第三章 狼の楽園
里の入り口に立つ古い樫の板には、二行だけ、文字が刻まれていた。
――奪うのは、外からだけ。
――抵抗しない者と、子供は殺すな。
「これが、うちの掟のぜんぶだ」
案内役のドルフが、なぜか得意げに胸を張った。
「頭が決めたんだ。ほかには何もねえ。なのに、みんなちゃんと守ってる」
「……少ないな」
「少ないほうが、守りやすいだろ?」
レオニスは、板に刻まれた文字をしばらく眺めていた。
抵抗しない者は、殺すな。
灰の中で包丁を研いでいた老人の顔が、ちらりと頭をかすめた。
黒狼砦で肋骨を折られてから、三日が経っていた。
二日目の朝に、レオニスはこっそり自分で骨を繋いだ。砦の老医者には「法術で治すなら、最初から医者を呼ぶな」とさんざん文句を言われ、ミレイアには「言いつけを破りましたね」と冷たい目で見られた。罪状帳には、たぶん何か書かれた。
それから、ガルドの言葉どおり――縄張りを、見に来たのだ。
砦の裏手、崖に穿たれた長い隧道を抜けた先に、その里はあった。
山に囲まれた、小さな盆地だった。
段々に切り拓かれた畑では、刈り入れを終えた土から冬越しの麦が青い芽を並べ、丸々と太った蕪が葉を揺らしている。川沿いでは水車がのんびりと回り、家々の煙突からは炊煙が立ちのぼる。百軒ほどの家の間を、子供たちが犬と一緒に駆け回っていた。
市場があった。鍛冶場があった。家畜小屋があり、パン焼き窯があり――驚いたことに、学び舎まであった。
「あそこの本はな、ぜんぶ頭が奪ってきたんだ」
ドルフが、また得意げに言った。
「貴族の屋敷とか、坊主の修道院とかからな。頭は自分じゃ一冊も読まねえくせに、本だけはよく奪ってくる。ガキどもに読ませるんだってさ」
開け放たれた学び舎の窓から、子供たちの声が聞こえてくる。
たどたどしい、けれど楽しげな、文字を読み上げる声だった。
「……ここが、黒狼団の」
ミレイアが、呟いた。
その声には、戸惑いが滲んでいた。
レオニスにも、その気持ちはよくわかった。
ここには、飢えがなかった。怯えもなかった。痩せこけた子供も、物乞いも、鞭を持った役人もいない。
あるのは、笑い声だけだった。
市場では、行商人たちが威勢よく声を張り上げていた。
「黒狼の縄張りを通る商人は、みんなここで商売するのさ」
布地を広げていた商人の男が、レオニスの問いに笑って答えた。
「通行料は取られるがね。腐った領主に税を払うより、黒狼に払うほうが安くて安全だ。ここらの街道じゃ、黒狼の旗を掲げた荷馬車を襲う盗賊なんていやしない。魔物だって寄りつかないよ」
鍬を担いだ団員の男は、日に焼けた顔で言った。
「俺は、もとは百姓でね。三年続けて不作だってのに、領主は年貢を一粒もまけちゃくれなかった。女房と娘を食わせられなくて……ここに逃げてきた」
男は、青い芽の並ぶ畑を眩しそうに見やった。
「国に搾り取られるより、ここのほうがずっと幸せだ。――頭には、足を向けて寝られねえよ」
レオニスは、何も言わなかった。
隣で、ミレイアも黙っていた。
そして、昼どき。
里の真ん中にある大きな炊事場から漂ってきた匂いに――レオニスは、足を止めた。
甘くて、香ばしくて、どこか懐かしい匂い。
焦がした玉ねぎと、黒麦酒と、ほんのかすかな蜂蜜の。
「……嘘だろ」
気づけば、走り出していた。
炊事場では、大鍋の前で、ひとりの大男が杓子を握っていた。
四十をいくつか過ぎた、熊のような男だった。頭はきれいに剃り上げられ、額から頬にかけて古い傷が走っている。そして――右の袖が、肩のところから空っぽのまま、腰紐に留められていた。
片腕の料理番は、息を切らして飛びこんできたレオニスを見て、目を丸くした。
「おう? 腹、減ってんのか、兄ちゃん」
「そ、それ……」
「ああ、シチューだ。食うか?」
差し出された木の椀を、レオニスは両手で受け取った。
