断章 白い聖女
この街は、泣いている。
白い馬車の窓から王都を眺めて、聖女はそう思った。
光の都と、人は呼ぶ。けれど今、その白い壁は、ところどころ煤けていた。焼け落ちた屋根。板を打ちつけたままの窓。大聖堂の裏手には、黒く焦げた建物の骨組みが、冬の空に突き立っている。教会の孤児院だった場所だと、道中で聞いた。
ひと月前の新月の夜、王都は聖なる光の奇跡によって救われた。教会は、そう告げた。
それでも、救われきらなかった人々がいる。
その涙を拭うために、聖女は遣わされたのだった。
馬車が、大聖堂前の広場で止まった。
扉が開くと、冬の光が、白い衣の裾を照らした。集まっていた人々が、いっせいに息を呑む。陽を透かしたような白金の髪。淡い金色の瞳。胸には、ひときわ大きな白銀の太陽の聖印。
――《白陽の聖女》さまだ。
誰かの囁きが、さざ波のように広がっていく。
聖女は、微笑んで人々を見渡した。
声を上げて泣いている者は、少ない。けれど、聖女にはわかる。みな、胸の奥で泣いている。失くしたものを抱えて、眠れない夜を数えている。
かわいそうに、と思う。
心の底から、そう思う。
袖を、小さく引かれた。
振り向くと、白い衣の少女が、亜麻色の髪を肩で揺らして、にこにこと笑っていた。
十七になるこの子は、もう十年以上、一度も泣いたことがない。凍える朝も、転んで膝を擦りむいた日も、ずっと笑っている。聖光教会の、いちばんの証。聖女の、自慢の子だ。
ただ、ときどき――夜更けに窓辺に立って、何かを探すように、空を見上げていることがある。
何を探しているの、と訊いても、この子は笑ったまま、首をかしげるだけだ。
夜は冷えるから、と、そのたびに聖女は、窓掛けを閉めてやる。
人垣の端に、喪服の女がいた。
白い花を胸に抱えて、声を殺して泣いている。墓地へ向かう途中だったのだろう。あの夜に、誰かを亡くしたのかもしれない。
聖女は、まっすぐに女のもとへ歩いていった。人垣が、音もなく割れていく。
女の前に膝をつき、花を抱えたままの両手を、そっと包みこむ。
冷たい手だった。
「もう、泣かなくていいのですよ」
胸の聖印が、白く灯った。
光は、あふれた。
女を包み、人垣を包み、広場いっぱいに広がっていく。石畳の上から、影という影が消えていった。人々の影も、馬車の影も、大聖堂の尖塔の影さえも。冬の昼下がりが、真昼よりも白く、眩しく染まっていく。
光が引いたとき、女の頬から、涙が消えていた。
かわりに、微笑みが浮かんでいた。
穏やかに、どこまでも優しく。
女が、ふと、自分の黒い服を見下ろした。
「……あら」
不思議そうに、目を瞬く。
「わたし、どうして、こんな服を着ているのかしら」
白い花が、女の腕から滑り落ちた。石畳の上に、ぱらぱらと散らばる。
広場のどこかで、奇跡だ、と誰かが叫んだ。人々が、次々と膝をついていく。
聖女は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
ああ、よかった。これでもう、この人は泣かなくていい。
この街の涙を、ひとつ残らず拭ってあげよう。誰も、泣かなくていいように。
聖女自身も、幼いころは泣いてばかりの子だったと聞いている。何がそんなに悲しかったのかは、覚えていない。
覚えていないのなら、それは、もう悲しくないということだ。
白い衣の少女が、しゃがみこんで、散らばった花を拾い集めていた。一輪ずつ、丁寧に。
拾い終えると、少女は立ち上がり、笑ったまま、女に花を差し出した。
女が、目を輝かせた。
「まあ、きれいなお花」
嬉しそうに、それを受け取る。
聖女は、ふたりの笑顔を見て、微笑んだ。
それから、膝をついた人々を、ゆっくりと見渡した。
ひとりだけ、膝をつかない者がいた。
人垣の向こうに、黒い外套の若い男が立っていた。冬の陽をまともに浴びながら、目を細めもしない。ただ、こちらを――
いいえ。
聖女の隣を、見ていた。
◆
鐘が鳴ったとき、レオニスは、約束の半刻の、ちょうど半分を昼寝したところだった。
聖女さまが来たぞ、と、表の通りを誰かが駆けていった。
なんとなく、胸が騒いだ。
外套を引っかけて、大聖堂前の広場まで来たところで――白に、呑まれた。
知っている白だった。
七年前、黒い鏡の中で燃えた白。遠吠えの夜、指先で燻りつづけた白。地の底の神殿で、顔のない獣になりかけた、あの白。
光が引いたとき、白い衣の聖女の前で、喪服の女が笑っていた。
さっき、パン屋の窓から見た女だった。白い花を抱えて、墓地のほうへ歩いていった――
その女が、穏やかに、どこまでも優しく、微笑んでいた。
昼の光の下では、星は見えない。
それでも、確かにそこにあったはずの星が、ひとつ、消えた気がした。
人々が、次々と膝をついていく。
レオニスは、動けなかった。
白い衣の少女が、石畳に散った花を拾い集めていた。拾い終えて、女に差し出す。女が、嬉しそうに受け取る。
少女は、笑ったまま――首を、かしげた。
少しだけ、右に。
指先が、冷たくなった。
白い部屋で、一度だけ見た角度だった。お母さんのこと、覚えてるか――そう訊いたとき、笑ったまま、あの子がかしげた首の角度。
十二年前。白い廊下を裸足で駆け抜けて、振り返りもせずに、置いてきた――
胸の奥で、何かが軋んだ。
喉から、かすれた声が漏れた。
「……シエル?」




