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光の闇司祭① 黒狼の楽園  作者: parupuntist


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第二章 黒狼

 ――二日目:昼寝。朝寝坊。宿の朝食を三人前。


 ――三日目:昼寝。二回。


 革表紙の帳面に並んだ文字を、ミレイア・セレスは苦い顔で見下ろした。


 表紙に『罪状帳』と書いたのは、ほかならぬ彼女自身だ。闇司祭の怠惰と不品行を洗いざらい書き留め、いずれ教会に突きつけてやるつもりだった。


 それなのに、三日分の「罪状」は、このありさまだった。


 トルカ村を発って、四日目の朝。


 騎士団の馬は、村に預けてきた。あとから着くはずの討伐隊に返してもらえるよう、村長に頼んである。命令を振りきって飛び出してきた身で、騎士団の馬まで連れ回すわけにはいかない。それに、監視する相手が歩いて旅をするのに、自分だけ馬の背にいるのも筋が通らない――と思ったのだが、三日も歩いた今となっては、少しだけ後悔している。


 ミレイアは帳面を閉じ、焚き火の燃えさしの向こうに転がっている毛布の塊を、剣の鞘でつついた。


「起きてください」


「……あと半刻」


「昨日も一昨日も、そう言って一刻(いっとき)半寝ていました」


「……じゃあ、あと一刻半」


「増えています!」


 毛布を引き剥がすと、レオニスは丸まったまま、情けない声を上げた。


「寒い……鬼……」


「起こすと言いました。あなたも、それを承知で同行を許したはずです」


「許したっけ……」


「許しました」


 ミレイアは剥ぎ取った毛布をきっちり畳み、自分の荷物の上に置いた。返すつもりはない。


 レオニスはしばらく恨めしそうにこちらを見上げていたが、やがて観念したように、寝癖だらけの頭を掻きながら起き上がった。


 街道は山へ近づくほど細くなり、今ではもう、灰色の岩肌が両側から迫る山道に変わっている。灰狼山脈。この先の谷のどこかに、黒狼団の砦がある。


 そして、ここまでの道中で――


 ミレイアは、帳面には書けなかったものを、いくつも見てきた。


 二日目の朝。


 ぬかるみに車輪を取られた荷馬車の前で、でっぷりとした行商人の親父が頭を掻きむしっていた。


「金だ、金! 昼までに隣町の市(いち)に着かなきゃ、今月の儲けはぱあだ!」


 あさましい、とミレイアは思った。聖光教会の教えでは、金銭への執着は魂を曇らせるものだ。


 ところが、レオニスはあっけらかんと言ったのだ。


「いいじゃん、金。俺も好き」


 そして、ぬかるみに白い光の板を差しこんで梃子(てこ)にすると、荷馬車をひょいと道の上に戻してしまった。ついでに荷台の塩樽を覗きこんで、


「塩なら、隣町より峠向こうの市のほうが二割は高く売れるぜ。あっちは岩塩が採れねえから」


 親父は目を丸くし、それから満面の笑みでレオニスの手を握った。礼だと言って押しつけられた黒麦酒の小瓶を、レオニスはほくほく顔で荷物にしまいこんでいた。


 同じ日の夜。


 泊まった宿屋の裏で、宿の娘がひとりで泣いていた。会ったこともない男との縁談を、父親に勝手に決められたのだという。


「こんな家、出てってやる。どこか遠くで、ひとりで生きていくの」


 家族を捨てる、と娘は言った。止めるべきだ、とミレイアは思った。


 レオニスは、止めなかった。


「出てくなら、雪が降る前にしとけ。それと、行き先は誰かひとりにだけは言っとけよ。帰りたくなったとき、迎えに来てもらえるように」


 娘は泣きやんで、長いことレオニスの顔を見上げていた。


 三日目の昼。


 年貢を払えずに村を捨てていく一家の中で、ひとりの少年が、痩せた山羊にしがみついたまま動かなかった。


「ぼくは行かない。ここがいい。じいちゃんの畑があるんだ」


 今度こそ説得するのだろう、とミレイアは思った。ゆうべ、家出の手ほどきをしたばかりの男なのだから。


 ところがレオニスは、少年の家の崩れかけた井戸を、法術で直しはじめた。


「残りたいなら、残れるようにしてやる。――水さえ出りゃ、畑はなんとかなるだろ」


 出ていく娘には、出ていき方を。


 残る少年には、残り方を。


 この闇司祭は、誰の願いも否定しなかった。行けとも、残れとも、自分からは決して言わない。ただ、その人が選んだほうへ、当たり前のような顔で手を貸すだけだった。


 ――そんなこと、罪状帳のどこに書けばいいのだろう。


 そして、四日目の昼過ぎ。


 砦まであと一日という谷あいで、二人は焼け落ちた集落に行き当たった。


 焼かれてから、まだひと月と経っていないのだろう。黒く焦げた柱が墓標のように立ち並び、風が吹くたびに灰が舞いあがる。人の気配は、なかった。


 ――いや。


 一軒だけ、半分焼け残った家の戸口に、老人がひとり座っていた。


 しゃり、しゃり、と。


 乾いた音が、灰の中に響いている。


 老人は、砥石で包丁を研いでいた。


 がっしりとした体つきの老人だった。木樵(きこり)だったのだろう、節くれだった大きな手をしている。伸び放題の白い髭の奥で、落ちくぼんだ目が、手もとの刃だけを見つめていた。