湯気の向こうに、とろりと煮崩れた根菜と、黒々とした汁が見える。
ひと口、すすった。
――ああ。
声にならなかった。
これだ。
何度作っても、届かなかった味。雪の路地裏で、湯気の向こうに見た味。修道院の狭い厨房で、夕暮れ色の火の向こうから差し出された――
師匠の、シチューの味だった。
「……おい、兄ちゃん?」
料理番が、ぎょっとした顔をした。
レオニスは慌てて、袖で目もとを拭った。
「……なんでもねえ。玉ねぎが目に染みた」
「玉ねぎは、とっくに煮溶けてるがな」
「うるせえ。……おかわり」
「早えな!」
二杯目。三杯目。
ようやく四杯目の椀を空にしたところで、レオニスは長い息を吐いた。
「なあ、おっさん。このシチュー、どこで覚えた?」
「おふくろの味さ。北の山奥の、貧しい村のな。冬になると、どこの家もこれを作る」
ボルグ、と料理番は名乗った。
「北の……」
師匠も、北の出だったのだろうか。考えてみれば、あの人は、自分の生まれた場所の話を一度もしなかった。
「俺もさ、同じのを作るんだよ。材料も作り方も同じはずなのに、どうしても、この味にならねえ」
「ほう」
ボルグは、にやりと笑った。
「兄ちゃん。作ったら、すぐ食っちまうだろ」
「……え?」
「このシチューはな、一晩寝かせるんだ。蜂蜜を垂らしたら火を止めて、蓋をして、朝まで放っとく。そうすりゃ焦がし玉ねぎの苦みが丸くなって、干し肉に味が染みる」
ボルグは、残った左手で大鍋の蓋をぽんと叩いた。
「シチューだって、昼寝させてやんなきゃな」
レオニスは、ぽかんと口を開けた。
それから、腹を抱えて笑いだした。
笑いながら、また少しだけ、目の奥が熱くなった。
――そうか。
あの人のシチューは、いつも、前の晩から仕込まれていたのだ。何年も同じ鍋をつついていたのに、そんなことにも気づかなかった。
昼寝の大切さなら、誰よりも知っているつもりだったのに。
◆
黒狼の里に来て、三日が過ぎた。
――八日目:昼寝。朝寝坊。シチュー四杯。
――九日目:昼寝。
――十日目:昼寝。
そこまで書いて、ミレイアはペンを止めた。
それから少しだけ迷って、書き足した。
――私も、少しだけ。
言い訳をするなら、子供たちのせいだった。
学び舎の縁側で読み書きを教えてほしいとせがまれ、日向で石板に文字を書いてやっていたら、いつの間にか、膝の上で三人が寝息を立てていた。動けなくなって、晩秋とは思えないほど暖かな陽だまりの中でじっとしているうちに――気づけば、自分も眠っていたのだ。
目を覚ましたとき、すぐ隣でレオニスが大の字になって寝ていたのは、見なかったことにした。
この里の子供たちは、よく笑う。
最初の日こそ、白銀の聖印をつけたミレイアを遠巻きに見ていたが、一日も経たないうちに「騎士のお姉ちゃん」と呼んで、まとわりついてくるようになった。剣の稽古をせがむ男の子。髪を編んでほしいと言う女の子。字を教えてと石板を抱えてくる子。
学び舎の本は、どれも貴族の紋章や修道院の蔵書印が押された、盗品だった。
けれど、その盗品の本を、子供たちは宝物のように抱えていた。
「おじちゃんの腕はね、頭に取られたんだって」
髪を編んでやっていた女の子が、何でもないことのように教えてくれたのは、里に来て二日目のことだった。
「取られた?」
「うん。昔、悪いことしたから、って。でも、なにしたのかは、ぜったい教えてくれないの」
ミレイアは、炊事場の窓から見える、大きな背中を見やった。
あの穏やかな男が、片腕を奪われるほどの何を――
それ以上は、考えなかった。考えないようにしていた、のかもしれない。
夕方になると、ミレイアは炊事場へ行く。
ボルグに、料理を習うためだ。
「……また、焦げています」
「焦がすのは玉ねぎだけでいいんだがなあ」
真っ黒になった鍋の底を覗きこんで、ボルグは困ったように、剃り上げた頭を掻いた。
