最終章 夜にしか見えない光
どれほど降りたのか、もうわからなかった。
一段ごとに、遠吠えが近くなる。石の壁が震え、足の裏から、獣の声が骨に染みこんでくる。指先に灯した夕暮れ色だけが、足もとの闇を、わずかに押し返していた。
そのすぐ隣で、白いものが燻りつづけている。
――全部、消してしまえ。
囁きは、止まなかった。
レオニスは、聞こえないふりをしなかった。聞きながら、降りた。
やがて、階段が尽きた。
目の前に、扉があった。
見上げるほどの、黒い扉だった。表面には、小さなランタンを抱いた顔のない女が彫りこまれ、その周りを、びっしりと文字が埋めつくしている。
扉は、開いていた。
文字を読んでいる暇は、なかった。遠吠えは、その奥から湧いていた。
扉をくぐる。
夜を、そのまま閉じこめたような場所だった。
円い広間だった。黒い石の柱が壁に沿ってぐるりと並び、そのいくつかで、松明が燃えている。見上げれば、はるか頭上の丸天井は、一面、黒い硝子で張られていた。
レオニスは、その黒を知っていた。
底のない、夜をそのまま切り取って嵌めこんだような黒。七年前、叙階の儀で自分がひびを入れてしまった鏡――《真欲の鏡》と、同じ黒だった。
広間の奥に、女神像が立っていた。
顔のない女。胸に、小さなランタンを抱いている。師匠のいた修道院跡の地下聖堂で、何度も見上げた女神と、同じ姿だった。ただ、こちらは柱の頂よりも、なお高い。
ランタンの中で、小さな火が揺れていた。
三百年、誰も降りてはこなかったはずの神殿で。誰が油を注ぎ足したわけでもないだろうに――守り火は、ほそく、灯りつづけていた。
その足もとに、祭壇があった。
黒い石の、大きな卓だった。表に、文字が刻まれている。その溝を、黒い光が脈打つように流れていた。祭壇から柱へ。柱から、天井の黒硝子へ。――遠吠えは、そこを伝って、地上の夜へ昇っていくのだった。
祭壇に片手をついて、大柄な男が立っていた。
黒い狼の毛皮。無造作に束ねた黒髪。足もとから伸びた影が、黒い川のように、祭壇の溝へ流れこんでいる。
「……よう」
ガルドが、振り返った。
「遅かったじゃねえか、欲張り」
「寄り道してた」
「そうかい」
鋼色の目が、細められた。
「で。――答えは、見つかったか」
崖の上で、この男は言った。答えが見つかったら、また聞いてやる、と。
「……半分くらいはな」
「半分か」
ガルドは、喉の奥で低く笑った。
レオニスは、女神像の足もとに目をやった。
エルナが、いた。
黒い影が、巨大な狼の尾のように、彼女の周りにとぐろを巻いている。濃紺のドレスの裾が、黒い石の床に広がっていた。
エルナは、影の壁を両手で叩いていた。唇が動いている。何度も、何度も、同じ形に。
――にいさん。
声は、聞こえなかった。
「……声まで、奪ったのか」
「聞いたら、決心が鈍る」
ガルドは、あっさりと言った。
レオニスは、奥歯を噛んだ。
「また、聞こえねえふりかよ」
答えは、なかった。
「あいつは、あんたに会いたいって言ったんだ。会って、話がしたいって。二十年ぶんの話を」
「話なら、あとでいくらでも聞いてやる」
ガルドは、妹のほうを見なかった。
「全部済んだら、誰にも奪われねえ場所でな」
「エルナは、エルナのもんだ。あんたのもんじゃねえ」
「俺の妹だ」
短い答えだった。それで全部だ、とでもいうように。
祭壇の上を、黒い光が流れていく。
刻まれた文字が、その光に縁取られて、闇の中に浮かび上がっていた。
目が、吸い寄せられた。
最初の一行は、知っている文だった。
「……汝、欲望のままに生きよ」
気づけば、声に出していた。
ガルドが、ちらりと祭壇を見下ろした。
「読めるのか、それ」
レオニスは、ガルドの顔を見た。
黒狼の里の夕暮れ、子供に差し出された石板を、逆さまに持っていた男の顔を。
ガルドは、ふいと目を逸らした。
「坊主どもが三百年、こんな地の底に隠してきたもんだ」
顎で、祭壇をしゃくる。
「――読め」
命じる声だった。けれど、その奥に、何か別のものが混じっている気がした。
レオニスは、祭壇に目を落とした。
一行目の下に、もう一行あった。
知らない文だった。
師匠も、師匠の師匠も知らなかった。三百年前に焼かれて、口伝えからさえ消えてしまった――真ん中の一行。
「――されど忘るるなかれ」
声が、かすかに震えた。
「汝の隣人もまた、夢を抱く我が子なり」
遠吠えが、地の底を揺らした。
黒き母は、王の上にも乞食の上にも、等しく夜を降らせる。そして、ひとりひとりに、違う夢を見せる。――師匠に、そう教わった。
違う夢を抱く、隣の誰か。
そいつもまた、同じ黒き母の子なのだと。
――そいつら全員の皿に、世界一うまいシチューをよそってやったとする。……それは、幸せか?
