第四章 母の分の痛み
泣き声が、雨にまぎれて聞こえていた。
崖から里へ下りる坂の途中で、レオニスは足を止めた。
子供の声だった。ひとりではない。何人もの子供が、しゃくりあげながら、誰かの名前を呼んでいる。
学び舎のほうからだった。
ぬかるんだ坂を駆け下り、開け放たれたままの戸口に飛びこむ。
ランプの灯りが、揺れていた。
床板の上に、割れた壺の欠片が散らばっている。こぼれた白い乳が、吹きこんだ雨水とまじりあって、板の継ぎ目に染みこんでいく。
その真ん中に、ボルグが座りこんでいた。
大きな背中に、ずぶ濡れの子供たちが、しがみつくようにして泣いていた。
「お兄ちゃん!」
子供のひとりが、レオニスに気づいて叫んだ。
「騎士のお姉ちゃんが、おじちゃんに剣を向けたの!」
「……よせ」
ボルグが、低く言った。
「悪いのは、俺だ」
片腕の料理番が、ゆっくりと顔を上げる。
熊のような大男が、ひどく小さく見えた。
「……兄ちゃん。嬢ちゃんを、頼む」
「何があった」
ボルグは、しばらく黙っていた。
それから、空っぽの右袖を握りしめて、言った。
「九年前。街道沿いの宿屋で――俺が、あの子の親を殺した」
雨の音が、急に遠くなった。
――九年前の、夜でした。
砦の客間で、震える声でそう打ち明けた横顔が、脳裏をよぎる。
目の前のこの男が、シチューの秘訣を教えてくれたときの、穏やかな顔も。
「おじちゃん、悪くないもん!」
子供たちが、泣きながら叫んだ。ボルグは何も言わず、残った左手で、しがみつく小さな頭を、ただ撫でていた。
レオニスは、何も言わなかった。
言えることなど、何ひとつなかった。
踵を返し、雨の中へ飛び出した。
炊事場。井戸端。学び舎の縁側。どこにもいない。
里の入り口まで走って、ようやく、その背中を見つけた。
樫の板の前だった。
掟が二行だけ刻まれた、あの古い立て札の前に、ミレイアが立っていた。
外套も着ていない。肩で切りそろえた銀の髪が、雨に濡れて頬に張りついている。右手には、抜き身の剣がだらりと下がっていた。
樫の板に、真新しい傷が一本、斜めに走っていた。
二行目の、「殺すな」の三文字を、断ち割るように。
レオニスは、黙って彼女の隣に立った。
指先を、ひょいと振る。
ミレイアの頭上に、小さな白い光の板が生まれた。雨粒が板に弾かれて、ぱらぱらと軽い音を立てる。ぼんやりとした白い光が、濡れた横顔を照らし出した。
「……消してください」
ミレイアは、こちらを見なかった。
「明るいと……顔が、見えるじゃないですか」
レオニスは、指を下ろした。
光が消える。
また、暗闇と雨の音だけになった。
どれくらい、そうしていたかわからない。
「……斬れませんでした」
雨の中で、ミレイアが言った。
「九年間、このためだけに剣を振ってきたのに。……あの人の首に、切っ先まで当てたのに」
声が、震えていた。
「許せないのに。今だって、少しも許せないのに。……斬れなかった」
レオニスは、黙っていた。
「何か、言ってください」
「……」
「斬ればよかったとか、斬らなくてよかったとか。何でもいいから……!」
「……なんも、言えねえ」
正直に、答えた。
斬れ、とは言えなかった。斬るな、とも言えなかった。どちらを口にしても、それは、彼女が九年かけて抱えてきたものの行き先を、横から勝手に決めてしまうことになる。
ミレイアは、何も言い返さなかった。
やがて、雨の音にまぎれて、押し殺した嗚咽が聞こえはじめた。
レオニスは、隣に立っていた。
雨に打たれながら、ただ、立っていた。
夜明け前に、雨は上がった。
「ミルテ村に、行ってみる」
白みはじめた空の下で、レオニスは言った。
鎖の村の御者たちが口にしていた名前だった。こないだ、鎖を外そうとした女がいたという村。
ガルドへの答えは、まだ見つかっていない。この里にいても、見つかる気がしなかった。
「……私も、行きます」
ミレイアの目は、赤く腫れていた。
「いいのか」
「ここには、いられません」
それ以上、レオニスは訊かなかった。
