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光の闇司祭① 黒狼の楽園  作者: parupuntist


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第四章 母の分の痛み

 泣き声が、雨にまぎれて聞こえていた。


 崖から里へ下りる坂の途中で、レオニスは足を止めた。


 子供の声だった。ひとりではない。何人もの子供が、しゃくりあげながら、誰かの名前を呼んでいる。


 学び舎のほうからだった。


 ぬかるんだ坂を駆け下り、開け放たれたままの戸口に飛びこむ。


 ランプの灯りが、揺れていた。


 床板の上に、割れた壺の欠片(かけら)が散らばっている。こぼれた白い乳が、吹きこんだ雨水とまじりあって、板の継ぎ目に染みこんでいく。


 その真ん中に、ボルグが座りこんでいた。


 大きな背中に、ずぶ濡れの子供たちが、しがみつくようにして泣いていた。


「お兄ちゃん!」


 子供のひとりが、レオニスに気づいて叫んだ。


「騎士のお姉ちゃんが、おじちゃんに剣を向けたの!」


「……よせ」


 ボルグが、低く言った。


「悪いのは、俺だ」


 片腕の料理番が、ゆっくりと顔を上げる。


 熊のような大男が、ひどく小さく見えた。


「……兄ちゃん。嬢ちゃんを、頼む」


「何があった」


 ボルグは、しばらく黙っていた。


 それから、空っぽの右袖を握りしめて、言った。


「九年前。街道沿いの宿屋で――俺が、あの子の親を殺した」


 雨の音が、急に遠くなった。


 ――九年前の、夜でした。


 砦の客間で、震える声でそう打ち明けた横顔が、脳裏をよぎる。


 目の前のこの男が、シチューの秘訣を教えてくれたときの、穏やかな顔も。


「おじちゃん、悪くないもん!」


 子供たちが、泣きながら叫んだ。ボルグは何も言わず、残った左手で、しがみつく小さな頭を、ただ撫でていた。


 レオニスは、何も言わなかった。


 言えることなど、何ひとつなかった。


 踵(きびす)を返し、雨の中へ飛び出した。


 炊事場。井戸端。学び舎の縁側。どこにもいない。


 里の入り口まで走って、ようやく、その背中を見つけた。


 樫の板の前だった。


 掟が二行だけ刻まれた、あの古い立て札の前に、ミレイアが立っていた。


 外套(がいとう)も着ていない。肩で切りそろえた銀の髪が、雨に濡れて頬に張りついている。右手には、抜き身の剣がだらりと下がっていた。


 樫の板に、真新しい傷が一本、斜めに走っていた。


 二行目の、「殺すな」の三文字を、断ち割るように。


 レオニスは、黙って彼女の隣に立った。


 指先を、ひょいと振る。


 ミレイアの頭上に、小さな白い光の板が生まれた。雨粒が板に弾(はじ)かれて、ぱらぱらと軽い音を立てる。ぼんやりとした白い光が、濡れた横顔を照らし出した。


「……消してください」


 ミレイアは、こちらを見なかった。


「明るいと……顔が、見えるじゃないですか」


 レオニスは、指を下ろした。


 光が消える。


 また、暗闇と雨の音だけになった。


 どれくらい、そうしていたかわからない。


「……斬れませんでした」


 雨の中で、ミレイアが言った。


「九年間、このためだけに剣を振ってきたのに。……あの人の首に、切っ先まで当てたのに」


 声が、震えていた。


「許せないのに。今だって、少しも許せないのに。……斬れなかった」


 レオニスは、黙っていた。


「何か、言ってください」


「……」


「斬ればよかったとか、斬らなくてよかったとか。何でもいいから……!」


「……なんも、言えねえ」


 正直に、答えた。


 斬れ、とは言えなかった。斬るな、とも言えなかった。どちらを口にしても、それは、彼女が九年かけて抱えてきたものの行き先を、横から勝手に決めてしまうことになる。


 ミレイアは、何も言い返さなかった。


 やがて、雨の音にまぎれて、押し殺した嗚咽(おえつ)が聞こえはじめた。


 レオニスは、隣に立っていた。


 雨に打たれながら、ただ、立っていた。


 夜明け前に、雨は上がった。


「ミルテ村に、行ってみる」


 白みはじめた空の下で、レオニスは言った。


 鎖の村の御者たちが口にしていた名前だった。こないだ、鎖を外そうとした女がいたという村。


 ガルドへの答えは、まだ見つかっていない。この里にいても、見つかる気がしなかった。


「……私も、行きます」


 ミレイアの目は、赤く腫れていた。


「いいのか」


「ここには、いられません」


 それ以上、レオニスは訊かなかった。


 里の子供たちが、見送りに来ていた。


 昨日まで「騎士のお姉ちゃん」とまとわりついていた子供たちが、今朝は少し離れたところから、おずおずとミレイアを見ている。


 髪を編んでもらっていた女の子が、一歩だけ前に出た。


「……お姉ちゃん。また、来る?」


 ミレイアは、答えなかった。


 黙って膝をつき、ほどけかけていた女の子のおさげを、丁寧に編み直した。それから立ち上がり、振り返らずに歩き出した。


 レオニスは、一度だけ振り返った。


 炊事場の煙突から、その朝、煙は上がっていなかった。


◆


 ――十三日目:


 ペンは、そこで止まったままだった。


 ミルテ村までの道のりを、ミレイアは、ほとんど覚えていない。


 鎖の村の先へ続く轍を、ただ辿った。昨夜の雨を溜めた轍は、鈍く空を映しながら、谷の奥へ、奥へと続いていた。


 日が傾くころ、川沿いの細長い谷に、その村は現れた。


 三十戸ほどの家々。刈り入れを終えた畑に、冬越しの麦の芽が、まばらに並んでいる。川べりの水車は、止まっていた。自分たちで挽(ひ)くぶんの麦は、もう残されていないのだろう。


