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光の闇司祭① 黒狼の楽園  作者: parupuntist


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第五章 黄昏の宣誓

 剣を抜くのに、迷いはなかった。


 鎖に打たれたレオニスが、広場の土に膝をついている。ミレイアは、その前へ飛びこんだ。


 背中で、苦しげな咳が聞こえた。


「……下がってろ、ミレイア」


「下がるのは、あなたです」


 振り返らずに、言い返す。


 今のレオニスには、小さな盾ひとつ張れない。それは、見ればわかった。


 イルザが、面白そうに片眉を上げた。


「へえ。聖光教会の騎士さまが、闇司祭を庇(かば)うのかい」


「監視対象ですので」


 ミレイアは、剣を構えた。


 背中に誰かを庇って剣を構えるのは、初めてだった。


 膝が、かすかに震えている。――床板の上に覆いかぶさっていた母も、こんなふうに怖かったのだろうか。


 焚き火の前で言いかけた言葉は、まだ喉の奥に残っていた。


 あとでいい。


 今は――


 イルザが、唇の端を吊り上げた。


「いい度胸だ」


 その腰で、黒い鎖が、じゃらりと鳴った。


 鎖が、奔った。


 一本目を、剣の腹で払う。二本目を、身をひねってかわす。三本目の下をくぐり、四本目を弾き上げ、そのまま踏みこむ――


 踏みこめなかった。


 払ったはずの一本目が、宙で身をくねらせ、また襲いかかってくる。


 渾身の一撃を叩きこんでも、刃は火花を散らして弾かれるだけだった。ユナの母の鉈と同じだ。黒い鎖には、傷ひとつ、つかない。


 払っても、払っても、鎖は尽きなかった。イルザの腰から、宙から、次々と新しい鎖が生まれてくる。


 ならば、とミレイアは息を詰めた。


 鎖は、蛇ではない。握っている者の手と、呼吸で動く。


 九年間、毎朝、誰よりも早く起きて、同じ型を何万回と繰り返してきた。相手の呼吸を読むことだけは、誰にも負けない。


 イルザが、息を吸う。――鎖の動きが、わずかに鈍る。


 その一瞬に、ミレイアは踏みこんだ。


 一歩。二歩。鎖の隙間を縫うように、身を沈めて駆ける。イルザの顔から、初めて笑みが消えた。


 あと、三歩。


 剣先が、鎖を握るイルザの右手へ伸びる――


 背後から巻きついた鎖が、剣を握る右腕をからめ取った。


 体ごと引き戻され、広場の土に叩きつけられる。


 イルザが、乱れた前髪をかき上げた。


「惜しかったねえ。小娘にしちゃ、やるじゃないか。……その剣、誰を斬るために研いできたんだい」


 答えられなかった。


 九年間、研いできた剣。あの雨の夜、あの人の首筋の前で、震えて止まった剣。


 背後で、鈍い音がした。


 振り返らなくても、わかった。松明を掲げていた男たちが、膝をついたレオニスを取り囲み、棍棒を振り下ろしているのだ。


「レオニス……!」


 跳ね起きて駆け戻ろうとした足首に、また鎖が絡みついた。引き倒される。口の中に、土の味がした。


 剣の柄で鎖を叩き外し、もう一度立ち上がったときには、新しい鎖が三本、目の前に迫っていた。


 イルザが、男たちの輪の中のレオニスへ、冷たく言い捨てた。


「二度と、頭に近づくんじゃないよ。あんたみたいなのがそばにいると、頭が、頭じゃなくなっちまう」


 それから、足もとのユナを見下ろした。


「さて。見せしめを、忘れるところだった」


 ユナの足首から伸びる鎖が、生き物のようにうねった。


 細い体に、ぐるぐると巻きついていく。腕ごと、胸ごと。


「……っ」


 ユナは、声を上げなかった。唇を噛みしめて、イルザを睨み上げている。