神殿に引き取られてからの九年、ミレイアは剣しか握ってこなかった。料理を作ったことなど、数えるほどしかない。そのわずかな回数も、すべて食堂当番の同僚に泣かれて終わっている。
「火が強すぎる。もっと、ゆっくりだ。――こいつは、急かすと拗ねるんだよ」
ボルグは片腕で器用に鍋を揺すりながら、何度でも、根気よく教えてくれた。大きな体に似合わない、穏やかな声だった。
「……ボルグさんは、どうして料理番を?」
一度だけ、訊いたことがある。
ボルグは、空っぽの右袖にちらりと目をやって、笑った。
「杓子なら、片腕でも握れるからな」
それ以上は、何も言わなかった。
里に来て三日目の夕方。
ミレイアの鍋から、初めて、焦げていない匂いが立ちのぼった。
「おう」
味見をしたボルグが、目を細めた。
「うまいじゃねえか、嬢ちゃん」
「……本当、ですか」
「嘘は言わねえ。ほら、兄ちゃんも食ってみな」
ちょうど炊事場を覗きに来たレオニスが、椀を受け取ってひと口すすり――目を丸くした。
「……うま。え、これ、お前が?」
「……そうです」
「すげえじゃん!」
その瞬間。
ミレイアは、自分の頬がゆるんでいることに気づいた。
笑っていた。
声を立てて、笑っていた。
いつ以来だろう。九年前のあの夜から、自分は、こんなふうに笑ったことがあっただろうか。
レオニスが、匙をくわえたまま、ぽかんとこちらを見ていた。
「……なんですか」
「いや」
レオニスは、慌てたように目を逸らした。
「……なんでもねえ」
ボルグが、片方しかない腕を腰に当てて、豪快に笑った。
夜、寝床に入ると、決まって同じ問いが胸に浮かんだ。
黒狼団は、仇だ。
九年前、自分から父と母を奪った。この手で討つために、九年間、剣を磨いてきた。
けれど、黒狼を討てば、この里はどうなる。
字を覚えたばかりの子供たちは。膝の上で眠っていた小さな頭は。ようやく焦がさずに作れたシチューを、うまいと言ってくれた、あの片腕の料理番は。
――仇を討つことは、この子たちの幸せを、奪うことではないのか。
答えは、出なかった。
◆
里に来て五日目の朝、レオニスは、荷馬車の轍を辿ってみることにした。
毎朝、夜明け前に里を出ていき、日暮れに麦や塩や布を山と積んで戻ってくる荷馬車。黒い狼の旗を立てたその列が、どこから荷を運んでくるのか――確かめておきたかった。
「私も行きます」
当然のように、ミレイアがついてきた。
峠をひとつ越え、谷をふたつ下った。
昼過ぎ、荷馬車の列は、ひとつの村に入っていった。
トルカ村と同じくらいの、小さな村だった。麦畑と、粗末な家々と、痩せた家畜。
ただひとつ、違うところがあった。
畑で働く村人たちの足首に、黒い鎖が巻きついていた。
「……なんだ、あれ」
レオニスは、岩陰から身を乗り出した。
鎖は、どこにも繋がっていなかった。足首に巻きついたまま、端が宙に溶けている。けれど村人たちは、見えない杭に繋がれた家畜のように、村の外へは一歩も出ようとしなかった。
ひとりの老婆が、麦袋の重さによろめいて、村の境の柵に手をついた。
その瞬間、鎖が黒く光った。
老婆は短い悲鳴を上げ、足首を押さえてうずくまった。まるで鎖そのものが、境を越えさせまいとしているかのように。
「欲法の鎖だ」
レオニスは、低く呟いた。
「村から、出られないようにしてやがる」
ミレイアの顔から、血の気が引いていた。
荷馬車の御者たちは、慣れた手つきで麦袋を積みこんでいく。村人たちは、誰ひとり逆らわない。
逆らえないのだ。
ミレイアが、剣の柄に手をかけて腰を浮かせた。
レオニスは、その手首を掴んだ。
「……離してください」
「今、あの鎖を切ってどうする」
「決まっています!」
「俺たちが帰ったあと、あの村に来るのは誰だ」
ミレイアの手が、止まった。
「鎖を切られたと知ったら、黒狼団は、もっと太い鎖を持ってくる。……見せしめだって、やるかもしれねえ」
