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光の闇司祭① 黒狼の楽園  作者: parupuntist


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最終章 夜にしか見えない光

 どれほど降りたのか、もうわからなかった。


 一段ごとに、遠吠えが近くなる。石の壁が震え、足の裏から、獣の声が骨に染みこんでくる。指先に灯した夕暮れ色だけが、足もとの闇を、わずかに押し返していた。


 そのすぐ隣で、白いものが燻りつづけている。


 ――全部、消してしまえ。


 囁きは、止まなかった。


 レオニスは、聞こえないふりをしなかった。聞きながら、降りた。


 やがて、階段が尽きた。


 目の前に、扉があった。


 見上げるほどの、黒い扉だった。表面には、小さなランタンを抱いた顔のない女が彫りこまれ、その周りを、びっしりと文字が埋めつくしている。


 扉は、開いていた。


 文字を読んでいる暇は、なかった。遠吠えは、その奥から湧いていた。


 扉をくぐる。


 夜を、そのまま閉じこめたような場所だった。


 円い広間だった。黒い石の柱が壁に沿ってぐるりと並び、そのいくつかで、松明が燃えている。見上げれば、はるか頭上の丸天井は、一面、黒い硝子(ガラス)で張られていた。


 レオニスは、その黒を知っていた。


 底のない、夜をそのまま切り取って嵌(は)めこんだような黒。七年前、叙階の儀で自分がひびを入れてしまった鏡――《真欲の鏡》と、同じ黒だった。


 広間の奥に、女神像が立っていた。


 顔のない女。胸に、小さなランタンを抱いている。師匠のいた修道院跡の地下聖堂で、何度も見上げた女神と、同じ姿だった。ただ、こちらは柱の頂よりも、なお高い。


 ランタンの中で、小さな火が揺れていた。


 三百年、誰も降りてはこなかったはずの神殿で。誰が油を注ぎ足したわけでもないだろうに――守り火は、ほそく、灯りつづけていた。


 その足もとに、祭壇があった。


 黒い石の、大きな卓だった。表に、文字が刻まれている。その溝を、黒い光が脈打つように流れていた。祭壇から柱へ。柱から、天井の黒硝子へ。――遠吠えは、そこを伝って、地上の夜へ昇っていくのだった。


 祭壇に片手をついて、大柄な男が立っていた。


 黒い狼の毛皮。無造作に束ねた黒髪。足もとから伸びた影が、黒い川のように、祭壇の溝へ流れこんでいる。


「……よう」


 ガルドが、振り返った。


「遅かったじゃねえか、欲張り」


「寄り道してた」


「そうかい」


 鋼色の目が、細められた。


「で。――答えは、見つかったか」


 崖の上で、この男は言った。答えが見つかったら、また聞いてやる、と。


「……半分くらいはな」


「半分か」


 ガルドは、喉の奥で低く笑った。


 レオニスは、女神像の足もとに目をやった。


 エルナが、いた。


 黒い影が、巨大な狼の尾のように、彼女の周りにとぐろを巻いている。濃紺のドレスの裾が、黒い石の床に広がっていた。


 エルナは、影の壁を両手で叩いていた。唇が動いている。何度も、何度も、同じ形に。


 ――にいさん。


 声は、聞こえなかった。


「……声まで、奪ったのか」


「聞いたら、決心が鈍る」


 ガルドは、あっさりと言った。


 レオニスは、奥歯を噛んだ。


「また、聞こえねえふりかよ」


 答えは、なかった。


「あいつは、あんたに会いたいって言ったんだ。会って、話がしたいって。二十年ぶんの話を」


「話なら、あとでいくらでも聞いてやる」


 ガルドは、妹のほうを見なかった。


「全部済んだら、誰にも奪われねえ場所でな」


「エルナは、エルナのもんだ。あんたのもんじゃねえ」


「俺の妹だ」


 短い答えだった。それで全部だ、とでもいうように。


 祭壇の上を、黒い光が流れていく。


 刻まれた文字が、その光に縁取られて、闇の中に浮かび上がっていた。


 目が、吸い寄せられた。


 最初の一行は、知っている文だった。


「……汝、欲望のままに生きよ」


 気づけば、声に出していた。


 ガルドが、ちらりと祭壇を見下ろした。


「読めるのか、それ」


 レオニスは、ガルドの顔を見た。


 黒狼の里の夕暮れ、子供に差し出された石板を、逆さまに持っていた男の顔を。


 ガルドは、ふいと目を逸らした。


「坊主どもが三百年、こんな地の底に隠してきたもんだ」


 顎で、祭壇をしゃくる。


「――読め」


 命じる声だった。けれど、その奥に、何か別のものが混じっている気がした。


 レオニスは、祭壇に目を落とした。


 一行目の下に、もう一行あった。


 知らない文だった。


 師匠も、師匠の師匠も知らなかった。三百年前に焼かれて、口伝えからさえ消えてしまった――真ん中の一行。


「――されど忘るるなかれ」


 声が、かすかに震えた。


「汝の隣人もまた、夢を抱(いだ)く我が子なり」


 遠吠えが、地の底を揺らした。


 黒き母は、王の上にも乞食の上にも、等しく夜を降らせる。そして、ひとりひとりに、違う夢を見せる。――師匠に、そう教わった。


 違う夢を抱く、隣の誰か。


 そいつもまた、同じ黒き母の子なのだと。


 ――そいつら全員の皿に、世界一うまいシチューをよそってやったとする。……それは、幸せか?