 そして、村人たちの足首には、黒い鎖が巻きついていた。


 余所者の姿を見るなり、村人たちは家に駆けこみ、戸を閉めた。畑に残っていた者も、鍬を抱えたまま、怯えた目でこちらを窺(うかが)っている。


 やがて、白い髭の老人がひとり、足を引きずるようにして、村の境までやってきた。


「……頼む。帰ってくだされ」


 境の石を挟んで、老人は深々と頭を下げた。


「余所者を置いたと知れたら、何をされるか……わしらには、もう差し出せるものが何もないんじゃ」


「泊めてくれとは言わねえよ」


 レオニスが、肩をすくめた。


「村の外で、勝手に寝る。あんたらは、何も見なかった。それでいいだろ」


 老人は、しばらく二人を見比べていた。


 それから、レオニスの胸もとに揺れる黒い聖印に目を留め、かすかに息を呑んだ。


「……あんた、闇司祭か」


「まあな」


「なら……この鎖を、どうにかできんのか」


 ミレイアは、レオニスの横顔を見た。


「切るだけなら、たぶんな」


 レオニスは、静かに答えた。


「けど、切ったら、どうなる」


 老人は、黙りこんだ。


 答えは、誰よりもこの老人が知っているのだろう。鎖を切っても、行く場所はない。冬は目の前だ。そして黒狼団は、もっと太い鎖を持ってくる。


「……だろうな」


 老人はそれだけ呟いて、背を向けた。


 村の境から、石を投げれば届くほどの川べりに、崩れかけた炭焼き小屋があった。二人は、そこに寝床を作った。


 その夕方のことだった。


 川の水で剣の手入れをしていたミレイアは、ふと、視線を感じて顔を上げた。


 村の境の石のすぐ内側に、少女がひとり立っていた。


 十二、三だろうか。くすんだ麦わら色の髪。額にかかる前髪だけが、妙に不揃いだった。細い足首には、ほかの村人と同じ黒い鎖が巻きついている。


 少女の目は、ミレイアの剣に釘づけになっていた。


「……それ、本物?」


「本物です」


「騎士さま?」


 ミレイアは、一瞬だけ迷った。


「……見習いです」


 トルカ村では、伏せた言葉だった。けれど今は、なぜか、偽る気になれなかった。


「見習いでも、いい」


 少女は、境の石ぎりぎりまで進み出た。


「剣、教えて」


「……なぜですか」


「ガルドを、殺すの」


 川の音が、ふっと遠のいた。


 少女は、ユナと名乗った。


 ひと月前の夜、ユナの母は、娘の足首の鎖に鉈(なた)を当てた。――あんただけでも、外へ。そう言って、何度も、何度も振り下ろした。


 鎖が、黒く光った。


 駆けつけた黒狼団の男たちの前でも、母は鉈を離さなかった。だから、「抵抗した」ことになった。


 ――抵抗した者は、殺してもいい決まりなんだそうだ。


 灰の中で包丁を研いでいた老人の声が、耳の奥によみがえった。


「見て」


 ユナは、自分の足首を持ち上げてみせた。


 黒い鎖には、傷ひとつ、ついていなかった。


「お母さん、あんなに叩いたのに」


 淡々とした声だった。泣いてもいなかった。


 人前で泣くことを、どこかでやめてしまった子供の声だと、ミレイアは思った。


 ――知っている。


 床下の暗闇で、両手で口を塞いで、朝まで震えていた十歳の少女を、ミレイアは知っている。夜が明けて床下から這い出したとき、泣くかわりに、剣を握ると決めたことも。


 子供が剣など――と言いかけて、ミレイアは口をつぐんだ。


 自分に、それを言う資格があるだろうか。


「……剣は、教えられます」


 ようやく、それだけを言った。


「でも――誰を斬るかまでは、教えられません」


 ユナは、小さく首をかしげた。それから、こくりと頷いた。


「私は、ミレイアです」


「……ミレイアさん」


 確かめるように、ユナは繰り返した。


 翌朝、レオニスが川べりの流木を削って、一本の木剣をこしらえた。


 境の石の向こうから、ユナがそれを覗きこむ。


「……これ、剣?」


「剣だろ。どう見ても」


「魚みたい」


「うるせえ」


 ぶつぶつ言いながら、レオニスは木剣を、境の石越しに放った。ユナが、両手でそれを受け止める。