低く言いながら、レオニスは奥歯を噛みしめていた。
本当は、今すぐ飛び出したかった。あの老婆の足首を治して、鎖を一本残らず断ち切ってやりたかった。
けれど、今それをやれば、あとで泣くのは、この村の連中のほうだ。
「……では、どうすれば」
「わかんねえ」
正直に、答えた。
「わかんねえから、あいつに訊きに行く」
積みこみを終えた御者のひとりが、仲間に声をかけるのが聞こえた。
「よし、ここはこれで終いだ。次は、ミルテ村だな」
「ミルテか。……あそこは、こないだ鎖を外そうとした女がいたとかで、イルザ姐さんがえらく機嫌悪かったぜ」
「おっかねえ。さっさと済ませちまおう」
荷馬車が、また動き出す。
レオニスは、その轍を見つめたまま、動けなかった。
あの里の麦は、ここから来ていた。
市場に並んでいた布も、炊事場の大鍋を満たしていた根菜も。子供たちの笑い声も、学び舎の石板も、あの温かいシチューも。
ぜんぶ、この鎖の上に建っていたのだ。
――誰かの幸福を、誰かの不幸の上に築くなかれ。
師匠が囁いた経典の最後の一行が、耳の奥で鳴った。
「……レオニス」
ミレイアの声が、震えていた。
振り向くと、彼女は岩肌に爪を立てるようにして、鎖の村を睨んでいた。
「あの里の子供たちは……何も、知らないのですね」
「……たぶんな」
知らないまま、笑っている。
知らないまま、宝物のように本を抱えている。
それが、いちばん残酷なことのように思えた。
◆
夕方、ガルドが里に下りてきた。
隧道の出口に黒い毛皮が見えたとたん、里じゅうの子供たちが歓声を上げて駆け出した。
「頭ぁ!」
「頭が来た!」
ガルドはたちまち子供たちに埋もれた。両腕にひとりずつぶら下げ、背中にひとりしがみつかせたまま、のしのしと広場を歩いていく。女たちが杯に酒を注ぎ、男たちが肩を叩き、年寄りが拝むように頭を下げる。
ひとりの女の子が、石板を抱えてガルドの前に立った。
「頭、見て! 字、書けるようになったの!」
「おう、どれどれ」
ガルドは石板を受け取り、真剣な顔でしげしげと眺めた。
「……うまく書けてるじゃねえか」
「頭、それ、さかさま」
一瞬の沈黙。
それから、広場じゅうが笑いに包まれた。
「う、うるせえ! こっちから読むのが通なんだよ!」
耳まで赤くしたガルドが怒鳴り、子供たちがきゃあきゃあと逃げ回る。
――頭は自分じゃ一冊も読まねえくせに、本だけはよく奪ってくる。
ドルフの言葉を思い出して、レオニスは小さく笑った。
読まないのではない。読めないのだ、この男は。
だから、奪った本を、子供たちに渡すのだ。
炊事場の前を通りかかったとき、ガルドの足が、ほんの一瞬だけ止まった。
大鍋の前で、ボルグが深々と頭を下げていた。片方しかない腕を、体の横にぴたりとつけて。
ガルドは何も言わず、ただ小さく顎を引いて、通り過ぎていった。
そのやりとりの意味を、レオニスはまだ知らなかった。
少し離れた井戸端で、ミレイアが、子供たちに囲まれて笑うガルドを見つめていた。
その横顔に浮かんでいるのは、憎しみだけではなかった。
日が暮れると、ガルドは酒瓶を一本ぶら下げて、レオニスを里の外れの崖へ誘った。
満月だった。
二人並んで、崖の縁に腰を下ろす。眼下の里では、家々の窓に灯がともり、どこかで誰かが笛を吹いている。
「飲めよ。砦の蔵から持ってきた、とっておきだ」
差し出された酒瓶を、レオニスは黙って受け取った。
ひと口あおる。喉が、焼けるように熱い。
「そうそう。トルカ村な」
ガルドが、思い出したように言った。
「今年は麦がだめだったんだろ。年貢は、来年まで待ってやる」
レオニスは、目を瞬いた。
「……賭けは、あんたの勝ちだったろ」
「勘違いすんな」
ガルドは、ふんと鼻を鳴らした。
「俺が、勝手にやりたいからやるだけだ」