「……じいさん。何してんの」


 レオニスが声をかけると、老人は手を止めずに答えた。


「見りゃわかるだろう。包丁を研いどる」


「なんのために?」


「黒狼の砦へ行く」


 しゃり、と刃が鳴った。


「先月、年貢が払えんでな。奴らが来て、村に火をつけた。倅(せがれ)が鍬(くわ)を持って、止めに入って――」


 老人の手が、止まった。


「抵抗した者は、殺してもいい決まりなんだそうだ」


 ミレイアは、息を呑んだ。


 抵抗しない者は殺すな。トルカ村で、あの下級闇司祭が得意げに口にした掟。その裏側が、今、目の前にあった。


「村の者は、みな逃げた。わしだけ残った。……この包丁で、ひとりでもいい。倅の仇(かたき)を討つ」


 老人は、また刃を研ぎはじめた。


 しゃり、しゃり。


 ミレイアは、自分の剣の柄(つか)を知らず握りしめていた。


 わかる、と思った。


 わかりすぎるほど、わかった。九年間、自分がただ剣だけを磨き続けてきたのも――


「止めねえよ」


 レオニスの声に、ミレイアは顔を上げた。


 止めないのか。この男は、これさえも止めないのか。


「でも、その前に飯食え」


 レオニスは、老人の隣にどっかりと腰を下ろした。


「腹減ってちゃ、決めることも決められねえ」


 半分焼け残った家の竈(かまど)に火を入れ、レオニスは荷物から干し肉と根菜を取り出した。峠の親父にもらった黒麦酒の小瓶も出てくる。


「……料理が、できるのですか」


「これだけな。師匠の直伝」


 玉ねぎを、真っ黒になるまで焦がす。黒麦酒を注ぎ、干し肉と根菜を放りこみ、最後にほんのひと匙(さじ)、蜂蜜を垂らす。


 灰の匂いしかしなかった集落に、甘く香ばしい湯気が立ちのぼった。


「まあ、師匠の味には、まだ全然届かねえんだけどな」


 何度作っても、どこか一歩足りないのだと、レオニスは鍋をかき回しながらぼやいた。


 木の椀(わん)によそったシチューを、レオニスは老人の前に置いた。


 老人は、しばらくそれを見つめていた。


 それから包丁を置き、震える手で匙を取った。


 ひと口。


 ふた口。


「……あったけえ」


 ぽつりと、老人は言った。


 三口目は、口もとまで運べなかった。匙を握りしめたまま、大きな肩が小刻みに震えはじめた。


「倅は……ヨハンは、飯を食うのが早くてな。わしが一杯食う間に、三杯食う。いつも、母親に叱られとった」


「へえ。俺みたいだな」


「木を削るのがうまかった。村の子供らに、木彫りの馬を作ってやって……鍬なんぞ、握ったこともなかったくせに……」


 老人は、泣いた。


 ひと月分の涙を、灰の上に落とすように。


 レオニスは、何も言わなかった。慰めも、励ましも口にしなかった。ただ、老人が息子の話をするたびに相槌を打ち、ときどき質問をして、空になった椀におかわりをよそった。


 ミレイアも、いつの間にか、老人の話に聞き入っていた。


 ヨハンが初めて彫った、脚の長さが揃わない不格好な木彫りの馬のこと。その馬が、焼け残った棚の上に、まだ置いてあること。


 日が傾くころ、老人は長い息をついた。


「わしは……」


 灰にまみれた手で、顔を拭う。


「本当は、誰かに聞いてほしかっただけなのかもしれんな。……あいつが、どんな奴だったのか」


 老人は、研ぎ澄ました包丁を手に取った。


 ミレイアは、思わず身構えた。


 けれど老人は、その刃で、レオニスが荷物から出した黒パンを、厚めに三つに切り分けただけだった。


「……砦へ行くかどうかは、明日、決める」


「おう。決めるのは、じいさんだ」