湯気の向こうで訊かれた問いが、耳の奥で鳴った。
最後の一行は、知っていた。
「――誰かの幸福を、誰かの不幸の上に築くなかれ」
崖の上で、この男に聞かせた一行だった。坊主どもの作り話だろ、と笑われた一行。
それが、石に刻まれていた。三百年前から、ずっと。
ガルドは、長いこと黙っていた。
鋼色の目が、読めない文字の上を、ゆっくりとなぞっていく。祭壇についた大きな手が、かすかに震えていた。
やがて――
「……はっ」
短く、笑った。
「俺の人生は、半分の文だったってわけだ」
嘲るような声だった。誰を嘲っているのかは、わからなかった。
「欲望のままに生きろ。――俺が信じてきたのは、そこまでだ。残りの半分は、坊主どもが地の底に埋めてやがった」
ガルドは、祭壇から手を離した。
足もとの影が、ゆらりと立ち上がる。
「なら残りの半分は、俺が奪って書き換える」
レオニスは、鉄剣を構えた。
「書き換えさせねえよ」
指先の夕暮れ色を、床へ落とす。光は、日が落ちきる前の地平線のように石の上を這い、エルナを囲む影と、その内側の彼女との間に、すっと差しこまれ――
ガルドの手が、宙を掴んだ。
「いい色だ。――寄越せ」
夕暮れ色が、剥がれた。
床を這っていた光も、指先の灯も、柱の松明の火までもが、いっせいにガルドの手のひらへと吸い寄せられ、握り潰されるように消えた。
闇が、落ちた。
残ったのは、祭壇の溝を流れる黒い光と、女神の胸で揺れる、小さな守り火だけだった。
指を振る。何も、灯らない。
「くそっ……!」
闇の中へ踏みこむ。守り火のかすかな明かりに浮かぶ大きな影へ、鉄剣を横薙ぎに――
「寄越せ」
手の中が、軽くなった。
握っていたはずの柄が、なかった。
闇の向こうで、低い笑い声がした。守り火の明かりの縁に、鉄剣を肩に担いだ大きな影が浮かんでいる。
「相変わらず、なまくらだな」
「斬るためじゃねえって、言ってんだろ」
「知ってるよ」
ガルドは、鉄剣を無造作に放った。刃のない剣が、からからと床を転がって、闇の奥へ消えていく。
拾いに走る――
「寄越せ」
足もとが、消えた。
踏みこんだ足が、床を踏み抜いた。いや、床が、なかった。底のない闇へ、体ごと落ちていく――
と思った次の瞬間には、床は戻っていた。
レオニスの体だけが、その上に叩きつけられた。
「がっ……」
肺の中の空気が、残らず押し出される。
吸おうとした。
「寄越せ」
吸えなかった。
口を開けても、喉を鳴らしても、何も入ってこない。胸だけが、空回りする。喉を掻きむしる指が、冷たくなっていく。耳の奥で、どくどくと、自分の血の音ばかりが大きくなる。
光を、奪われた。剣を、奪われた。床を、空気を。
砦の大広間のときと、同じだった。いや――あのときよりも、ずっと。
何ひとつ、できなかった。
視界の縁が、黒く滲んでいく。
足音が、近づいてきた。
ガルドが、傍らに片膝をついて、こちらを覗きこんでいた。
「苦しいか」
静かな声だった。
「……返してやる」
ひゅっ、と。
喉に、空気がなだれこんできた。
レオニスは、床に爪を立てて咳きこんだ。吸う。吐く。また吸う。息というものが、こんなに旨いとは知らなかった。
「殺しゃしねえよ」
ガルドは、膝をついたまま言った。
「お前にゃ、答えてもらわなきゃならねえことがある」
大きな手が、レオニスの胸ぐらを掴んで、引き起こした。
鋼色の目が、すぐそこにあった。
「なあ、欲張り。お前は違うと言えるのか?」
遠吠えが、地の底を揺らした。
「みんなに幸せであってほしい――そりゃあ、みんなから『不幸でいる自由』を奪うってことだ」
ガルドの声は、低く、少しも揺らがなかった。
「泣きてえ奴からは涙を、怒りてえ奴からは怒りを取り上げて、笑わせてやる。幸せにしてやるってのは、そういうことだろうが。俺は、我慢を奪う。お前は、不幸を奪う。――俺と何が違う?」
答えられなかった。
崖の上でも、そうだった。――それは、あいつが鎖の村にしていることと、何が違う? 月が雲に呑まれて、雨になるまで、答えは出なかった。
ガルドが、天井を見上げた。
黒硝子の向こうへ、遠吠えが昇っていく。遠い階段の上から、焦げくさい風が吹き下ろしてきていた。
「地上が燃えてるぜ」
胸ぐらを掴んだまま、ガルドは言った。
「お前の力なら、全員の心から怒りも憎しみも消せる」
低い声が、耳もとに落ちてくる。
「欲しいんだろ? 誰にも泣いてほしくないんだろ?」
指先が、熱かった。
光を奪われたはずの指の先で――白だけが、まだ燻っていた。
「そいつは、奪わねえでおいてやった」
ガルドが、レオニスの指を顎でしゃくった。
「白いのは、重てえからな」
砦の大広間で、レオニスの核欲を取り落としたときと、同じ言葉だった。
白が、脈打った。
――全部、消してしまえ。
囁きが、急に大きくなった。
我慢という鎖は、もうどこにもない。遠吠えに喰いちぎられた胸の中で、白いものが、剥き出しのまま暴れはじめる。
