第六章 光の都の闇
――二十五日目:馬上で昼寝。落馬せず。
器用な男だった。平野を駆ける栗毛の背で、手綱を握ったまま、半日のあいだ船を漕ぎ続けたのだから。
二日のあいだ、ミレイアはほとんど口をきかなかった。
王都には、あの人がいる。――会ったら、自分はどうするのか。答えは、まだ出ていなかった。
二日目の夕暮れ、平野の果てに、白い都が見えてきた。
王都ルクセリア。
白い城壁。白い塔。白い石畳。夕日を浴びて、街じゅうが淡い金色に燃えている。その真ん中に、ひときわ高く、大聖堂の尖塔がそびえていた。頂に掲げられた白銀の太陽が、最後の陽を弾いてきらめく。
光の都、と人は呼ぶ。
ミレイアにとっては、九年を過ごした街だった。
隣で、レオニスが目を細めた。
「……相変わらず、目が痛え街だな」
相変わらず、とこの人は言った。
ミレイアは、焚き火の夜の話を思い出していた。
《陽だまりの家》は、この都にある。大聖堂の裏手の、白い壁の孤児院。――この人は、この街から逃げ出したのだ。
レオニスは、それきり何も言わなかった。黒い聖印を外套の襟の内側にしまいこみ、頭巾を目深にかぶって、白い門をくぐった。
翌朝、ミレイアはひとりで、神殿騎士団の本営を訪ねた。
闇司祭が足を踏み入れれば、ただでは済まない場所だ。レオニスは、大聖堂前の広場の噴水の縁で待っている。
白い回廊を歩くたびに、九年ぶんの足音が耳の奥で鳴った。毎朝、誰よりも早く起きて、この中庭で剣を振った。泣きたくなるたびに、剣を振った。
騎士団長の執務室は、九年前と何ひとつ変わっていなかった。白い壁。白い石の床。正面の壁には、白銀の太陽の紋章。
騎士団長は、岩のような男だった。白い髭をたくわえ、灰色の目でミレイアを見下ろしている。
「――以上が、黒狼団の首領、ガルド・バルガスの企てです」
ミレイアは、背筋を伸ばしたまま言いきった。
「今夜、新月の夜に、大聖堂の地下の神殿で大欲法が使われます。王都じゅうの人間から、我慢を奪う欲法です。どうか、今すぐ――」
「大聖堂の地下に、神殿などない」
騎士団長は、低い声で遮った。
ほんの一瞬だけ、灰色の目が揺れた気がした。
「闇司祭の戯言を、真に受けたか」
「この目で見て、この耳で聞いたことです」
「無断で隊を離れ、ひと月近くも闇司祭と行動を共にした見習いの目と耳を、か」
騎士団長は、机の上に手を差し出した。
「闇司祭を監視していたと言ったな。記録を出せ」
ミレイアは、懐から革表紙の帳面を取り出した。
罪状帳。いずれ教会に提出します、と、あの人に言った帳面だ。
騎士団長は、無言でそれをめくった。
「……一日目、昼寝」
読み上げる声が、怪訝そうに低くなっていく。
「二日目、昼寝。朝寝坊。宿の朝食を三人前。三日目、昼寝。二回。……八日目、シチュー四杯。……二十四日目、早起き。焼き芋、八つ」
ページをめくる手が、止まった。
「ふざけているのか」
「いいえ」
ミレイアは、まっすぐに騎士団長を見返した。
「それが、あの人の罪状のすべてです」
騎士団長は、帳面を机の上に放り出した。
「闇司祭は、闇司祭だ。何をしたかではない。何であるかが、罪なのだ」
椅子を鳴らして、立ち上がる。
「その闇司祭を拘束せよ。日が暮れる前に、ここへ連れてこい。――できなければ、お前も同罪とみなす」
ミレイアは、しばらく動かなかった。
九年前、この街の神殿に引き取られた。悲しみを取っていただきましょうと言われて、首を振った。泣くかわりに剣を握って、ここまで来た。