里の子供たちが、見送りに来ていた。
昨日まで「騎士のお姉ちゃん」とまとわりついていた子供たちが、今朝は少し離れたところから、おずおずとミレイアを見ている。
髪を編んでもらっていた女の子が、一歩だけ前に出た。
「……お姉ちゃん。また、来る?」
ミレイアは、答えなかった。
黙って膝をつき、ほどけかけていた女の子のおさげを、丁寧に編み直した。それから立ち上がり、振り返らずに歩き出した。
レオニスは、一度だけ振り返った。
炊事場の煙突から、その朝、煙は上がっていなかった。
◆
――十三日目:
ペンは、そこで止まったままだった。
ミルテ村までの道のりを、ミレイアは、ほとんど覚えていない。
鎖の村の先へ続く轍を、ただ辿った。昨夜の雨を溜めた轍は、鈍く空を映しながら、谷の奥へ、奥へと続いていた。
日が傾くころ、川沿いの細長い谷に、その村は現れた。
三十戸ほどの家々。刈り入れを終えた畑に、冬越しの麦の芽が、まばらに並んでいる。川べりの水車は、止まっていた。自分たちで挽くぶんの麦は、もう残されていないのだろう。
そして、村人たちの足首には、黒い鎖が巻きついていた。
余所者の姿を見るなり、村人たちは家に駆けこみ、戸を閉めた。畑に残っていた者も、鍬を抱えたまま、怯えた目でこちらを窺っている。
やがて、白い髭の老人がひとり、足を引きずるようにして、村の境までやってきた。
「……頼む。帰ってくだされ」
境の石を挟んで、老人は深々と頭を下げた。
「余所者を置いたと知れたら、何をされるか……わしらには、もう差し出せるものが何もないんじゃ」
「泊めてくれとは言わねえよ」
レオニスが、肩をすくめた。
「村の外で、勝手に寝る。あんたらは、何も見なかった。それでいいだろ」
老人は、しばらく二人を見比べていた。
それから、レオニスの胸もとに揺れる黒い聖印に目を留め、かすかに息を呑んだ。
「……あんた、闇司祭か」
「まあな」
「なら……この鎖を、どうにかできんのか」
ミレイアは、レオニスの横顔を見た。
「切るだけなら、たぶんな」
レオニスは、静かに答えた。
「けど、切ったら、どうなる」
老人は、黙りこんだ。
答えは、誰よりもこの老人が知っているのだろう。鎖を切っても、行く場所はない。冬は目の前だ。そして黒狼団は、もっと太い鎖を持ってくる。
「……だろうな」
老人はそれだけ呟いて、背を向けた。
村の境から、石を投げれば届くほどの川べりに、崩れかけた炭焼き小屋があった。二人は、そこに寝床を作った。
その夕方のことだった。
川の水で剣の手入れをしていたミレイアは、ふと、視線を感じて顔を上げた。
村の境の石のすぐ内側に、少女がひとり立っていた。
十二、三だろうか。くすんだ麦わら色の髪。額にかかる前髪だけが、妙に不揃いだった。細い足首には、ほかの村人と同じ黒い鎖が巻きついている。
少女の目は、ミレイアの剣に釘づけになっていた。
「……それ、本物?」
「本物です」
「騎士さま?」
ミレイアは、一瞬だけ迷った。
「……見習いです」
トルカ村では、伏せた言葉だった。けれど今は、なぜか、偽る気になれなかった。
「見習いでも、いい」
少女は、境の石ぎりぎりまで進み出た。
「剣、教えて」
「……なぜですか」
「ガルドを、殺すの」
川の音が、ふっと遠のいた。
少女は、ユナと名乗った。
ひと月前の夜、ユナの母は、娘の足首の鎖に鉈を当てた。――あんただけでも、外へ。そう言って、何度も、何度も振り下ろした。
鎖が、黒く光った。
駆けつけた黒狼団の男たちの前でも、母は鉈を離さなかった。だから、「抵抗した」ことになった。
――抵抗した者は、殺してもいい決まりなんだそうだ。
灰の中で包丁を研いでいた老人の声が、耳の奥によみがえった。
「見て」
ユナは、自分の足首を持ち上げてみせた。
黒い鎖には、傷ひとつ、ついていなかった。
「お母さん、あんなに叩いたのに」
淡々とした声だった。泣いてもいなかった。
人前で泣くことを、どこかでやめてしまった子供の声だと、ミレイアは思った。
――知っている。