 湯気の向こうで訊かれた問いが、耳の奥で鳴った。


 最後の一行は、知っていた。


「――誰かの幸福を、誰かの不幸の上に築くなかれ」


 崖の上で、この男に聞かせた一行だった。坊主どもの作り話だろ、と笑われた一行。


 それが、石に刻まれていた。三百年前から、ずっと。


 ガルドは、長いこと黙っていた。


 鋼色の目が、読めない文字の上を、ゆっくりとなぞっていく。祭壇についた大きな手が、かすかに震えていた。


 やがて――


「……はっ」


 短く、笑った。


「俺の人生は、半分の文だったってわけだ」


 嘲るような声だった。誰を嘲っているのかは、わからなかった。


「欲望のままに生きろ。――俺が信じてきたのは、そこまでだ。残りの半分は、坊主どもが地の底に埋めてやがった」


 ガルドは、祭壇から手を離した。


 足もとの影が、ゆらりと立ち上がる。


「なら残りの半分は、俺が奪って書き換える」


 レオニスは、鉄剣を構えた。


「書き換えさせねえよ」


 指先の夕暮れ色を、床へ落とす。光は、日が落ちきる前の地平線のように石の上を這い、エルナを囲む影と、その内側の彼女との間に、すっと差しこまれ――


 ガルドの手が、宙を掴んだ。


「いい色だ。――寄越せ」


 夕暮れ色が、剥がれた。


 床を這っていた光も、指先の灯(ひ)も、柱の松明の火までもが、いっせいにガルドの手のひらへと吸い寄せられ、握り潰されるように消えた。


 闇が、落ちた。


 残ったのは、祭壇の溝を流れる黒い光と、女神の胸で揺れる、小さな守り火だけだった。


 指を振る。何も、灯らない。


「くそっ……!」


 闇の中へ踏みこむ。守り火のかすかな明かりに浮かぶ大きな影へ、鉄剣を横薙ぎに――


「寄越せ」


 手の中が、軽くなった。


 握っていたはずの柄が、なかった。


 闇の向こうで、低い笑い声がした。守り火の明かりの縁に、鉄剣を肩に担いだ大きな影が浮かんでいる。


「相変わらず、なまくらだな」


「斬るためじゃねえって、言ってんだろ」


「知ってるよ」


 ガルドは、鉄剣を無造作に放った。刃のない剣が、からからと床を転がって、闇の奥へ消えていく。


 拾いに走る――


「寄越せ」


 足もとが、消えた。


 踏みこんだ足が、床を踏み抜いた。いや、床が、なかった。底のない闇へ、体ごと落ちていく――


 と思った次の瞬間には、床は戻っていた。


 レオニスの体だけが、その上に叩きつけられた。


「がっ……」


 肺の中の空気が、残らず押し出される。


 吸おうとした。


「寄越せ」


 吸えなかった。


 口を開けても、喉を鳴らしても、何も入ってこない。胸だけが、空回りする。喉を掻きむしる指が、冷たくなっていく。耳の奥で、どくどくと、自分の血の音ばかりが大きくなる。


 光を、奪われた。剣を、奪われた。床を、空気を。


 砦(とりで)の大広間のときと、同じだった。いや――あのときよりも、ずっと。


 何ひとつ、できなかった。


 視界の縁が、黒く滲(にじ)んでいく。


 足音が、近づいてきた。


 ガルドが、傍らに片膝をついて、こちらを覗きこんでいた。


「苦しいか」


 静かな声だった。


「……返してやる」


 ひゅっ、と。


 喉に、空気がなだれこんできた。


 レオニスは、床に爪を立てて咳きこんだ。吸う。吐く。また吸う。息というものが、こんなに旨いとは知らなかった。


「殺しゃしねえよ」


 ガルドは、膝をついたまま言った。


「お前にゃ、答えてもらわなきゃならねえことがある」


 大きな手が、レオニスの胸ぐらを掴んで、引き起こした。


 鋼色の目が、すぐそこにあった。


「なあ、欲張り。お前は違うと言えるのか?」


 遠吠えが、地の底を揺らした。


「みんなに幸せであってほしい――そりゃあ、みんなから『不幸でいる自由』を奪うってことだ」


 ガルドの声は、低く、少しも揺らがなかった。


「泣きてえ奴からは涙を、怒りてえ奴からは怒りを取り上げて、笑わせてやる。幸せにしてやるってのは、そういうことだろうが。俺は、我慢を奪う。お前は、不幸を奪う。――俺と何が違う?」