トルカ村で、レオニス自身が口にしたのと、そっくり同じ台詞だった。
思わず噴き出すと、ガルドも、にやりと笑った。
しばらく、二人は黙って酒瓶を回した。
「……今日、鎖の村を見てきた」
やがて、レオニスは言った。
「あんたの里の麦は、あそこから来てる。あの村の連中は、足を鎖で繋がれて、村から一歩も出られねえ」
「ああ。イルザの鎖だ」
ガルドは、平然と答えた。
「逃げられちゃ困るからな」
「……それで、いいのかよ」
「国に搾られるか、俺に搾られるか。搾る相手が変わっただけだ」
ガルドは、酒瓶を傾けた。
「あいつらだって、俺が来る前は領主に搾られてた。役人に鞭で打たれて、娘を差し出させられて、それでも我慢してた。俺は鞭を使わねえ。娘も差し出させねえ。……むしろ、ましになったくらいだろ」
「でも、鎖で繋いでる」
「領主の鎖は、目に見えなかっただけだ」
ガルドの声には、少しの揺らぎもなかった。
「なあ、欲張り。我慢ってのはな、鎖なんだよ」
月を見上げたまま、ガルドは言った。
「貴族どもは、俺たちに我慢を教えた。我慢してりゃ、いつか報われる。辛抱すりゃ、神さまが見ててくださる――ってな」
鋼色の目が、ゆっくりとこちらを向いた。
「――報われた奴を、ひとりでも見たか?」
レオニスは、答えなかった。
答えられなかった。
雪の路地裏で凍えていた子供たちを、知っている。白い孤児院の、白い部屋を知っている。我慢して、我慢して、我慢した先に何があったのかを――嫌というほど、知っている。
「俺は、その鎖を引きちぎってやっただけだ。この里の連中は、誰も我慢なんかしてねえ。だから、あんなふうに笑ってられる」
眼下の灯を、ガルドは顎でしゃくった。
レオニスは、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……師匠が教えてくれた、経典の続きがあるんだ」
「経典?」
「『汝、欲望のままに生きよ』の、続き。三百年前に焼かれて、口伝えでしか残ってねえ一行」
レオニスは、ゆっくりと口にした。
「――誰かの幸福を、誰かの不幸の上に築くなかれ」
ガルドは、一瞬だけ黙った。
それから、喉の奥で低く笑った。
「坊主どもの作り話だろ」
「……かもな」
「そんな綺麗な一行が本当にあったんなら、世の中、もうちっとましになってるさ」
ガルドは酒瓶をあおり、それから、ふと自分の右手を見下ろした。
砦の大広間で、レオニスの胸に沈めた手だった。
「……あのとき、ちらっと見えたぜ。お前の中身」
「……」
「知らねえ連中の顔ばっかりだった。泣いてる顔も、笑ってる顔も。何百、何千って」
ガルドは、手のひらを握ったり開いたりした。
「それと、ひとり」
低い声が、少しだけ柔らかくなった。
「白い部屋で、ずっと笑ってるガキがいた。……あれ、誰だ?」
レオニスの指先が、冷たくなった。
月が、やけに明るかった。
「……昔の、友達」
それだけ、答えた。
ガルドは、それ以上訊かなかった。
代わりに、レオニスは、ガルドの左の手首に目をやった。
話している間じゅう、ガルドの指はずっと、そこをなぞっていた。色褪せた、子供用の小さなリボン。
「そのリボン」
「……」
「痛いんだろ。触るたびに、顔がそう言ってる」
ガルドの指が、止まった。
「あんたの欲法なら、奪えるんだろ。記憶だって。――痛い記憶なら、自分から奪っちまえばいいだろ」
長い、沈黙があった。
遠くで、笛の音が途切れた。
「……忘れたら」
ガルドは、リボンを握りしめた。
「あいつが、本当にいなくなっちまう」
その声は、砦の大広間で聞いたどの声よりも、小さかった。
レオニスは、何も言えなかった。
トルカ村の墓の前で、自分が老人にかけた言葉を思い出していた。
――それを消しちまったら、じいさんの中から、アンナさんが本当にいなくなっちまう。
同じだ、と思った。