床下の暗闇で、両手で口を塞いで、朝まで震えていた十歳の少女を、ミレイアは知っている。夜が明けて床下から這い出したとき、泣くかわりに、剣を握ると決めたことも。
子供が剣など――と言いかけて、ミレイアは口をつぐんだ。
自分に、それを言う資格があるだろうか。
「……剣は、教えられます」
ようやく、それだけを言った。
「でも――誰を斬るかまでは、教えられません」
ユナは、小さく首をかしげた。それから、こくりと頷いた。
「私は、ミレイアです」
「……ミレイアさん」
確かめるように、ユナは繰り返した。
翌朝、レオニスが川べりの流木を削って、一本の木剣をこしらえた。
境の石の向こうから、ユナがそれを覗きこむ。
「……これ、剣?」
「剣だろ。どう見ても」
「魚みたい」
「うるせえ」
ぶつぶつ言いながら、レオニスは木剣を、境の石越しに放った。ユナが、両手でそれを受け止める。
「止めないのですね」
ミレイアが言うと、レオニスは肩をすくめた。
「止めねえよ。決めるのは、あいつだ」
それから、境の石を挟んだ稽古が始まった。
ユナは、鎖の届くぎりぎりの内側で。ミレイアは、外側で。
構え。足の運び。振り下ろし。ユナは、教えたことを一度で覚えた。覚えたことを、日が暮れるまで繰り返した。
「ミレイアさん、次は?」
木剣を振るたびに、少女の足首で、鎖がちりりと鳴った。
――十四日目:昼寝。
――十五日目:昼寝。ユナ、構え。
――十六日目:昼寝。ユナ、素振り五十回。
――十七日目:昼寝。ユナ、素振り百回。手に豆。
罪状帳のはずだった。
気づけば、ユナのことばかり書いている。
レオニスはといえば、相変わらずだった。
日向で昼寝をし、腹が減ると、川面に指先で小さな光の網を張って、魚をすくい上げる。
「法術の無駄遣いです」
「使わなきゃ、もっと無駄だろ」
けれど、ある昼下がり。川べりに寝転がったレオニスの顔を何気なく覗きこんで、ミレイアは目を瞬いた。
琥珀色の目が、ぱっちりと開いていた。
「……なんだよ」
「……起きていたのですか」
「昼寝の最中だ」
「目が開いています」
「目を開けてする昼寝もある」
ふざけた答えだった。けれど、その目は空を見上げたまま、動かなかった。流れていく雲を、ただ黙って追いかけていた。
ガルドへの答えを、探しているのだろうか。
ある晩、レオニスはシチューを作った。
いつもの、黒麦酒の煮込みだった。けれど彼は、蜂蜜を垂らしたところで火を止め、鍋に蓋をして、そのまま翌朝まで放っておいた。
何も言わなかった。
けれど、ミレイアには、わかった。
翌朝、温め直したシチューをひと口すすって、ミレイアは匙を止めた。
焦がし玉ねぎの苦みが、丸くなっていた。干し肉に、味が染みていた。
――あの人の、味がした。
おいしい、と思った。
思ってしまった自分が、許せなかった。
ミレイアは、残りを黙って食べた。ひと匙も、残さなかった。
月は、夜ごとに痩せていった。
ユナの手の豆は、潰れて、また豆になった。
ちりり、ちりり、と鎖が鳴る。その音を聞きながら、ミレイアは時々、わからなくなった。
自分は今、誰に剣を教えているのだろう。
目の前の少女にか。それとも――九年前の、床下の自分にか。
この子を、自分と同じ九年間に、送り出そうとしているのではないか。
答えは、出なかった。
出ないまま、ミルテ村に来て、十日目の朝が来た。
鎖の村で夜を明かしてきたのだろう。黒い狼の旗を立てた荷馬車が、朝靄の向こう、谷の入り口に姿を見せた。
◆
荷馬車は、ちょうど十日ごとにやってくるらしかった。
村人たちが、黙々と麦袋を運び出していく。鎖を鳴らしながら、自分たちが育てた麦を、自分たちの手で、黒狼の荷台に積みこんでいく。
積みこみが終わると、先頭の荷馬車から、ひょろりとした若い男が飛び降りた。
焦げた袖を継ぎあてた上着に、見覚えがあった。
「集まれ、ミルテの連中! 頭からの、慈悲だ!」
ドルフだった。
広場に集められた村人たちの前で、ドルフは得意げに、革袋の口を開けてみせた。
中に入っていたのは、黒い小石だった。