「慈悲を突っ返して、騎士さまに剣まで習った子だ。里へ連れていって、性根(しょうね)を叩き直してやる」


 鎖が、引かれた。


 小さな体が、土の上を引きずられていく。広場の端に繋がれた、イルザの黒い馬のほうへ。


「ユナ!」


 ミレイアは叫んだ。


 届かない。


 目の前には、うねる鎖の壁があった。


◆


 棍棒が、脇腹にめりこんだ。


 息が止まる。土の上を転がる。口の中に、鉄の味が広がった。


 頭の上から、男たちの笑い声が降ってきた。


「立てよ、光の司祭さま」


「ほら、光ってみせろって」


 レオニスは、指を振った。


 何も、生まれなかった。


 もう一度。もう一度。


 小さな盾ひとつ、生まれない。


 ――我、欲す。


 声にしようとした言葉は、また、喉の奥で止まった。誰も、泣かない。その先が、どうしても言えない。


 靴の爪先が、腹を蹴り上げた。


 土に頬をつけたまま、レオニスは広場を見ていた。


 鎖の壁の前で、ミレイアが剣を振るっている。頬に、赤い筋が走っていた。払っても払っても押し寄せる鎖に、じりじりと押し戻されていく。


 足首を締め上げられた村人たちが、土の上でうめいている。


 そして――


 鎖に巻かれたユナが、引きずられていく。


 泣いていなかった。


 土に頬を擦られながら、それでも、唇を噛んで前を睨んでいた。


 ゆうべ、麦畑の隅で、声を上げて泣いた子が。今朝、「仕返しのためだけに生きたくもない」と言った子が。


 なんで、俺は。


 あの子に、何ひとつ――


 ――でかい欲が言えねえなら。


 しわがれた声が、耳の奥でした。


 煙草(たばこ)くさい、懐かしい声だった。


 叙階を受けて、まだ間もないころだ。


 修道院跡の裏庭で、レオニスは何度やっても、光を出せずにいた。切り株に腰かけたオズワルドが、パイプをくわえて、それを眺めていた。


「我、欲す。世界中のみんなが――」


 言いかけるたびに、指先の光が、しゅんとしぼんでしまう。


「……なんでだよ。本気なのに」


「本気だから、だ」


 オズワルドが、ゆっくりと煙を吐いた。


「でかすぎる欲はな、背負ってるだけで骨が折れる。毎日毎日、腹の底から言えるもんじゃねえ。疲れてる日もありゃ、自分が信じられねえ日もある」


「じゃあ、どうすんだよ」


「でかい欲が言えねえなら、今、目の前にある一番ちっぽけな本音を言え」


「ちっぽけな、本音?」


「腹が減った、とかな」


 レオニスは、しばらく黙っていた。


 それから半信半疑で、指を一本立てた。


「……我、欲す。――腹、減った」


 ぽっ、と。


 指先に、豆粒ほどの白い光が灯った。同時に、腹の虫が盛大に鳴いた。


 オズワルドは、腹を抱えて笑い転げた。


「ほらな。欲は、ちっぽけでも欲だ。……無理して言うでかい欲より、ちっぽけな本音のほうが、よっぽど強えんだよ」


 腹は、減っていた。


 死ぬほど、減っていた。


 けれど今、目の前にある一番ちっぽけな本音は、それではなかった。


 レオニスは、引きずられていくユナを見た。


 泣き止ませたいんじゃない。


 幸せにしてやりたいんでもない。


 あの子は今朝、自分で決めたのだ。仇を殺さないことを。母を忘れないことを。仕返しのためだけには、生きないことを。


 なら、その先は。


 明日、あの子は何を選ぶのだろう。母が言った「外」へ行くのか。この村に残るのか。それとも、まだ誰も思いつかない何かを選ぶのか。


 ――それが、見たかった。


 ただ、それだけだった。


 レオニスは、土の上に転がっていた鉄剣に手を伸ばした。


 師匠の形見の剣。刃を潰した、何も斬れない剣。


 それを杖にして、立ち上がる。