「止めないのですね」


 ミレイアが言うと、レオニスは肩をすくめた。


「止めねえよ。決めるのは、あいつだ」


 それから、境の石を挟んだ稽古が始まった。


 ユナは、鎖の届くぎりぎりの内側で。ミレイアは、外側で。


 構え。足の運び。振り下ろし。ユナは、教えたことを一度で覚えた。覚えたことを、日が暮れるまで繰り返した。


「ミレイアさん、次は?」


 木剣を振るたびに、少女の足首で、鎖がちりりと鳴った。


 ――十四日目:昼寝。


 ――十五日目:昼寝。ユナ、構え。


 ――十六日目:昼寝。ユナ、素振(すぶ)り五十回。


 ――十七日目:昼寝。ユナ、素振り百回。手に豆。


 罪状帳のはずだった。


 気づけば、ユナのことばかり書いている。


 レオニスはといえば、相変わらずだった。


 日向で昼寝をし、腹が減ると、川面(かわも)に指先で小さな光の網を張って、魚をすくい上げる。


「法術の無駄遣いです」


「使わなきゃ、もっと無駄だろ」


 けれど、ある昼下がり。川べりに寝転がったレオニスの顔を何気なく覗きこんで、ミレイアは目を瞬いた。


 琥珀色の目が、ぱっちりと開いていた。


「……なんだよ」


「……起きていたのですか」


「昼寝の最中だ」


「目が開いています」


「目を開けてする昼寝もある」


 ふざけた答えだった。けれど、その目は空を見上げたまま、動かなかった。流れていく雲を、ただ黙って追いかけていた。


 ガルドへの答えを、探しているのだろうか。


 ある晩、レオニスはシチューを作った。


 いつもの、黒麦酒の煮込みだった。けれど彼は、蜂蜜を垂らしたところで火を止め、鍋に蓋をして、そのまま翌朝まで放っておいた。


 何も言わなかった。


 けれど、ミレイアには、わかった。


 翌朝、温め直したシチューをひと口すすって、ミレイアは匙を止めた。


 焦がし玉ねぎの苦みが、丸くなっていた。干し肉に、味が染みていた。


 ――あの人の、味がした。


 おいしい、と思った。


 思ってしまった自分が、許せなかった。


 ミレイアは、残りを黙って食べた。ひと匙も、残さなかった。


 月は、夜ごとに痩せていった。


 ユナの手の豆は、潰れて、また豆になった。


 ちりり、ちりり、と鎖が鳴る。その音を聞きながら、ミレイアは時々、わからなくなった。


 自分は今、誰に剣を教えているのだろう。


 目の前の少女にか。それとも――九年前の、床下の自分にか。


 この子を、自分と同じ九年間に、送り出そうとしているのではないか。


 答えは、出なかった。


 出ないまま、ミルテ村に来て、十日目の朝が来た。


 鎖の村で夜を明かしてきたのだろう。黒い狼の旗を立てた荷馬車が、朝靄(あさもや)の向こう、谷の入り口に姿を見せた。


◆


 荷馬車は、ちょうど十日ごとにやってくるらしかった。


 村人たちが、黙々と麦袋を運び出していく。鎖を鳴らしながら、自分たちが育てた麦を、自分たちの手で、黒狼の荷台に積みこんでいく。


 積みこみが終わると、先頭の荷馬車から、ひょろりとした若い男が飛び降りた。


 焦げた袖を継ぎあてた上着に、見覚えがあった。


「集まれ、ミルテの連中! 頭からの、慈悲だ!」


 ドルフだった。


 広場に集められた村人たちの前で、ドルフは得意げに、革袋の口を開けてみせた。


 中に入っていたのは、黒い小石だった。


 川原で拾えそうな、何の変哲もない丸い石。けれどその奥で、黒い光が、ゆっくりと脈打っている。


「頭の《強奪》が込めてある。こいつを握って、痛え思い出を思い浮かべるだけでいい。そしたら、頭が持ってってくれる」


 村人たちが、ざわめいた。


「忘れちまいてえことが、あるだろ? 死んだ家族のこととか、さ。……頭はな、お前らが辛気くせえ顔してんのが、気に入らねえんだとよ」


 レオニスは、村の境の石を越えた。ミレイアも、黙ってあとに続く。


 広場に足を踏み入れると、ドルフがこちらに気づいて、ぎょっと目を剥いた。


「げっ! な、なんであんたが、こんなとこに……!」


「よう。それ、なんだ」


「だ、だから、頭の慈悲だって言ってんだろ!」