胸の聖印の下に留めた、小さな銀の徽章に指をやる。
見習いの印。いつか正騎士になって、外すつもりでいた徽章だった。
ミレイアは、それを外した。
騎士団長の机の上に、そっと置く。
「……何の真似だ」
「お返しします」
声は、震えなかった。
「あの人が何者なのか。何をして、何をしなかったのか。――私の目で見て、私が判断しました」
それから、机の上の罪状帳を手に取った。
「これは、私の帳面ですので」
一礼して、背を向ける。
「待て、見習い――」
「もう、見習いではありません」
扉の前に、同期の見習いがひとり、青い顔で立っていた。食堂当番のとき、ミレイアのスープをひと口すすって泣いた、赤毛の娘だった。
ミレイアが近づくと、赤毛の娘は黙って、扉を開けた。
すれ違いざまに、小さな声がした。
「……あんたのスープ、ほんとにまずかったけどさ。――行きなよ」
ミレイアは、少しだけ笑った。
◆
噴水の縁で待っていたレオニスは、戻ってきたミレイアの胸もとを見て、目を瞬いた。
白銀の太陽の聖印は、そのままだった。けれど、その下にいつも留めてあった小さな銀の徽章が、なくなっていた。
「……それ」
「返してきました」
ミレイアは、あっさりと言った。
「私が、選んだことです」
レオニスは、しばらく何も言えなかった。
それから、にっと笑った。
「そっか」
「日が暮れる前に、あなたを拘束して連れてこいと言われました。できなければ、私も同罪だそうです」
「うわ。……で、どうすんだ」
「同罪で、結構です」
ミレイアは、大聖堂の尖塔を見上げた。
「騎士団は、動きません。――私たちだけで、やるしかありません」
新月の夜まで、半日もなかった。
グラウベル伯爵家の王都屋敷は、貴族街のはずれにあった。
白い館が立ち並ぶ通りで、その屋敷だけが、飾り気のない灰色の石でできていた。門の脇では、年老いた門番が、胡散臭そうにこちらを見ている。
「伯爵家に、何の用だ」
レオニスは、頭巾を払った。
「伯爵夫人に、伝えてくれ。――『ガルドにいちゃん』のことで、話がある、って」
門番は眉をひそめ、首をかしげながら、屋敷の中へ消えた。
しばらくして。
屋敷の扉が、勢いよく開いた。
裾をつまんで駆けてきたのは、ひとりの女だった。
二十代の終わりほどだろうか。質素な濃紺のドレス。ひとつに束ねた黒髪に、色褪せたリボンが結ばれている。もとは、茜色だったのだろう。
ガルドの左の手首で揺れていた、あのリボンと、同じ色だった。
「……今、なんて」
女は、門の格子を握りしめた。
鋼色の目をしていた。兄と同じ色の、けれど、まるで違う、やわらかな目だった。
「ガルド、にいちゃんって……どうして、その呼び方を」
レオニスは、静かに言った。
「あんたの兄貴は、生きてる」
エルナ・グラウベルの膝から、力が抜けた。
通された応接間は、伯爵家とは思えないほど、飾りの少ない部屋だった。壁に掛かっているのは、子供の描いた絵ばかりだ。
長椅子のエルナの隣に、痩せた男が腰を下ろしていた。グラウベル伯爵、ルカーシュ。三十を少し過ぎたほどの、穏やかな目をした男だった。
扉の隙間から、小さな顔がふたつ、こちらを覗いている。七つくらいの男の子と、四つくらいの女の子だ。
目が合うと、女の子のほうが首をかしげた。
「……だあれ?」
レオニスの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
同じ言葉だった。白い部屋で、笑ったまま首をかしげた、あの子と。