地上が、燃えている。
燃え落ちる陽だまりの家の、白い壁。割れた窓。石畳に散らばった品物。道端にうずくまって、泣いていた人。王都じゅうの泣き声が、耳の奥で渦を巻いている。
消せる。
泣き声を、ひとつ残らず。怒りも、憎しみも、痛みも。
そうすれば、もう誰も――
白が、膨れ上がった。
指先から、手のひらへ。腕へ。背中へ。溢れ出した光はうねりながら広がって、レオニスの背後で、形を取りはじめた。
ガルドが胸ぐらから手を離し、一歩、退いた。
獣だった。
四つ足の、巨大な白い獣。柱の頂を越え、女神像の肩に届くほどの。
けれど、その頭には、顔がなかった。
目も、鼻もない。ただ口もとだけが、穏やかに、どこまでも優しく微笑んでいる。
黒硝子の天井が、白く染まっていく。
三百年、陽の光を知らなかった神殿が――真昼のように、白く。
女神の胸で、守り火が揺らいだ。
怯えるように、細く、細く、震えている。
――欲がでかい奴ほど、堕ちたときの獣もでかい。
師匠の声が、した。
知っている。これが、何なのか。
《欲獣》。自分の欲だけが正しいと思いこんで、他人の欲を踏みにじったとき、欲は持ち主を喰い破って、獣になる。
白い光の奥に、誰かが立っていた。
小さな女の子だった。真っ白な寝間着を着て、笑っている。穏やかに、どこまでも優しく。
――シエル。
あの日から、一度も泣かなかった子。
――だあれ?
笑ったまま、首をかしげる。
白い獣が、微笑んでいた。シエルと、同じ微笑みで。
影のとぐろの内側で、エルナが、声のない悲鳴を上げていた。
ガルドが、白に照らされて笑っていた。
「……はっ。ほらな」
その声は、どこか、寂しそうだった。
「お前も、俺と同じだ」
違う、と言いたかった。
言えなかった。この獣は、確かに、自分の中から出てきたものだった。誰にも泣いてほしくない。それは嘘じゃない。今だって、嘘じゃない――
――……あなたも、取るの?
麦畑の隅で、振り向いた目。
涙に濡れたまま、まっすぐに自分を見上げていた、ユナの声。
――私、選べました。
燃える陽だまりの家の前で、剣を構えていた背中。
――我慢なんかなくても、選べました!
ミレイアの、声。
白い光の中で、レオニスは、自分の手を見下ろした。
震えていた。
あいつは、選んだ。
我慢を喰われた胸の中で、九年ぶんの憎しみが吼えていなかったはずがない。それでも、剣を石畳に突き立てた。
ユナも、選んだ。石を拒んで、声を上げて泣いて、憎いまま、水を差し出した。
陽だまりの家の前で、子供たちは、自分の涙を、自分のものとして泣いていた。
――だったら。
すぐそばに、祭壇があった。
レオニスは、その縁に手をかけた。
白い光の中で、ゆっくりと立ち上がる。膝が笑う。息が、まだ整わない。
手のひらの下に、刻まれた文字の溝があった。
汝の隣人もまた、夢を抱く我が子なり。
「……ああ、そうだよ」
声が、出た。
「そうだ。俺は欲張りだ」
ガルドの眉が、ぴくりと動いた。
「みんなに笑っててほしい。誰にも泣いてほしくない。争いなんて、全部なくしたい」
背後で、白い獣が身じろぎした。嬉しそうに。
否定は、しなかった。できるはずもなかった。これは、自分の欲だ。白い部屋で、隣の寝台の泣き声を聞いていた夜から、ずっと抱えてきた欲だ。
「……でも――」
レオニスは、顔を上げた。
「それを、誰かに押しつけたくはない」
ガルドが、鼻で笑った。
「押しつけたくねえ? なら、我慢するしかねえだろうが。欲しいもんを押しつけるか、我慢して鎖に繋がれるか。――どっちかしかねえんだよ、欲張り」
レオニスは、首を横に振った。
「違う」
今度は、言えた。
「あいつらは、我慢なんかしてなかった」
ミレイアも。ユナも。陽だまりの家の前で泣いていた、子供たちも。
「欲しいもんが、いくつもあってさ。そのどれもが本物で。――その中から、自分で選んでた」
息を吸う。一度奪われて、返された空気を。
「人は、欲望と我慢の間で生きてるんじゃない。欲望と欲望の間で、選んで生きてるんだ」
ガルドが、目を見開いた。
レオニスは、祭壇についた手に、力をこめた。
「我、欲す――」
腹の底が、かっと熱くなった。
白い獣が、身を乗り出す。考えるより先に、いちばん大きな声が、喉を突き破って飛び出していた。我慢という鎖のない胸の中で、いちばん大きく吼えていた欲が。
「――誰も泣かない世界を」
白が、爆ぜた。
祭壇の溝を、白い光が駆け抜けた。流れていた黒を押しのけ、柱を駆け上がり、天井の黒硝子を真っ白に灼いていく。あと一息で、この白は、地上へ溢れ出す。王都じゅうの泣き声を、ひとつ残らず――
白い獣が、咆哮した。
歓喜の、声だった。
ぴしり、と。
凍った湖が割れるような音が、神殿に響いた。黒硝子の天井に、ひと筋の亀裂が走っていた。
女神の胸で、守り火が、今にも消えそうに震えている。
――だあれ?