 答えられなかった。


 崖の上でも、そうだった。――それは、あいつが鎖の村にしていることと、何が違う? 月が雲に呑まれて、雨になるまで、答えは出なかった。


 ガルドが、天井を見上げた。


 黒硝子の向こうへ、遠吠えが昇っていく。遠い階段の上から、焦げくさい風が吹き下ろしてきていた。


「地上が燃えてるぜ」


 胸ぐらを掴んだまま、ガルドは言った。


「お前の力なら、全員の心から怒りも憎しみも消せる」


 低い声が、耳もとに落ちてくる。


「欲しいんだろ? 誰にも泣いてほしくないんだろ?」


 指先が、熱かった。


 光を奪われたはずの指の先で――白だけが、まだ燻っていた。


「そいつは、奪わねえでおいてやった」


 ガルドが、レオニスの指を顎でしゃくった。


「白いのは、重てえからな」


 砦の大広間で、レオニスの核欲を取り落としたときと、同じ言葉だった。


 白が、脈打った。


 ――全部、消してしまえ。


 囁きが、急に大きくなった。


 我慢という鎖は、もうどこにもない。遠吠えに喰いちぎられた胸の中で、白いものが、剥き出しのまま暴れはじめる。


 地上が、燃えている。


 燃え落ちる陽だまりの家の、白い壁。割れた窓。石畳に散らばった品物。道端にうずくまって、泣いていた人。王都じゅうの泣き声が、耳の奥で渦を巻いている。


 消せる。


 泣き声を、ひとつ残らず。怒りも、憎しみも、痛みも。


 そうすれば、もう誰も――


 白が、膨れ上がった。


 指先から、手のひらへ。腕へ。背中へ。溢れ出した光はうねりながら広がって、レオニスの背後で、形を取りはじめた。


 ガルドが胸ぐらから手を離し、一歩、退いた。


 獣だった。


 四つ足の、巨大な白い獣。柱の頂を越え、女神像の肩に届くほどの。


 けれど、その頭には、顔がなかった。


 目も、鼻もない。ただ口もとだけが、穏やかに、どこまでも優しく微笑んでいる。


 黒硝子の天井が、白く染まっていく。


 三百年、陽の光を知らなかった神殿が――真昼のように、白く。


 女神の胸で、守り火が揺らいだ。


 怯えるように、細く、細く、震えている。


 ――欲がでかい奴ほど、堕ちたときの獣もでかい。


 師匠の声が、した。


 知っている。これが、何なのか。


 《欲獣》。自分の欲だけが正しいと思いこんで、他人の欲を踏みにじったとき、欲は持ち主を喰い破って、獣になる。


 白い光の奥に、誰かが立っていた。


 小さな女の子だった。真っ白な寝間着を着て、笑っている。穏やかに、どこまでも優しく。


 ――シエル。


 あの日から、一度も泣かなかった子。


 ――だあれ?


 笑ったまま、首をかしげる。


 白い獣が、微笑んでいた。シエルと、同じ微笑みで。


 影のとぐろの内側で、エルナが、声のない悲鳴を上げていた。


 ガルドが、白に照らされて笑っていた。


「……はっ。ほらな」


 その声は、どこか、寂しそうだった。


「お前も、俺と同じだ」


 違う、と言いたかった。


 言えなかった。この獣は、確かに、自分の中から出てきたものだった。誰にも泣いてほしくない。それは嘘じゃない。今だって、嘘じゃない――


 ――……あなたも、取るの?


 麦畑の隅で、振り向いた目。


 涙に濡れたまま、まっすぐに自分を見上げていた、ユナの声。


 ――私、選べました。


 燃える陽だまりの家の前で、剣を構えていた背中。


 ――我慢なんかなくても、選べました!


 ミレイアの、声。


 白い光の中で、レオニスは、自分の手を見下ろした。


 震えていた。


 あいつは、選んだ。


 我慢を喰われた胸の中で、九年ぶんの憎しみが吼えていなかったはずがない。それでも、剣を石畳に突き立てた。


 ユナも、選んだ。石を拒んで、声を上げて泣いて、憎いまま、水を差し出した。


 陽だまりの家の前で、子供たちは、自分の涙を、自分のものとして泣いていた。


 ――だったら。


 すぐそばに、祭壇があった。


 レオニスは、その縁に手をかけた。


 白い光の中で、ゆっくりと立ち上がる。膝が笑う。息が、まだ整わない。


 手のひらの下に、刻まれた文字の溝があった。


 汝の隣人もまた、夢を抱く我が子なり。


「……ああ、そうだよ」


 声が、出た。


「そうだ。俺は欲張りだ」


 ガルドの眉が、ぴくりと動いた。


「みんなに笑っててほしい。誰にも泣いてほしくない。争いなんて、全部なくしたい」


 背後で、白い獣が身じろぎした。嬉しそうに。


 否定は、しなかった。できるはずもなかった。これは、自分の欲だ。白い部屋で、隣の寝台の泣き声を聞いていた夜から、ずっと抱えてきた欲だ。


「……でも――」


 レオニスは、顔を上げた。


「それを、誰かに押しつけたくはない」


 ガルドが、鼻で笑った。


「押しつけたくねえ? なら、我慢するしかねえだろうが。欲しいもんを押しつけるか、我慢して鎖に繋がれるか。――どっちかしかねえんだよ、欲張り」


 レオニスは、首を横に振った。


「違う」


 今度は、言えた。


「あいつらは、我慢なんかしてなかった」


 ミレイアも。ユナも。陽だまりの家の前で泣いていた、子供たちも。


「欲しいもんが、いくつもあってさ。そのどれもが本物で。――その中から、自分で選んでた」


 息を吸う。一度奪われて、返された空気を。


「人は、欲望と我慢の間で生きてるんじゃない。欲望と欲望の間で、選んで生きてるんだ」


 ガルドが、目を見開いた。


 レオニスは、祭壇についた手に、力をこめた。


「我、欲(ほっ)す――」


 腹の底が、かっと熱くなった。


 白い獣が、身を乗り出す。考えるより先に、いちばん大きな声が、喉を突き破って飛び出していた。我慢という鎖のない胸の中で、いちばん大きく吼えていた欲が。


「――誰も泣かない世界を」


 白が、爆ぜた。


 祭壇の溝を、白い光が駆け抜けた。流れていた黒を押しのけ、柱を駆け上がり、天井の黒硝子を真っ白に灼(や)いていく。あと一息で、この白は、地上へ溢れ出す。王都じゅうの泣き声を、ひとつ残らず――


 白い獣が、咆哮した。


 歓喜の、声だった。


 ぴしり、と。


 凍った湖が割れるような音が、神殿に響いた。黒硝子の天井に、ひと筋の亀裂が走っていた。


 女神の胸で、守り火が、今にも消えそうに震えている。


 ――だあれ?