けれど、この子の目は、長椅子の母親の姿をちゃんと探して、くるくると動いていた。
「……お母さんの、兄貴の知り合いだよ」
そう答えると、女の子は、ぱっと扉の陰に隠れた。
レオニスは、話した。
ガルドが、生きていること。《黒狼》と呼ばれる盗賊団の頭になっていること。半年前、街道で伯爵家の馬車を止め、何ひとつ奪わずに見逃したこと。
そして今夜、新月の夜に、エルナを迎えに来るつもりでいること。王都じゅうから我慢を奪う、大欲法のことも。
エルナは、ずっと、両手で口もとを押さえていた。
「……あの、馬車の」
かすれた声が、指の間から漏れた。
「覚えています。黒い毛皮の、大きな男の人。何も取らずに、ただ、じっと私を見ていた。……あれが、兄さん」
ルカーシュが、目を閉じた。
「私の父を殺したのも、《黒狼》だと聞いている」
静かな声だった。
「十一年前だ。領地の屋敷に押し入り、父だけを斬って去ったと。……そうか。あれは、エルナの兄上だったのか」
「恨んでるか」
レオニスが訊くと、ルカーシュは首を横に振った。
「父は、あの人の村を焼いた。恨む資格など、私にはない」
それから、妻の手に、そっと自分の手を重ねた。
「あの夜、エルナはこの屋敷にいた。父の目の届かない王都へ、私が移していたんだ。……父のそばに置いておけば、この人が何をされるか、わかっていたから」
ガルドが領地の屋敷じゅうを探しても、妹を見つけられなかったわけだ。
レオニスは、少しだけ迷ってから、言った。
「ガルドは、あんたがまだ奪われたまんまだと思ってる。仇の息子に、捕まったまんまだって」
「奪われた、まま……」
エルナが、小さく繰り返した。
ルカーシュが、首を振った。
「私は、ずっと言ってきた。この家を出ていきたければ、いつでも出ていっていい、と」
「出ていかなかったのは、私よ」
エルナの声は、小さかった。けれど、揺るがなかった。
奪われたまんまなんかじゃ、なかった。
レオニスは、エルナの髪のリボンに目をやった。
「あいつも、同じのを巻いてる。左の手首に。……色褪せて、ぼろぼろになってたけど」
エルナの指が、自分のリボンに触れた。
「……母さんが、市で買ってくれたの」
声が、ふるえた。
「兄さんとお揃いで。兄さん、男の子なのにって、ぷりぷり怒ってた。……それなのに」
鋼色の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
レオニスは、何もしなかった。
ただ、その涙が膝の上に落ちていくのを、黙って見ていた。
ルカーシュが、そっと妻の背に手を置いた。
しばらくして、エルナが、涙のにじむ声で訊いた。
「兄さんは……どんな人に、なったの」
レオニスは、少し考えた。
「でかくて、よく笑って、気前がいい。欲しがる奴には、何でもくれてやる。……字は読めねえくせに、奪ってきた本を、ガキどもに配ってる」
エルナが、泣きながら、小さく噴き出した。
「……兄さん、結局、字を覚えなかったんだ」
長い沈黙のあとで、エルナは顔を上げた。
「……会いたい」
震えながら、それでも、はっきりと。
「兄さんに、会いたい。会って、話がしたい。……二十年ぶんの、話を」
視界の隅で、ミレイアが、そっと目を伏せたのが見えた。
レオニスは、頷いた。
「なら、会わせてやる」
それから、付け加えた。
「――でも、奪わせは、しねえ」
ルカーシュが、腰を浮かせた。
「屋敷の者に、守りを固めさせよう」
「やめとけ」
レオニスは、首を振った。
「剣を何本並べても、あいつは『寄越せ』のひと言で、全部持ってく。……玄関で、俺たちが待つ」
