせだと思ったんです」
キルスティが言った。
「去年の春も、同じような紙が来ました。そのときは騎士団の書記の爺さんが、全部やってくれて。だから今年も、そういうものだと」
「今年は、書記がいなかった」
ダンカン様が言った。
「先の書記は、去年の秋に年で退いた。後を決めていない。今、恩給を受けている寡婦は、キルスティ一人だ。届けに印を押すのは私だが、押す紙が来なかったことに、私は気づかなかった」
言い訳をしない人の言い方だった。キルスティは首を横に振って、私のほうを見た。
「奥方様になる方は、王妃陛下への申し立てを、ご自分でお書きになったと聞きました」
誰に聞いたのかは、聞かなかった。旅の供をした北の騎士たちは、昨日のうちに町の家へ帰っている。北では、噂も一回で町じゅうに届くらしい。
「あたしの字では、王都の役所は読んでくれません。もう一度、出し直してほしいんです」
「書けます」
一回で答えると、キルスティの肩から、少し力が抜けた。
* * *
午後になると、台所に人が増えた。
キルスティが帰りぎわに隣家へ寄ったらしく、騎士の妻たちが、焼き菓子の籠を提げてやってきた。ヘスター様が呼んだ町の靴屋が、私の足の寸法を測っている横で、妻たちは茶を飲みながら口々に言った。
「王都の役所はね、一回で返事をしたためしがないんですよ」
「うちの人の給金が一月分足りなかったとき、直してもらうのに半年かかりました」
「三回書いて、三回とも、届いたかどうかも分からなくて」
靴屋が私の踵の皮のむけたところを見て、顔をしかめた。私は足を引っ込めずに、妻たちの話を数えていた。
三回書いて、届かなかった。
王都の役所が三回言わないと動かないのは、私もよく知っている。ジニーが割った壺の弁償、辞めた家庭教師の違約の届け、乗馬の先生への礼金の書き直し。父の署名が要る書面は、この六年で何十通も私が用意した。役所の係は、読んで分からないところがあると、返事を書かずに紙を脇へ置く。脇へ置かれた紙は、二回目の手紙が来るまで、そこから動かない。
だから、一回目で分かるように書けばいい。それでも届かなければ、取りに行く先を、先に用意しておけばいい。
* * *
その夜、私はヘスター様の屋敷の一番小さな卓で、三通書いた。
一通目は存命の届け。書式は兄が持ってきてくれた。騎士団の書記の棚から、去年の春の届けの控えを探し出してきたのだ。兄は控えを私に渡すとき、「先の書記の爺さんは、字がひどかった」とだけ言った。本当にひどかったけれど、書いてあることは正しかった。
二通目は、止まっていた分の恩給の請求。三通目は、軍務院の恩給掛の係への添え状だ。届けが遅れた理由を一行で書き、騎士団の書記が空いていることを一行で書き、差し止められた額を一行で書いた。係が脇へ置く理由を、一つも残さないように。
書き終えたところで、もう一枚、短い手紙を書いた。
宛先は、王妃宮の取次の女官だ。夏至までは、私は王妃陛下の後見を受ける身で、北に着いたことを知らせるのは礼儀にかなう。結びの前に、もう一文添えた。北の騎士の寡婦の恩給について、軍務院へ届けを出しました、と。
三回言っても届かなかったときに、三回目を頼む先だ。知らせを先に一つ置いておけば、そのときに書く手紙は、一回で通じる。頼まずに済めば、それでいい。
夜明け前、ダンカン様が屋敷の玄関まで来た。私は書いたものを全部渡した。ダンカン様は玄関の灯りの下で、一通ずつ読んだ。読み返しはしなかった。読み終えると、懐から騎士団長の印を出して、届けに押した。
「早馬で出す。王都まで六日だ」
ダンカン様はそれだけ言って、坂を下りていった。
* * *
夜が明けると、屋敷の前に人が来るようになった。
一人ずつ、一回で頼んでいく。王都へ奉公に出た娘に手紙を書いてほしいという騎士の妻。字は読めるが、書くと娘に笑われるのだという。休みの届けの書き方が分からないという若い騎士。去年の税の書き付けの数字が合わないという粉屋。
粉屋の書き付けは、足し算が一か所違っていた。私が書き直した紙を渡すと、粉屋は紙を窓の明かりにかざして、一行ずつ指でたどった。それから紙を裏返して、何も書いていない裏まで見た。
「……これで、合っとるんですか」
「合っています。去年、銀貨三枚、多く納めていらっしゃいます」
粉屋は紙を胸に押し当てて、その場に立ち尽くした。台所の戸口で見ていた騎士の妻たちが、顔を見合わせた。税の納め先は辺境伯家の帳場で、多かった分は、その日のうちにヘスター様が帳場から返させた。
人が来るようになって何日目かの朝、ヘスター様が屋敷の東の一室を空けて、卓と椅子と、インク壺をいくつも運び込ませた。
「奥方様の机だよ。台所でやられると、鍋が置けないからね」
その日の昼、兄が騎士を一人連れて、休みの届けを取りに来た。騎士は戸口で背筋を伸ばして、私に言った。
「奥方様。届けを、ありがとうございました」
私は、ペンを持ったまま止まった。
「まだ、婚礼の前です」
「北じゃ、一回そう呼んだら、そう決まりだよ」
廊下から、ヘスター様の声がした。兄は騎士の後ろで、笑いを噛み殺していた。
* * *
その夜、机の上の手紙の束を数えていると、戸口にダンカン様が立っていた。峠の見回りの帰りらしく、外套の肩が濡れていた。
束は、二十を超えていた。
「疲れていないか」
一回だけ、聞かれた。
「大丈夫です」
私の口は、やはり先に答えていた。