この男は、自分と同じことを知っている。
「なあ」
ガルドが、月を見上げたまま言った。
「お前の言う『みんな』に、俺は入ってるのか?」
「入ってる」
迷わず、答えた。
ガルドは、ゆっくりとこちらを向いた。
「なら、俺から奪うな」
静かな声だった。
「この里を。こいつらの笑い声を。俺が、やっと手に入れたもんを」
そして、ガルドはにやりと笑った。
狼が、牙を見せるように。
「――組もうぜ、レオニス」
初めて、名前で呼ばれた。
「お前の守る力と、俺の奪う力がありゃ、国ひとつ奪える。貴族どもから全部奪って、誰も我慢しなくていい国を作ろう。飢えるガキも、鎖に繋がれる奴もいねえ国をな」
「……鎖の村も、なくなるのか」
「国ごと奪っちまえば、あいつらから搾る必要もなくなる」
レオニスは、しばらく黙っていた。
眼下の灯を見た。月を見た。
それから、正直に笑った。
「……ちょっと、面白そうだな」
「だろう?」
「でも、やめとく」
ガルドの眉が、ぴくりと動いた。
「なんでだ」
「理由は、わかんねえ」
レオニスは、酒瓶をガルドに返した。
「……なんか、違う」
ガルドは、しばらくレオニスの顔を見つめていた。
それから、つまらなそうに鼻を鳴らし――けれどどこか楽しげに、酒瓶をあおった。
「まあいい。答えが見つかったら、また聞いてやる」
ガルドが砦へ戻っていったあとも、レオニスは、ひとり崖に座っていた。
なんか、違う。
それしか言えなかった自分が、情けなかった。
ガルドを止めれば、鎖の村は救われるかもしれない。けれど、この里の子供たちの笑い声は消える。字を覚えたばかりの子供たちも、片腕の料理番も、居場所を失う。
みんなの幸せのために、ガルドの幸せだけを奪う。
――それは、あいつが鎖の村にしていることと、何が違う?
答えは、出なかった。
いつの間にか、月が雲に呑まれていた。
冷たいものが、ぽつりと頬を打った。
雨だった。
◆
雨は、夜更けになって本降りになった。
学び舎の小さな教室で、ミレイアは、ランプの灯りを頼りに子供たちに文字を教えていた。
昼間、鎖の村を見てから、ずっと胸の奥がざわついていた。何かしていないと、落ち着かなかった。夜の手習いをせがむ子供たちの声が、今夜ばかりはありがたかった。
「では、今日の最後は名前です。自分の名前を、書いてみましょう」
子供たちが、石板に白墨を走らせる。ぐにゃぐにゃの線。左右が逆さまの文字。それでも、みんな誇らしげだった。
「お姉ちゃんの名前も書いて!」
「お手本!」
せがまれて、ミレイアは自分の石板に、白墨で丁寧に綴った。
――ミレイア・セレス。
「わあ、きれいな字!」
「セレスって、なあに?」
「家の名前です。父と母が、くれた――」
がしゃん、と。
入り口で、何かが割れる音がした。
振り向くと、ボルグが立っていた。
子供たちに差し入れるつもりだったのだろう。温めた山羊の乳の壺が、足もとで粉々に砕けている。白い乳が、雨に濡れた床板の上に広がっていく。
ボルグは、それに気づいてもいないようだった。
その目は、ミレイアの石板に――そこに書かれた名前に、釘づけになっていた。
「……ボルグさん?」
「……セレス」
かすれた声だった。
「嬢ちゃん。あんた、もしかして……街道沿いの、《麦穂亭》の……」
ミレイアの心臓が、止まった。
《麦穂亭》。
父と母が営んでいた、小さな宿屋の名前だった。朝ごとに父が焼くパンの匂い。母が玄関に飾っていた、麦の穂の束。九年間、誰にも口にしたことのない名前。
「……なぜ、それを」
ボルグは、答えなかった。
ただ大きな体を震わせて、その場に立ち尽くしていた。
迎えに来た母親たちに連れられて、子供たちが帰っていく。「お姉ちゃん、おやすみ」「また明日ね」――手を振る小さな影が、雨の中に消えていく。
教室には、二人だけが残された。