◆
新月の夜だった。
月のない空に、星だけが冷たく瞬いている。
伯爵家の玄関広間で、レオニスは階段の下に座りこんでいた。膝の上には、師匠の鉄剣。隣には、抜き身の剣を下げたミレイア。その背には、ミルテからずっと、ユナの木剣が括りつけてある。
階段の上には、子供たちを抱いたエルナと、その前に立つルカーシュがいた。
燭台の火が、じじ、と揺れる。
夜半を過ぎたころ。
燭台の火が、いっせいに消えた。
風は、吹いていなかった。
――寄越せ。
暗闇の中で、低い声がした。
火を、奪われたのだ。
レオニスは、指を振った。夕暮れ色の小さな光が、広間にぽっと灯る。
玄関の扉の前に、大柄な男が立っていた。
黒い狼の毛皮。無造作に束ねた黒髪。鈍く光る、鋼色の目。
「……よう、欲張り」
ガルドは、夕暮れ色の光を眺めて、口の端を上げた。
「いい色になったじゃねえか」
「イルザから、全部聞いた」
「だろうな。……あいつ、しゃべりやがったか」
レオニスは、鉄剣を杖にして立ち上がった。
「なあ。あんた、妹が何を欲しがってるか、訊いたのか」
ガルドは、鼻で笑った。
「訊くまでもねえ。二十年、奪われてきたんだ。取り返してほしいに決まってる」
それきり、ガルドは何も言わなかった。
鋼色の目が、階段の上へ向けられる。
ルカーシュが、一歩、前に出た。妻と子供たちの前に、両腕を広げて立ちはだかる。
――父の仇の、息子。
ガルドの手が、腰の剣の柄にかかった。
レオニスは、息を詰めた。
けれど、剣は抜かれなかった。
ガルドは、柄から手を離した。ルカーシュのことなど、見えていないかのように。ただ、その後ろの妹だけを見上げて、手を伸ばした。
「迎えに来た」
低い、やさしい声だった。
「もう誰にも、お前を奪わせねえ」
「待ってくれ」
ルカーシュが、両腕を広げたまま言った。
「エルナは、あなたに会いたいと言った。会って、話がしたいと。……奪われたいとは、ひと言も――」
ガルドは、仇の息子を見もしなかった。
ルカーシュの肩越しに、エルナが、兄を見た。
それから、夫の脇をすり抜けて、一段、また一段と、階段を降りてくる。泣き出しそうな顔で。それでも、笑おうとする顔で。
「兄、さん……」
唇が、震えていた。
「兄さん、私――」
「寄越せ」
黒い風が、広間を吹き抜けた。
ルカーシュの体が、見えない何かに弾かれて、壁に叩きつけられる。階段の途中にいたエルナの体が、ふわりと宙に浮き、兄のほうへ引き寄せられていく。
「お母さま!」
「おかあさまぁっ!」
レオニスは、跳ね起きていた。
夕暮れ色の壁を、ガルドとエルナの間に立てる――
「邪魔だ」
黒い狼の影が、光の壁ごとレオニスを薙ぎ払った。
背中から床に叩きつけられる。息が詰まる。視界の隅で、斬りかかったミレイアの剣が、見えない力に弾き飛ばされるのが見えた。
ガルドの腕の中に、エルナがいた。
兄の胸に抱きかかえられたまま、エルナは、階段の上へ手を伸ばしていた。泣き叫ぶ、子供たちのほうへ。
「ガルド!」
レオニスは、床に這いつくばったまま叫んだ。
「聞こえねえのか! その声が!」
子供たちの泣き声が、広間に響いていた。
ガルドの足が、一瞬だけ、止まった。
鋼色の目が、かすかに揺れた。
それから――
「……聞こえねえな」
黒い影が、兄と妹を呑みこんだ。
燭台の火が消えたときと同じように、音もなく。
広間には、夕暮れ色の小さな光と、泣きじゃくる子供たちの声だけが残された。
エルナが望んだのは、会うことだった。