川原で拾えそうな、何の変哲もない丸い石。けれどその奥で、黒い光が、ゆっくりと脈打っている。
「頭の《強奪》が込めてある。こいつを握って、痛え思い出を思い浮かべるだけでいい。そしたら、頭が持ってってくれる」
村人たちが、ざわめいた。
「忘れちまいてえことが、あるだろ? 死んだ家族のこととか、さ。……頭はな、お前らが辛気くせえ顔してんのが、気に入らねえんだとよ」
レオニスは、村の境の石を越えた。ミレイアも、黙ってあとに続く。
広場に足を踏み入れると、ドルフがこちらに気づいて、ぎょっと目を剥いた。
「げっ! な、なんであんたが、こんなとこに……!」
「よう。それ、なんだ」
「だ、だから、頭の慈悲だって言ってんだろ!」
最初に手を伸ばしたのは、痩せた女だった。
この春、幼い息子を熱病で亡くしたのだと、あとで聞いた。
震える指が、黒い石を握りしめる。
石の中の黒い光が、女の手のひらへ、するすると吸いこまれていった。
女の肩から、ふっと力が抜けた。
深い、深い息をついて――女は、微笑んだ。
「……あら」
不思議そうに、頬に手をやる。指先が、濡れていた。
「私、どうして泣いていたのかしら」
穏やかな声だった。
ひとり、またひとりと、村人たちが石に手を伸ばした。老人がいた。若い男がいた。首を振って受け取らない者もいたが、半分ほどは、石を握った。
握った者は、みな、同じ顔になった。
穏やかに、笑っていた。
石を返した村人たちは、笑ったまま、鍬を担いで畑へ戻っていく。足首の鎖を、ちりりと鳴らしながら。笑ったまま、鎖に繋がれた土を耕しはじめる。
レオニスは、動けなかった。
その顔を、知っていた。
白い部屋。白い寝台。白い光の中で――
――笑っている。
ずっと、ずっと、笑っている。
指先から、血の気が引いていく。
「……熱い」
隣で、ミレイアが胸を押さえていた。白銀の太陽の聖印を、握りしめている。
「聖印が……熱を、持っています」
邪な術が人の心を縛っていれば、熱を持つという聖印。
その声が、ひどく遠くに聞こえた。
からからに乾いた喉から、レオニスは、ようやく声を絞り出した。
「……やめろ」
「は?」
ドルフが、眉を寄せた。
「なんでだよ。痛えのを取ってやってんだぞ。いいことじゃねえか」
「……」
「あんただって、俺の火傷、治してくれたじゃねえか。あれと、何が違うんだよ」
「体の傷と、心は――」
「何が違うんだよ。痛えのは、おんなじだろ」
ドルフは、心底わからないという顔をしていた。
「それに、欲しがったのは、こいつらだぜ?」
レオニスは、答えられなかった。
石を握ったのは、村人たちだ。誰も、無理やり握らされてはいない。欲しいものを、欲しいと手を伸ばして、手に入れた。
――止めたら、じいさんの『欲しい』を、俺が勝手に取り上げることになるだろ。
包丁を研いでいた老人を止めなかった夜、自分でそう言ったのだ。
なのに、胸の奥で、何かが悲鳴を上げていた。
ドルフは、革袋を手に、広場の端へ歩いていった。
そこに、ユナが立っていた。木剣を、胸に抱えて。
「お前、こないだの……」
ドルフの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「お前こそ、要るだろ。ほら」
黒い石が、差し出される。
「いらない」
ユナは、首を振った。
「意地張んなって。楽になるぞ」
「いらない」
少女は、木剣を抱く腕に、ぎゅっと力をこめた。
「これは、お母さんの分の痛みだから」
ドルフの手が、止まった。
隣で、ミレイアが息を詰めるのがわかった。
レオニスの中で、何かが、静かに鳴った。
――それを消しちまったら、じいさんの中から、アンナさんが本当にいなくなっちまう。
――忘れたら、あいつが、本当にいなくなっちまう。
トルカ村の墓の前で、自分が言った言葉。月下の崖で、ガルドが言った言葉。
同じだった。
十二の少女が、同じものを、握りしめていた。
「……わっかんねえなあ」
ドルフは頭を掻き、石を袋に戻した。
