第五章 黄昏の宣誓
剣を抜くのに、迷いはなかった。
鎖に打たれたレオニスが、広場の土に膝をついている。ミレイアは、その前へ飛びこんだ。
背中で、苦しげな咳が聞こえた。
「……下がってろ、ミレイア」
「下がるのは、あなたです」
振り返らずに、言い返す。
今のレオニスには、小さな盾ひとつ張れない。それは、見ればわかった。
イルザが、面白そうに片眉を上げた。
「へえ。聖光教会の騎士さまが、闇司祭を庇うのかい」
「監視対象ですので」
ミレイアは、剣を構えた。
背中に誰かを庇って剣を構えるのは、初めてだった。
膝が、かすかに震えている。――床板の上に覆いかぶさっていた母も、こんなふうに怖かったのだろうか。
焚き火の前で言いかけた言葉は、まだ喉の奥に残っていた。
あとでいい。
今は――
イルザが、唇の端を吊り上げた。
「いい度胸だ」
その腰で、黒い鎖が、じゃらりと鳴った。
鎖が、奔った。
一本目を、剣の腹で払う。二本目を、身をひねってかわす。三本目の下をくぐり、四本目を弾き上げ、そのまま踏みこむ――
踏みこめなかった。
払ったはずの一本目が、宙で身をくねらせ、また襲いかかってくる。
渾身の一撃を叩きこんでも、刃は火花を散らして弾かれるだけだった。ユナの母の鉈と同じだ。黒い鎖には、傷ひとつ、つかない。
払っても、払っても、鎖は尽きなかった。イルザの腰から、宙から、次々と新しい鎖が生まれてくる。
ならば、とミレイアは息を詰めた。
鎖は、蛇ではない。握っている者の手と、呼吸で動く。
九年間、毎朝、誰よりも早く起きて、同じ型を何万回と繰り返してきた。相手の呼吸を読むことだけは、誰にも負けない。
イルザが、息を吸う。――鎖の動きが、わずかに鈍る。
その一瞬に、ミレイアは踏みこんだ。
一歩。二歩。鎖の隙間を縫うように、身を沈めて駆ける。イルザの顔から、初めて笑みが消えた。
あと、三歩。
剣先が、鎖を握るイルザの右手へ伸びる――
背後から巻きついた鎖が、剣を握る右腕をからめ取った。
体ごと引き戻され、広場の土に叩きつけられる。
イルザが、乱れた前髪をかき上げた。
「惜しかったねえ。小娘にしちゃ、やるじゃないか。……その剣、誰を斬るために研いできたんだい」
答えられなかった。
九年間、研いできた剣。あの雨の夜、あの人の首筋の前で、震えて止まった剣。
背後で、鈍い音がした。
振り返らなくても、わかった。松明を掲げていた男たちが、膝をついたレオニスを取り囲み、棍棒を振り下ろしているのだ。
「レオニス……!」
跳ね起きて駆け戻ろうとした足首に、また鎖が絡みついた。引き倒される。口の中に、土の味がした。
剣の柄で鎖を叩き外し、もう一度立ち上がったときには、新しい鎖が三本、目の前に迫っていた。
イルザが、男たちの輪の中のレオニスへ、冷たく言い捨てた。
「二度と、頭に近づくんじゃないよ。あんたみたいなのがそばにいると、頭が、頭じゃなくなっちまう」
それから、足もとのユナを見下ろした。
「さて。見せしめを、忘れるところだった」
ユナの足首から伸びる鎖が、生き物のようにうねった。
細い体に、ぐるぐると巻きついていく。腕ごと、胸ごと。
「……っ」
ユナは、声を上げなかった。唇を噛みしめて、イルザを睨み上げている。
「慈悲を突っ返して、騎士さまに剣まで習った子だ。里へ連れていって、性根を叩き直してやる」
鎖が、引かれた。
小さな体が、土の上を引きずられていく。広場の端に繋がれた、イルザの黒い馬のほうへ。
「ユナ!」
ミレイアは叫んだ。
届かない。
目の前には、うねる鎖の壁があった。
◆
棍棒が、脇腹にめりこんだ。
息が止まる。土の上を転がる。口の中に、鉄の味が広がった。
頭の上から、男たちの笑い声が降ってきた。
「立てよ、光の司祭さま」