話をすることだった。二十年ぶんの話を。
奪われることでは、なかったのに。
◆
その遠吠えを、王都じゅうの人間が聞いた。
白亜の大聖堂の、はるか地の底から、それは湧き上がった。低く、長く、腹の底を震わせる獣の声。石畳が鳴り、白い壁が鳴り、眠っていた人々が寝台の上で跳ね起きた。
月のない夜空に、影が立ち上がった。
大聖堂の尖塔よりも高い、黒い狼の影だった。
狼は白い都を見下ろして、もう一度、吠えた。
その瞬間、人々の胸の奥で、何かが、ぷつりと切れた。
見えない鎖だった。
叱られないように。嫌われないように。明日も食べていけるように。――誰もが自分でも気づかないうちに、自分の胸に巻きつけてきたもの。
狼の遠吠えが、それを、ひとつ残らず喰いちぎっていった。
貴族街の屋敷で、若いメイドが、主人の頬を張った。
十年、黙って耐えてきた平手の、倍の音がした。呆然と頬を押さえる主人に背を向けて、メイドは笑いながら屋敷を出ていった。一度も、振り返らなかった。
下町の路地では、臆病な少年が、隣の家の娘に想いを告げていた。三年間、どうしても言えなかった言葉だった。娘は目を丸くして――それから、耳まで真っ赤になって頷いた。
川沿いのパン屋で、太った親父が、店の戸を開け放った。
「持ってけ! 全部だ! 腹を空かせたガキどもに、一度でいいから、腹いっぱい食わせてやりたかったんだ!」
焼きたてのパンが、夜の通りへ次々と投げ出されていく。路地裏から駆けてきた痩せた子供が、両腕いっぱいにパンを抱えて、泣きながら笑っていた。
神殿騎士団の本営では、見張りの若い騎士が剣を放り出し、故郷の母の顔を見に行くと言って、夜の門を駆け出していった。
同じ夜。
隣の通りでは、男たちが商店の窓を叩き割り、品物を抱えて走り去っていった。
教会の建物に、火が放たれた。
酒場では、借金を帳消しにしろと叫ぶ男と、今すぐ返せと叫ぶ男が、同時に殴りかかっていた。
古い恨みを抱えていた男が、隣人の家の戸を蹴破った。悲鳴が上がり――そして、途切れた。
笑い声と、泣き声と、怒号と、炎の爆ぜる音。
白い都が、夜の底で、いっせいに叫びはじめていた。
――鎖を喰われて、笑った者がいた。誰かを泣かせた者がいた。
◆
胸の奥で、何かが切れる音を、ミレイアは聞いた。
九年間、自分で巻きつけてきた鎖だった。
剣を振る前に、息を整える。怒りを、腹の底に沈める。泣きたいときほど、背筋を伸ばす。――そうやって締めつけてきた鎖が、遠吠えのひと声で、喰いちぎられた。
その下から、噴き上がってきたものがあった。
熱い。
腹の底が、焼けるように熱い。
――斬れ。
声がした。自分の声だった。
――あの男は、この街にいる。黒狼についてきた。探し出して、斬れ。今度こそ。
剣の柄を握る指の関節が、白くなった。
壁際では、ルカーシュが、泣きじゃくる子供たちを抱きしめていた。
「……頼む。エルナを、頼む」
「ああ」
レオニスが、短く答えた。
その横顔を見て、ミレイアは息を呑んだ。
レオニスの指先が、白く燃えていた。
夕暮れの色ではない。あの、白だった。
ふたりは、夜の街へ飛び出した。
王都は、燃えていた。
割られた窓。石畳に散らばった品物。笑いながら駆けていく人。道端にうずくまって泣いている人。どこかで鐘が鳴り、どこかで誰かが叫んでいる。
大聖堂の尖塔を目指して、ふたりは走った。
大聖堂の裏手に差しかかったときだった。
前を走っていたレオニスの足が、止まった。
白い壁の建物が、燃えていた。