 膝が笑う。視界が揺れる。棍棒を振り上げていた男たちが、ぎょっとしたように後ずさった。


 レオニスは、口の中の血を、地面に吐き捨てた。


「我、欲す」


 声は、かすれていた。


 腹の底からではなかった。もっと小さな、胸のまんなかあたりから出た声だった。


「――この子が自分で選ぶ明日を、見届けたい」


 光が、灯った。


 白では、なかった。


 藍と金を溶かしあわせたような――夕暮れの、色だった。


 レオニスは、息を呑んだ。


 知っている色だった。


 修道院跡の、狭い厨房で。パイプの先で。何度も、何度も見上げた、あの火の色。


 ――夜になる手前の色だ。……悪くねえだろ。


 師匠の、火の色だった。


 光は、あたたかかった。


 夜更けの厨房で、シチューの湯気の向こうに揺れていた、あの火と同じように。


 白い光は、いつも腹の底から爆ぜた。自分の中にあるものを、世界に叩きつけるように。


 この光は、違った。


 そっと差し出すように、灯っていた。


 夕暮れ色の光は、爆ぜもしなければ、広がって何かを包みこみもしなかった。


 地を這うように、静かに流れていく。土の上を、日が落ちきる前の地平線のように、薄く、長く。


 そして、人と鎖との間に、すっと差しこまれた。


 ユナの体に巻きついていた鎖が、内側から押し返された。一本、また一本と、ほどけて、はじかれていく。村人たちの足首からも、黒い鎖が押しのけられていく。


 光は、誰も閉じこめなかった。


 ただ、鎖だけを押し返していた。


 ユナが、土の上に転がり出た。


 鎖は、もう少女に触れていなかった。


 ユナは、よろめきながら立ち上がった。そして一瞬だけ、村の境のほうを見た。


 母が、行かせたがっていた場所。今なら、行ける場所。


 それから――


 ユナは、背を向けた。


 反対のほうへ、駆け出していく。鎖に締め上げられて倒れていた、白い髭の老人のもとへ。


「おじいちゃん! しっかりして!」


 レオニスは、それを見ていた。


 誰に言われたのでもない。誰に押しつけられたのでもない。


 あの子が、自分で選んだのだ。


 ――見届けた。


 胸の奥で、夕暮れの光が、静かに揺れた。


 なんで師匠の色なんだよ、と思った。


 思ってから、少しだけ、わかった気がした。


 あの人も、こんなふうに、俺を見ていたのかもしれない。


◆


 真夜中の広場に、夕暮れが来た。


 ミレイアは、剣を構えたまま、その光を見ていた。


 白ではない。藍と金が溶けあう、黄昏(たそがれ)の空の色。地を這うように流れる光が、押し寄せていた鎖の壁を、下から静かに押し返していく。


 胸の聖印に、そっと触れた。


 ひんやりと、冷たいままだった。


 ――この光は、誰の心も縛っていない。


 鎖の向こうで、イルザが目を見開いていた。


「……なんだい、その色は」


 その声が、初めて揺れた。


「白く光る闇司祭じゃ、なかったのかい」


 レオニスは答えなかった。鉄剣を杖にしたまま、立っていた。立っているのがやっと、というふうに見えた。


 イルザが、腰に巻いた鎖を、すべて解き放った。


「我、欲す――」


 鋭い目が、血走っていた。


「もう、何ひとつ、失くさないことを!」


 叫ぶ顔を、ミレイアは知っている気がした。


 失うのが怖くて、手の中のものを、指が白くなるまで握りしめている顔。――剣の柄を握りしめたまま九年を過ごしてきた、自分と同じ顔だった。


 黒い鎖が、爆ぜるように膨れ上がった。


 何十本、何百本。広場を覆いつくす鎖の渦が、蛇の群れのように鎌首をもたげる。夕暮れの光がいくら押し返しても、次から次へと湧いてくる。


 渦の向こうに、イルザがいた。