 白い光の中で、シエルが笑っている。


 ――あなたも、取るの?


 レオニスは、目を閉じた。


 嘘じゃない。これも、俺の欲だ。


 でも。


 ――幸せにしようとするな。選ばせろ。


「……いいや、違う」


 白い獣の咆哮が、途切れた。


 レオニスは、目を開けた。


 腹の底からでは、なかった。胸のまんなかから。ミルテの夜、師匠の色が灯った、あの場所から。


 どっちも、本当だ。どっちも、俺の欲だ。


 ――だから、選ぶ。


「我、欲す」


 静かに、告げた。


「泣くことも、笑うことも――誰もが、自分で選べる夜を」


 光は、爆ぜなかった。


 灯りも、しなかった。


 白が――ほどけた。


 天井を灼いていた白が。祭壇の溝を駆け上がっていた白が。雪が水に溶けていくように、音もなく、その色を失っていく。


 白い獣の微笑みが、ゆっくりと、闇の中へ沈んでいった。


 あとに残ったのは、夜だった。


 深い夜だった。けれど、少しも怖くはなかった。


 まぶたを閉じたときのような。泣き疲れた子供が、毛布にくるまって眠りに落ちるときのような。――誰にも顔を見られずに、泣くことのできる暗さ。


 雨の夜、ミレイアは言った。明るいと、顔が見えるじゃないですか、と。


 その夜が、祭壇の溝を流れていった。


 柱を昇り、天井の黒硝子に染みこみ、階段を駆け上がって――地上へ。


 祭壇についた手のひらから、夜の隅々までが伝わってくる。白い都の、燃える屋根の上へ。割れた窓の上へ。泣いている人の上にも、怒っている人の上にも。


 王の上にも、乞食の上にも、等しく。


 夜が、降りていく。


 遠吠えが、途切れた。


 夜は、喰いちぎられた鎖を、巻き直しはしなかった。人々を呑みこんでいた獣の声だけを、そっと断ち切っていった。


 神殿が、しんと静まり返った。


 そして――


 天井の黒硝子に、光が灯った。


 ひとつ。


 またひとつ。


 星だった。


 数えきれない星が、夜の底から浮かび上がるように、黒硝子いっぱいに灯っていく。溶かした金貨のような黄金。薄紅。群青。若葉の緑。燃えるような赤。ひとつとして、同じ色はなかった。


 王都じゅうの人間の、胸から昇った光だった。


 ひとりひとりが抱えている、本当の欲の色だった。


 昼の光の下では、決して見えない。夜にしか見えない、光だった。


 女神像の足もとで、エルナの胸からも、ひとつ、光が昇っていった。


 茜色だった。


 女神の胸で、守り火は、もう震えてはいなかった。小さな火が、まっすぐに、静かに燃えている。


 ふと、胸もとが温かくなった。


 外套の襟の内側で、ランタンをかたどった黒鉄(くろがね)の聖印が、ほのかに灯っていた。


 そこから、光がひとつ、昇っていく。


 針の先ほどの、白い星だった。


 白かった。けれど、もう眩しくはなかった。数えきれない星のひとつとして、ただ、夜の中に灯っていた。


 ――夜になる手前の色だ。


 いつか、師匠はそう言った。


 レオニスは、黒硝子の星空を見上げた。


「……夜に、なったよ。師匠」


 白い星が、ひとつ、瞬いた。


 レオニスは、少しだけ笑った。


「悪くねえだろ」


 ガルドは、動かなかった。


 祭壇の傍らに立ちつくしたまま、星を見上げていた。


「……なんだ、こりゃ」


 レオニスは、星を見上げたまま答えた。


「昼の光は、みんなに同じ景色しか見せねえ。夜になって、やっとひとりひとりの星が見えるんだ」


 誰かを幸福にする力では、なかった。誰の欲を否定する力でも、なかった。


 ただ、静けさの中で、人が自分の声を聞けるようにするだけの――夜だった。


 ――欲を偽る者に、黒き母は夜を与えぬ。


 偽らなかった。


 だから、夜が来た。


◆


 その夜を、王都じゅうの人間が見上げた。


 遠吠えが、ふつりと途切れた。大聖堂の尖塔よりも高くそびえていた黒い狼の影が、煙のようにほどけて、消えていった。


 そのあとに、夜が降りてきた。


 月のない空よりも、なお深い夜だった。


 燃える炎は、消えなかった。けれど、炎の爆ぜる音も、叫び声も、怒号も、急に遠くなった。


 静かだった。


 自分の胸の音が、聞こえるほどに。


 そして、人々の胸から、光が昇りはじめた。


 貴族街から続く坂道を、若いメイドが歩いていた。前掛けを外し、小さな包みをひとつ抱えている。胸から昇っていく光を見上げて、少しだけ笑い、それから、また歩き出した。


 一度も、振り返らなかった。


 下町の路地では、臆病な少年と隣の家の娘が、手をつないで空を見上げていた。ふたりの胸から昇った光は、寄り添うようにして、同じ高さに灯った。


 川沿いのパン屋の店先では、痩せた子供が、パンを抱えたまま石段で眠りこんでいた。太った親父は、空っぽになった棚を振り返り、自分の胸から昇る光を見上げて、ふん、と鼻を鳴らした。