「ほら、光ってみせろって」
レオニスは、指を振った。
何も、生まれなかった。
もう一度。もう一度。
小さな盾ひとつ、生まれない。
――我、欲す。
声にしようとした言葉は、また、喉の奥で止まった。誰も、泣かない。その先が、どうしても言えない。
靴の爪先が、腹を蹴り上げた。
土に頬をつけたまま、レオニスは広場を見ていた。
鎖の壁の前で、ミレイアが剣を振るっている。頬に、赤い筋が走っていた。払っても払っても押し寄せる鎖に、じりじりと押し戻されていく。
足首を締め上げられた村人たちが、土の上でうめいている。
そして――
鎖に巻かれたユナが、引きずられていく。
泣いていなかった。
土に頬を擦られながら、それでも、唇を噛んで前を睨んでいた。
ゆうべ、麦畑の隅で、声を上げて泣いた子が。今朝、「仕返しのためだけに生きたくもない」と言った子が。
なんで、俺は。
あの子に、何ひとつ――
――でかい欲が言えねえなら。
しわがれた声が、耳の奥でした。
煙草くさい、懐かしい声だった。
叙階を受けて、まだ間もないころだ。
修道院跡の裏庭で、レオニスは何度やっても、光を出せずにいた。切り株に腰かけたオズワルドが、パイプをくわえて、それを眺めていた。
「我、欲す。世界中のみんなが――」
言いかけるたびに、指先の光が、しゅんとしぼんでしまう。
「……なんでだよ。本気なのに」
「本気だから、だ」
オズワルドが、ゆっくりと煙を吐いた。
「でかすぎる欲はな、背負ってるだけで骨が折れる。毎日毎日、腹の底から言えるもんじゃねえ。疲れてる日もありゃ、自分が信じられねえ日もある」
「じゃあ、どうすんだよ」
「でかい欲が言えねえなら、今、目の前にある一番ちっぽけな本音を言え」
「ちっぽけな、本音?」
「腹が減った、とかな」
レオニスは、しばらく黙っていた。
それから半信半疑で、指を一本立てた。
「……我、欲す。――腹、減った」
ぽっ、と。
指先に、豆粒ほどの白い光が灯った。同時に、腹の虫が盛大に鳴いた。
オズワルドは、腹を抱えて笑い転げた。
「ほらな。欲は、ちっぽけでも欲だ。……無理して言うでかい欲より、ちっぽけな本音のほうが、よっぽど強えんだよ」
腹は、減っていた。
死ぬほど、減っていた。
けれど今、目の前にある一番ちっぽけな本音は、それではなかった。
レオニスは、引きずられていくユナを見た。
泣き止ませたいんじゃない。
幸せにしてやりたいんでもない。
あの子は今朝、自分で決めたのだ。仇を殺さないことを。母を忘れないことを。仕返しのためだけには、生きないことを。
なら、その先は。
明日、あの子は何を選ぶのだろう。母が言った「外」へ行くのか。この村に残るのか。それとも、まだ誰も思いつかない何かを選ぶのか。
――それが、見たかった。
ただ、それだけだった。
レオニスは、土の上に転がっていた鉄剣に手を伸ばした。
師匠の形見の剣。刃を潰した、何も斬れない剣。
それを杖にして、立ち上がる。
膝が笑う。視界が揺れる。棍棒を振り上げていた男たちが、ぎょっとしたように後ずさった。
レオニスは、口の中の血を、地面に吐き捨てた。
「我、欲す」
声は、かすれていた。
腹の底からではなかった。もっと小さな、胸のまんなかあたりから出た声だった。
「――この子が自分で選ぶ明日を、見届けたい」
光が、灯った。
白では、なかった。
藍と金を溶かしあわせたような――夕暮れの、色だった。
レオニスは、息を呑んだ。
知っている色だった。
修道院跡の、狭い厨房で。パイプの先で。何度も、何度も見上げた、あの火の色。
――夜になる手前の色だ。……悪くねえだろ。
師匠の、火の色だった。
光は、あたたかかった。
夜更けの厨房で、シチューの湯気の向こうに揺れていた、あの火と同じように。