 最初に手を伸ばしたのは、痩せた女だった。


 この春、幼い息子を熱病で亡くしたのだと、あとで聞いた。


 震える指が、黒い石を握りしめる。


 石の中の黒い光が、女の手のひらへ、するすると吸いこまれていった。


 女の肩から、ふっと力が抜けた。


 深い、深い息をついて――女は、微笑んだ。


「……あら」


 不思議そうに、頬に手をやる。指先が、濡れていた。


「私、どうして泣いていたのかしら」


 穏やかな声だった。


 ひとり、またひとりと、村人たちが石に手を伸ばした。老人がいた。若い男がいた。首を振って受け取らない者もいたが、半分ほどは、石を握った。


 握った者は、みな、同じ顔になった。


 穏やかに、笑っていた。


 石を返した村人たちは、笑ったまま、鍬を担いで畑へ戻っていく。足首の鎖を、ちりりと鳴らしながら。笑ったまま、鎖に繋がれた土を耕しはじめる。


 レオニスは、動けなかった。


 その顔を、知っていた。


 白い部屋。白い寝台。白い光の中で――


 ――笑っている。


 ずっと、ずっと、笑っている。


 指先から、血の気が引いていく。


「……熱い」


 隣で、ミレイアが胸を押さえていた。白銀の太陽の聖印を、握りしめている。


「聖印が……熱を、持っています」


 邪な術が人の心を縛っていれば、熱を持つという聖印。


 その声が、ひどく遠くに聞こえた。


 からからに乾いた喉から、レオニスは、ようやく声を絞り出した。


「……やめろ」


「は?」


 ドルフが、眉を寄せた。


「なんでだよ。痛えのを取ってやってんだぞ。いいことじゃねえか」


「……」


「あんただって、俺の火傷、治してくれたじゃねえか。あれと、何が違うんだよ」


「体の傷と、心は――」


「何が違うんだよ。痛えのは、おんなじだろ」


 ドルフは、心底わからないという顔をしていた。


「それに、欲しがったのは、こいつらだぜ?」


 レオニスは、答えられなかった。


 石を握ったのは、村人たちだ。誰も、無理やり握らされてはいない。欲しいものを、欲しいと手を伸ばして、手に入れた。


 ――止めたら、じいさんの『欲しい』を、俺が勝手に取り上げることになるだろ。


 包丁を研いでいた老人を止めなかった夜、自分でそう言ったのだ。


 なのに、胸の奥で、何かが悲鳴を上げていた。


 ドルフは、革袋を手に、広場の端へ歩いていった。


 そこに、ユナが立っていた。木剣を、胸に抱えて。


「お前、こないだの……」


 ドルフの声が、ほんの少しだけ低くなった。


「お前こそ、要るだろ。ほら」


 黒い石が、差し出される。


「いらない」


 ユナは、首を振った。


「意地張んなって。楽になるぞ」


「いらない」


 少女は、木剣を抱く腕に、ぎゅっと力をこめた。


「これは、お母さんの分の痛みだから」


 ドルフの手が、止まった。


 隣で、ミレイアが息を詰めるのがわかった。


 レオニスの中で、何かが、静かに鳴った。


 ――それを消しちまったら、じいさんの中から、アンナさんが本当にいなくなっちまう。


 ――忘れたら、あいつが、本当にいなくなっちまう。


 トルカ村の墓の前で、自分が言った言葉。月下の崖で、ガルドが言った言葉。


 同じだった。


 十二の少女が、同じものを、握りしめていた。


「……わっかんねえなあ」


 ドルフは頭を掻き、石を袋に戻した。


「ま、いいや。気が変わったら言えよ。頭の慈悲は、逃げねえからな」


 荷馬車の列が、谷を出ていく。


 笑ったままの村人たちが、それを見送っていた。


 その夜、レオニスは眠れなかった。


 目を閉じるたびに、白い部屋が浮かんだ。


 炭焼き小屋を抜け出し、村の境に沿って歩いた。夜半を過ぎて、ようやく昇ってきた月は、ずいぶん細く痩せていた。


 麦畑の隅に、小さな土の盛り上がりがあった。


 墓だった。


 村の墓地は、境の外にある。鎖が巻かれてから死んだ者は、村の中の、畑の隅に埋めるしかないのだと、あの老人が言っていた。盛り土の上には、木の杭が一本、立っているだけだった。