 レオニスは切り分けられたパンを受け取って、うまそうに齧った。


 その夜。


 焼け残った納屋の藁の上で、ミレイアは眠れずにいた。


「……なぜ、止めなかったのですか」


 暗がりに向かって問うと、少し離れた藁の山から、眠そうな声が返ってきた。


「んー?」


「あの方が本当に砦へ行けば、殺されます。わかっていたはずです」


「わかってたよ」


「では、なぜ」


「止めたら、じいさんの『欲しい』を、俺が勝手に取り上げることになるだろ」


 ごそり、とレオニスが寝返りを打つ気配がした。


「否定はしねえ。……けど、放っとくつもりもねえよ」


「……」


「誰かが何かを欲しがってるなら、俺は、その願いのために何ができるかを考える。今日は、それが飯だった。――それだけ」


 それきり、寝息が聞こえはじめた。


 ミレイアは暗闇の中で、膝の上の剣に触れた。


 九年間、磨き続けてきた剣。


 ――仇を、討ちたい。


 あの老人と同じ願いを、自分もまた、胸の底に抱えている。


 もしそれを口にしたら、この男は、何を考えるのだろう。


 ミレイアは燭台(しょくだい)を引き寄せ、罪状帳を開いた。


 ――四日目:昼寝。


 そこまで書いて、ペン先が止まった。


 老人の話を、最後まで聞いていた。


 そう書きかけて、やめた。


 それはどう考えても、罪ではなかったから。


◆


 五日目の昼。


 谷をひとつ越えたところで、道が尽きた。


 正確には、道を塞ぐように、巨大な石の砦がそびえ立っていた。


 切り立った崖と崖の間に、蓋をするように築かれた城壁。かつて国境の守りに使われていたという古い砦の上で、黒い狼を染め抜いた旗が、山風にばたばたと翻っている。


「でっけえなあ」


 レオニスは、口笛を吹いた。


「……黒狼団の、根城」


 隣で、ミレイアが呟いた。その横顔は、トルカ村の夜と同じように白かった。剣の柄にかけた手が、かすかに震えている。


 レオニスは、何も言わなかった。


 城門の前には、見覚えのあるひょろりとした若い男が立っていた。


「お、お前ら……本当に来やがった……」


 焦げた袖を新しい布で継ぎあてたドルフが、引きつった顔でこちらを見ている。


「よう、ドルフ。腕の調子はどうだ」


「う、うるせえ!」


 ドルフは真っ赤になって怒鳴り、それから、ぼそぼそと付け加えた。


「……動く。ちゃんと、動く。……べ、別に礼を言ってるわけじゃねえからな!」


「そっか。よかった」


 レオニスが笑うと、ドルフはますます赤くなって、そっぽを向いた。


 城壁の上から、弓を構えた見張りたちが身を乗り出した。


「止まれ! 何者だ!」


 レオニスは、城門の前で足を止めた。


 黒い外套の襟もとで、ランタンの聖印が揺れる。肩には、刃引(はび)きの鉄剣。


 大きく息を吸って――


「闇司祭、レオニス・アルヴェイン!」


 谷じゅうに響く声で、名乗った。


「黒狼の頭に、会いに来た!」


 一拍の、静寂。


 それから、城壁の上がざわめいた。


「おい、あれが……」


「ドルフの言ってた、白く光る闇司祭……」


 重い軋みを上げて、城門がゆっくりと開きはじめた。


 レオニスは、ミレイアより半歩だけ前に出て、門をくぐった。


 砦の中は、思っていたよりずっと賑やかだった。


 石畳の中庭には、奪ってきたのだろう荷馬車が何台も並び、酒樽や絹の反物や銀の食器が、無造作に積み上げられている。焚き火の上では豚が丸ごと炙られ、どこからか陽気な笛の音まで聞こえてきた。