白い光は、いつも腹の底から爆ぜた。自分の中にあるものを、世界に叩きつけるように。
この光は、違った。
そっと差し出すように、灯っていた。
夕暮れ色の光は、爆ぜもしなければ、広がって何かを包みこみもしなかった。
地を這うように、静かに流れていく。土の上を、日が落ちきる前の地平線のように、薄く、長く。
そして、人と鎖との間に、すっと差しこまれた。
ユナの体に巻きついていた鎖が、内側から押し返された。一本、また一本と、ほどけて、はじかれていく。村人たちの足首からも、黒い鎖が押しのけられていく。
光は、誰も閉じこめなかった。
ただ、鎖だけを押し返していた。
ユナが、土の上に転がり出た。
鎖は、もう少女に触れていなかった。
ユナは、よろめきながら立ち上がった。そして一瞬だけ、村の境のほうを見た。
母が、行かせたがっていた場所。今なら、行ける場所。
それから――
ユナは、背を向けた。
反対のほうへ、駆け出していく。鎖に締め上げられて倒れていた、白い髭の老人のもとへ。
「おじいちゃん! しっかりして!」
レオニスは、それを見ていた。
誰に言われたのでもない。誰に押しつけられたのでもない。
あの子が、自分で選んだのだ。
――見届けた。
胸の奥で、夕暮れの光が、静かに揺れた。
なんで師匠の色なんだよ、と思った。
思ってから、少しだけ、わかった気がした。
あの人も、こんなふうに、俺を見ていたのかもしれない。
◆
真夜中の広場に、夕暮れが来た。
ミレイアは、剣を構えたまま、その光を見ていた。
白ではない。藍と金が溶けあう、黄昏の空の色。地を這うように流れる光が、押し寄せていた鎖の壁を、下から静かに押し返していく。
胸の聖印に、そっと触れた。
ひんやりと、冷たいままだった。
――この光は、誰の心も縛っていない。
鎖の向こうで、イルザが目を見開いていた。
「……なんだい、その色は」
その声が、初めて揺れた。
「白く光る闇司祭じゃ、なかったのかい」
レオニスは答えなかった。鉄剣を杖にしたまま、立っていた。立っているのがやっと、というふうに見えた。
イルザが、腰に巻いた鎖を、すべて解き放った。
「我、欲す――」
鋭い目が、血走っていた。
「もう、何ひとつ、失くさないことを!」
叫ぶ顔を、ミレイアは知っている気がした。
失うのが怖くて、手の中のものを、指が白くなるまで握りしめている顔。――剣の柄を握りしめたまま九年を過ごしてきた、自分と同じ顔だった。
黒い鎖が、爆ぜるように膨れ上がった。
何十本、何百本。広場を覆いつくす鎖の渦が、蛇の群れのように鎌首をもたげる。夕暮れの光がいくら押し返しても、次から次へと湧いてくる。
渦の向こうに、イルザがいた。
届かない。地を走っても、あの渦は抜けられない。
「ミレイア!」
レオニスの声がした。
「上だ! 跳べ!」
目の前の宙に、小さな光の板が生まれていた。
夕暮れの色をした、手のひらほどの足場。その先に、もうひとつ。さらにその先に、もうひとつ。鎖の渦を越えて、イルザの頭上へと続いている。
考えるより先に、跳んでいた。
一枚目を蹴る。二枚目を蹴る。足もとで、光の板がしっかりと体を受け止める。
眼下で、鎖の群れがうねっていた。何本かが気づいて、宙へ伸び上がってくる。けれどその先端は、夕暮れの光に触れたとたんに押し戻されて、届かない。
一本だけが、光をかいくぐった。蹴り出した足首を、鉄の冷たさがかすめる。体勢が崩れる。
落ちる――
そう思った瞬間、踏み出した足の下に、次の光の板が生まれていた。
まるで、ミレイアがどこへ踏み出すのか、最初から知っていたかのように。
風が、頬を切った。
跳んでいる。
九年間、地を蹴り、地を這うようにして剣を振ってきた。床下の暗闇から這い出した、あの朝から、ずっと。