「……明日も、焼くか」


 そう呟いて、眠る子供に、自分の上着を掛けてやった。


 故郷へ続く街道の上で、剣を放り出してきた若い騎士が、一度だけ王都を振り返った。それから、また走り出した。


 商店の窓を叩き割った男が、抱えていたパンの袋を、足もとに取り落とした。割れた窓の奥で、年老いた店の女が震えていた。男は長いこと、自分の胸から昇っていく光を見上げて、立ちつくしていた。


 隣人の家の戸を蹴破った男は、自分のしたことの前に、座りこんでいた。


 夜は、それを消しはしなかった。


 男は、両手で顔を覆って、泣いていた。


 拳を下ろさない者も、いた。


 奪うのをやめない者も、火を放ちつづける者も、いた。


 すべてでは、なかった。


 それでも――


 鎖が解けて笑った者たちの笑顔は、夜が来ても、消えなかった。


 そして、誰かを泣かせた者たちの中から、選び直す者が出はじめていた。


◆


 夜が降りてきたとき、ミレイアは、剣の腹で三人目の棍棒を払ったところだった。


 遠吠えが、止んだ。


 腹の底で吼えていたものが、ふっと、静かになった。


 消えたのでは、なかった。憎しみは、まだそこにいる。父のパンの匂いも、母の横顔も、ユナの声も、全部、胸の中にある。


 ただ――静かだった。


 ひとつひとつの声が、聞き分けられるほどに。


 目の前で、男が棍棒を振りかぶっていた。


 その目は、ミレイアの肩越しを見ていた。ふたりの背中の間で身を寄せあう、子供たちを。


 ミレイアは、踏みこもうとした。


 その前に――男の胸から、光が昇った。


 小さな、薄紅の光だった。


 男は、棍棒を振りかぶったまま、それを見上げていた。


 それから、視線を下ろした。煤だらけの顔で泣いている、いちばん小さな女の子に。


「……うちの娘と、同じくらいだ」


 ぽつりと、呟いた。


 棍棒が、ゆっくりと下りていった。


 男はそれを石畳に落とし、両手で顔を覆った。


 ひとり、またひとりと、男たちの手から、松明が、棍棒が落ちていく。自分の胸から昇る光を見上げて、立ちつくしている。


 けれど、ひとりだけ、止まらない男がいた。


「燃やしちまえ! 全部だ!」


 血走った目で松明を振りかざし、子供たちのほうへ突っこんでくる。


 ミレイアは、迷わなかった。


 剣の腹で、松明を叩き落とす。返す柄頭で、みぞおちを突く。男が崩れ落ちるのと同時に、背中で、木剣が石畳を打つ乾いた音がした。


 ボルグが、転がった松明を、木剣の先で溝へ払い落としていた。


 ミレイアは、息を吐いた。


 胸が、温かかった。


 見下ろすと、自分の胸からも、小さな光が昇っていくところだった。


 何の光なのかは、訊かなくてもわかった。


 ――あなたが帰ってくるのが、私の欲です。


 頬が、熱くなった。


 背中合わせのボルグの胸からも、光が昇っていた。消えてしまいそうなほど小さな、けれど、確かな光だった。その周りで、煤だらけの子供たちの胸から、小さな光がいくつも、いくつも昇っていく。


