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光の闇司祭① 黒狼の楽園  作者: parupuntist


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9/10

エピローグ 欲望に忠実なんでね

 鉄格子の向こうで、黒狼が昼寝をしていた。


 狭い石の寝台に大きな体を窮屈そうに押しこみ、腕を枕にして、盛大にいびきをかいている。


 レオニスは、格子の前にしゃがみこんだ。


「……人が来てやったってのに、昼寝かよ」


 いびきが、止まった。


 片目だけが開く。鈍く光る、鋼色の目。


「牢屋ってのはな、昼寝くらいしかすることがねえんだよ」


「わかる」


「わかるな」


 ガルドは、のっそりと身を起こした。


 あの夜から、ひと月が経っていた。


 王都の牢獄の、いちばん奥の房だった。伯爵家の使いということにして、レオニスはときどき、ここへ顔を出している。黒い聖印は、外套の襟の内側にしまったままだ。


 錠前は、ありふれた鉄の錠だった。この男がひと言「寄越せ」と言えば、鍵ごと手の中に落ちてくるだろう。


 それでも、ガルドはひと月、ここにいた。


 いつだったか、訊いたことがある。


「逃げねえのか」


 ガルドは、鼻で笑った。


「裁かれてやるって、決めたんだよ」


 それから、少しだけ声を落とした。


「……俺が、選んだ」


 房の壁は、絵で埋まっていた。


 子供の描いた絵だ。大きな黒い熊のようなもの。髪にリボンを結んだ女の人。手をつないだ、小さな人がふたり。色も形もでたらめで、けれど、どれも力いっぱいに描かれている。


 エルナが、毎週、子供たちの絵を持って面会に来るのだ。


「ほらよ。差し入れだ」


 レオニスは、布に包んだパンを、格子の間から差し入れた。


 ガルドはひと口かじって、顔をしかめた。


「……焦げてるじゃねえか」


「弟子入りして、ひと月だぞ。上出来だろ」


「弟子?」


「川沿いのパン屋のな。――ミルテって村から出てきたガキが、焼いた」


 ガルドの顎が、止まった。


 ミルテ。黒狼団に麦を納めていた、貢ぎ村のひとつ。


「そいつの母親はな、娘の足首の鎖に、鉈(なた)を振り下ろしたんだ。何度も。……それで、抵抗したってことにされた」


 レオニスは、静かに言った。


「そのガキが、あんたに持ってけってさ。『憎いよ』って言いながら。『でも、牢屋のごはんって、まずいんでしょ』って」


 ガルドは、長いこと、手の中のパンを見つめていた。


 それから、もうひと口、かじった。


 ゆっくりと。噛みしめるように。


「……焦げてるな」


 声が、少しだけ、かすれていた。


 最後のひとかけらを呑みこんでから、ガルドが、ぼそりと訊いた。


「イルザは」


「里にいる。ミルテの連中が決めたんだと。『裁きは王都に任せる。それまで、ガキどもの面倒は見ろ』ってさ」


「……あいつに、ガキの世話かよ」


 ガルドは、喉の奥で笑った。


 ミルテの村人たちは、今では自分たちの麦を荷馬車に積んで、王都まで売りに来る。そのついでに、パン屋のユナを訪ねていったのだという。止まっていた水車が、また回りはじめたこと。慈悲の石で記憶を奪われていた女が、死んだ息子のことを思い出して、声を上げて泣いたこと。泣きながら、息子の話を、いつまでもしていたこと。――全部、ユナから聞いた話だった。


 あの夜から、ガルドの《強奪》は、少しずつほどけていった。握りしめていたものが、指の間からこぼれていくように。奪われていた記憶は、ひとつ残らず、持ち主のもとへ還った。


 黒狼団は、もうない。


 あの朝、騎士団に引き立てられていく前に、ガルドが手下たちに残した最後の命令は、ひと言だけだったという。


 ――好きにしろ。


 罪を犯した者は、裁きを待っている。帰る場所のある者は、帰っていった。別の生き方を探しに、旅に出た者もいる。里に残った男たちは、慣れない鍬(くわ)を握って、自分たちの麦を育てはじめたらしい。


 ガルドが、また訊いた。


「ドルフは」


「ミルテにいる」


 ガルドの眉が、ぴくりと動いた。


「石を配った村に、自分の足で詫びを入れに行ったんだと。追い返されるかと思ったら、水車小屋に放りこまれたらしい。裁きが来るまで、粉でも挽(ひ)いてろってさ」


 ガルドは、天井を仰いだ。


「……あのドルフが、なあ」


 そのまま、口の端を、ふっと上げる。


「会ったら、言っとけ。――よくやった、ってな」


 ――頭(かしら)に、褒めてもらうんだぁっ!