 届かない。地を走っても、あの渦は抜けられない。


「ミレイア!」


 レオニスの声がした。


「上だ! 跳べ!」


 目の前の宙に、小さな光の板が生まれていた。


 夕暮れの色をした、手のひらほどの足場。その先に、もうひとつ。さらにその先に、もうひとつ。鎖の渦を越えて、イルザの頭上へと続いている。


 考えるより先に、跳んでいた。


 一枚目を蹴る。二枚目を蹴る。足もとで、光の板がしっかりと体を受け止める。


 眼下で、鎖の群れがうねっていた。何本かが気づいて、宙へ伸び上がってくる。けれどその先端は、夕暮れの光に触れたとたんに押し戻されて、届かない。


 一本だけが、光をかいくぐった。蹴り出した足首を、鉄の冷たさがかすめる。体勢が崩れる。


 落ちる――


 そう思った瞬間、踏み出した足の下に、次の光の板が生まれていた。


 まるで、ミレイアがどこへ踏み出すのか、最初から知っていたかのように。


 風が、頬を切った。


 跳んでいる。


 九年間、地を蹴り、地を這うようにして剣を振ってきた。床下の暗闇から這い出した、あの朝から、ずっと。


 その自分が今、夜空を駆けている。


 あの人の光を、足場にして。


 足場を、一度も疑わなかった。そのことに、ミレイアはあとになって驚いた。


 最後の一枚を蹴り、ミレイアは、イルザの真上から落ちた。


 イルザが、見上げる。その目が、見開かれる。


 村じゅうの鎖を束ねて握りしめた、その右手へ――


 剣の腹を、叩きつけた。


 斬らなかった。


 斬る必要は、なかった。


 骨に響く手応え。イルザの指が開き、黒い鎖の束が、地面に落ちた。


 その瞬間。


 広場を覆っていた鎖の渦が、音もなく崩れた。


 黒い鎖は、煤(すす)のようにほどけて、夜風に散っていった。村人たちの足首からも。ユナの足首からも。一本残らず。


 着地したミレイアの剣先が、倒れたイルザの喉もとで止まった。


「……殺さないのかい」


 土の上から、イルザがかすれた声で訊いた。


「命までは、奪いません」


 イルザが倒れたのを見て、松明を掲げていた男たちは、我先にと馬へ逃げていった。慌てた誰かが、馬を一頭、置き去りにしていった。


 広場が、静まり返った。


 村人たちが、ひとり、またひとりと、自分の足首を見下ろしていた。


 何も、なかった。


 黒い鎖のあった場所に、赤く擦れた跡が残っているだけだった。


 誰かが、泣き出した。


 それが合図だったように、あちこちから嗚咽が上がった。土に額を擦りつけて泣く老人がいた。子供を抱きしめて泣く母親がいた。


 ミレイアは、振り返った。


 レオニスは、止めなかった。


 泣きじゃくる村人たちを、夕暮れ色の光の名残の中で、ただ黙って見ていた。


 それから、倒れた者のそばへ、ふらふらと歩いていった。


「我、欲す。――痛いの、どっか行け」


 治癒の光も、夕暮れの色をしていた。


 締め上げられた足首が、打ち身が、擦り傷が、ひとつずつ癒えていく。ユナに支えられていた白い髭の老人の顔に、血の気が戻った。


 最後のひとりを治し終えたところで、レオニスの膝が、かくんと折れた。


「レオニス!」


 駆け寄ると、土の上に大の字になったまま、闇司祭は情けない声を出した。


「……腹、減った」


 ミレイアは、しばらく言葉を失った。


「……それは、宣誓ですか」


「ただの、本音」


◆


 焼いた芋は、七つ目だった。


 村人たちが、なけなしの芋を焼いて持ってきてくれたのだ。いいと言っても、次から次へと。


 打ち身だらけの顔で芋を頬張るレオニスの向かいで、井戸の縁(ふち)にもたれて、イルザが座りこんでいた。両手は、村の荒縄で縛られている。その前に、抜き身の剣を下げたミレイアが立っていた。