その自分が今、夜空を駆けている。
あの人の光を、足場にして。
足場を、一度も疑わなかった。そのことに、ミレイアはあとになって驚いた。
最後の一枚を蹴り、ミレイアは、イルザの真上から落ちた。
イルザが、見上げる。その目が、見開かれる。
村じゅうの鎖を束ねて握りしめた、その右手へ――
剣の腹を、叩きつけた。
斬らなかった。
斬る必要は、なかった。
骨に響く手応え。イルザの指が開き、黒い鎖の束が、地面に落ちた。
その瞬間。
広場を覆っていた鎖の渦が、音もなく崩れた。
黒い鎖は、煤のようにほどけて、夜風に散っていった。村人たちの足首からも。ユナの足首からも。一本残らず。
着地したミレイアの剣先が、倒れたイルザの喉もとで止まった。
「……殺さないのかい」
土の上から、イルザがかすれた声で訊いた。
「命までは、奪いません」
イルザが倒れたのを見て、松明を掲げていた男たちは、我先にと馬へ逃げていった。慌てた誰かが、馬を一頭、置き去りにしていった。
広場が、静まり返った。
村人たちが、ひとり、またひとりと、自分の足首を見下ろしていた。
何も、なかった。
黒い鎖のあった場所に、赤く擦れた跡が残っているだけだった。
誰かが、泣き出した。
それが合図だったように、あちこちから嗚咽が上がった。土に額を擦りつけて泣く老人がいた。子供を抱きしめて泣く母親がいた。
ミレイアは、振り返った。
レオニスは、止めなかった。
泣きじゃくる村人たちを、夕暮れ色の光の名残の中で、ただ黙って見ていた。
それから、倒れた者のそばへ、ふらふらと歩いていった。
「我、欲す。――痛いの、どっか行け」
治癒の光も、夕暮れの色をしていた。
締め上げられた足首が、打ち身が、擦り傷が、ひとつずつ癒えていく。ユナに支えられていた白い髭の老人の顔に、血の気が戻った。
最後のひとりを治し終えたところで、レオニスの膝が、かくんと折れた。
「レオニス!」
駆け寄ると、土の上に大の字になったまま、闇司祭は情けない声を出した。
「……腹、減った」
ミレイアは、しばらく言葉を失った。
「……それは、宣誓ですか」
「ただの、本音」
◆
焼いた芋は、七つ目だった。
村人たちが、なけなしの芋を焼いて持ってきてくれたのだ。いいと言っても、次から次へと。
打ち身だらけの顔で芋を頬張るレオニスの向かいで、井戸の縁にもたれて、イルザが座りこんでいた。両手は、村の荒縄で縛られている。その前に、抜き身の剣を下げたミレイアが立っていた。
ミレイアが、ちらりとこちらを見た。
「……自分の傷は、治さないのですか」
「腹が減って、欲が出ねえ」
「芋を七つも食べておいて、ですか」
「八つ目で、いける気がする」
イルザが、ふっと鼻で笑った。
それから、縛られた自分の手を見下ろした。
「……鎖が、出ないんだ」
ぽつりと、言った。
「さっきから、何度やっても。……たぶん、ほかの村に張ってた鎖も、全部外れてる」
ミレイアが、訊いた。
「なぜですか」
「知らないよ」
イルザは、自嘲するように唇を歪めた。
「もう、何を繋ぎとめたかったのかも、わかんなくなっちまった」
レオニスは、食べかけの芋を膝に置いた。
「それどころじゃない、って言ったよな。ガルドは、何をしようとしてる」
イルザは、長いこと黙っていた。
やがて、口を開いた。
「……私はね、十四のとき、売られたんだ。借金のかたに、親に」
唐突な話だった。けれど、レオニスは黙って聞いた。
「売られていく荷馬車ごと、頭に奪われた。……中身の私ごとね」
イルザは、かすかに笑った。
「その夜、頭は一度だけ、自分の昔の話をしてくれた。あとにも先にも、あの一度きりだよ」
狼谷の村、というのだそうだ。