 黒い火の雨を降らせながら、裏返った声でそう叫んでいた若者のことを、レオニスは思い出していた。


「……おう。伝えとく」


 ガルドは、もうひとつ訊いた。


「ボルグは」


「今日だ」


 レオニスは、格子にもたれた。


「今ごろ、裁きの場に立ってる。自分から出ていったんだ。……証言台には、ミレイアが立つ」


 ガルドは、しばらく黙っていた。


「……嬢ちゃんは、何を言うんだろうな」


「さあな。決めるのは、あいつだ」


 ガルドは、壁の絵に目をやった。


「伯爵の野郎がな」


 ぼそりと、言う。


「親父のしたことを、全部おおやけにしやがった。狼谷の村のことも、銀の鉱脈のことも。……自分の家の名前に、自分で泥を塗りやがって」


「知ってる」


「馬鹿な野郎だ」


 そう言ったガルドの声は、少しも、馬鹿にしているようには聞こえなかった。


 壁の絵の一枚に、たどたどしい字が並んでいた。


 ガルドの太い指が、その字をなぞる。


「……なあ。これ、なんて書いてある」


 レオニスは、格子に顔を寄せた。


 大きな黒い熊のような人と、リボンの女の人が、手をつないでいる絵だった。その下に、大きさのばらばらな字が、一生懸命に並んでいる。七つくらいの、あの男の子の字だろう。


「……『おじさまへ。こんど、おかあさまが、ちいさかったときの、おはなしを、してね』」


 ガルドの指が、止まった。


 鋼色の目が、字の上で、動かなくなった。


 それから、大きな手が、ゆっくりと顔を覆った。


「……ちっこかったよ」


 手のひらの向こうで、くぐもった声がした。


「泣き虫でな。俺の後ろばっかり、ついてきやがって。……転ぶたびに、ガルドにいちゃん、って」


 レオニスは、何も言わなかった。


 黙って、格子の前に座っていた。


 やがて、ガルドが顔を上げた。目が、赤かった。


「……で。お前は、いつまで王都にいる」


「さあな。あんたがここを出たら、上等の葡萄(ぶどう)酒をおごってもらう約束だしな」


「してねえよ、そんな約束」


「今、した。それと、ボルグのおっさんのシチューも、もう一回食いたい。里のガキどもにも会いに行きてえし、イルザにも、馬の礼を言わなきゃなんねえ。それから――」


 ガルドが、噴き出した。


「欲張りだな、お前は」


 笑いながら、首を振る。


「……今度なんか欲しくなったら、奪う前に頼んでみるわ」


「おう。俺にでも頼めよ。気が向いたら聞いてやる」


 ガルドは、しばらくレオニスの顔を見ていた。


 それから、寝台の脇に手を伸ばした。


 石板だった。白墨が一本、添えてある。


「エルナの奴が、先週、置いていきやがった」


 ガルドは、ばつが悪そうに鼻を鳴らした。


「あいつに教わるのは、癪(しゃく)でな」


 石板を、格子の間から差し出してくる。


「……頼む」


 大きな男が、目を逸らしたまま言った。


「字を、教えてくれ」


 レオニスは、にっと笑った。


「気が向いた」


 石板を受け取り、白墨で、ゆっくりと書く。


 ――エルナ。


「最初は、これだろ」


 ガルドは、差し戻された石板を、両手で受け取った。


 食い入るように、その名前を見つめる。太い指で、白墨の跡をなぞる。一度。二度。


 石板は、今度は、さかさまじゃなかった。


◆


 罪状帳は、三十日目で止まっていた。


 ――二十七日目:昼寝。


 ――二十八日目:昼寝。


 ――二十九日目:昼寝。


 ――三十日目:起床。シチュー五杯。


 あの朝、大聖堂の身廊で倒れこんできた人は、それから三日三晩、眠りつづけた。目を覚ますなり、腹が減ったと言った。


 それきり、帳面には何も書いていない。


 書くことが、なかったわけではない。何を罪状と呼べばいいのか、わからなくなっていたのだ。


 王都の裁きの間は、白い石でできていた。


 高い窓から冬の光が差しこみ、磨かれた床に、まっすぐな影を落としている。正面の壇の上には、白い髭をたくわえた年老いた判事。その下に、枷(かせ)をはめられた大男が立っていた。