 その前に、小さな影がうずくまっていた。


 ユナだった。


 膝を抱え、顔を膝に押しつけている。細い肩が、震えていた。


 声は、聞こえなかった。


 聞こえないように、泣いているのだ。継ぎはぎだらけの野良着の袖を噛んで、誰にも気づかれないように。


 昼間、黒い石を突っぱねた少女が。木剣を抱えて、「いらない」と言いきった少女が。


 ひとりきりで、声を殺して、泣いていた。


 胸の奥を、爪で掻かれるようだった。


 白い部屋の、隣の寝台。毎晩、毎晩、聞こえてきた泣き声。どうしても止めてやれなかった、あの声。


 泣き止ませる方法なら、知っている。


 ――気づいたときには、その方法に、手が伸びていた。


 指先に、白い光が灯っていた。


 《浄化》の光だった。傷の穢(けが)れを祓(はら)い、熱の毒を祓い、そして――心に刺さった棘(とげ)さえも、抜き去ってしまえる光。


 うつむいた小さな頭へ、白い指先が、あとわずかで届く――


 ユナが、振り向いた。


 細い月明かりの下で、濡れた目が、光る指先を見た。


 それから、レオニスを見た。


「……あなたも、取るの?」


 手が、止まった。


 白い光が、指先で、ふっと消えた。


 レオニスは、自分の手を見下ろした。


 震えていた。


 頼まれて、いなかった。


 トルカ村の老人は、消してくれと頼んだ。それでも、断った。――なのに今、この子は何も頼んでいない。「いらない」と、昼間はっきり言ったのに。


 それでも、手は伸びていた。


 この子のためではなかった。


 この子の泣き声を、自分が聞いていたくなかったのだ。


「……取らねえよ」


 ようやく、それだけ言った。


 ひどく、かすれた声だった。


 レオニスは、ユナから一歩離れて、土の上に腰を下ろした。外套の内側を探り、たたんだ布を取り出す。


 青い小鳥が刺繍された、白い手巾(ハンカチ)だった。トルカ村を発つ日、村を出ると決めたリラが、「私の、最初のお客さん」と笑ってくれたものだ。


 それを、ユナとの間の地面に置いた。


「貸すだけだ」


 ユナが、手巾を見た。


「使うかどうかは、お前が決めろ」


 それから、レオニスはユナに背を向けた。


「見ねえから」


 しばらく、何の音もしなかった。


 やがて、布が擦れる、小さな音がした。


 そして――


 堰(せき)を切ったように、泣き声が上がった。


 もう、袖を噛んではいなかった。ただの十二歳の子供のように、しゃくりあげ、鼻をすすり、母を呼んで、泣いていた。


 レオニスは、振り返らなかった。


 震える手を、膝の上で、きつく握りしめていた。


 振り返れば、また、この手が伸びてしまいそうだった。


 泣き声は、痩せた月が高く昇るまで、続いた。


◆


 夜半過ぎ、麦畑の隅に白い光が灯るのを、ミレイアは炭焼き小屋の戸口から見ていた。


 ほんの、ひと息の間だった。すぐに消えて、また暗闇に戻った。


 レオニスが炭焼き小屋に戻ってきたのは、空が白みはじめるころだった。何も言わずに寝床に転がり、こちらに背を向けた。けれど、寝息は、いつまでも聞こえてこなかった。


 ミレイアも、眠れなかった。


 朝、境の石の向こうに、ユナが立っていた。


 目が、赤く腫れていた。けれどその顔は、昨日までより、ずいぶん子供らしく見えた。


「これ」


 ユナが差し出したのは、きれいにたたまれた手巾だった。青い小鳥の刺繍。


「ちゃんと、洗ったから」


「……おう」


 レオニスが、ぎこちなく受け取る。


 それからユナは、胸に抱えていた木剣を、ミレイアに差し出した。