門の上の白い看板が、炎に赤く照らされている。
――陽だまりの家。
焚き火の前で聞いた名前だった。壁も寝台も真っ白で、いつも笑い声でいっぱいだったという孤児院。――泣いてばかりいた女の子が、笑うことしかできなくなった場所。
レオニスは、動かなかった。
白く燃える指先を垂らしたまま、ただ、燃える白い壁を見上げていた。
建物の中から、子供たちの泣き声がした。
門のほうから、白い法衣の男たちが、転がるように逃げ出してくるのが見えた。胸で、白銀の太陽の聖印が揺れている。孤児院の司祭たちだった。
誰ひとり、子供を抱えてはいなかった。
炎の中から、影が現れた。
大きな影だった。
片腕に小さな子供をふたり抱え、背中にもうひとりをしがみつかせている。その後ろから、煤だらけの子供たちが、大きな背中を追いかけるようにして、次々と転がり出てきた。
熊のような体。剃り上げた頭。空っぽの、右の袖。
ボルグだった。
ボルグは門の外まで来ると、子供たちを石畳の上に下ろした。煤で真っ黒になった顔で、ひとりひとりの頭を撫でていく。
それから、顔を上げた。
目が、合った。
「……嬢ちゃん」
かすれた声だった。
ボルグは、ゆっくりとミレイアの前まで歩いてきた。
「子供の声が、した」
大きな体が、ふらりと揺れた。
「今度は……聞こえねえふりが、できなかった」
そして、その場に膝をついた。
剃り上げた頭を垂れ、太い首を、差し出すように前へ伸ばす。あの雨の夜と、同じように。
「殺してくれ」
――斬れ。
腹の底で、何かが吼えた。
枷の外れた憎しみだった。我慢という鎖を喰いちぎられて、剥き出しになった、九年ぶんの憎しみ。
――斬れ。今なら、斬れる。この男が、父を殺した。母を殺した。床板の上で、最後まで私を守っていた母を。
剣が、持ち上がっていた。
あの雨の夜のように、震えてはいなかった。
けれど。
吼えているのは、憎しみだけではなかった。
朝ごとに父が焼いていたパンの匂い。玄関に飾った麦の穂の束を、嬉しそうに直していた母の横顔。
研いだ包丁で、黒パンを切り分けた老人の手。
――憎いよ。でも、喉、渇いてたみたいだから。
――ミレイアさんも、選んでいいんだよ。
そして、ずっと昔、剣を握ると決めたときに思い描いた、ひとりの騎士の背中。今度こそ間に合って、今度こそ誰かを守る、騎士の背中。
ボルグの後ろで、煤だらけの子供たちが泣いていた。泣きながら、大きな背中にしがみついていた。
黒狼の里の、あの雨の夜の子供たちと、同じように。
全部が、同時に吼えていた。
我慢という鎖は、もう、どこにもない。どの声も剥き出しのまま、胸の中で暴れている。
――だから。
選ぶのは、私だ。
ミレイアは、剣を振り下ろした。
ボルグの首ではなく――石畳へ。
切っ先が石の継ぎ目に深く突き立ち、澄んだ音を立てて震えた。
「許しません」
声が、震えた。
「一生。……一生、許しません」
ボルグが、顔を上げた。
「でも」
ミレイアは、突き立てた剣の柄を、両手で握りしめた。
「私の剣は、あなたを殺すためには振らない。――あの子たちを守るために、振ります」
そのとき、通りの向こうから、怒号が近づいてきた。
松明と棍棒を手にした男たちだった。十人は、いる。
「教会の建物は、ひとつ残らず燃やしちまえ!」
男たちの目は、どこか遠くを見ていた。我慢を喰いちぎられて、剥き出しになった怒りだけが、その足を動かしていた。
ミレイアは、石畳から剣を引き抜いた。
背中に括っていた木剣を革紐ごと外し、ボルグの前に放る。