「ま、いいや。気が変わったら言えよ。頭の慈悲は、逃げねえからな」
荷馬車の列が、谷を出ていく。
笑ったままの村人たちが、それを見送っていた。
その夜、レオニスは眠れなかった。
目を閉じるたびに、白い部屋が浮かんだ。
炭焼き小屋を抜け出し、村の境に沿って歩いた。夜半を過ぎて、ようやく昇ってきた月は、ずいぶん細く痩せていた。
麦畑の隅に、小さな土の盛り上がりがあった。
墓だった。
村の墓地は、境の外にある。鎖が巻かれてから死んだ者は、村の中の、畑の隅に埋めるしかないのだと、あの老人が言っていた。盛り土の上には、木の杭が一本、立っているだけだった。
その前に、小さな影がうずくまっていた。
ユナだった。
膝を抱え、顔を膝に押しつけている。細い肩が、震えていた。
声は、聞こえなかった。
聞こえないように、泣いているのだ。継ぎはぎだらけの野良着の袖を噛んで、誰にも気づかれないように。
昼間、黒い石を突っぱねた少女が。木剣を抱えて、「いらない」と言いきった少女が。
ひとりきりで、声を殺して、泣いていた。
胸の奥を、爪で掻かれるようだった。
白い部屋の、隣の寝台。毎晩、毎晩、聞こえてきた泣き声。どうしても止めてやれなかった、あの声。
泣き止ませる方法なら、知っている。
――気づいたときには、その方法に、手が伸びていた。
指先に、白い光が灯っていた。
《浄化》の光だった。傷の穢れを祓い、熱の毒を祓い、そして――心に刺さった棘さえも、抜き去ってしまえる光。
うつむいた小さな頭へ、白い指先が、あとわずかで届く――
ユナが、振り向いた。
細い月明かりの下で、濡れた目が、光る指先を見た。
それから、レオニスを見た。
「……あなたも、取るの?」
手が、止まった。
白い光が、指先で、ふっと消えた。
レオニスは、自分の手を見下ろした。
震えていた。
頼まれて、いなかった。
トルカ村の老人は、消してくれと頼んだ。それでも、断った。――なのに今、この子は何も頼んでいない。「いらない」と、昼間はっきり言ったのに。
それでも、手は伸びていた。
この子のためではなかった。
この子の泣き声を、自分が聞いていたくなかったのだ。
「……取らねえよ」
ようやく、それだけ言った。
ひどく、かすれた声だった。
レオニスは、ユナから一歩離れて、土の上に腰を下ろした。外套の内側を探り、たたんだ布を取り出す。
青い小鳥が刺繍された、白い手巾だった。トルカ村を発つ日、村を出ると決めたリラが、「私の、最初のお客さん」と笑ってくれたものだ。
それを、ユナとの間の地面に置いた。
「貸すだけだ」
ユナが、手巾を見た。
「使うかどうかは、お前が決めろ」
それから、レオニスはユナに背を向けた。
「見ねえから」
しばらく、何の音もしなかった。
やがて、布が擦れる、小さな音がした。
そして――
堰を切ったように、泣き声が上がった。
もう、袖を噛んではいなかった。ただの十二歳の子供のように、しゃくりあげ、鼻をすすり、母を呼んで、泣いていた。
レオニスは、振り返らなかった。
震える手を、膝の上で、きつく握りしめていた。
振り返れば、また、この手が伸びてしまいそうだった。
泣き声は、痩せた月が高く昇るまで、続いた。
◆
夜半過ぎ、麦畑の隅に白い光が灯るのを、ミレイアは炭焼き小屋の戸口から見ていた。
ほんの、ひと息の間だった。すぐに消えて、また暗闇に戻った。
レオニスが炭焼き小屋に戻ってきたのは、空が白みはじめるころだった。何も言わずに寝床に転がり、こちらに背を向けた。けれど、寝息は、いつまでも聞こえてこなかった。
ミレイアも、眠れなかった。
朝、境の石の向こうに、ユナが立っていた。
目が、赤く腫れていた。けれどその顔は、昨日までより、ずいぶん子供らしく見えた。
「これ」
ユナが差し出したのは、きれいにたたまれた手巾だった。青い小鳥の刺繍。
「ちゃんと、洗ったから」
「……おう」
レオニスが、ぎこちなく受け取る。
それからユナは、胸に抱えていた木剣を、ミレイアに差し出した。
「ミレイアさん。これも、返す」
「……もう、稽古はいいのですか」
