エピローグ 欲望に忠実なんでね
鉄格子の向こうで、黒狼が昼寝をしていた。
狭い石の寝台に大きな体を窮屈そうに押しこみ、腕を枕にして、盛大にいびきをかいている。
レオニスは、格子の前にしゃがみこんだ。
「……人が来てやったってのに、昼寝かよ」
いびきが、止まった。
片目だけが開く。鈍く光る、鋼色の目。
「牢屋ってのはな、昼寝くらいしかすることがねえんだよ」
「わかる」
「わかるな」
ガルドは、のっそりと身を起こした。
あの夜から、ひと月が経っていた。
王都の牢獄の、いちばん奥の房だった。伯爵家の使いということにして、レオニスはときどき、ここへ顔を出している。黒い聖印は、外套の襟の内側にしまったままだ。
錠前は、ありふれた鉄の錠だった。この男がひと言「寄越せ」と言えば、鍵ごと手の中に落ちてくるだろう。
それでも、ガルドはひと月、ここにいた。
いつだったか、訊いたことがある。
「逃げねえのか」
ガルドは、鼻で笑った。
「裁かれてやるって、決めたんだよ」
それから、少しだけ声を落とした。
「……俺が、選んだ」
房の壁は、絵で埋まっていた。
子供の描いた絵だ。大きな黒い熊のようなもの。髪にリボンを結んだ女の人。手をつないだ、小さな人がふたり。色も形もでたらめで、けれど、どれも力いっぱいに描かれている。
エルナが、毎週、子供たちの絵を持って面会に来るのだ。
「ほらよ。差し入れだ」
レオニスは、布に包んだパンを、格子の間から差し入れた。
ガルドはひと口かじって、顔をしかめた。
「……焦げてるじゃねえか」
「弟子入りして、ひと月だぞ。上出来だろ」
「弟子?」
「川沿いのパン屋のな。――ミルテって村から出てきたガキが、焼いた」
ガルドの顎が、止まった。
ミルテ。黒狼団に麦を納めていた、貢ぎ村のひとつ。
「そいつの母親はな、娘の足首の鎖に、鉈を振り下ろしたんだ。何度も。……それで、抵抗したってことにされた」
レオニスは、静かに言った。
「そのガキが、あんたに持ってけってさ。『憎いよ』って言いながら。『でも、牢屋のごはんって、まずいんでしょ』って」
ガルドは、長いこと、手の中のパンを見つめていた。
それから、もうひと口、かじった。
ゆっくりと。噛みしめるように。
「……焦げてるな」
声が、少しだけ、かすれていた。
最後のひとかけらを呑みこんでから、ガルドが、ぼそりと訊いた。
「イルザは」
「里にいる。ミルテの連中が決めたんだと。『裁きは王都に任せる。それまで、ガキどもの面倒は見ろ』ってさ」
「……あいつに、ガキの世話かよ」
ガルドは、喉の奥で笑った。
ミルテの村人たちは、今では自分たちの麦を荷馬車に積んで、王都まで売りに来る。そのついでに、パン屋のユナを訪ねていったのだという。止まっていた水車が、また回りはじめたこと。慈悲の石で記憶を奪われていた女が、死んだ息子のことを思い出して、声を上げて泣いたこと。泣きながら、息子の話を、いつまでもしていたこと。――全部、ユナから聞いた話だった。
あの夜から、ガルドの《強奪》は、少しずつほどけていった。握りしめていたものが、指の間からこぼれていくように。奪われていた記憶は、ひとつ残らず、持ち主のもとへ還った。
黒狼団は、もうない。
あの朝、騎士団に引き立てられていく前に、ガルドが手下たちに残した最後の命令は、ひと言だけだったという。
――好きにしろ。
罪を犯した者は、裁きを待っている。帰る場所のある者は、帰っていった。別の生き方を探しに、旅に出た者もいる。里に残った男たちは、慣れない鍬を握って、自分たちの麦を育てはじめたらしい。
ガルドが、また訊いた。
「ドルフは」
「ミルテにいる」
ガルドの眉が、ぴくりと動いた。
「石を配った村に、自分の足で詫びを入れに行ったんだと。追い返されるかと思ったら、水車小屋に放りこまれたらしい。裁きが来るまで、粉でも挽いてろってさ」
ガルドは、天井を仰いだ。
「……あのドルフが、なあ」
そのまま、口の端を、ふっと上げる。
「会ったら、言っとけ。――よくやった、ってな」
――頭に、褒めてもらうんだぁっ!