 熊のような体。剃り上げた頭。枷は、左の手首にしかはまっていない。右の袖は、空(から)のまま腰紐に留めてある。


 ボルグだった。


 ひと月前、燃える孤児院の前で首を差し出した男は、あの夜が明けると、自分から騎士団の門を叩いたのだという。


 判事が、乾いた声で言った。


「証人。前へ」


 ミレイアは、証言台に立った。


 傍聴の席が、ざわめいた。《麦穂亭》の娘だ、と誰かが囁くのが聞こえた。


 判事が、ミレイアを見下ろした。


「九年前の秋のことを、話しなさい」


 ミレイアは、息を吸った。


 剣を振る前のように。けれど、怒りを腹の底へ沈めるためではなかった。


「街道沿いの宿屋、《麦穂亭》に押し入り、主人と女将(おかみ)を斧で殺したのは、この人です」


 声は、震えなかった。


「主人は、武器を持っていませんでした。両手を広げて、立っていただけです。女将は、台所の床の上に、覆いかぶさっていました」


 ボルグは、目を伏せたまま、動かなかった。


「その床の下に、私がいました」


 裁きの間が、静まり返った。


「それから」


 ミレイアは、続けた。


「ひと月前の、新月の夜。燃える陽だまりの家から、子供たちを抱えて出てきたのも、この人です。……私が見たのは、それで全部です」


 判事が、白い眉を上げた。


「被告を、許すということか」


 ミレイアは、まっすぐに判事を見返した。


「いいえ。許してはいません。……見たことを、見たとおりに申し上げました」


 多すぎもせず、少なすぎもしない。


 足しもせず、削りもしない。


 それが、この目で見た、ありのままの真実だった。


 証言台を降りて、扉へ向かう。


 ボルグの横を過ぎるとき、低い声がした。


「……嬢ちゃん」


 ミレイアは、足を止めた。振り返りはしなかった。


 背中に、かすれた声が届いた。


「……ありがとよ」


 ミレイアは、前を向いたまま答えた。


「お礼を言われることは、何も言っていません」


 それだけ言って、裁きの間を出た。


 大聖堂前の広場に、人だかりができていた。


 掲示板に、真新しい布告が貼り出されている。白銀の太陽の紋章。聖光教会の印だった。


 ――新月の夜、王都を災いより救いしは、聖なる光の奇跡なり。


 ミレイアは、しばらく、その一文を睨みつけていた。


 大聖堂の祭壇の足もとに口を開けていた裂け目は、あの朝のうちに、跡形もなく閉じていた。教会は、地の底の神殿のことも、黒い扉のことも、何ひとつ語らない。


 騎士団からの呼び出しも、あの日から一度も来なかった。


 光の奇跡に、闇司祭の出る幕はない。――だから、誰も追ってこないのだ。


 布告の前で、パン籠を抱えた女が、肩をすくめた。


「光だか闇だか知らないけどさ。……あの晩、パン屋の親父がくれたパンは、うまかったよ」


 ミレイアは、少しだけ、唇の端を上げた。


 それから、踵(きびす)を返した。


 宿に戻って、旅装に着替えなければならない。


◆


 昼酒ほど尊いものは、この世にそうはない。


 川沿いのパン屋の奥の、卓が三つきりの小さな食堂。冬の薄日が窓から差しこみ、竈(かまど)の火がぱちぱちと鳴っている。目の前には、湯気の立つシチューと、なみなみと注いだ黒麦酒(ビール)の杯(さかずき)。