「うん」
ユナは、言葉を探すように足もとを見た。
鎖が、ちりりと鳴った。
「私、ガルドを殺したくない」
顔を上げて、ユナは言った。
「憎いけど、人殺しにはなりたくない。お母さんのことは、忘れたくない。……でも、仕返しのためだけに生きたくもない」
ミレイアは、息をするのを忘れた。
「ゆうべ、いっぱい泣いたら、思い出したの」
ユナは、自分の足首の鎖を見下ろした。
「お母さん、鉈を振りながら、言ってた。『あんたは、外で、好きに生きな』って」
不揃いな前髪が、朝の風に揺れた。
「この前髪もね、お母さんが切ってくれたの。最後の日に。……へたくそでしょ」
ユナは、少しだけ笑った。
昨日、黒い石を握った村人たちとは、まるで違う笑い方だった。泣いたあとの、腫れた目のままの、本物の笑顔だった。
「だから、仕返しばっかりしてたら、お母さんの言うこと、聞かなかったことになっちゃう」
「それでいい」
レオニスが、言った。
静かな声だった。
ユナは、こくりと頷いて、畑のほうへ駆けていった。鎖の届くかぎり、遠くまで。
ミレイアは、手の中の木剣を見下ろしていた。
軽かった。
驚くほど、軽かった。
ユナは、この剣を、十日で置いた。
自分は、腰の剣を、九年握り続けている。
――悲しみを、神さまに取っていただきましょうね。
神殿に引き取られた日、白い法衣の司祭にそう言われたことを、ミレイアは思い出していた。
十歳のミレイアは、首を横に振った。
忘れたくなかった。忘れたら、あの夜の男たちを、許してしまう気がしたから。
ユナも、痛みを手放さなかった。
けれど、その理由は――
ユナは、母のために、痛みを残した。
自分は、憎むために、残したのだ。
――声を出しちゃだめ。何があっても、出てきちゃだめ。
母はそう言って娘を床下に隠し、最後まで、その床板の上にいた。
母は、あのとき、何を望んでいたのだろう。
娘が九年かけて剣を研ぎ、仇の首に切っ先を当てることだっただろうか。
――考えたく、なかった。
「……すげえな、あいつ」
ユナの背中を見送りながら、レオニスが、ぽつりと呟いた。
その一言で、何かが切れた。
「……どうして」
声が、震えた。
「どうして、そんなふうに言えるんですか」
レオニスが、こちらを見た。
「それでいい、なんて。……簡単に言わないで!」
自分の声とは思えないほど、大きな声が出た。
「復讐しなくていいなんて、そんなの簡単に言えることじゃない! 九年です! 九年間、私は、そのためだけに――」
喉が、詰まった。
「あの人を、斬れなかった。許すことも、できなかった。どっちも選べないまま、ここまで逃げてきた私に……あの子と同じことを、言えますか? それでいい、って!」
レオニスは、何も言わなかった。
その沈黙が、かえって胸に突き刺さった。
「あなたは……泣いてる人を、見たくないだけです」
言ってはいけない、と思った。
止まらなかった。
「自分が辛いから、早く泣き止ませたいだけ。それは、あなたの都合でしょう!」
レオニスの肩が、小さく揺れた。
「見ていました。ゆうべ、あの子のそばで、あなたの手が光ったのを」
「……」
「雨の夜だって、そうでした。あなたが真っ先にしたのは、雨を止めることだった」
レオニスは、自分の手を見下ろしていた。
何ひとつ、言い返さなかった。
ミレイアは、踵を返した。
わかっていた。これは、八つ当たりだ。斬れなかったのは、自分だ。許せないのも、自分だ。この人のせいでは、何ひとつない。
わかっていて、止められなかった。
川沿いの道を、どこへともなく歩いた。
右手には、ユナの木剣。腰には、九年間の剣。
木剣は、軽かった。
腰の剣は、重いままだった。
◆
ミレイアが戻ってきたのは、日が暮れてからだった。
焚き火の向こうに、黙って腰を下ろす。膝の上に、ユナの木剣を載せたまま。
レオニスも、何も言わなかった。
薪が、ぱちりと爆ぜた。
月は、まだ昇っていなかった。
長い沈黙のあとで、レオニスは口を開いた。
「……ガキの頃、孤児院にいたんだ」