黒い火の雨を降らせながら、裏返った声でそう叫んでいた若者のことを、レオニスは思い出していた。
「……おう。伝えとく」
ガルドは、もうひとつ訊いた。
「ボルグは」
「今日だ」
レオニスは、格子にもたれた。
「今ごろ、裁きの場に立ってる。自分から出ていったんだ。……証言台には、ミレイアが立つ」
ガルドは、しばらく黙っていた。
「……嬢ちゃんは、何を言うんだろうな」
「さあな。決めるのは、あいつだ」
ガルドは、壁の絵に目をやった。
「伯爵の野郎がな」
ぼそりと、言う。
「親父のしたことを、全部おおやけにしやがった。狼谷の村のことも、銀の鉱脈のことも。……自分の家の名前に、自分で泥を塗りやがって」
「知ってる」
「馬鹿な野郎だ」
そう言ったガルドの声は、少しも、馬鹿にしているようには聞こえなかった。
壁の絵の一枚に、たどたどしい字が並んでいた。
ガルドの太い指が、その字をなぞる。
「……なあ。これ、なんて書いてある」
レオニスは、格子に顔を寄せた。
大きな黒い熊のような人と、リボンの女の人が、手をつないでいる絵だった。その下に、大きさのばらばらな字が、一生懸命に並んでいる。七つくらいの、あの男の子の字だろう。
「……『おじさまへ。こんど、おかあさまが、ちいさかったときの、おはなしを、してね』」
ガルドの指が、止まった。
鋼色の目が、字の上で、動かなくなった。
それから、大きな手が、ゆっくりと顔を覆った。
「……ちっこかったよ」
手のひらの向こうで、くぐもった声がした。
「泣き虫でな。俺の後ろばっかり、ついてきやがって。……転ぶたびに、ガルドにいちゃん、って」
レオニスは、何も言わなかった。
黙って、格子の前に座っていた。
やがて、ガルドが顔を上げた。目が、赤かった。
「……で。お前は、いつまで王都にいる」
「さあな。あんたがここを出たら、上等の葡萄酒をおごってもらう約束だしな」
「してねえよ、そんな約束」
「今、した。それと、ボルグのおっさんのシチューも、もう一回食いたい。里のガキどもにも会いに行きてえし、イルザにも、馬の礼を言わなきゃなんねえ。それから――」
ガルドが、噴き出した。
「欲張りだな、お前は」
笑いながら、首を振る。
「……今度なんか欲しくなったら、奪う前に頼んでみるわ」
「おう。俺にでも頼めよ。気が向いたら聞いてやる」
ガルドは、しばらくレオニスの顔を見ていた。
それから、寝台の脇に手を伸ばした。
石板だった。白墨が一本、添えてある。
「エルナの奴が、先週、置いていきやがった」
ガルドは、ばつが悪そうに鼻を鳴らした。
「あいつに教わるのは、癪でな」
石板を、格子の間から差し出してくる。
「……頼む」
大きな男が、目を逸らしたまま言った。
「字を、教えてくれ」
レオニスは、にっと笑った。
「気が向いた」
石板を受け取り、白墨で、ゆっくりと書く。
――エルナ。
「最初は、これだろ」
ガルドは、差し戻された石板を、両手で受け取った。
食い入るように、その名前を見つめる。太い指で、白墨の跡をなぞる。一度。二度。
石板は、今度は、さかさまじゃなかった。
◆
罪状帳は、三十日目で止まっていた。
――二十七日目:昼寝。
――二十八日目:昼寝。
――二十九日目:昼寝。
――三十日目:起床。シチュー五杯。
あの朝、大聖堂の身廊で倒れこんできた人は、それから三日三晩、眠りつづけた。目を覚ますなり、腹が減ったと言った。
それきり、帳面には何も書いていない。
書くことが、なかったわけではない。何を罪状と呼べばいいのか、わからなくなっていたのだ。
王都の裁きの間は、白い石でできていた。