 山賊の根城というより、祭りの広場だった。


 その真ん中に、人だかりができていた。


 輪の中心にいたのは、一頭の白馬だった。


 雪のように白い毛並みに、銀の飾りをつけた鞍(くら)。どこぞの貴族の馬車から奪ってきたのだろう、見事な駿馬(しゅんめ)だ。その手綱の前で、まだ十六、七ほどの少年団員が、目を輝かせて馬を見上げていた。


「おい、坊主」


 低い声が、中庭に響いた。


 人だかりが、さっと割れた。


 大広間へ続く石段の上に、ひとりの大男が立っていた。


 無造作に束ねた黒髪。無精髭の浮いた顎。肩には、黒い狼の毛皮。そして、鈍く光る鋼色の目。


 見た瞬間に、レオニスにはわかった。


 ――こいつが、黒狼だ。


「そいつが、欲しいのか」


「へ? あ、い、いや、俺なんかが……」


「欲しいのか、って訊いてんだ」


 少年は、ごくりと唾を呑んだ。それから真っ赤な顔で、こくりとうなずいた。


「……ほ、欲しいです」


「じゃあ、お前のだ」


 男は手綱を掴むと、ぽんと少年に放った。


 一瞬の静寂。


 それから、中庭が歓声に揺れた。


「頭ぁ!」


「さすが頭だ!」


 少年は手綱を抱きしめ、今にも泣き出しそうな顔で、何度も頭を下げている。周りの男たちが、その背中をばんばんと叩いて笑っている。


 レオニスは、その光景を黙って見ていた。


 男たちの目にあるのは、恐怖ではなかった。


 心の底からの、敬愛だった。


 鋼色の目が、ゆっくりとこちらを向いた。


「よう」


 男は、にやりと笑った。


「来たな、欲張り」


 大広間では、すでに宴が始まっていた。


 壁には奪ってきた綴れ織り。長卓には山盛りの肉と果物。杯が打ち鳴らされ、笑い声と歌声が、石の天井にわんわんと響いている。


 レオニスとミレイアは、上座の長卓に通された。


 熊の毛皮を敷いた大椅子に、ガルド・バルガスがどっかりと腰を下ろす。その傍らには、腰に黒い鎖を幾重にも巻いた、鋭い目つきの女――イルザが控えていた。


「飲め。蔵でいちばん上等なやつだ」


 ガルドが手ずから、銀の杯に葡萄酒を注いだ。


 ミレイアは、杯に手も触れなかった。背筋を伸ばし、膝の上で拳を握りしめたまま、じっとガルドを睨みつけている。


 レオニスは、遠慮なくひと口飲んだ。


「……うっま」


「だろう?」


 ガルドは、腹の底から愉快そうに笑った。


「ドルフから聞いたぜ。お前、世界中の全員を幸せにしたいんだってな」


「ああ」


「全員だぞ? 全員」


「全員」


 ガルドは杯を置き、まじまじとレオニスを眺めた。


 それから、天井を仰いで大笑いした。


「欲張りだな、お前!」


「そうだよ」


 レオニスは、あっさりとうなずいた。


「俺は、欲張りなんだ」


 ガルドの笑い声が、ぴたりと止まった。


 鋼色の目が、面白そうに細められる。


「……気に入った」


「で、本題なんだけどさ」


 レオニスは、杯を置いた。


「年貢を取ってる村から、手を引いてくれねえか。トルカ村も、その先の村も、全部」


「断る」


 即答だった。


「なんでだ?」


「欲しいからだ」


 ガルドは、骨つき肉にかぶりついた。


「麦も、金も、酒も。俺は、欲しいもんは全部欲しい。欲しいから、奪う。闇神教の教えどおりだろうが」


「奪われた側が、泣いてる」


「だろうな」


「去年の冬、薬を積んだ荷馬車を襲っただろ。トルカ村の娘がひとり、その薬が届かなくて死んだ」


 一瞬だけ、ガルドの顎が止まった。


 だが、それだけだった。


「覚えちゃいねえ。荷馬車なんざ、いくらでも襲ってる」


「……奪われた側にだって、『欲しい』はあったはずだろ。薬が欲しい、娘に生きててほしい、って」


「なら、奪われねえくらい強くなりゃいい」


 ガルドは、こともなげに言った。


「俺は、そうした」


 その一言だけが、妙に低く、重く響いた。


 ガルドは肉を飲みこみ、脂のついた指を舐めた。


「なあ、欲張り。こいつらを見ろ」


 顎で、広間をしゃくる。


 歌い、笑い、杯をぶつけ合う男たち。


「あそこの髭面(ひげづら)は、年貢を払えずに畑を取り上げられた百姓だ。あっちの片目は、貴族の戦に駆り出されて、使い捨てにされかけた脱走兵。あの小せえのは、孤児院から逃げてきた。――どいつもこいつも、国に我慢しろと言われ続けて、我慢した挙げ句に捨てられた連中だ」


 孤児院、という言葉が、小さな棘のように胸に引っかかった。


 ガルドの声は、静かだった。


「国は、こいつらに何をくれた? 何もくれやしねえ。我慢しろ、我慢しろ、我慢すりゃいつか報われる――そう言って、搾れるだけ搾っただけだ」


「……」


「俺は言わねえ。俺は、誰にも我慢を強(し)いちゃいねえ。欲しい奴には、欲しいもんをくれてやる。さっきの馬みてえにな。――それを望まねえ奴は、俺の邪魔さえしなきゃいい」


 ガルドが、身を乗り出した。


 鋼色の目が、真っ直ぐにレオニスを射抜く。


「お前は、全員を幸せにしたいんだろ?」


「……ああ」


「なら――俺の幸せも、認めるんだろ?」


 レオニスは、口を開きかけた。


 そして、何も言えなかった。


 この男の幸せは、奪うことの上に建っている。認めれば、トルカ村の涙を、墓の前の老人を、灰の中で包丁を研いでいた老人を、認めることになる。認めなければ――「全員」の中から、この男だけを弾き出すことになる。