 胸の聖印に、手をやった。


 白銀の太陽は、冷たかった。


 ――この夜は、誰の心も縛っていない。


 ミレイアは、大聖堂の尖塔を見上げた。


 白い尖塔が夜に溶けて、数えきれない星の中に立っていた。


「……あの人だ」


 理由なんて、なかった。


 それでも、わかった。


◆


 黒硝子の星空の下で、ガルドは、祭壇を見下ろしていた。


 刻まれた文字の溝を、もう黒い光は流れていなかった。足もとから伸びていた影は、祭壇の手前で、ぷつりと途切れている。


「……奪いやがったな」


 低い声だった。


 鋼色の目が、ゆっくりとこちらを向いた。


 レオニスは、祭壇から手を離した。


「奪ってねえよ。俺は――」


 ガルドの目が、吊り上がった。


「奪いやがった!」


 吼える声に、星の灯る神殿が、びりびりと震えた。


「また、奪われるのか。俺は……また!」


 レオニスは、気づいた。


 ガルドの胸からは、何も昇っていなかった。


 王都じゅうの人間の胸から、星が昇っている夜に。エルナの胸からさえ、茜色の光が昇った夜に。この男の胸からだけは、何ひとつ。


 かわりに、黒いものが滲み出していた。


「寄越せ……」


 ガルドの手が、星空へ伸びた。


「寄越せ。寄越せ、寄越せ! その夜を、寄越せえっ!」


 何も、起きなかった。


 大きな手は、夜を掴めずに、空を掻いた。何度も。何度も。


 そして――


 ガルドの影が、爆ぜた。


 足もとから、黒いものが噴き上がった。


 煤だった。


 焼け落ちた梁の、焦げた匂いがした。煤は渦を巻いて膨れ上がり、その中から、黒い鎖が何本も、何本も伸びて、煤を縛りあげていく。


 形が、できていく。


 四つ足の、巨大な狼。


 煤の毛皮に、鎖の骨。女神像の肩を越え、天井の黒硝子に届くほどの。


 砦の大広間で見た影とは、違った。あれは、ガルドの欲が落とした影だった。


 これは――ガルドそのものを喰い破って生まれた、獣だった。


 《欲獣》。


 からん、と。


 足もとで、音がした。噴き上がる煤の風に押されて、闇の奥から、何かが石の床を滑ってくる。


 師匠の鉄剣だった。


 指先が、温かくなった。夕暮れ色の小さな灯が、ぽっと戻ってくる。


 煤に呑まれていくガルドの手から、奪われたものが、次々とこぼれ落ちていた。


「――兄さん!」


 女の声が、神殿に響いた。


 女神像の足もとで、影のとぐろが崩れていた。エルナが、そこに立っていた。両手で、自分の喉を押さえている。


 奪われていた声が、還ったのだ。


「兄さん! やめて、兄さん!」


 狼は、振り向かなかった。


 煤の喉の奥から、ガルドの声がした。


「俺は自由だ!」


 割れ鐘のような声だった。


「俺の欲しいものを、俺が欲しいだけ奪う!」


 狼が、吼えた。


 レオニスは、その胸を見ていた。


 煤の毛皮の胸から、太い鎖が何本も伸びている。その鎖は、宙で大きく弧を描いて――狼自身の胸の奥へ、心臓のあるあたりへと、繋がっていた。


 自分で、自分を繋いでいる。


 レオニスは、鉄剣を拾い上げた。


「それは自由じゃない」


 煤の狼を、見上げる。


「お前は、お前の欲に鎖で繋がれてるだけだ」


 狼が、天井を仰いだ。


 煤の顎が、大きく開く。星の灯る黒硝子へ――夜そのものへ、牙を剥いて、喰らいつく。


 牙が、噛み合った。


 何も、掴めていなかった。


 狼は、もう一度喰らいついた。もう一度。もう一度。牙が噛み合うたびに、がちん、がちんと、空っぽの音が神殿に響く。星は、ひとつも欠けなかった。


「無駄だ、ガルド」


 レオニスは、言った。


「あんた、前に俺の中身を掴んで、重てえって言ったよな」


 煤の狼が、低く唸る。


「夜はな、重さもねえよ」


 黒硝子の星空を、見上げる。


「夜は誰のものでもない。だから、誰にも奪えない」


 狼が、こちらを向いた。


 煤の前足が、振り下ろされる。


 レオニスは、床を蹴った。宙に、夕暮れ色の小さな足場を灯す。ひとつ。またひとつ。ミルテの夜、ミレイアが一度も疑わずに駆け上がった、あの足場を。


 前足が、足場ごと宙を薙いだ。次の足場へ跳ぶ。鎖が鞭のように唸って、頬をかすめる。


 狼の胸が、目の前にあった。


 心臓へと繋がる鎖の、その根もと。


 レオニスは、鎖を掴んだ。


 引きちぎるためじゃない。辿るために。


 砦の大広間で、この男の手は、自分の胸に沈んできた。いちばん奥の、いちばん温かいものを掴むために。


「今度は、俺の番だ」


 煤の胸に、手を差し入れる。冷たい水の中へ沈めるように。鎖を辿って、奥へ、奥へ――


 レオニスは、狼の中へ沈んでいった。


 熱かった。


 目を開けると、村が燃えていた。


 山あいの、小さな村だった。茅葺(かやぶ)きの屋根が、次々と火を噴いている。夜空を焦がす炎。逃げまどう人影。馬のいななき。鎧の擦れる音。


 ――狼谷(おおかみだに)の村。


 イルザが話してくれた、村だった。


 手の中の鎖は、まだ続いていた。燃える家々の間を抜けて、村の真ん中へ。


 古い石の井戸があった。


 鎖は、その底へと降りていた。


 井戸の縁に手をかけると、石積みの奥から、声がした。


 ――全部、奪ってやる。


 ――我慢ってのはな、鎖なんだよ。


 ――奪われねえくらい強くなりゃいい。俺は、そうした。


 ガルドの声だった。二十年ぶんの、ガルドの声。


 その、いちばん底のほうで、ひときわ小さな声がした。


 ――……そんな奴が、二十年前に、いりゃあな。


 遠ざかっていく蹄(ひづめ)の音の中で、誰かが叫んでいる。


 ――ガルドにいちゃん!


 ――ガルドにいちゃん!