 完璧だった。


 レオニス・アルヴェイン、二十二歳。


 職業、闇司祭。


 目下(もっか)の欲望――日暮れまでに、この杯を、あと三杯空けること。


 頭の上から、野太い声が降ってきた。


「世界を救った闇司祭様が、こんなところで飲んだくれてるのかい?」


 粉だらけの前掛けをした、太った親父だった。この店の主人だ。


 レオニスは、杯を掲げてみせた。


「俺だって少しくらい、いい思いしたっていいだろ。欲望に忠実なんでね」


「けっ」


 親父は、鼻を鳴らした。


「うちの弟子が、言い張るもんでな。あの夜を連れてきたのは、この昼行灯(ひるあんどん)だってよ」


 竈のほうから、澄んだ声が飛んできた。


「だって、ほんとのことでしょ」


 くすんだ麦わら色の髪の女の子が、焼きたてのパンを盆に載せて、こちらへ歩いてくるところだった。頬にも鼻の頭にも、白い粉がついている。


 ユナだった。


 母親が最後の日に切ったという不揃いな前髪は、少しだけ伸びていた。それでも、まだ切らずにいる。


 ユナは、盆を卓に置きながら訊いた。


「渡してくれた?」


 レオニスは、うなずいた。


「ああ。焦げてるって文句言いながら、全部食ってた」


 ユナは、ほんの少しだけ、目を伏せた。


「……ふうん」


 それから、小さく、もう一度。


「……そっか」


 それ以上は、何も言わなかった。


 レオニスは、シチューをひと匙(さじ)すくった。


 悪くない。根菜はよく煮えているし、肉もやわらかい。けれど――


「……こいつは、昼寝が足りねえな」


 厨房の戸口で、親父が眉を吊り上げた。


「昼寝だあ?」


 レオニスは、匙を振ってみせた。


「シチューだって、昼寝させてやんなきゃな。ひと晩、寝かせてみな。化けるぞ」


 今朝、裁きの場に立ったはずの、片腕の料理番に教わった秘訣だった。


 親父は、太い腕を組んで唸った。


「パン屋に、シチューの講釈を垂れやがって」


 ぶつぶつ言いながら厨房へ引っこんでいく背中を見送って、ユナが、くすりと笑った。


 レオニスは、頬杖をついた。


「パン屋、楽しいか」


 ユナは少し考えてから、うなずいた。


「まだ、焦がしてばっかりだけど」


 粉だらけの手を、前掛けで拭う。


「村の水車、止まってたでしょ。自分たちで食べるぶんの麦も、残らなかった。……だから、麦がパンになるところを、ちゃんと見てみたかったの」


 それから、厨房のほうに目をやった。


「それに、ここのおじさん、あの夜、お腹を空(す)かせた子に、お店のパンを全部配ったんだって。……そういう人に、教わりたかった」


 ユナは、顔を上げた。


「お母さんの分も、ちゃんと自分で選んで生きるから」


 レオニスは、何も言わずに、ユナの頭に手を置いた。


 光ってはいない、ただの手を。


 ユナは、くすぐったそうに首をすくめた。頬の粉は、まだ取れていない。


 レオニスは懐を探って、青い小鳥の刺繍の手巾(ハンカチ)を差し出した。


「粉、ついてるぞ」


 ユナは目を丸くして、それから、にっと笑った。


「貸すだけ、でしょ」


「……おう。貸すだけだ」


 そのとき、食堂の戸が、勢いよく開いた。


 冷たい風と一緒に入ってきたのは、旅装の娘だった。


 肩で切りそろえた銀髪に、厚手の外套。腰には剣。胸で白銀の太陽の聖印が揺れていて、その下に、徽章(きしょう)はもうない。


 ミレイアは、つかつかと卓の前まで来ると、いきなり言った。


「聞きましたか!」


 レオニスは、匙をくわえたまま見上げた。


「何を」


 ミレイアは、広場のほうを指さした。


「教会の布告です。新月の夜、王都を救ったのは聖なる光の奇跡だと。広場に、でかでかと……!」


 怒りで、頬が赤くなっている。


 レオニスは、肩をすくめた。


「誰が救ったかなんて、どうでもいいだろ」


 ミレイアが、卓に手をついた。


「よくありません! あの夜、あなたが――」


 レオニスは、杯を傾けた。


「あの夜、選んだのは、あいつら自身だ。……俺じゃねえよ」


 ミレイアは、何か言い返そうとして――口を閉じた。


 それから、深々と、溜め息をついた。