ミレイアが、顔を上げた。
「《陽だまりの家》っていう、教会の孤児院」
「陽だまりの家……」
ミレイアが、小さく繰り返した。
「教会でいちばん大きな孤児院です。慈善の鑑だと、神殿でも……」
「ああ。いいとこだったよ」
レオニスは、焚き火を見つめたまま言った。
「飯は出るし、屋根はあるし。壁も寝台も、司祭の服も、何もかも真っ白でさ。……いつも、笑い声でいっぱいだった」
薪が、また爆ぜた。
「隣の寝台に、シエルって女の子がいた」
その名前を口にするのは、何年ぶりだろう。
「泣き虫でさ。流行り病で親を亡くして、来たばっかりで。毎晩、毎晩、泣いてた。俺は隣で、ずっとその声を聞いてた」
手を握ってやった。自分のパンを、半分やった。くだらない話をして、笑わせようとした。
どれも、駄目だった。
「ある日、司祭さまたちが言ったんだ。シエルの悲しみを、神さまに取っていただきましょうね、って」
ミレイアの肩が、こわばった。
「白い礼拝堂に連れていかれて、戻ってきたとき――あいつは、笑ってた」
薪が、崩れた。
「その夜、あいつは泣かなかった。次の夜も。その次の夜も」
転んで膝を擦りむいても、笑っていた。年下の子にパンを取られても、笑っていた。
ずっと、ずっと、笑っていた。
「一度、訊いたんだ。お母さんのこと、覚えてるかって」
声が、かすかに揺れた。
「あいつ、笑ったまま、首をかしげた。――だあれ? って」
焚き火の向こうで、ミレイアが息を呑んだ。
「ガルドが、俺の中で見たって言ってた。白い部屋で、ずっと笑ってるガキ。……たぶん、あいつだ」
レオニスは、しばらく黙っていた。
それから、いちばん言いたくないことを、口にした。
「……ほっとしたんだよ、俺」
「え……」
「あいつが初めて泣かなかった夜、俺、朝までぐっすり眠れたんだ。ああ、やっと眠れる。もう、あの声を聞かなくていいって。――ほっとした」
乾いた笑いが、喉から漏れた。
「最低だろ」
ミレイアは、答えなかった。
「俺が司祭どもに食ってかかったのは、そのあとだ。シエルを返せって、泣いて、暴れて……そしたら、言われた。あなたも、悲しみを取っていただきましょうね、って」
その夜のうちに、逃げた。
シエルを、白い部屋に置いたまま。
「雪の路地裏で師匠に拾われたのは、それから二年あとだ。……この話、師匠にもしたことねえんだけどな」
レオニスは、自分の右手を見下ろした。
ゆうべ、白く光った手だった。
「俺は、誰かが悲しむのが嫌だった。だから――悲しむ権利まで、奪おうとしてたんだ」
語尾が、わずかに揺れた。
「ゆうべ、ユナの後ろで手が光ったとき、あの頃と何も変わってなかった。あいつのためじゃねえ。俺が、あいつの泣き声を聞いていたくなかっただけだ。……お前の、言うとおりだよ」
ミレイアの手が、胸の聖印を握りしめていた。
白銀の太陽。邪な術が人の心を縛っていれば、熱を持つという聖印。
白い礼拝堂でシエルを囲んだ司祭たちの胸にも、同じ太陽が揺れていたはずだった。
「……私も」
消え入りそうな声で、ミレイアが言った。
「神殿に引き取られた日に、勧められました。悲しみを、取っていただきなさいって」
「……断ったのか」
「はい。……忘れたら、仇を討てなくなると思ったから」
ミレイアは、うつむいた。
「《浄化》は、癒やしの奇跡だと、ずっと教わってきました。神殿でも、何度も見ました。泣いていた人が、祈りのあとで、穏やかに笑って……」
言葉が、そこで途切れた。
黒い石を握った村人たちの顔を、思い出しているのだろう。聖印が熱を持った、あの穏やかな笑顔を。
「癒やすんじゃねえ」
レオニスは、静かに言った。
「消すんだよ」
長い沈黙が、落ちた。
やがて、ミレイアが、ぎゅっと唇を噛んだ。
「……ずるいです」
その目が、焚き火の光に揺れていた。
「そんな話をされたら……怒れないじゃないですか」
「怒っていいよ」
レオニスは、少しだけ笑った。
「お前が、正しい」
ミレイアが、何かを言いかけて、唇を開いた。
そのときだった。
村のほうで、悲鳴が上がった。