白い光の中で、シエルが笑っている。
――あなたも、取るの?
レオニスは、目を閉じた。
嘘じゃない。これも、俺の欲だ。
でも。
――幸せにしようとするな。選ばせろ。
「……いいや、違う」
白い獣の咆哮が、途切れた。
レオニスは、目を開けた。
腹の底からでは、なかった。胸のまんなかから。ミルテの夜、師匠の色が灯った、あの場所から。
どっちも、本当だ。どっちも、俺の欲だ。
――だから、選ぶ。
「我、欲す」
静かに、告げた。
「泣くことも、笑うことも――誰もが、自分で選べる夜を」
光は、爆ぜなかった。
灯りも、しなかった。
白が――ほどけた。
天井を灼いていた白が。祭壇の溝を駆け上がっていた白が。雪が水に溶けていくように、音もなく、その色を失っていく。
白い獣の微笑みが、ゆっくりと、闇の中へ沈んでいった。
あとに残ったのは、夜だった。
深い夜だった。けれど、少しも怖くはなかった。
まぶたを閉じたときのような。泣き疲れた子供が、毛布にくるまって眠りに落ちるときのような。――誰にも顔を見られずに、泣くことのできる暗さ。
雨の夜、ミレイアは言った。明るいと、顔が見えるじゃないですか、と。
その夜が、祭壇の溝を流れていった。
柱を昇り、天井の黒硝子に染みこみ、階段を駆け上がって――地上へ。
祭壇についた手のひらから、夜の隅々までが伝わってくる。白い都の、燃える屋根の上へ。割れた窓の上へ。泣いている人の上にも、怒っている人の上にも。
王の上にも、乞食の上にも、等しく。
夜が、降りていく。
遠吠えが、途切れた。
夜は、喰いちぎられた鎖を、巻き直しはしなかった。人々を呑みこんでいた獣の声だけを、そっと断ち切っていった。
神殿が、しんと静まり返った。
そして――
天井の黒硝子に、光が灯った。
ひとつ。
またひとつ。
星だった。
数えきれない星が、夜の底から浮かび上がるように、黒硝子いっぱいに灯っていく。溶かした金貨のような黄金。薄紅。群青。若葉の緑。燃えるような赤。ひとつとして、同じ色はなかった。
王都じゅうの人間の、胸から昇った光だった。
ひとりひとりが抱えている、本当の欲の色だった。
昼の光の下では、決して見えない。夜にしか見えない、光だった。
女神像の足もとで、エルナの胸からも、ひとつ、光が昇っていった。
茜色だった。
女神の胸で、守り火は、もう震えてはいなかった。小さな火が、まっすぐに、静かに燃えている。
ふと、胸もとが温かくなった。
外套の襟の内側で、ランタンをかたどった黒鉄の聖印が、ほのかに灯っていた。
そこから、光がひとつ、昇っていく。
針の先ほどの、白い星だった。
白かった。けれど、もう眩しくはなかった。数えきれない星のひとつとして、ただ、夜の中に灯っていた。
――夜になる手前の色だ。
いつか、師匠はそう言った。
レオニスは、黒硝子の星空を見上げた。
「……夜に、なったよ。師匠」
白い星が、ひとつ、瞬いた。
レオニスは、少しだけ笑った。
「悪くねえだろ」
ガルドは、動かなかった。
祭壇の傍らに立ちつくしたまま、星を見上げていた。
「……なんだ、こりゃ」
レオニスは、星を見上げたまま答えた。
「昼の光は、みんなに同じ景色しか見せねえ。夜になって、やっとひとりひとりの星が見えるんだ」
誰かを幸福にする力では、なかった。誰の欲を否定する力でも、なかった。
ただ、静けさの中で、人が自分の声を聞けるようにするだけの――夜だった。
――欲を偽る者に、黒き母は夜を与えぬ。
偽らなかった。
だから、夜が来た。
◆
その夜を、王都じゅうの人間が見上げた。
遠吠えが、ふつりと途切れた。大聖堂の尖塔よりも高くそびえていた黒い狼の影が、煙のようにほどけて、消えていった。
そのあとに、夜が降りてきた。
月のない空よりも、なお深い夜だった。
燃える炎は、消えなかった。けれど、炎の爆ぜる音も、叫び声も、怒号も、急に遠くなった。
静かだった。
自分の胸の音が、聞こえるほどに。
そして、人々の胸から、光が昇りはじめた。
貴族街から続く坂道を、若いメイドが歩いていた。前掛けを外し、小さな包みをひとつ抱えている。胸から昇っていく光を見上げて、少しだけ笑い、それから、また歩き出した。
一度も、振り返らなかった。