山あいの、小さな村だった。二十年前、その裏山に、銀の鉱脈が見つかった。欲しがったのは、グラウベルという伯爵だった。
ある夜、伯爵の兵が来て、村に火を放った。
「頭は、十二だった。井戸の底に隠れて、朝まで出られなかった。……上で、妹が連れていかれる声を、ずっと聞いてたんだってさ」
ガルドにいちゃん、と。
妹は、何度も、何度も、兄を呼んでいたという。
「動けなかった、って。怖くて、声も出せなかったって」
レオニスの指先が、冷たくなった。
隣の寝台から聞こえてきた、泣き声。朝まで、どうすることもできなかった、いくつもの夜。
「九年たって、頭は伯爵を殺した。二十一のときだよ。領地の屋敷じゅう探したけど、妹はいなかった。……死んだんだと思ってた」
イルザは、東の山の端に目をやった。痩せ細った月が、ようやく顔を出したところだった。
「でも、何も戻らなかったって。村も、親も、妹も。仇を殺しても、ひとつも」
ミレイアの肩が、かすかに揺れた。
「それが、半年前」
イルザの声が、低くなった。
「頭が、街道で馬車を一台止めた。グラウベル家の紋章のついた、上等の馬車だった。……中に、女がいたんだ。髪に、色褪せた赤いリボンを結んだ女が」
ガルドの左の手首で揺れていた、あのリボンと、同じ色。
「エルナ、っていうんだって。頭の妹。生きてたんだよ。伯爵の息子と一緒になって、今じゃ王都で伯爵夫人をやってる。ガキまでいるんだってさ」
レオニスは、低く訊いた。
「……ガルドは、どうしたんだ」
「何もしなかった」
イルザは、目を閉じた。
「何ひとつ奪わずに、馬車をそのまま行かせた。黒狼が獲物を見逃したのは、私の知るかぎり、あれ一度きりだよ。……向こうは、頭に気づきもしなかった」
膝の上の芋から、湯気が消えていく。
「それから、頭は変わった。仇の息子に、妹を奪われたまんまだって。……取り返すって」
イルザは、目を開けた。
「王都の大聖堂の地下に、闇神教の古い神殿が眠ってる。頭は、坊主の偉いのから記憶を奪って、その在処を知った。――三日後の、新月の夜。頭はそこで、大欲法を使うつもりだ」
レオニスは、眉をひそめた。
「……大欲法?」
「《鎖喰らい》。王都じゅうの人間から、我慢を奪う欲法だよ」
ミレイアが、息を呑んだ。
イルザは、続けた。
「我慢は鎖だって、頭はいつも言ってる。だから、王都じゅうの鎖を、まとめて喰いちぎるんだって。……そのどさくさで、妹を取り返すつもりなんだ」
レオニスは、思い浮かべようとした。
王都じゅうの人間が、一晩で、我慢をなくしたら。
救われる者も、いるだろう。黒狼の里の連中のように、我慢した挙げ句に捨てられた者たちは、きっと。
けれど――
その先を引き取るように、イルザが言った。
「欲を人に押しつけたら、獣になる。闇司祭なら、誰だって知ってる。頭だって、わかってる。……わかってて、やる気なんだ」
縛られた手が、震えていた。
「主だった連中は、みんな頭についていった。ボルグもだよ。……あいつ、自分から行くって言ったんだ。死に場所でも探してるみたいな顔でさ」
ミレイアの剣先が、かすかに揺れた。
イルザが、顔を上げた。
鋭かった目が、今は、ただの二十六の女の目をしていた。
「……お願い」
かすれた声だった。
「止めて。頭を、止めて」
レオニスは、訊いた。
「……なんで、俺たちに頼む。あんたは、俺たちを追い払いに来たんだろ」
「頭が、あんたを気に入ったからだよ」
イルザは、目を伏せた。
「十二年、そばにいた。……頭が、あんなふうに誰かを気に入るのなんか、初めて見た。あんたの話をするときだけ、頭は、昔の話をしてくれた夜と同じ顔をするんだ」
だから、怖かった。
だから、追い払おうとした。
縛られた手を握りしめたまま、イルザはそう言った。
