一回でいい
北の朝は、黙って出てくる。
坂の上のヘスター様の屋敷で目を覚ますと、朝の鐘が鳴り終わる前に、台所から黒パンと燻した鱒と熱い麦の粥が運ばれてきた。何を食べたいかは、誰も聞かなかった。王都の屋敷では、朝食の献立は前の晩にジニーが決めていたので、私は聞かれないことに慣れている。けれど、ここでは理由が違うらしかった。
「北の朝は、出たものを食べる。部屋は東で、窓から峠が見える。朝は早いよ。足りないものは一回で言いな。二回は聞かないよ」
ヘスター様は粥の鍋をかき回しながら、一回でそう言った。昨夜、靴が合っていないと見抜いた人だ。私が食卓まで歩く間も、目は私の足元にあった。
(一回目、と数えかけて、やめた)
ここで三回言う必要はない。足りないものは、一回で言えばいい。
「ヘスター様。靴が、合いません」
言ってみると、考えていたよりも、ずいぶん短い言葉だった。
ヘスター様は鍋から顔を上げて、一回だけ頷いた。
「それでいい。午後、町の靴屋を呼ぶよ」
ヘスター様は鍋に戻り、グウェンが私の皿に粥をよそった。誰も、あなたは大丈夫でしょう、とは言わなかった。
* * *
朝食が済むと、ダンカン様が迎えに来た。
玄関で私を見るなり、ダンカン様は「一回で言うことがある。斜面まで来てくれ」とだけ言った。今日の朝の見回りは、兄が代わったのだという。ダンカン様は外套の下に、王都で見た黒の礼装ではなく、北の騎士団の厚い上着を着ていた。そのほうが、ずっとこの人に似合っていた。
館の東の斜面を、二人で上った。足は、グウェンが旅の靴の踵に布を詰めてくれたけれど、まだ少し痛かった。ダンカン様は何も聞かなかったけれど、上り坂で私の歩幅が狭くなると、黙って自分の歩幅を合わせた。
斜面の途中で振り返ると、雪の消えた峠が見えた。灰色の岩肌の上に、空が近い。
「あれが、兄が見回っている峠ですか」
「そうだ。冬は半年近く、雪で閉ざされる」
斜面の上まで来て、私は足を止めた。
林檎の木が、三本だけ白かった。
下のほうの木は盛りを過ぎて、花びらがほとんど落ちている。斜面の上の三本だけが、まだ枝いっぱいに白い花を残していた。北の風に揺れて、花びらが一枚、私の肩に落ちた。
北の林檎は、もう花が終わったでしょうか。
旅の途中で、馬車の窓から、私は一回だけそう言った。返事は、北は遅い、の一言だった。それきり、私も忘れていた。
「……覚えていらしたのですか」
「一回聞いた」
ダンカン様は、それだけ言った。
それから、一番手前の木の幹に手を当てた。幹には、古い添え木の跡が残っていた。
「この三本は、母が王都から苗を持ってきて植えた。北の土に合わなくて、枯れかけた。父が添え木をして、冬は藁で巻いた」
ダンカン様の母上は、ダンカン様が幼いころに亡くなったと、旅の途中でオズから聞いていた。
「王都の林檎は、北では咲くのがひと月遅れる。そのかわり、斜面の上は風がよく当たるから、花が長く持つ。下の木が散っても、この三本だけは残る」
王都から来て、北の土に合わずに枯れかけて、それでも手をかけてもらって、遅れて咲く木。
私は、白い花を見上げた。
ダンカン様は、林檎の木を見たまま、もう一言だけ言った。
「ウィラ。北では、欲しいものは一回で言え。私が、全部取りに行く」
玄関で言っていた「一回で言うこと」は、これだったのだと思った。
三回言っても届かなかった家から来た私に、この人は、取りに行くのは自分だと言う。
嬉しかった。けれど、全部を取りに行ってもらうのは、祖母の教えとは少し違う気がした。祖母は、タルトの代金を私の貯金箱から出させた人だ。
「では、私が自分で取りに行けるものは、自分で取りに行きます。取りに行けないものだけ、一回で言います」
ダンカン様は少しだけ考えて、一回で頷いた。
「それでいい」
* * *
花の下で、私はふと、言いたいことがあるのに気づいた。
口を開きかけて、いつもの癖で、心の中で数え始める。
(一回目――)
「一回でいい」
ダンカン様が言った。私の顔を見ただけで、分かったらしい。
「ここは北だ。一回で言えば、一回で聞く」
私は少しだけ迷ってから、一回で言った。
「手を、つないでいただけますか」
ダンカン様は、返事の代わりに私の手を取った。大きくて、温かい手だった。王都の舞踏会で、手袋越しに温かかった手と同じ手だ。今日は手袋をしていなかった。
指を絡めると、ダンカン様は峠のほうへ顔を向けて、黙っていた。けれど、黒い髪の下の耳が、少しずつ赤くなっていった。
耳の赤みが一段濃くなるのを、私は数えた。一回、二回。三回目で、ダンカン様の耳は、林檎の実が熟したときのような色になった。
(これは、数えてもいいものだ)
* * *
斜面を下りて、館の町へ続く坂の下まで来たとき、道の脇に一人の女の人が立っていた。
黒い服を着た、私より少し年上の若い人だった。髪をきつく後ろでまとめて、両手で何かを胸に抱えている。
ダンカン様が、私の手を握ったまま、一回だけ足を止めた。
「キルスティだ。騎士ロブの妻だった。ロブは何年か前の冬、峠の雪崩で死んだ」
キルスティと呼ばれた人は、ダンカン様に深く頭を下げた。それから、私のほうへ向き直った。
「奥方様になる方に、一回だけお願いがあります」
北の人の、一回だった。
女の人が胸から下ろしたのは、封の切れた一通の書状だった。王都の役所の、硬い紙だ。角に、王宮の軍務院の印が押してある。
「これが来てから、夫の恩給が止まりました」