流木を削った、魚みたいな木剣。ユナが、十日で置いた剣。
「……これを」
ボルグが、目を見開いた。
「斬れない剣です。――あなたには、ちょうどいい」
ボルグは、しばらくその木剣を見つめていた。
それから、残った左手で、それを拾い上げた。
斧でも、杓子でもない。子供のための、斬れない剣を。
ボルグが立ち上がり、ミレイアと背中合わせに立った。その真ん中に、子供たちがいる。
「……嬢ちゃん」
「話しかけないでください。許していませんから」
「……ああ」
背中越しに、ボルグがかすかに笑った気がした。
最初の男が、棍棒を振りかぶって突っこんできた。
ミレイアは剣の腹で棍棒を払い、柄頭で男のみぞおちを突いた。背中で、木と木のぶつかる乾いた音がした。ボルグの木剣が、別の男の棍棒を受け止めている。
子供たちは、ふたりの背中の間で、身を寄せあっていた。
斬らない。けれど、一歩も退かない。
ミレイアは、振り返った。
燃える白い壁の前で、レオニスが立ち尽くしていた。白く燃える指先を垂らしたまま。
「レオニス!」
ミレイアは、叫んだ。
「私、選べました。我慢なんかなくても、選べました! だから――」
男たちが、迫ってくる。ミレイアは、剣を構えた。
「みんなも、きっと選べます。行って!」
それから、小さく、付け加えた。
「……帰ってきてください」
聞こえなくても、いいと思った。
「あなたが帰ってくるのが、私の欲です」
◆
聞こえた。
燃え落ちる梁の音も、男たちの怒号も、子供たちの泣き声も、全部を突き抜けて、その声は届いた。
レオニスは、自分の指先を見下ろした。
白く、燃えていた。
遠吠えを聞いた瞬間から、ずっとだ。王都じゅうの泣き声が、耳の奥で渦を巻いている。胸の底で、白いものが囁き続けている。
――全部、消してしまえ。泣き声を、ひとつ残らず。
白い部屋で、笑ったまま首をかしげた女の子の顔が、まぶたの裏をよぎる。
――だあれ?
我慢という鎖は、もうない。囁きは、剥き出しのまま、胸の中で暴れていた。
目の前で、陽だまりの家が燃えていた。
白い壁の、白い部屋。笑い声しか、聞こえなかった場所。
あの日、泣き声から逃げ出した場所だった。十歳の夜、白い廊下を裸足で駆け抜けて、振り返りもせずに。
その前で――
ミレイアが、剣を構えていた。
ボルグが、魚みたいな木剣を握っていた。
ふたりの間で、煤だらけの子供たちが、泣きながら、それでも互いの手を握りあっていた。
誰も、あの子たちの涙を止めようとはしていなかった。
ただ、あの子たちの前に立っていた。
子供たちは、泣いていた。ちゃんと、泣いていた。自分の涙を、自分のものとして。
レオニスは、笑った。
笑うしか、なかった。
「……かなわねえな」
白く燃える指を、ぎゅっと握りこむ。
消えは、しなかった。胸の底の囁きも、止みはしなかった。
それでも――
レオニスは、背を向けて走り出した。
大聖堂の扉は、開け放たれていた。
白い身廊の奥、祭壇の足もとの床が、黒く裂けていた。裂け目の下から、石の階段が、どこまでも闇の底へと続いている。見張りの姿は、どこにもなかった。
あの遠吠えは、そこから湧き上がってきていた。
一段降りるごとに、空気が冷たくなる。遠吠えが、腹の底を揺らす。燭台ひとつない闇が、口を開けて待っている。
レオニスは、師匠の鉄剣を握り直した。
夜になる手前の色を、指先に灯す。燻りつづける白のすぐ隣で、夕暮れの色が、小さく揺れた。
「待ってろ、ガルド」
新月の夜の、そのさらに底へ。
レオニスは、降りていった。