高い窓から冬の光が差しこみ、磨かれた床に、まっすぐな影を落としている。正面の壇の上には、白い髭をたくわえた年老いた判事。その下に、枷をはめられた大男が立っていた。
熊のような体。剃り上げた頭。枷は、左の手首にしかはまっていない。右の袖は、空のまま腰紐に留めてある。
ボルグだった。
ひと月前、燃える孤児院の前で首を差し出した男は、あの夜が明けると、自分から騎士団の門を叩いたのだという。
判事が、乾いた声で言った。
「証人。前へ」
ミレイアは、証言台に立った。
傍聴の席が、ざわめいた。《麦穂亭》の娘だ、と誰かが囁くのが聞こえた。
判事が、ミレイアを見下ろした。
「九年前の秋のことを、話しなさい」
ミレイアは、息を吸った。
剣を振る前のように。けれど、怒りを腹の底へ沈めるためではなかった。
「街道沿いの宿屋、《麦穂亭》に押し入り、主人と女将を斧で殺したのは、この人です」
声は、震えなかった。
「主人は、武器を持っていませんでした。両手を広げて、立っていただけです。女将は、台所の床の上に、覆いかぶさっていました」
ボルグは、目を伏せたまま、動かなかった。
「その床の下に、私がいました」
裁きの間が、静まり返った。
「それから」
ミレイアは、続けた。
「ひと月前の、新月の夜。燃える陽だまりの家から、子供たちを抱えて出てきたのも、この人です。……私が見たのは、それで全部です」
判事が、白い眉を上げた。
「被告を、許すということか」
ミレイアは、まっすぐに判事を見返した。
「いいえ。許してはいません。……見たことを、見たとおりに申し上げました」
多すぎもせず、少なすぎもしない。
足しもせず、削りもしない。
それが、この目で見た、ありのままの真実だった。
証言台を降りて、扉へ向かう。
ボルグの横を過ぎるとき、低い声がした。
「……嬢ちゃん」
ミレイアは、足を止めた。振り返りはしなかった。
背中に、かすれた声が届いた。
「……ありがとよ」
ミレイアは、前を向いたまま答えた。
「お礼を言われることは、何も言っていません」
それだけ言って、裁きの間を出た。
大聖堂前の広場に、人だかりができていた。
掲示板に、真新しい布告が貼り出されている。白銀の太陽の紋章。聖光教会の印だった。
――新月の夜、王都を災いより救いしは、聖なる光の奇跡なり。
ミレイアは、しばらく、その一文を睨みつけていた。
大聖堂の祭壇の足もとに口を開けていた裂け目は、あの朝のうちに、跡形もなく閉じていた。教会は、地の底の神殿のことも、黒い扉のことも、何ひとつ語らない。
騎士団からの呼び出しも、あの日から一度も来なかった。
光の奇跡に、闇司祭の出る幕はない。――だから、誰も追ってこないのだ。
布告の前で、パン籠を抱えた女が、肩をすくめた。
「光だか闇だか知らないけどさ。……あの晩、パン屋の親父がくれたパンは、うまかったよ」
ミレイアは、少しだけ、唇の端を上げた。
それから、踵を返した。
宿に戻って、旅装に着替えなければならない。
◆
昼酒ほど尊いものは、この世にそうはない。
川沿いのパン屋の奥の、卓が三つきりの小さな食堂。冬の薄日が窓から差しこみ、竈の火がぱちぱちと鳴っている。目の前には、湯気の立つシチューと、なみなみと注いだ黒麦酒の杯。
完璧だった。
レオニス・アルヴェイン、二十二歳。
職業、闇司祭。
目下の欲望――日暮れまでに、この杯を、あと三杯空けること。
頭の上から、野太い声が降ってきた。
「世界を救った闇司祭様が、こんなところで飲んだくれてるのかい?」
粉だらけの前掛けをした、太った親父だった。この店の主人だ。
レオニスは、杯を掲げてみせた。