二人は、同時に立ち上がった。
闇の中に、黒い光の筋が、いくつも浮かび上がっていた。
鎖だった。村じゅうの村人の足首で、黒い鎖がいっせいに光っている。光の筋は、家々の戸口から、畑から、ひとつ残らず村の広場へ向かって、ぴんと張りつめていた。
引きずられているのだ。
藁の寝床から叩き起こされ、裸足のまま、村人たちが鎖に引かれて、広場へと引きずり出されていく。
「――余所者を、匿ったね」
広場の真ん中に、松明を掲げた男たちに囲まれて、ひとりの女が立っていた。
腰に幾重にも巻いた黒い鎖。鋭い目つき。
その手の中に、村じゅうの鎖の端が、束になって握られていた。
「イルザ……!」
ミレイアが、剣の柄に手をかけた。
「頭の慈悲まで突っ返して、騎士さまに剣まで習って。ずいぶん、いい度胸じゃないか。ミルテの連中は」
イルザは、冷ややかに笑った。
「ドルフの馬鹿が、嬉しそうに話してたよ。光の司祭さまが、ミルテにいたってね」
束ねた鎖を、ぐい、と引く。
村人たちの足首で、鎖が締まった。悲鳴が上がる。老人が、膝から崩れ落ちる。
「やめろ!」
レオニスは、境の石を越えて広場へ駆けこんだ。
「こいつらは関係ねえ! 勝手に居座ったのは、俺たちだ!」
「知ってるよ」
イルザは、眉ひとつ動かさなかった。
「だから、見せしめなんだ。余所者を置いたらどうなるか、ほかの村にも教えてやらなきゃね」
鋭い目が、まっすぐにレオニスを射抜いた。
「……それに、あんたが来てから、頭は変なんだ」
「ガルドは、これを知ってんのか」
「頭は今、それどころじゃない」
ちりり、と。
鎖が鳴った。
村人の輪の中から、小さな影が引きずり出された。
ユナだった。
足首の鎖に引かれて、地面を擦りながら、イルザの足もとまで。
「慈悲を突っ返したのは、この子だね」
ユナは、泣かなかった。
唇を噛みしめて、イルザを睨み上げていた。
かわりに、村人たちが泣いていた。
鎖に締め上げられた老人が。母親にしがみつく幼い子供が。石を握って笑っていたはずの女までが、痛みに顔を歪めて、泣いていた。
――泣き声が、聞こえた。
どこかで、子供が泣いている。
レオニスは、師の鉄剣を夜空へ突き上げた。
「我、欲す」
腹の底から、声を出す。
欲しいものは、ひとつだった。
――ひとつの、はずだった。
「――誰も、泣かない……」
そこで、言葉が止まった。
喉の奥に、何かが引っかかっていた。
――あなたも、取るの?
麦畑の隅で振り向いた、濡れた目。
――あなたは、泣いてる人を見たくないだけです。
今朝、境の石の前で、震えていた声。
そして、白い部屋で、ずっと笑っている――
誰も泣かない世界。
それは、黒い石を握って笑っていた、村人たちの世界だった。だあれ、と首をかしげた、シエルの世界だった。
「……泣かない、ことを……」
声が、かすれて消えた。
光は、爆ぜなかった。
夜は、夜のままだった。
白い円蓋も、光の板も、どこにも生まれなかった。突き上げた鉄剣の先で、星だけが、冷たく瞬いていた。
誰にも、泣いてほしくない。
それは、嘘じゃない。今だって、嘘じゃない。
けれど、その先を口にしようとした瞬間、言葉は、本心の形を失っていた。
――欲を偽る者に、黒き母は夜を与えぬ。
七年前、叙階の儀で聞いた長老の声が、耳の奥で鳴った。
「……なんだい、それ」
イルザの、呆れたような声がした。
「頭が気に入ったっていうから、どんな化け物かと思えば」
レオニスは、とっさに指を振った。
矢を弾く程度の小さな盾なら、宣誓などいらない。指先ひとつで、いつでも張れる。
張れる、はずだった。
何も、生まれなかった。
黒い鎖が、蛇のように宙を奔った。
腹を打たれ、息が詰まる。膝が、地面についた。
「レオニス!」
ミレイアの叫び声が、遠くに聞こえる。
レオニスは、地面に手をついたまま、自分の手のひらを見つめていた。
ゆうべ、少女の涙を奪おうとした手。
今夜、誰ひとり守れない手。
どこにも、光はなかった。
その夜――《光の闇司祭》は、光を失った。