「ミレイアさん。これも、返す」


「……もう、稽古はいいのですか」


「うん」


 ユナは、言葉を探すように足もとを見た。


 鎖が、ちりりと鳴った。


「私、ガルドを殺したくない」


 顔を上げて、ユナは言った。


「憎いけど、人殺しにはなりたくない。お母さんのことは、忘れたくない。……でも、仕返しのためだけに生きたくもない」


 ミレイアは、息をするのを忘れた。


「ゆうべ、いっぱい泣いたら、思い出したの」


 ユナは、自分の足首の鎖を見下ろした。


「お母さん、鉈を振りながら、言ってた。『あんたは、外で、好きに生きな』って」


 不揃いな前髪が、朝の風に揺れた。


「この前髪もね、お母さんが切ってくれたの。最後の日に。……へたくそでしょ」


 ユナは、少しだけ笑った。


 昨日、黒い石を握った村人たちとは、まるで違う笑い方だった。泣いたあとの、腫れた目のままの、本物の笑顔だった。


「だから、仕返しばっかりしてたら、お母さんの言うこと、聞かなかったことになっちゃう」


「それでいい」


 レオニスが、言った。


 静かな声だった。


 ユナは、こくりと頷いて、畑のほうへ駆けていった。鎖の届くかぎり、遠くまで。


 ミレイアは、手の中の木剣を見下ろしていた。


 軽かった。


 驚くほど、軽かった。


 ユナは、この剣を、十日で置いた。


 自分は、腰の剣を、九年握り続けている。


 ――悲しみを、神さまに取っていただきましょうね。


 神殿に引き取られた日、白い法衣の司祭にそう言われたことを、ミレイアは思い出していた。


 十歳のミレイアは、首を横に振った。


 忘れたくなかった。忘れたら、あの夜の男たちを、許してしまう気がしたから。


 ユナも、痛みを手放さなかった。


 けれど、その理由は――


 ユナは、母のために、痛みを残した。


 自分は、憎むために、残したのだ。


 ――声を出しちゃだめ。何があっても、出てきちゃだめ。


 母はそう言って娘を床下に隠し、最後まで、その床板の上にいた。


 母は、あのとき、何を望んでいたのだろう。


 娘が九年かけて剣を研ぎ、仇の首に切っ先を当てることだっただろうか。


 ――考えたく、なかった。


「……すげえな、あいつ」


 ユナの背中を見送りながら、レオニスが、ぽつりと呟いた。


 その一言で、何かが切れた。


「……どうして」


 声が、震えた。


「どうして、そんなふうに言えるんですか」


 レオニスが、こちらを見た。


「それでいい、なんて。……簡単に言わないで!」


 自分の声とは思えないほど、大きな声が出た。


「復讐しなくていいなんて、そんなの簡単に言えることじゃない! 九年です! 九年間、私は、そのためだけに――」


 喉が、詰まった。


「あの人を、斬れなかった。許すことも、できなかった。どっちも選べないまま、ここまで逃げてきた私に……あの子と同じことを、言えますか? それでいい、って!」


 レオニスは、何も言わなかった。


 その沈黙が、かえって胸に突き刺さった。


「あなたは……泣いてる人を、見たくないだけです」


 言ってはいけない、と思った。


 止まらなかった。


「自分が辛(つら)いから、早く泣き止ませたいだけ。それは、あなたの都合でしょう!」


 レオニスの肩が、小さく揺れた。


「見ていました。ゆうべ、あの子のそばで、あなたの手が光ったのを」


「……」


「雨の夜だって、そうでした。あなたが真っ先にしたのは、雨を止めることだった」


 レオニスは、自分の手を見下ろしていた。


 何ひとつ、言い返さなかった。


 ミレイアは、踵を返した。