屋根を叩く雨の音だけが、やけに大きかった。
「……九年前の、秋だった」
ボルグが、口を開いた。
「俺は、黒狼団に拾われたばかりの新入りだった。その前は、貴族の戦に駆り出された兵隊で……逃げ出して、三日、何も食ってなかった」
ミレイアは、動けなかった。
「頭たちが街道で荷馬車を押さえてる間に、宿屋から金目のもんを持ち出す。それだけの仕事のはずだった。……頭の掟は、もうあった。抵抗しない者は、殺すな」
ボルグの残った左手が、空っぽの右袖を握りしめた。
「宿の親父さんは、武器なんか持ってなかった。ただ両手を広げて、俺の前に立ちはだかった。女房さんは、台所の床の上に、覆いかぶさるみたいにしゃがみこんでた」
床の上に。
ミレイアの呼吸が、浅くなっていく。
――母は。
母は、最後まで、あの床板の上にいたのだ。
「俺は、怖かった。腹が減ってて、怖くて、何が何だかわからなくなって……気づいたら、斧を振ってた」
雨が、窓を叩いた。
「二人とも、俺が殺した」
世界から、音が消えた。
「頭は、あとでそれを知った。掟を破った罰だと言って、俺の右腕を奪った。――二度と、斧を握れねえように、って」
ボルグは、空っぽの袖を見下ろした。
「それから九年、ずっとこの里で鍋を振ってきた。片腕でも握れる、杓子だけをな」
それから、声がいっそうかすれた。
「……あの夜。台所の床の下から、小さな息の音が聞こえた。子供の、息だった」
ミレイアの膝から、力が抜けそうになった。
床下の、狭くて暗い隙間。両手で塞いだ口。朝まで止められなかった、震え。
「俺は、聞こえなかったふりをした。……それが、あの夜、俺にできたたったひとつのことだった」
ボルグは、ゆっくりと、ミレイアの前に膝をついた。
剃り上げた頭を垂れ、太い首を、差し出すように前へ伸ばす。
「……ずっと、この日を待ってた」
穏やかな声だった。
料理を教えてくれたときと、少しも変わらない、穏やかな声だった。
「あんたの剣で、終わらせてくれ」
気づけば、ミレイアは剣を抜いていた。
九年間、磨き続けてきた剣。
この瞬間のために、研いできた剣。
切っ先が、ボルグの首筋に触れる。
あとは、振り下ろすだけだった。
それだけで、九年間が終わる。父の怒鳴り声も、母の悲鳴も、床下の暗闇も、すべてに決着がつく。
なのに。
剣先が、震えていた。
止めようとしても、止まらなかった。
焦げた鍋を覗きこんで、困ったように笑った顔が浮かぶ。うまいじゃねえか、と言ってくれた声が、耳の奥に残っている。
「どうして……」
声が、震えた。
「どうして、あなたなんですか……!」
ボルグは、答えなかった。
ただ目を閉じて、待っていた。
そのとき、教室の戸が、勢いよく開いた。
「ボルグおじちゃん!」
ずぶ濡れの子供たちが、飛びこんできた。
帰ったはずの子供たちだった。ボルグの様子がおかしいのを見て、雨の軒下から、ずっと中を覗いていたのかもしれない。五人、六人と駆けこんできて、ボルグとミレイアの間に、小さな体を割りこませた。
「ボルグおじちゃんを、いじめないで!」
「お姉ちゃん、やめて!」
「おじちゃん、悪いことしてないよ!」
小さな手が、ボルグの大きな背中にしがみつく。泣きながら、ミレイアを見上げてくる。
昼間、膝の上で眠っていた子が。字を教えてと、石板を抱えてきた子が。
剣先が、下がった。
斬れない。
この子たちの前で、この子たちが慕う人を、斬れない。
――でも。
許せない。
どうしても、許せない。
「……っ」
ミレイアは、剣を握ったまま、教室を飛び出した。
背中で、子供たちの泣き声と、自分を呼ぶボルグの声がした気がした。
振り返らなかった。
雨の中を、ただ走った。
冷たい雨が、顔を叩く。頬を伝うものが雨なのか、そうでないのか、自分でもわからなかった。
右手の剣だけが、重かった。
九年間で、いちばん重かった。