 何度も、何度も。


 レオニスは、井戸の縄を伝って、降りていった。


 底は、凍えるような水だった。


 その水の中に、少年がひとり、膝を抱えてうずくまっていた。


 十二歳ほどの、痩せた少年だった。継ぎのあたった粗末な上着が、水を吸って肌に貼りついている。黒い髪から、雫が滴っていた。


 両手に、何かを握りしめている。


 小さなリボンだった。


 色褪せては、いなかった。燃えるような、茜色だった。


 少年の足首に、鎖が巻きついていた。狼の胸から伸びて、この井戸の底まで降りてきた、あの鎖だった。


 ――二十年。


 この子は、ずっと、ここに繋がれていたのだ。


 少年の唇が、震えていた。


「……誰か」


 声にならないほどの、小さな声だった。


「誰か、助けて」


 動けなかった、とイルザは言った。怖くて、声も出せなかった、と。


 この声だけは、二十年、誰の耳にも届いていなかったのだ。


 レオニスは、冷たい水の中に膝をついた。少年と、同じ高さに。


「……遅くなって、悪かった」


 少年が、顔を上げた。


 鋼色の目だった。


 レオニスは、手を差し伸べた。


 掴みは、しなかった。


「掴むかどうかは、お前が選べ」


 少年は、差し出された手を見ていた。長いこと、見ていた。


 唇が、歪んだ。


「今さら……遅えよ。二十年、遅え」


 リボンを握りしめた手は、動かなかった。


 レオニスは、手を引っこめなかった。


 ただ、待った。


 そのとき――


 頭上から、声が降ってきた。


「兄さん」


 少年の肩が、びくりと跳ねた。


 井戸の口を、見上げる。


 炎の色は、もうそこにはなかった。


 丸く切り取られた夜空に、数えきれない星が瞬いていた。その真ん中で、色褪せた茜色が、小さく揺れている。


 リボンを、掲げているのだ。


「兄さんがしたのは、あの日の兵隊と同じことだよ」


 二十年前、この井戸の上で、兄を呼んでいた声だった。


 けれど、もう、泣き叫んではいなかった。


 我慢という鎖を喰いちぎられた胸の、いちばん奥から、まっすぐに降ってくる声だった。


「……私は奪われた。でも、その先は私が選んだの」


 夜を貫いて、声は、井戸の底まで届いた。


「好きな人も、子どもたちも、全部。――だから兄さんも、選び直していいんだよ」


 少年の目から、涙がこぼれた。


 リボンを握りしめていた両手の、片方が、ほどけた。


 震える小さな手が、水の中から持ち上がり――


 レオニスの手を、取った。


 握り返した。


 冷たい手だった。二十年、凍えた水の底にあった手だった。


 レオニスは、右手の鉄剣を振り上げた。


 刃のない剣が、夜をまとった。


 白でも、夕暮れでもない。星を宿した、深い夜の色に。


 ――斬るためじゃねえよ。


 振り下ろす。


 ――断つための剣だ。


 鎖が、断たれた。


 少年を、ではない。狼を、でもない。


 二十年ぶん、少年の足首を井戸の底に繋ぎとめていた、鎖だけを。


 井戸の石積みが、崩れはじめた。


 崩れた石は、落ちてはこなかった。黒い雪になって、ふわりと舞い上がっていく。燃えていた村も、炎も、蹄の音も――全部が黒い雪になって、星空のほうへ昇っていく。


 少年の手を握ったまま、レオニスも、昇っていった。


 気がつくと、神殿の床に膝をついていた。


 黒い雪が、降っていた。


 煤の狼が、崩れていく。毛皮も、牙も、鎖の骨も。ひびの走った黒硝子の星空の下で、音もなく、黒い雪になって降りそそいでいく。


 その真ん中に、ひとりの男が、膝をついていた。


 狼の毛皮は、もう肩になかった。煤になって、崩れ落ちたのだ。束ねていた髪がほどけて、大きな背中が、丸まっている。


 左の手首で、色褪せたリボンが揺れていた。


 レオニスの手は、その男の手に、握られていた。


 大きな手だった。ごつごつと節くれだった、けれど今は、子供のように震えている手。


 ガルドが、顔を上げた。


 鋼色の目から、涙が、ぼろぼろとこぼれていた。


「……最悪だ」


 かすれた声だった。


「涙が、止まらねえ」


 レオニスは、自分の指先を見た。


 光っては、いなかった。


 伸びようとも、しなかった。


「泣けばいい」


 レオニスは、言った。


「それも、あんたが選んだことだ」


 ガルドは、何か言い返そうとして――言えずに、顔をくしゃくしゃに歪めた。


 握っていた手が、離れる。


 その背中に、細い腕が回された。


 エルナだった。


 黒い雪の中を駆けてきて、兄の背中にしがみついていた。


 ガルドの体が、こわばった。


 ゆっくりと、振り返る。


 エルナの手には、髪からほどいたリボンが、握りしめられたままだった。


 色褪せたリボンが、ふたつ、並んだ。妹の手の中のものと、兄の手首に巻かれたものと。


 ガルドの震える指が、妹の濡れた頬に触れた。――井戸の上で兄を呼んでいた小さな女の子の、大人になった頬に。


 二十年ぶんの言葉が、そこに詰まっているようだった。


 なのに、ガルドの口からこぼれたのは、たったひと言だった。


「……大きく、なったな」


 エルナが、兄の胸に顔を埋めた。


 声を上げて、泣いていた。


 レオニスは、そっと背を向けた。


 見ねえから、と、いつか墓の前で言ったように。


 見上げた星空に、茜色の星が、ふたつ並んで瞬いていた。


 ひとつは、さっきエルナの胸から昇ったもの。もうひとつは――きっと今しがた、あの男の胸から昇ったものだ。


 レオニスは、その場に仰向けに寝転がった。


 石の床は冷たくて、星は、きれいだった。


 腹の虫が、盛大に鳴いた。


◆


 東の空が、白みはじめていた。


 星が、ひとつ、またひとつと、朝の光に溶けていく。


 消えたのではない、とミレイアは思った。見えなくなっただけだ。昼の光の下でも、あの星はきっと、ひとりひとりの胸の上に灯っている。


 陽だまりの家の火は、夜のうちに消えていた。


 消したのは、近所の人たちだった。それから、ゆうべ棍棒を振りかざしていた男たちだった。井戸から燃える壁まで一列に並んで、桶を手から手へ渡していた。娘の話をした男は、いちばん火に近いところで、煤だらけになって水をかけていた。