 ミレイアが、ちらりとこちらを見た。


「……自分の傷は、治さないのですか」


「腹が減って、欲が出ねえ」


「芋を七つも食べておいて、ですか」


「八つ目で、いける気がする」


 イルザが、ふっと鼻で笑った。


 それから、縛られた自分の手を見下ろした。


「……鎖が、出ないんだ」


 ぽつりと、言った。


「さっきから、何度やっても。……たぶん、ほかの村に張ってた鎖も、全部外れてる」


 ミレイアが、訊いた。


「なぜですか」


「知らないよ」


 イルザは、自嘲するように唇を歪めた。


「もう、何を繋ぎとめたかったのかも、わかんなくなっちまった」


 レオニスは、食べかけの芋を膝に置いた。


「それどころじゃない、って言ったよな。ガルドは、何をしようとしてる」


 イルザは、長いこと黙っていた。


 やがて、口を開いた。


「……私はね、十四のとき、売られたんだ。借金のかたに、親に」


 唐突な話だった。けれど、レオニスは黙って聞いた。


「売られていく荷馬車ごと、頭に奪われた。……中身の私ごとね」


 イルザは、かすかに笑った。


「その夜、頭は一度だけ、自分の昔の話をしてくれた。あとにも先にも、あの一度きりだよ」


 狼谷(おおかみだに)の村、というのだそうだ。


 山あいの、小さな村だった。二十年前、その裏山に、銀の鉱脈が見つかった。欲しがったのは、グラウベルという伯爵だった。


 ある夜、伯爵の兵が来て、村に火を放った。


「頭は、十二だった。井戸の底に隠れて、朝まで出られなかった。……上で、妹が連れていかれる声を、ずっと聞いてたんだってさ」


 ガルドにいちゃん、と。


 妹は、何度も、何度も、兄を呼んでいたという。


「動けなかった、って。怖くて、声も出せなかったって」


 レオニスの指先が、冷たくなった。


 隣の寝台から聞こえてきた、泣き声。朝まで、どうすることもできなかった、いくつもの夜。


「九年たって、頭は伯爵を殺した。二十一のときだよ。領地の屋敷じゅう探したけど、妹はいなかった。……死んだんだと思ってた」


 イルザは、東の山の端に目をやった。痩せ細った月が、ようやく顔を出したところだった。


「でも、何も戻らなかったって。村も、親も、妹も。仇を殺しても、ひとつも」


 ミレイアの肩が、かすかに揺れた。


「それが、半年前」


 イルザの声が、低くなった。


「頭が、街道で馬車を一台止めた。グラウベル家の紋章のついた、上等の馬車だった。……中に、女がいたんだ。髪に、色褪(あ)せた赤いリボンを結んだ女が」


 ガルドの左の手首で揺れていた、あのリボンと、同じ色。


「エルナ、っていうんだって。頭の妹。生きてたんだよ。伯爵の息子と一緒になって、今じゃ王都で伯爵夫人をやってる。ガキまでいるんだってさ」


 レオニスは、低く訊いた。


「……ガルドは、どうしたんだ」


「何もしなかった」


 イルザは、目を閉じた。


「何ひとつ奪わずに、馬車をそのまま行かせた。黒狼が獲物を見逃したのは、私の知るかぎり、あれ一度きりだよ。……向こうは、頭に気づきもしなかった」


 膝の上の芋から、湯気が消えていく。


「それから、頭は変わった。仇の息子に、妹を奪われたまんまだって。……取り返すって」


 イルザは、目を開けた。


「王都の大聖堂の地下に、闇神教の古い神殿が眠ってる。頭は、坊主の偉いのから記憶を奪って、その在処(ありか)を知った。――三日後の、新月の夜。頭はそこで、大欲法を使うつもりだ」