下町の路地では、臆病な少年と隣の家の娘が、手をつないで空を見上げていた。ふたりの胸から昇った光は、寄り添うようにして、同じ高さに灯った。
川沿いのパン屋の店先では、痩せた子供が、パンを抱えたまま石段で眠りこんでいた。太った親父は、空っぽになった棚を振り返り、自分の胸から昇る光を見上げて、ふん、と鼻を鳴らした。
「……明日も、焼くか」
そう呟いて、眠る子供に、自分の上着を掛けてやった。
故郷へ続く街道の上で、剣を放り出してきた若い騎士が、一度だけ王都を振り返った。それから、また走り出した。
商店の窓を叩き割った男が、抱えていたパンの袋を、足もとに取り落とした。割れた窓の奥で、年老いた店の女が震えていた。男は長いこと、自分の胸から昇っていく光を見上げて、立ちつくしていた。
隣人の家の戸を蹴破った男は、自分のしたことの前に、座りこんでいた。
夜は、それを消しはしなかった。
男は、両手で顔を覆って、泣いていた。
拳を下ろさない者も、いた。
奪うのをやめない者も、火を放ちつづける者も、いた。
すべてでは、なかった。
それでも――
鎖が解けて笑った者たちの笑顔は、夜が来ても、消えなかった。
そして、誰かを泣かせた者たちの中から、選び直す者が出はじめていた。
◆
夜が降りてきたとき、ミレイアは、剣の腹で三人目の棍棒を払ったところだった。
遠吠えが、止んだ。
腹の底で吼えていたものが、ふっと、静かになった。
消えたのでは、なかった。憎しみは、まだそこにいる。父のパンの匂いも、母の横顔も、ユナの声も、全部、胸の中にある。
ただ――静かだった。
ひとつひとつの声が、聞き分けられるほどに。
目の前で、男が棍棒を振りかぶっていた。
その目は、ミレイアの肩越しを見ていた。ふたりの背中の間で身を寄せあう、子供たちを。
ミレイアは、踏みこもうとした。
その前に――男の胸から、光が昇った。
小さな、薄紅の光だった。
男は、棍棒を振りかぶったまま、それを見上げていた。
それから、視線を下ろした。煤だらけの顔で泣いている、いちばん小さな女の子に。
「……うちの娘と、同じくらいだ」
ぽつりと、呟いた。
棍棒が、ゆっくりと下りていった。
男はそれを石畳に落とし、両手で顔を覆った。
ひとり、またひとりと、男たちの手から、松明が、棍棒が落ちていく。自分の胸から昇る光を見上げて、立ちつくしている。
けれど、ひとりだけ、止まらない男がいた。
「燃やしちまえ! 全部だ!」
血走った目で松明を振りかざし、子供たちのほうへ突っこんでくる。
ミレイアは、迷わなかった。
剣の腹で、松明を叩き落とす。返す柄頭で、みぞおちを突く。男が崩れ落ちるのと同時に、背中で、木剣が石畳を打つ乾いた音がした。
ボルグが、転がった松明を、木剣の先で溝へ払い落としていた。
ミレイアは、息を吐いた。
胸が、温かかった。
見下ろすと、自分の胸からも、小さな光が昇っていくところだった。
何の光なのかは、訊かなくてもわかった。
――あなたが帰ってくるのが、私の欲です。
頬が、熱くなった。
背中合わせのボルグの胸からも、光が昇っていた。消えてしまいそうなほど小さな、けれど、確かな光だった。その周りで、煤だらけの子供たちの胸から、小さな光がいくつも、いくつも昇っていく。
胸の聖印に、手をやった。
白銀の太陽は、冷たかった。
――この夜は、誰の心も縛っていない。
ミレイアは、大聖堂の尖塔を見上げた。
白い尖塔が夜に溶けて、数えきれない星の中に立っていた。
「……あの人だ」
理由なんて、なかった。
それでも、わかった。
◆
黒硝子の星空の下で、ガルドは、祭壇を見下ろしていた。
刻まれた文字の溝を、もう黒い光は流れていなかった。足もとから伸びていた影は、祭壇の手前で、ぷつりと途切れている。
「……奪いやがったな」
低い声だった。
鋼色の目が、ゆっくりとこちらを向いた。
レオニスは、祭壇から手を離した。
「奪ってねえよ。俺は――」
ガルドの目が、吊り上がった。
「奪いやがった!」
吼える声に、星の灯る神殿が、びりびりと震えた。
「また、奪われるのか。俺は……また!」
レオニスは、気づいた。
ガルドの胸からは、何も昇っていなかった。
王都じゅうの人間の胸から、星が昇っている夜に。エルナの胸からさえ、茜色の光が昇った夜に。この男の胸からだけは、何ひとつ。