 わかっていた。これは、八つ当たりだ。斬れなかったのは、自分だ。許せないのも、自分だ。この人のせいでは、何ひとつない。


 わかっていて、止められなかった。


 川沿いの道を、どこへともなく歩いた。


 右手には、ユナの木剣。腰には、九年間の剣。


 木剣は、軽かった。


 腰の剣は、重いままだった。


◆


 ミレイアが戻ってきたのは、日が暮れてからだった。


 焚き火の向こうに、黙って腰を下ろす。膝の上に、ユナの木剣を載せたまま。


 レオニスも、何も言わなかった。


 薪が、ぱちりと爆ぜた。


 月は、まだ昇っていなかった。


 長い沈黙のあとで、レオニスは口を開いた。


「……ガキの頃、孤児院にいたんだ」


 ミレイアが、顔を上げた。


「《陽だまりの家》っていう、教会の孤児院」


「陽だまりの家……」


 ミレイアが、小さく繰り返した。


「教会でいちばん大きな孤児院です。慈善の鑑だと、神殿でも……」


「ああ。いいとこだったよ」


 レオニスは、焚き火を見つめたまま言った。


「飯は出るし、屋根はあるし。壁も寝台も、司祭の服も、何もかも真っ白でさ。……いつも、笑い声でいっぱいだった」


 薪が、また爆ぜた。


「隣の寝台に、シエルって女の子がいた」


 その名前を口にするのは、何年ぶりだろう。


「泣き虫でさ。流行り病で親を亡くして、来たばっかりで。毎晩、毎晩、泣いてた。俺は隣で、ずっとその声を聞いてた」


 手を握ってやった。自分のパンを、半分やった。くだらない話をして、笑わせようとした。


 どれも、駄目だった。


「ある日、司祭さまたちが言ったんだ。シエルの悲しみを、神さまに取っていただきましょうね、って」


 ミレイアの肩が、こわばった。


「白い礼拝堂に連れていかれて、戻ってきたとき――あいつは、笑ってた」


 薪が、崩れた。


「その夜、あいつは泣かなかった。次の夜も。その次の夜も」


 転んで膝を擦りむいても、笑っていた。年下の子にパンを取られても、笑っていた。


 ずっと、ずっと、笑っていた。


「一度、訊いたんだ。お母さんのこと、覚えてるかって」


 声が、かすかに揺れた。


「あいつ、笑ったまま、首をかしげた。――だあれ? って」


 焚き火の向こうで、ミレイアが息を呑んだ。


「ガルドが、俺の中で見たって言ってた。白い部屋で、ずっと笑ってるガキ。……たぶん、あいつだ」


 レオニスは、しばらく黙っていた。


 それから、いちばん言いたくないことを、口にした。


「……ほっとしたんだよ、俺」


「え……」


「あいつが初めて泣かなかった夜、俺、朝までぐっすり眠れたんだ。ああ、やっと眠れる。もう、あの声を聞かなくていいって。――ほっとした」


 乾いた笑いが、喉から漏れた。


「最低だろ」


 ミレイアは、答えなかった。


「俺が司祭どもに食ってかかったのは、そのあとだ。シエルを返せって、泣いて、暴れて……そしたら、言われた。あなたも、悲しみを取っていただきましょうね、って」


 その夜のうちに、逃げた。


 シエルを、白い部屋に置いたまま。


「雪の路地裏で師匠に拾われたのは、それから二年あとだ。……この話、師匠にもしたことねえんだけどな」


 レオニスは、自分の右手を見下ろした。


 ゆうべ、白く光った手だった。


「俺は、誰かが悲しむのが嫌だった。だから――悲しむ権利まで、奪おうとしてたんだ」


 語尾が、わずかに揺れた。


「ゆうべ、ユナの後ろで手が光ったとき、あの頃と何も変わってなかった。あいつのためじゃねえ。俺が、あいつの泣き声を聞いていたくなかっただけだ。……お前の、言うとおりだよ」