 通りのあちこちで、瓦礫をどける音がしている。割れた窓の前では、店の女と見知らぬ若い男が、黙って硝子の破片を拾い集めていた。


 焼け残った門の脇で、ボルグが、壁にもたれて座っていた。


 膝の上に、魚みたいな木剣。その両脇で、煤だらけの子供たちが、大きな体に寄りかかって眠っている。


 ボルグだけは、眠っていなかった。


 ミレイアは、しばらく、その姿を見ていた。


 それから、言った。


「……この子たちを、お願いします」


 ボルグが、顔を上げた。


 何か言いかけて、やめて――ただ、深く頷いた。


 ミレイアは、大聖堂へ走った。


 大聖堂の扉は、開け放たれたままだった。


 白い身廊の奥、祭壇の足もとに、黒い裂け目が口を開けている。高い窓から差しこむ朝の光が、その縁を白く照らしていた。


 裂け目の底から、足音が昇ってきた。


 最初に姿を見せたのは、黒髪の女だった。濃紺のドレスの裾が、煤で黒く汚れている。ほつれた髪に、色褪せた茜色のリボンが結び直されていた。


 エルナだった。


 その後ろから、大柄な男が昇ってきた。


 ミレイアの手が、剣の柄にかかった。


 ガルド・バルガス。


 けれど、あの黒い狼の毛皮は、もう肩になかった。ほどけた黒髪。泣き腫らした、鋼色の目。ミレイアを見ても、その目は、何も言わなかった。


 柄から、手が離れた。


 最後に、ひどく重たげな足音が、一段ずつ昇ってきた。


 寝癖のついた黒髪。旅塵(りょじん)と煤にまみれた、黒い外套。肩には、刃のない鉄剣。


 レオニスだった。


 這い出すように最後の一段を昇りきり、朝の光に目を細める。それから、ミレイアに気づいて、口を開きかけ――


「お母さま!」


 大聖堂の入り口から、声がした。


 振り返ると、子供がふたり、身廊を駆けてくるところだった。七つくらいの男の子と、四つくらいの女の子。その後ろから、痩せた男が、息を切らして追いかけてくる。


 伯爵――ルカーシュだった。


 エルナが、膝をついて両腕を広げた。


 子供たちが、その胸に飛びこんだ。


 ゆうべ、あの玄関広間に響いていたのと、同じ声だった。けれど今は、泣きながら、笑っていた。


 ルカーシュが、足を止めた。


 妻の後ろに立つ、大柄な男を見ていた。


 父の、仇。妻の、兄。


 ガルドも、ルカーシュを見ていた。


 長い、沈黙があった。


 先に動いたのは、ルカーシュだった。静かに、深く、頭を下げた。


 ガルドは、目を逸らした。それから、ほんの小さく、顎を引いた。


 エルナの腕の中から、女の子が顔を出した。


 大きな男を、じっと見上げる。


「……だあれ?」


 ミレイアは、思わずレオニスの横顔を見た。


 焚き火の夜に聞いた言葉だった。白い部屋で、笑ったまま首をかしげたという、女の子の。


 レオニスは、黙って、女の子を見ていた。


 ガルドの肩が、びくりと揺れた。


 大きな体を、ぎこちなく折り曲げる。膝をついて、女の子と同じ高さに。


 しばらく、口を開けたり閉じたりしていた。


 それから、かすれた声で言った。


「……お前の、母ちゃんの」


 喉が、ごくりと鳴った。


「兄ちゃんだ」


 女の子は、首をかしげた。


 それから、母親の顔を見上げた。エルナが、泣きながら頷く。


 女の子は、もう一度ガルドを見て――にぱっと、笑った。


 すぐそばで、小さく息を吐く音がした。


 レオニスが、笑っていた。


 ひどく、くたびれた顔だった。けれど、今まで見たことがないくらい、やわらかい顔だった。


 その顔が、こちらを向いた。


「……よう」


 何か、言わなければと思った。言いたいことが、山ほどあった。


 なのに、何ひとつ、出てこなかった。


 レオニスが、へらりと笑った。


「帰ってきたぞ。……お前の欲、なんだろ」


 顔が、かっと熱くなった。


「……聞こえて、いたんですか」


 答えのかわりに、レオニスの体が、ぐらりと傾いだ。


 ミレイアは、とっさに両腕を広げた。


 倒れこんできた体を、受け止める。


 ずしりと、重かった。


 旅塵と、煤と、汗の匂いがした。外套の襟元からこぼれた黒鉄の聖印が、まだ、ほのかに温かかった。


「……重いです」


 腕の中から、くぐもった笑い声がした。


「……ひでえ」


 そのまま、レオニスは、すうっと寝息を立てはじめた。


 高い窓から、朝の光が差しこんでいた。白い身廊が、眩しいほどに輝いている。


 ミレイアは、泣いていた。


 顔を隠す暗がりは、どこにもなかった。


 隠そうとも、思わなかった。

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