かわりに、黒いものが滲み出していた。
「寄越せ……」
ガルドの手が、星空へ伸びた。
「寄越せ。寄越せ、寄越せ! その夜を、寄越せえっ!」
何も、起きなかった。
大きな手は、夜を掴めずに、空を掻いた。何度も。何度も。
そして――
ガルドの影が、爆ぜた。
足もとから、黒いものが噴き上がった。
煤だった。
焼け落ちた梁の、焦げた匂いがした。煤は渦を巻いて膨れ上がり、その中から、黒い鎖が何本も、何本も伸びて、煤を縛りあげていく。
形が、できていく。
四つ足の、巨大な狼。
煤の毛皮に、鎖の骨。女神像の肩を越え、天井の黒硝子に届くほどの。
砦の大広間で見た影とは、違った。あれは、ガルドの欲が落とした影だった。
これは――ガルドそのものを喰い破って生まれた、獣だった。
《欲獣》。
からん、と。
足もとで、音がした。噴き上がる煤の風に押されて、闇の奥から、何かが石の床を滑ってくる。
師匠の鉄剣だった。
指先が、温かくなった。夕暮れ色の小さな灯が、ぽっと戻ってくる。
煤に呑まれていくガルドの手から、奪われたものが、次々とこぼれ落ちていた。
「――兄さん!」
女の声が、神殿に響いた。
女神像の足もとで、影のとぐろが崩れていた。エルナが、そこに立っていた。両手で、自分の喉を押さえている。
奪われていた声が、還ったのだ。
「兄さん! やめて、兄さん!」
狼は、振り向かなかった。
煤の喉の奥から、ガルドの声がした。
「俺は自由だ!」
割れ鐘のような声だった。
「俺の欲しいものを、俺が欲しいだけ奪う!」
狼が、吼えた。
レオニスは、その胸を見ていた。
煤の毛皮の胸から、太い鎖が何本も伸びている。その鎖は、宙で大きく弧を描いて――狼自身の胸の奥へ、心臓のあるあたりへと、繋がっていた。
自分で、自分を繋いでいる。
レオニスは、鉄剣を拾い上げた。
「それは自由じゃない」
煤の狼を、見上げる。
「お前は、お前の欲に鎖で繋がれてるだけだ」
狼が、天井を仰いだ。
煤の顎が、大きく開く。星の灯る黒硝子へ――夜そのものへ、牙を剥いて、喰らいつく。
牙が、噛み合った。
何も、掴めていなかった。
狼は、もう一度喰らいついた。もう一度。もう一度。牙が噛み合うたびに、がちん、がちんと、空っぽの音が神殿に響く。星は、ひとつも欠けなかった。
「無駄だ、ガルド」
レオニスは、言った。
「あんた、前に俺の中身を掴んで、重てえって言ったよな」
煤の狼が、低く唸る。
「夜はな、重さもねえよ」
黒硝子の星空を、見上げる。
「夜は誰のものでもない。だから、誰にも奪えない」
狼が、こちらを向いた。
煤の前足が、振り下ろされる。
レオニスは、床を蹴った。宙に、夕暮れ色の小さな足場を灯す。ひとつ。またひとつ。ミルテの夜、ミレイアが一度も疑わずに駆け上がった、あの足場を。
前足が、足場ごと宙を薙いだ。次の足場へ跳ぶ。鎖が鞭のように唸って、頬をかすめる。
狼の胸が、目の前にあった。
心臓へと繋がる鎖の、その根もと。
レオニスは、鎖を掴んだ。
引きちぎるためじゃない。辿るために。
砦の大広間で、この男の手は、自分の胸に沈んできた。いちばん奥の、いちばん温かいものを掴むために。
「今度は、俺の番だ」
煤の胸に、手を差し入れる。冷たい水の中へ沈めるように。鎖を辿って、奥へ、奥へ――
レオニスは、狼の中へ沈んでいった。
熱かった。
目を開けると、村が燃えていた。
山あいの、小さな村だった。茅葺きの屋根が、次々と火を噴いている。夜空を焦がす炎。逃げまどう人影。馬のいななき。鎧の擦れる音。
――狼谷の村。
イルザが話してくれた、村だった。
手の中の鎖は、まだ続いていた。燃える家々の間を抜けて、村の真ん中へ。
古い石の井戸があった。
鎖は、その底へと降りていた。
井戸の縁に手をかけると、石積みの奥から、声がした。
――全部、奪ってやる。
――我慢ってのはな、鎖なんだよ。
――奪われねえくらい強くなりゃいい。俺は、そうした。
ガルドの声だった。二十年ぶんの、ガルドの声。
その、いちばん底のほうで、ひときわ小さな声がした。
――……そんな奴が、二十年前に、いりゃあな。
遠ざかっていく蹄の音の中で、誰かが叫んでいる。
――ガルドにいちゃん!
――ガルドにいちゃん!