 ミレイアの手が、胸の聖印を握りしめていた。


 白銀の太陽。邪な術が人の心を縛っていれば、熱を持つという聖印。


 白い礼拝堂でシエルを囲んだ司祭たちの胸にも、同じ太陽が揺れていたはずだった。


「……私も」


 消え入りそうな声で、ミレイアが言った。


「神殿に引き取られた日に、勧められました。悲しみを、取っていただきなさいって」


「……断ったのか」


「はい。……忘れたら、仇を討てなくなると思ったから」


 ミレイアは、うつむいた。


「《浄化》は、癒やしの奇跡だと、ずっと教わってきました。神殿でも、何度も見ました。泣いていた人が、祈りのあとで、穏やかに笑って……」


 言葉が、そこで途切れた。


 黒い石を握った村人たちの顔を、思い出しているのだろう。聖印が熱を持った、あの穏やかな笑顔を。


「癒やすんじゃねえ」


 レオニスは、静かに言った。


「消すんだよ」


 長い沈黙が、落ちた。


 やがて、ミレイアが、ぎゅっと唇を噛んだ。


「……ずるいです」


 その目が、焚き火の光に揺れていた。


「そんな話をされたら……怒れないじゃないですか」


「怒っていいよ」


 レオニスは、少しだけ笑った。


「お前が、正しい」


 ミレイアが、何かを言いかけて、唇を開いた。


 そのときだった。


 村のほうで、悲鳴が上がった。


 二人は、同時に立ち上がった。


 闇の中に、黒い光の筋が、いくつも浮かび上がっていた。


 鎖だった。村じゅうの村人の足首で、黒い鎖がいっせいに光っている。光の筋は、家々の戸口から、畑から、ひとつ残らず村の広場へ向かって、ぴんと張りつめていた。


 引きずられているのだ。


 藁(わら)の寝床から叩き起こされ、裸足のまま、村人たちが鎖に引かれて、広場へと引きずり出されていく。


「――余所者を、匿(かくま)ったね」


 広場の真ん中に、松明(たいまつ)を掲げた男たちに囲まれて、ひとりの女が立っていた。


 腰に幾重にも巻いた黒い鎖。鋭い目つき。


 その手の中に、村じゅうの鎖の端が、束になって握られていた。


「イルザ……!」


 ミレイアが、剣の柄に手をかけた。


「頭の慈悲まで突っ返して、騎士さまに剣まで習って。ずいぶん、いい度胸じゃないか。ミルテの連中は」


 イルザは、冷ややかに笑った。


「ドルフの馬鹿が、嬉しそうに話してたよ。光の司祭さまが、ミルテにいたってね」


 束ねた鎖を、ぐい、と引く。


 村人たちの足首で、鎖が締まった。悲鳴が上がる。老人が、膝から崩れ落ちる。


「やめろ!」


 レオニスは、境の石を越えて広場へ駆けこんだ。


「こいつらは関係ねえ! 勝手に居座ったのは、俺たちだ!」


「知ってるよ」


 イルザは、眉ひとつ動かさなかった。


「だから、見せしめなんだ。余所者を置いたらどうなるか、ほかの村にも教えてやらなきゃね」


 鋭い目が、まっすぐにレオニスを射抜いた。


「……それに、あんたが来てから、頭は変なんだ」


「ガルドは、これを知ってんのか」


「頭は今、それどころじゃない」


 ちりり、と。


 鎖が鳴った。


 村人の輪の中から、小さな影が引きずり出された。


 ユナだった。


 足首の鎖に引かれて、地面を擦りながら、イルザの足もとまで。


「慈悲を突っ返したのは、この子だね」


 ユナは、泣かなかった。


 唇を噛みしめて、イルザを睨み上げていた。


 かわりに、村人たちが泣いていた。


 鎖に締め上げられた老人が。母親にしがみつく幼い子供が。石を握って笑っていたはずの女までが、痛みに顔を歪めて、泣いていた。


 ――泣き声が、聞こえた。


 どこかで、子供が泣いている。


 レオニスは、師の鉄剣を夜空へ突き上げた。


「我、欲(ほっ)す」


 腹の底から、声を出す。


 欲しいものは、ひとつだった。


 ――ひとつの、はずだった。


「――誰も、泣かない……」


 そこで、言葉が止まった。


 喉の奥に、何かが引っかかっていた。


 ――あなたも、取るの?


 麦畑の隅で振り向いた、濡れた目。


 ――あなたは、泣いてる人を見たくないだけです。


 今朝、境の石の前で、震えていた声。


 そして、白い部屋で、ずっと笑っている――


 誰も泣かない世界。


 それは、黒い石を握って笑っていた、村人たちの世界だった。だあれ、と首をかしげた、シエルの世界だった。


「……泣かない、ことを……」


 声が、かすれて消えた。


 光は、爆ぜなかった。


 夜は、夜のままだった。


 白い円蓋も、光の板も、どこにも生まれなかった。突き上げた鉄剣の先で、星だけが、冷たく瞬いていた。


 誰にも、泣いてほしくない。


 それは、嘘じゃない。今だって、嘘じゃない。


 けれど、その先を口にしようとした瞬間、言葉は、本心の形を失っていた。


 ――欲を偽る者に、黒き母は夜を与えぬ。


 七年前、叙階の儀で聞いた長老の声が、耳の奥で鳴った。


「……なんだい、それ」


 イルザの、呆れたような声がした。


「頭が気に入ったっていうから、どんな化け物かと思えば」


 レオニスは、とっさに指を振った。


 矢を弾く程度の小さな盾なら、宣誓などいらない。指先ひとつで、いつでも張れる。


 張れる、はずだった。


 何も、生まれなかった。


 黒い鎖が、蛇のように宙を奔(はし)った。


 腹を打たれ、息が詰まる。膝が、地面についた。


「レオニス!」


 ミレイアの叫び声が、遠くに聞こえる。


 レオニスは、地面に手をついたまま、自分の手のひらを見つめていた。


 ゆうべ、少女の涙を奪おうとした手。


 今夜、誰ひとり守れない手。


 どこにも、光はなかった。


 その夜――《光の闇司祭》は、光を失った。

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