 レオニスは、眉をひそめた。


「……大欲法?」


「《鎖喰らい》。王都じゅうの人間から、我慢を奪う欲法だよ」


 ミレイアが、息を呑んだ。


 イルザは、続けた。


「我慢は鎖だって、頭はいつも言ってる。だから、王都じゅうの鎖を、まとめて喰いちぎるんだって。……そのどさくさで、妹を取り返すつもりなんだ」


 レオニスは、思い浮かべようとした。


 王都じゅうの人間が、一晩で、我慢をなくしたら。


 救われる者も、いるだろう。黒狼の里の連中のように、我慢した挙げ句に捨てられた者たちは、きっと。


 けれど――


 その先を引き取るように、イルザが言った。


「欲を人に押しつけたら、獣になる。闇司祭なら、誰だって知ってる。頭だって、わかってる。……わかってて、やる気なんだ」


 縛られた手が、震えていた。


「主(おも)だった連中は、みんな頭についていった。ボルグもだよ。……あいつ、自分から行くって言ったんだ。死に場所でも探してるみたいな顔でさ」


 ミレイアの剣先が、かすかに揺れた。


 イルザが、顔を上げた。


 鋭かった目が、今は、ただの二十六の女の目をしていた。


「……お願い」


 かすれた声だった。


「止めて。頭を、止めて」


 レオニスは、訊いた。


「……なんで、俺たちに頼む。あんたは、俺たちを追い払いに来たんだろ」


「頭が、あんたを気に入ったからだよ」


 イルザは、目を伏せた。


「十二年、そばにいた。……頭が、あんなふうに誰かを気に入るのなんか、初めて見た。あんたの話をするときだけ、頭は、昔の話をしてくれた夜と同じ顔をするんだ」


 だから、怖かった。


 だから、追い払おうとした。


 縛られた手を握りしめたまま、イルザはそう言った。


 誰も、何も言わなかった。


 井戸の底から、水の滴る音がした。


 やがて、イルザがふたたび口を開いた。


「私は、もう何も失いたくなかった」


 イルザは、自分の手首の縄を見下ろした。


「だから、鎖で繋いだ。村も、人も。里の暮らしも、頭のことも。……何かひとつでも手を離したら、全部なくなっちまう気がしてさ」


 乾いた笑いが、漏れた。


「……最低だよね」


 レオニスは、黙っていた。


 同じ言葉だった。


 ついさっき、焚き火の前で、自分が口にしたのと。


 ――最低だろ。


 井戸の底で、妹の声を聞いていた、十二歳の子供。


 白い部屋の寝台で、友達の泣き声を聞いていた子供。


 どちらも、動けなかった。どちらも、助けられなかった。


 そして、どちらも決めたのだ。二度と、あんな夜は来させない、と。


 ひとりは、二度と奪われないために、全部を奪うと決めた。


 ひとりは、二度と誰も泣かせないために、全部を守ると決めた。


 自分の人生を、自分で決めたかった。ただ、選んだ方法が、正反対だっただけだ。


「……あいつ、俺と同じだ」


 呟いた声は、夜風にさらわれて、誰にも届かなかった。


 膝の上の芋は、とっくに冷えていた。


◆


 ――二十四日目:早起き。焼き芋、八つ。


 書いてから、ミレイアはペンを止めた。


 早起きは、罪状だろうか。


 夜明け前だった。起こしに行くより早く、レオニスは起きていた。井戸の水で顔を洗い、すっかり腫れの引いた頬をさすりながら、馬の鞍(くら)を確かめている。


 馬は、二頭いた。イルザの手下が置き去りにしていった栗毛と、イルザの黒い馬だ。


 井戸の縁に縛られたまま、イルザが顎をしゃくった。


「黒いのを使いな。そいつなら、二日で王都に着く」


 レオニスは、イルザに向き直った。


「あんたは、どうする」


 イルザは、縛られた両手を見下ろした。


「里に、ガキどもを残してきた。……女たちだけじゃ、冬は越せない」


 レオニスは、静かに言った。


「決めるのは、この村の連中だ」


「わかってるよ」


 イルザは、白い髭の老人のほうを見た。老人はしばらく黙ってイルザを見つめ返し、それから、日が昇ったら話を聞こう、とだけ言った。


 東の空が、白みはじめていた。その低いところに、糸のように細い月が残っている。


 新月まで、あと三日。


 鞍に荷を括りつけているレオニスの背中に、ミレイアは声をかけた。


「……ゆうべの、続きです」


「ん?」


「お前が正しい、と、あなたは言いました」


 レオニスが、手を止めた。


「正しくなんか、ありません。あれは、八つ当たりでした」


「……」


「それに」


 ミレイアは、少しだけ目を逸らした。


「あの夜、あなたは確かに手を伸ばしました。でも、止めました。……それから朝まで、あの子の泣き声から、逃げなかった」


 見ていたのだ。麦畑の隅の光が消えてから、空が白むまで、この人が戻ってこなかったことを。


「それだけ、言っておきたかったんです」


 レオニスは、しばらく黙っていた。


 それから、ぽりぽりと頭を掻いた。


「……罪状帳には、書くなよ」


「書きません」