誰も、何も言わなかった。
井戸の底から、水の滴る音がした。
やがて、イルザがふたたび口を開いた。
「私は、もう何も失いたくなかった」
イルザは、自分の手首の縄を見下ろした。
「だから、鎖で繋いだ。村も、人も。里の暮らしも、頭のことも。……何かひとつでも手を離したら、全部なくなっちまう気がしてさ」
乾いた笑いが、漏れた。
「……最低だよね」
レオニスは、黙っていた。
同じ言葉だった。
ついさっき、焚き火の前で、自分が口にしたのと。
――最低だろ。
井戸の底で、妹の声を聞いていた、十二歳の子供。
白い部屋の寝台で、友達の泣き声を聞いていた子供。
どちらも、動けなかった。どちらも、助けられなかった。
そして、どちらも決めたのだ。二度と、あんな夜は来させない、と。
ひとりは、二度と奪われないために、全部を奪うと決めた。
ひとりは、二度と誰も泣かせないために、全部を守ると決めた。
自分の人生を、自分で決めたかった。ただ、選んだ方法が、正反対だっただけだ。
「……あいつ、俺と同じだ」
呟いた声は、夜風にさらわれて、誰にも届かなかった。
膝の上の芋は、とっくに冷えていた。
◆
――二十四日目:早起き。焼き芋、八つ。
書いてから、ミレイアはペンを止めた。
早起きは、罪状だろうか。
夜明け前だった。起こしに行くより早く、レオニスは起きていた。井戸の水で顔を洗い、すっかり腫れの引いた頬をさすりながら、馬の鞍を確かめている。
馬は、二頭いた。イルザの手下が置き去りにしていった栗毛と、イルザの黒い馬だ。
井戸の縁に縛られたまま、イルザが顎をしゃくった。
「黒いのを使いな。そいつなら、二日で王都に着く」
レオニスは、イルザに向き直った。
「あんたは、どうする」
イルザは、縛られた両手を見下ろした。
「里に、ガキどもを残してきた。……女たちだけじゃ、冬は越せない」
レオニスは、静かに言った。
「決めるのは、この村の連中だ」
「わかってるよ」
イルザは、白い髭の老人のほうを見た。老人はしばらく黙ってイルザを見つめ返し、それから、日が昇ったら話を聞こう、とだけ言った。
東の空が、白みはじめていた。その低いところに、糸のように細い月が残っている。
新月まで、あと三日。
鞍に荷を括りつけているレオニスの背中に、ミレイアは声をかけた。
「……ゆうべの、続きです」
「ん?」
「お前が正しい、と、あなたは言いました」
レオニスが、手を止めた。
「正しくなんか、ありません。あれは、八つ当たりでした」
「……」
「それに」
ミレイアは、少しだけ目を逸らした。
「あの夜、あなたは確かに手を伸ばしました。でも、止めました。……それから朝まで、あの子の泣き声から、逃げなかった」
見ていたのだ。麦畑の隅の光が消えてから、空が白むまで、この人が戻ってこなかったことを。
「それだけ、言っておきたかったんです」
レオニスは、しばらく黙っていた。
それから、ぽりぽりと頭を掻いた。
「……罪状帳には、書くなよ」
「書きません」
ミレイアは、きっぱりと言った。
「罪状では、ありませんから」
レオニスが、目を丸くした。
それから、くしゃりと笑った。
井戸のほうで、小さな影が動いた。
ユナだった。水を汲んだ木の椀を両手で持って、縛られたイルザの前にしゃがみこんでいる。
「……なんだい」
イルザが、低く言った。
ユナは、椀を差し出した。
「喉、渇いてそうだったから」
イルザは、しばらく椀とユナの顔を見比べていた。
それから、縛られた両手で椀を受け取り、ひと息に飲み干した。
鋭い目の端が、かすかに光った。
ユナは空の椀を受け取ると、立ち上がって、こちらへ歩いてきた。
足首には、もう何もない。赤く擦れた跡が、残っているだけだった。
「……憎くないのですか」