「俺だって少しくらい、いい思いしたっていいだろ。欲望に忠実なんでね」
「けっ」
親父は、鼻を鳴らした。
「うちの弟子が、言い張るもんでな。あの夜を連れてきたのは、この昼行灯だってよ」
竈のほうから、澄んだ声が飛んできた。
「だって、ほんとのことでしょ」
くすんだ麦わら色の髪の女の子が、焼きたてのパンを盆に載せて、こちらへ歩いてくるところだった。頬にも鼻の頭にも、白い粉がついている。
ユナだった。
母親が最後の日に切ったという不揃いな前髪は、少しだけ伸びていた。それでも、まだ切らずにいる。
ユナは、盆を卓に置きながら訊いた。
「渡してくれた?」
レオニスは、うなずいた。
「ああ。焦げてるって文句言いながら、全部食ってた」
ユナは、ほんの少しだけ、目を伏せた。
「……ふうん」
それから、小さく、もう一度。
「……そっか」
それ以上は、何も言わなかった。
レオニスは、シチューをひと匙すくった。
悪くない。根菜はよく煮えているし、肉もやわらかい。けれど――
「……こいつは、昼寝が足りねえな」
厨房の戸口で、親父が眉を吊り上げた。
「昼寝だあ?」
レオニスは、匙を振ってみせた。
「シチューだって、昼寝させてやんなきゃな。ひと晩、寝かせてみな。化けるぞ」
今朝、裁きの場に立ったはずの、片腕の料理番に教わった秘訣だった。
親父は、太い腕を組んで唸った。
「パン屋に、シチューの講釈を垂れやがって」
ぶつぶつ言いながら厨房へ引っこんでいく背中を見送って、ユナが、くすりと笑った。
レオニスは、頬杖をついた。
「パン屋、楽しいか」
ユナは少し考えてから、うなずいた。
「まだ、焦がしてばっかりだけど」
粉だらけの手を、前掛けで拭う。
「村の水車、止まってたでしょ。自分たちで食べるぶんの麦も、残らなかった。……だから、麦がパンになるところを、ちゃんと見てみたかったの」
それから、厨房のほうに目をやった。
「それに、ここのおじさん、あの夜、お腹を空かせた子に、お店のパンを全部配ったんだって。……そういう人に、教わりたかった」
ユナは、顔を上げた。
「お母さんの分も、ちゃんと自分で選んで生きるから」
レオニスは、何も言わずに、ユナの頭に手を置いた。
光ってはいない、ただの手を。
ユナは、くすぐったそうに首をすくめた。頬の粉は、まだ取れていない。
レオニスは懐を探って、青い小鳥の刺繍の手巾を差し出した。
「粉、ついてるぞ」
ユナは目を丸くして、それから、にっと笑った。
「貸すだけ、でしょ」
「……おう。貸すだけだ」
そのとき、食堂の戸が、勢いよく開いた。
冷たい風と一緒に入ってきたのは、旅装の娘だった。
肩で切りそろえた銀髪に、厚手の外套。腰には剣。胸で白銀の太陽の聖印が揺れていて、その下に、徽章はもうない。
ミレイアは、つかつかと卓の前まで来ると、いきなり言った。
「聞きましたか!」
レオニスは、匙をくわえたまま見上げた。
「何を」
ミレイアは、広場のほうを指さした。
「教会の布告です。新月の夜、王都を救ったのは聖なる光の奇跡だと。広場に、でかでかと……!」
怒りで、頬が赤くなっている。
レオニスは、肩をすくめた。
「誰が救ったかなんて、どうでもいいだろ」
ミレイアが、卓に手をついた。
「よくありません! あの夜、あなたが――」
レオニスは、杯を傾けた。
「あの夜、選んだのは、あいつら自身だ。……俺じゃねえよ」
ミレイアは、何か言い返そうとして――口を閉じた。
それから、深々と、溜め息をついた。
「……また昼間からお酒ですか」
「俺の幸せなんだよ」
ミレイアが、じっとこちらを見た。
「……本当に?」
「もちろん」
ミレイアが、噴き出した。