 どちらを選んでも、自分の欲は、嘘になる。


「答えられねえか」


 ガルドは鼻を鳴らした。つまらなそうに――いや、なぜか、ほんの少しだけ寂しそうに。


「まあいい。安心しな。俺たちは、国の兵隊よりよっぽど行儀がいいぜ。抵抗しねえ奴は殺さねえ。子供もだ。それが、俺の決めた掟だ」


 がたん、と。


 椅子が倒れる音がした。


 ミレイアが、立ち上がっていた。


「……嘘です」


 低く、掠(かす)れた声だった。


 銀の髪の下で、蒼白な顔が震えている。


「嘘です。あなたたちは、そんな……っ」


 言葉の続きは、出てこなかった。


 代わりに、剣が鞘走(さやばし)った。


「ミレイア!」


 レオニスが叫んだときには、もう、彼女は長卓を蹴って跳んでいた。一直線に、ガルドの喉もとへ。迷いのない、殺すための一閃――


「寄越せ」


 ガルドが、無造作に手を差し出した。


 それだけだった。


 次の瞬間、ミレイアの剣は、ガルドの手の中にあった。


 剣を失った手が、何もない宙を掻く。体勢を崩した彼女の体に、イルザの黒い鎖が蛇のように絡みつき、床へと引き倒した。


「っ……!」


「威勢のいい嬢ちゃんだ」


 ガルドは奪った剣をしげしげと眺め、刃を指でなぞった。


「いい剣だ。よく手入れされてる。――何年、研いできた?」


 ミレイアは答えなかった。鎖に押さえつけられたまま、血が滲(にじ)むほど唇を噛んで、ガルドを睨み上げている。


 広間の男たちが、どっと沸いた。


「いいぞ、嬢ちゃん!」


「頭に斬りかかるたぁ、いい度胸だ!」


 レオニスは、ゆっくりと立ち上がった。


「悪い、頭。うちの連れが」


「気にすんな。いい余興だ」


「そっか。――じゃあ、ついでにもうひとつ、余興に付き合ってくれねえか」


 ガルドの眉が、ぴくりと上がった。


「賭けをしよう。俺が勝ったら、年貢を取ってる村から全部手を引く。それと、そいつを放して、剣も返してもらう」


「俺が勝ったら?」


「なんでも持ってけ」


 ガルドは、にやりと笑った。


 牙を剥く、狼のように。


「いいねえ。――じゃあ俺が勝ったら、お前の一番大事なもんを貰う」


 レオニスは、肩の鉄剣を下ろした。


「……乗った」


◆


 長卓が壁際へ押しやられ、大広間の真ん中に、男たちの輪ができた。


 口笛と野次が飛び交い、賭け金代わりの銀貨があちこちで宙を舞う。鎖を解かれたミレイアは、イルザに腕を掴まれたまま、輪の端に立たされていた。


 ガルドが、狼の毛皮を脱ぎ捨てた。


 分厚い胸板。丸太のような腕。その左の手首に、色褪せた小さなリボンが巻かれているのが見えた。


「我、欲す」


 低い声が、広間の空気を震わせた。


「――全部だ」


 ガルドの足もとから、黒い影が立ちのぼった。


 影は床を這い、壁を這い、やがて天井に届くほどの、巨大な狼の形を取った。欲望そのものが牙を剥いたような、飢えた獣の影だった。


 レオニスは、鉄剣を構えた。


「我、欲す」


 静かに、告げる。


「――今夜、ここで、誰も死なないことを」


 白い光が、広間いっぱいに広がった。


 レオニスを、ミレイアを、輪を作る男たちを、ひとり残らず包みこむ光の膜。流れ矢一本、飛び散る破片ひとつ、誰にも届かせないための壁。