思わず、ミレイアは訊いていた。
「憎いよ」
ユナは、あっさりと言った。
「でも、喉、渇いてたみたいだから」
それから、ミレイアの袖を、くいと引いた。
「ミレイアさんも、選んでいいんだよ」
不揃いな前髪の下から、少女の目が、まっすぐにこちらを見上げていた。
ミレイアは、何も言えなかった。
憎いまま、水を差し出す。
憎いまま、殺さない。
そんなことを――選んで、いいのだろうか。
王都には、あの人がいる。
死に場所を探しているような顔をして、黒狼についていった、片腕の料理番が。
レオニスが、ユナの頭に、ぽんと手を置いた。
光っていない、ただの手だった。
「ユナは、これからどうするんだ」
「まだ、ここにいる」
ユナは、麦畑の隅のほうを振り返った。
「お母さんのお墓、ちゃんとした場所に移してあげたいから。境の外の、みんなのとこに。……それから、外に行く」
「そっか」
「行き先は、自分で決める」
「おう」
レオニスは、笑った。
「決めたら、誰かひとりにだけは言っとけよ」
白い髭の老人は、村に残ると言った。ここが、わしらの村じゃからな、と。鎖が外れたと聞いて、夜のうちに荷をまとめた家もあった。
残る者も、出ていく者も、自分で決めていた。
馬上から振り返ると、ユナが手を振っていた。村人たちも、鎖のない足で、境の石の外まで出てきて。
鞍の後ろには、ユナの木剣を結わえてあった。返そうとしたら、「ミレイアさんが持ってて」と言われたのだ。
二頭の馬が、谷を駆け出す。
夜明けの風の中で、ミレイアは、腰の剣の柄に触れた。
重かった。
けれど、九年間でいちばん重かったあの雨の夜とは、どこか違う重さだった。
◆
同じ夜明けを、ガルドは地の底で迎えていた。
王都ルクセリア。白亜の大聖堂の、はるか真下。
奪った記憶が教えた、坊主どもの隠し階段を、どこまでも降りた先だった。松明の火が、湿った石の壁に、黒い毛皮をはおった大柄な男の影を揺らしている。
階段の上では、手下たちが見張りに立っている。その中には、ボルグの姿もあった。里に残れと言っても、黙って首を振るだけで、とうとうここまでついてきた。
目の前に、扉があった。
見上げるほどの、黒い扉だった。
表面には、小さなランタンを抱いた、顔のない女が彫りこまれている。その周りを、びっしりと文字が埋めつくしていた。
ガルドは、太い指で、その溝をなぞった。
読めなかった。
「……どうせ、坊主の戯言だ」
鼻で笑う。
奪った司教の記憶によれば、この扉は、新月の夜にしか開かない。
肥え太ったあの老司教は、この扉の前に立つたびに震えていた。扉の向こうにあるものを、誰にも知られてはならない――頭の中は、そればかりだった。
坊主どもが三百年、白い大聖堂の下に隠してきたもの。
知ったことか、とガルドは思う。使えるなら、使うだけだ。
あと、三日。
イルザの奴は、まだ来ない。縄張りの始末をつけたら追いかける、と言っていたはずだが。
あの欲張りは――答えを、見つけただろうか。
ふと、そんなことを思った。
思ってから、苦く笑った。
答えなど、もう要らない。
左の手首に、指をやる。
色褪せた、子供用の小さなリボン。二十年前、燃える村の井戸の底で、握りしめていたもの。
半年前、馬車の窓の向こうに、同じ色を見た。
伯爵夫人なんぞに、されちまいやがって。
仇の屋敷で、二十年も。
「……全部、奪い返してやる」
松明の火が、ぱちりと爆ぜた。
壁に映ったガルドの影が、ゆらりと膨れ上がった。人の形ではなかった。巨大な、黒い狼の形をしていた。
腹の底で、何かが低く唸った気がした。
構うものか。
ガルドは、色褪せたリボンに、そっと唇を押し当てた。
「迎えに行くぞ、エルナ」
黒い扉は、何も答えなかった。