「……また昼間からお酒ですか」


「俺の幸せなんだよ」


 ミレイアが、じっとこちらを見た。


「……本当に?」


「もちろん」


 ミレイアが、噴き出した。


 レオニスも、笑った。


 竈の前で、ユナが手巾を握ったまま、ふたりを見て笑っていた。


 ひとしきり笑ってから、ミレイアは、向かいの椅子に腰を下ろした。


 外套の襟を、指で整える。


「旅に出ることにしました」


 静かな声だった。


「自分が何を守りたいのか、考えるために」


 そこで、ちらりとレオニスの杯に目をやった。


「……あなたの監視も兼ねて」


 まずは黒狼の里へ行くのだという。イルザに、借りたままの黒い馬を返しに。それから――


「里の子に、訊かれたんです。また来るのか、って。……あのとき、答えられなかったので」


 レオニスは、にやりと笑った。


「それ、お前の欲?」


 ミレイアは、少しだけ目を見開いた。


 それから、まっすぐにレオニスを見て、うなずいた。


「……はい。私の欲です」


 ミレイアは、懐から革表紙の帳面を取り出した。


 罪状帳。騎士団長の机から持ち帰った、あの帳面だ。


 ペン先が、紙の上を走る。


 レオニスは、首を伸ばして覗きこんだ。


 ――本日:昼間から飲酒。


 そこまで書いて、ミレイアはペンを止めた。少し考えて、一行、書き足す。


 ――世界を救った件については、保留とする。


 レオニスは、眉を寄せた。


「……保留って、なんだよ」


 ミレイアは、澄ました顔で帳面を閉じた。


「罪状かどうか、まだ判断していませんので」


 それから、革表紙を、そっと胸に当てる。


「私の目で見て、私が判断します。――これから、ゆっくりと」


 レオニスは、残りの黒麦酒を、ぐいと飲み干した。


「じゃ、行くか。……の前に、昼寝をあと半刻(はんとき)」


「駄目です」


「じゃあ、一刻(いっとき)半」


「増えています!」


 厨房の奥で、親父の笑い声がした。


 ミレイアは、呆れたように立ち上がった。


「……馬を連れてきます。戻るまでに、支度を済ませておいてください」


 戸口で振り返り、付け加える。


「半刻だけ、ですよ」


 冷たい風を残して、戸が閉まった。


 レオニスは椅子の背にもたれて、窓の外を眺めた。


 川沿いの通りを、冬の薄日が照らしていた。


 薪を背負った痩せた老人が、かじかんだ手に息を吹きかけながら歩いていく。橋のたもとでは、荷車の男がふたり、どちらが先に渡るかで怒鳴りあっている。黒い喪服の女が、白い花を抱えて、墓地のほうへ歩いていく。


 転んで泣きだした小さな子に、通りがかりの子供が、手を差し出していた。泣いていた子は、その手を、じっと見ている。掴むかどうか、迷うように。


 前掛けを外した若い娘が、籠を抱えて、笑いながら通りを横切っていった。


 貧しい人がいる。争いもある。悲しみも、消えてはいない。


 世界は、完璧じゃない。


 それでも、人々は、自分で選んで、笑って、泣いて、明日を生きようとしている。


 昼の光の下では、星は見えない。


 けれど――あの夜の星は、きっと今も、ひとりひとりの胸の上に灯っている。


「……それでいい」


 レオニスは、小さく呟いた。


 自分の欲は、といえば。


 昼寝と、うまい飯と、うまい酒。あと、できればモテたい。


 今日も、山ほどある。


 けれど、それを全部手放したとしても、最後にひとつだけ残る欲がある。


 七年前、黒い鏡の前で口にしたときとは、ほんの少しだけ、言葉の変わった欲が。


 外套の襟の内側に、指を入れる。


 ランタンをかたどった、黒鉄の小さな聖印。


 レオニスは、目を閉じた。


 黒き母に祈るなんて、柄(がら)じゃない。それでも、この欲だけは。


 世界を変えてくれとは、願わない。


 誰かを幸せにしてくれとも、願わない。


 ただ――


 ――みんな、自分が欲しいものを、選べますように。


 窓から差しこむ冬の陽が、空になった杯の縁で、ちかりと光った。


 それが、レオニスという男の、最後の欲だった。

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