 ガルドが、目を丸くした。


「おいおい……俺の手下まで守ってやがるのか」


「全員って言ったろ」


「――はっ」


 ガルドは、心底愉快そうに笑った。


「本物の馬鹿だな、お前。……だが」


 大きな手が、白い光へと伸びた。


「いい壁だ。寄越せ」


 ぞわり、と。


 広間を満たしていた白い光が、一斉に波打った。


 光が、剥がれていく。布でも引き剥がすように、レオニスの障壁が、ガルドの手のひらへと吸い寄せられていく。


 そして白い光は、ガルドの体に巻きついた。


 肩に、胸に、腕に。黒い狼の影の上に、白く輝く鎧が形づくられていく。


「なっ……」


「貰っとくぜ」


 レオニスの光をまとった黒狼が、床を蹴った。


 速い。


 大男とは思えない踏みこみ。ミレイアから奪った剣が、横薙ぎに襲いかかってくる。


 レオニスは、鉄剣で受けた。


 がぎん、と火花が散る。腕が痺れる。重い――重すぎる。受け流しきれず、体ごと後ろへ弾き飛ばされた。


「ほら、どうした!」


 二撃目、三撃目。レオニスは身を捻(ひね)り、床を転がり、跳ね起きざまに鉄剣の腹でガルドの脇腹を打った。


 手応えは、なかった。


 打ちこんだ先にあったのは、白く輝く鎧――自分の障壁だった。


「硬えだろ?」


 ガルドが笑う。


「自分の壁ってのはよ」


 舌打ちする暇もなかった。振り下ろされる剣を受け、弾かれ、また受ける。


 強い。


 力も、速さも、法力の桁も違う。何よりこの男は、奪ったものを、奪った瞬間から自分の手足のように使いこなしていた。


 そのとき、視界の端で、銀色が閃いた。


 ミレイアだった。


 イルザの手を振りほどき、長卓の上から銀の燭台を掴んで、ガルドの背中へと飛びかかっていく。


「ミレイア、よせ!」


 ガルドが、振り返りざまに剣を返した。


 刃ではなく、柄頭(つかがしら)で。それでも、あの膂力(りょりょく)で叩きこまれれば、細い骨など簡単に砕ける――


 考えるより先に、体が動いていた。


 レオニスは、ミレイアとガルドの間に飛びこんだ。


 障壁は、もうない。


 ごきり、と。


 脇腹で、嫌な音がした。


 息が止まった。視界が白く弾け、レオニスは石の床に膝をついた。口の中に、鉄の味が広がっていく。


「レオニス……!」


 背後で、ミレイアの声がした。


 ガルドが、見下ろしていた。


「……庇(かば)いやがったか」


 鋼色の目から、笑みが消えていた。


「約束だ、欲張り。お前の一番大事なもんを、貰う」


 大きな手が、レオニスの胸へと伸びた。


 指先が外套に触れ――そのまま、沈んだ。


 血は出なかった。痛みもなかった。ただ冷たい手が、水の中に差し入れられるように、胸の奥へ、奥へと潜(もぐ)りこんでくる。


 そして、掴んだ。


 いちばん奥にある、いちばん温かいものを。


 ――やめろ。


 声にならなかった。


 引きずり出されていく。雪の路地裏で差し出されたシチューの湯気。師匠の、夕暮れ色の火。トルカ村の子供たちの笑い声。墓の前で泣いた老人の背中。灰の中で黒パンを切り分けた、包丁の音――