何度も、何度も。
レオニスは、井戸の縄を伝って、降りていった。
底は、凍えるような水だった。
その水の中に、少年がひとり、膝を抱えてうずくまっていた。
十二歳ほどの、痩せた少年だった。継ぎのあたった粗末な上着が、水を吸って肌に貼りついている。黒い髪から、雫が滴っていた。
両手に、何かを握りしめている。
小さなリボンだった。
色褪せては、いなかった。燃えるような、茜色だった。
少年の足首に、鎖が巻きついていた。狼の胸から伸びて、この井戸の底まで降りてきた、あの鎖だった。
――二十年。
この子は、ずっと、ここに繋がれていたのだ。
少年の唇が、震えていた。
「……誰か」
声にならないほどの、小さな声だった。
「誰か、助けて」
動けなかった、とイルザは言った。怖くて、声も出せなかった、と。
この声だけは、二十年、誰の耳にも届いていなかったのだ。
レオニスは、冷たい水の中に膝をついた。少年と、同じ高さに。
「……遅くなって、悪かった」
少年が、顔を上げた。
鋼色の目だった。
レオニスは、手を差し伸べた。
掴みは、しなかった。
「掴むかどうかは、お前が選べ」
少年は、差し出された手を見ていた。長いこと、見ていた。
唇が、歪んだ。
「今さら……遅えよ。二十年、遅え」
リボンを握りしめた手は、動かなかった。
レオニスは、手を引っこめなかった。
ただ、待った。
そのとき――
頭上から、声が降ってきた。
「兄さん」
少年の肩が、びくりと跳ねた。
井戸の口を、見上げる。
炎の色は、もうそこにはなかった。
丸く切り取られた夜空に、数えきれない星が瞬いていた。その真ん中で、色褪せた茜色が、小さく揺れている。
リボンを、掲げているのだ。
「兄さんがしたのは、あの日の兵隊と同じことだよ」
二十年前、この井戸の上で、兄を呼んでいた声だった。
けれど、もう、泣き叫んではいなかった。
我慢という鎖を喰いちぎられた胸の、いちばん奥から、まっすぐに降ってくる声だった。
「……私は奪われた。でも、その先は私が選んだの」
夜を貫いて、声は、井戸の底まで届いた。
「好きな人も、子どもたちも、全部。――だから兄さんも、選び直していいんだよ」
少年の目から、涙がこぼれた。
リボンを握りしめていた両手の、片方が、ほどけた。
震える小さな手が、水の中から持ち上がり――
レオニスの手を、取った。
握り返した。
冷たい手だった。二十年、凍えた水の底にあった手だった。
レオニスは、右手の鉄剣を振り上げた。
刃のない剣が、夜をまとった。
白でも、夕暮れでもない。星を宿した、深い夜の色に。
――斬るためじゃねえよ。
振り下ろす。
――断つための剣だ。
鎖が、断たれた。
少年を、ではない。狼を、でもない。
二十年ぶん、少年の足首を井戸の底に繋ぎとめていた、鎖だけを。
井戸の石積みが、崩れはじめた。
崩れた石は、落ちてはこなかった。黒い雪になって、ふわりと舞い上がっていく。燃えていた村も、炎も、蹄の音も――全部が黒い雪になって、星空のほうへ昇っていく。
少年の手を握ったまま、レオニスも、昇っていった。
気がつくと、神殿の床に膝をついていた。
黒い雪が、降っていた。
煤の狼が、崩れていく。毛皮も、牙も、鎖の骨も。ひびの走った黒硝子の星空の下で、音もなく、黒い雪になって降りそそいでいく。
その真ん中に、ひとりの男が、膝をついていた。
狼の毛皮は、もう肩になかった。煤になって、崩れ落ちたのだ。束ねていた髪がほどけて、大きな背中が、丸まっている。
左の手首で、色褪せたリボンが揺れていた。
レオニスの手は、その男の手に、握られていた。
大きな手だった。ごつごつと節くれだった、けれど今は、子供のように震えている手。
ガルドが、顔を上げた。
鋼色の目から、涙が、ぼろぼろとこぼれていた。
「……最悪だ」
かすれた声だった。
「涙が、止まらねえ」
レオニスは、自分の指先を見た。
光っては、いなかった。
伸びようとも、しなかった。
「泣けばいい」
レオニスは、言った。
「それも、あんたが選んだことだ」
ガルドは、何か言い返そうとして――言えずに、顔をくしゃくしゃに歪めた。
握っていた手が、離れる。
その背中に、細い腕が回された。
エルナだった。
黒い雪の中を駆けてきて、兄の背中にしがみついていた。
ガルドの体が、こわばった。
ゆっくりと、振り返る。
エルナの手には、髪からほどいたリボンが、握りしめられたままだった。
色褪せたリボンが、ふたつ、並んだ。妹の手の中のものと、兄の手首に巻かれたものと。
ガルドの震える指が、妹の濡れた頬に触れた。――井戸の上で兄を呼んでいた小さな女の子の、大人になった頬に。
二十年ぶんの言葉が、そこに詰まっているようだった。
なのに、ガルドの口からこぼれたのは、たったひと言だった。
「……大きく、なったな」
エルナが、兄の胸に顔を埋めた。
声を上げて、泣いていた。
レオニスは、そっと背を向けた。
見ねえから、と、いつか墓の前で言ったように。
見上げた星空に、茜色の星が、ふたつ並んで瞬いていた。