レオニスも、笑った。
竈の前で、ユナが手巾を握ったまま、ふたりを見て笑っていた。
ひとしきり笑ってから、ミレイアは、向かいの椅子に腰を下ろした。
外套の襟を、指で整える。
「旅に出ることにしました」
静かな声だった。
「自分が何を守りたいのか、考えるために」
そこで、ちらりとレオニスの杯に目をやった。
「……あなたの監視も兼ねて」
まずは黒狼の里へ行くのだという。イルザに、借りたままの黒い馬を返しに。それから――
「里の子に、訊かれたんです。また来るのか、って。……あのとき、答えられなかったので」
レオニスは、にやりと笑った。
「それ、お前の欲?」
ミレイアは、少しだけ目を見開いた。
それから、まっすぐにレオニスを見て、うなずいた。
「……はい。私の欲です」
ミレイアは、懐から革表紙の帳面を取り出した。
罪状帳。騎士団長の机から持ち帰った、あの帳面だ。
ペン先が、紙の上を走る。
レオニスは、首を伸ばして覗きこんだ。
――本日:昼間から飲酒。
そこまで書いて、ミレイアはペンを止めた。少し考えて、一行、書き足す。
――世界を救った件については、保留とする。
レオニスは、眉を寄せた。
「……保留って、なんだよ」
ミレイアは、澄ました顔で帳面を閉じた。
「罪状かどうか、まだ判断していませんので」
それから、革表紙を、そっと胸に当てる。
「私の目で見て、私が判断します。――これから、ゆっくりと」
レオニスは、残りの黒麦酒を、ぐいと飲み干した。
「じゃ、行くか。……の前に、昼寝をあと半刻」
「駄目です」
「じゃあ、一刻半」
「増えています!」
厨房の奥で、親父の笑い声がした。
ミレイアは、呆れたように立ち上がった。
「……馬を連れてきます。戻るまでに、支度を済ませておいてください」
戸口で振り返り、付け加える。
「半刻だけ、ですよ」
冷たい風を残して、戸が閉まった。
レオニスは椅子の背にもたれて、窓の外を眺めた。
川沿いの通りを、冬の薄日が照らしていた。
薪を背負った痩せた老人が、かじかんだ手に息を吹きかけながら歩いていく。橋のたもとでは、荷車の男がふたり、どちらが先に渡るかで怒鳴りあっている。黒い喪服の女が、白い花を抱えて、墓地のほうへ歩いていく。
転んで泣きだした小さな子に、通りがかりの子供が、手を差し出していた。泣いていた子は、その手を、じっと見ている。掴むかどうか、迷うように。
前掛けを外した若い娘が、籠を抱えて、笑いながら通りを横切っていった。
貧しい人がいる。争いもある。悲しみも、消えてはいない。
世界は、完璧じゃない。
それでも、人々は、自分で選んで、笑って、泣いて、明日を生きようとしている。
昼の光の下では、星は見えない。
けれど――あの夜の星は、きっと今も、ひとりひとりの胸の上に灯っている。
「……それでいい」
レオニスは、小さく呟いた。
自分の欲は、といえば。
昼寝と、うまい飯と、うまい酒。あと、できればモテたい。
今日も、山ほどある。
けれど、それを全部手放したとしても、最後にひとつだけ残る欲がある。
七年前、黒い鏡の前で口にしたときとは、ほんの少しだけ、言葉の変わった欲が。
外套の襟の内側に、指を入れる。
ランタンをかたどった、黒鉄の小さな聖印。
レオニスは、目を閉じた。
黒き母に祈るなんて、柄じゃない。それでも、この欲だけは。
世界を変えてくれとは、願わない。
誰かを幸せにしてくれとも、願わない。
ただ――
――みんな、自分が欲しいものを、選べますように。
窓から差しこむ冬の陽が、空になった杯の縁で、ちかりと光った。
それが、レオニスという男の、最後の欲だった。