 ミレイアは、きっぱりと言った。


「罪状では、ありませんから」


 レオニスが、目を丸くした。


 それから、くしゃりと笑った。


 井戸のほうで、小さな影が動いた。


 ユナだった。水を汲んだ木の椀(わん)を両手で持って、縛られたイルザの前にしゃがみこんでいる。


「……なんだい」


 イルザが、低く言った。


 ユナは、椀を差し出した。


「喉、渇いてそうだったから」


 イルザは、しばらく椀とユナの顔を見比べていた。


 それから、縛られた両手で椀を受け取り、ひと息に飲み干した。


 鋭い目の端が、かすかに光った。


 ユナは空(から)の椀を受け取ると、立ち上がって、こちらへ歩いてきた。


 足首には、もう何もない。赤く擦れた跡が、残っているだけだった。


「……憎くないのですか」


 思わず、ミレイアは訊いていた。


「憎いよ」


 ユナは、あっさりと言った。


「でも、喉、渇いてたみたいだから」


 それから、ミレイアの袖を、くいと引いた。


「ミレイアさんも、選んでいいんだよ」


 不揃いな前髪の下から、少女の目が、まっすぐにこちらを見上げていた。


 ミレイアは、何も言えなかった。


 憎いまま、水を差し出す。


 憎いまま、殺さない。


 そんなことを――選んで、いいのだろうか。


 王都には、あの人がいる。


 死に場所を探しているような顔をして、黒狼についていった、片腕の料理番が。


 レオニスが、ユナの頭に、ぽんと手を置いた。


 光っていない、ただの手だった。


「ユナは、これからどうするんだ」


「まだ、ここにいる」


 ユナは、麦畑の隅のほうを振り返った。


「お母さんのお墓、ちゃんとした場所に移してあげたいから。境の外の、みんなのとこに。……それから、外に行く」


「そっか」


「行き先は、自分で決める」


「おう」


 レオニスは、笑った。


「決めたら、誰かひとりにだけは言っとけよ」


 白い髭の老人は、村に残ると言った。ここが、わしらの村じゃからな、と。鎖が外れたと聞いて、夜のうちに荷をまとめた家もあった。


 残る者も、出ていく者も、自分で決めていた。


 馬上から振り返ると、ユナが手を振っていた。村人たちも、鎖のない足で、境の石の外まで出てきて。


 鞍の後ろには、ユナの木剣を結わえてあった。返そうとしたら、「ミレイアさんが持ってて」と言われたのだ。


 二頭の馬が、谷を駆け出す。


 夜明けの風の中で、ミレイアは、腰の剣の柄に触れた。


 重かった。


 けれど、九年間でいちばん重かったあの雨の夜とは、どこか違う重さだった。


◆


 同じ夜明けを、ガルドは地の底で迎えていた。


 王都ルクセリア。白亜の大聖堂の、はるか真下。


 奪った記憶が教えた、坊主どもの隠し階段を、どこまでも降りた先だった。松明の火が、湿った石の壁に、黒い毛皮をはおった大柄な男の影を揺らしている。


 階段の上では、手下たちが見張りに立っている。その中には、ボルグの姿もあった。里に残れと言っても、黙って首を振るだけで、とうとうここまでついてきた。


 目の前に、扉があった。


 見上げるほどの、黒い扉だった。


 表面には、小さなランタンを抱いた、顔のない女が彫りこまれている。その周りを、びっしりと文字が埋めつくしていた。


 ガルドは、太い指で、その溝をなぞった。


 読めなかった。


「……どうせ、坊主の戯言(たわごと)だ」


 鼻で笑う。


 奪った司教の記憶によれば、この扉は、新月の夜にしか開かない。


 肥え太ったあの老司教は、この扉の前に立つたびに震えていた。扉の向こうにあるものを、誰にも知られてはならない――頭の中は、そればかりだった。


 坊主どもが三百年、白い大聖堂の下に隠してきたもの。


 知ったことか、とガルドは思う。使えるなら、使うだけだ。


 あと、三日。


 イルザの奴は、まだ来ない。縄張りの始末をつけたら追いかける、と言っていたはずだが。


 あの欲張りは――答えを、見つけただろうか。


 ふと、そんなことを思った。


 思ってから、苦く笑った。


 答えなど、もう要らない。


 左の手首に、指をやる。


 色褪せた、子供用の小さなリボン。二十年前、燃える村の井戸の底で、握りしめていたもの。


 半年前、馬車の窓の向こうに、同じ色を見た。


 伯爵夫人なんぞに、されちまいやがって。


 仇の屋敷で、二十年も。


「……全部、奪い返してやる」


 松明の火が、ぱちりと爆ぜた。


 壁に映ったガルドの影が、ゆらりと膨れ上がった。人の形ではなかった。巨大な、黒い狼の形をしていた。


 腹の底で、何かが低く唸った気がした。


 構うものか。


 ガルドは、色褪せたリボンに、そっと唇を押し当てた。


「迎えに行くぞ、エルナ」


 黒い扉は、何も答えなかった。

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