ひとつは、さっきエルナの胸から昇ったもの。もうひとつは――きっと今しがた、あの男の胸から昇ったものだ。
レオニスは、その場に仰向けに寝転がった。
石の床は冷たくて、星は、きれいだった。
腹の虫が、盛大に鳴いた。
◆
東の空が、白みはじめていた。
星が、ひとつ、またひとつと、朝の光に溶けていく。
消えたのではない、とミレイアは思った。見えなくなっただけだ。昼の光の下でも、あの星はきっと、ひとりひとりの胸の上に灯っている。
陽だまりの家の火は、夜のうちに消えていた。
消したのは、近所の人たちだった。それから、ゆうべ棍棒を振りかざしていた男たちだった。井戸から燃える壁まで一列に並んで、桶を手から手へ渡していた。娘の話をした男は、いちばん火に近いところで、煤だらけになって水をかけていた。
通りのあちこちで、瓦礫をどける音がしている。割れた窓の前では、店の女と見知らぬ若い男が、黙って硝子の破片を拾い集めていた。
焼け残った門の脇で、ボルグが、壁にもたれて座っていた。
膝の上に、魚みたいな木剣。その両脇で、煤だらけの子供たちが、大きな体に寄りかかって眠っている。
ボルグだけは、眠っていなかった。
ミレイアは、しばらく、その姿を見ていた。
それから、言った。
「……この子たちを、お願いします」
ボルグが、顔を上げた。
何か言いかけて、やめて――ただ、深く頷いた。
ミレイアは、大聖堂へ走った。
大聖堂の扉は、開け放たれたままだった。
白い身廊の奥、祭壇の足もとに、黒い裂け目が口を開けている。高い窓から差しこむ朝の光が、その縁を白く照らしていた。
裂け目の底から、足音が昇ってきた。
最初に姿を見せたのは、黒髪の女だった。濃紺のドレスの裾が、煤で黒く汚れている。ほつれた髪に、色褪せた茜色のリボンが結び直されていた。
エルナだった。
その後ろから、大柄な男が昇ってきた。
ミレイアの手が、剣の柄にかかった。
ガルド・バルガス。
けれど、あの黒い狼の毛皮は、もう肩になかった。ほどけた黒髪。泣き腫らした、鋼色の目。ミレイアを見ても、その目は、何も言わなかった。
柄から、手が離れた。
最後に、ひどく重たげな足音が、一段ずつ昇ってきた。
寝癖のついた黒髪。旅塵と煤にまみれた、黒い外套。肩には、刃のない鉄剣。
レオニスだった。
這い出すように最後の一段を昇りきり、朝の光に目を細める。それから、ミレイアに気づいて、口を開きかけ――
「お母さま!」
大聖堂の入り口から、声がした。
振り返ると、子供がふたり、身廊を駆けてくるところだった。七つくらいの男の子と、四つくらいの女の子。その後ろから、痩せた男が、息を切らして追いかけてくる。
伯爵――ルカーシュだった。
エルナが、膝をついて両腕を広げた。
子供たちが、その胸に飛びこんだ。
ゆうべ、あの玄関広間に響いていたのと、同じ声だった。けれど今は、泣きながら、笑っていた。
ルカーシュが、足を止めた。
妻の後ろに立つ、大柄な男を見ていた。
父の、仇。妻の、兄。
ガルドも、ルカーシュを見ていた。
長い、沈黙があった。
先に動いたのは、ルカーシュだった。静かに、深く、頭を下げた。
ガルドは、目を逸らした。それから、ほんの小さく、顎を引いた。
エルナの腕の中から、女の子が顔を出した。
大きな男を、じっと見上げる。
「……だあれ?」
ミレイアは、思わずレオニスの横顔を見た。
焚き火の夜に聞いた言葉だった。白い部屋で、笑ったまま首をかしげたという、女の子の。
レオニスは、黙って、女の子を見ていた。
ガルドの肩が、びくりと揺れた。
大きな体を、ぎこちなく折り曲げる。膝をついて、女の子と同じ高さに。
しばらく、口を開けたり閉じたりしていた。
それから、かすれた声で言った。
「……お前の、母ちゃんの」
喉が、ごくりと鳴った。
「兄ちゃんだ」
女の子は、首をかしげた。
それから、母親の顔を見上げた。エルナが、泣きながら頷く。
女の子は、もう一度ガルドを見て――にぱっと、笑った。
すぐそばで、小さく息を吐く音がした。
レオニスが、笑っていた。
ひどく、くたびれた顔だった。けれど、今まで見たことがないくらい、やわらかい顔だった。
その顔が、こちらを向いた。
「……よう」
何か、言わなければと思った。言いたいことが、山ほどあった。
なのに、何ひとつ、出てこなかった。
レオニスが、へらりと笑った。
「帰ってきたぞ。……お前の欲、なんだろ」
顔が、かっと熱くなった。
「……聞こえて、いたんですか」
答えのかわりに、レオニスの体が、ぐらりと傾いだ。
ミレイアは、とっさに両腕を広げた。
倒れこんできた体を、受け止める。
ずしりと、重かった。
旅塵と、煤と、汗の匂いがした。外套の襟元からこぼれた黒鉄の聖印が、まだ、ほのかに温かかった。
「……重いです」
腕の中から、くぐもった笑い声がした。
「……ひでえ」
そのまま、レオニスは、すうっと寝息を立てはじめた。
高い窓から、朝の光が差しこんでいた。白い身廊が、眩しいほどに輝いている。
ミレイアは、泣いていた。
顔を隠す暗がりは、どこにもなかった。
隠そうとも、思わなかった。