 ぜんぶ、持っていかれる。


 自分が、空っぽになっていく。


 その感覚の、底の底で――


 ふいに、手が止まった。


「…………っ」


 ガルドの顔が、歪んでいた。


 レオニスの胸から引き出された手の中で、小さな白い光が、心臓のように脈打っている。


 ガルドの腕が、震えていた。


 丸太のような腕が、その小さな光の重みに耐えかねるように、がくがくと震えている。額に脂汗が噴き出し、太い膝が、ぐらりと揺れた。


 白い光が、指の間からこぼれ落ちた。


 光は床に落ちる前にふわりと浮かび、レオニスの胸へと還っていった。


 どさり、と。


 ガルドが、片膝をついた。


 広間が、静まり返った。


 誰ひとり、声を出せなかった。黒狼が膝をつくところなど、きっと誰も見たことがなかったのだ。


 イルザの手の中で、黒い鎖が、ちりりと小さく鳴った。


「……重てえ」


 ガルドは、自分の手のひらを見つめていた。


「なんだこりゃ。……お前、こんなもん背負って、よく笑ってられるな」


 かすれた声だった。


 その手が、ゆっくりと握りしめられる。握った拳を、ガルドは無意識のように、左の手首に――色褪せたリボンに、押し当てていた。


 白い鎧が、音もなく崩れて消えた。


 ガルドは、立ち上がった。もう、いつもの顔に戻っていた。


 奪った剣を手の中でくるりと回し――ミレイアの足もとへ放る。剣は石の床に突き立ち、澄んだ音を立てて震えた。


「返すぜ、嬢ちゃん」


 それから、床に崩れたレオニスを見下ろした。


「賭けは、俺の勝ちだ。……だが、貰いそこねた。お前の一番大事なもんは、俺には重すぎる」


 鋼色の目が、細められる。


「答えが見つかったら、また来い」


 踵(きびす)を返しかけて、ガルドは、ふと足を止めた。


「……いや。その前に、俺の縄張りを見ていけ」


 肩越しに、振り返る。


「見たうえで、同じ台詞(せりふ)が吐けるならな」


 イルザが、呆れたように溜め息をついた。


「頭。また、悪い癖」


「うるせえ。――おい、こいつらを客間に運べ。医者を呼んで、上等の酒もつけとけ」


 ざわめきが、戻ってくる。


 遠のいていく意識の中で、最後に見えたのは、自分を抱き起こそうとするミレイアの顔だった。


 泣きそうな顔だった。


「……泣くなよ」


「泣いて、いません……!」


 震える声で言い返されたところで、レオニスの意識は、ぷつりと途切れた。


◆


 目を覚ますと、石の天井が見えた。


 窓の外は、とっぷりと暮れている。蝋燭の灯りの中、寝台の脇の卓に、葡萄酒の瓶と杯が置かれていた。


 本当に、上等の酒をつけてくれたらしい。


「……律儀な山賊だな」


 起き上がろうとして、脇腹に激痛が走った。胸から腹まで、包帯がぐるぐると巻かれている。


「動かないでください。肋骨が二本、折れています」


 窓辺から、声がした。


 ミレイアだった。


 開け放った窓の縁に腰かけ、膝の上に剣を横たえている。月の光が、肩で切りそろえた銀の髪を、白く縁取っていた。


「自分で治せるって。……我、欲す――」


「駄目です。その体で法術を使えば、今度こそ倒れます。医者がそう言っていました」


「山賊の医者が?」


「……腕のいい医者でした」


 悔しそうに言うミレイアに、レオニスは小さく笑った。笑うと、また脇腹が痛んだ。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 窓の外で、黒い狼の旗が夜風にはためく音がする。遠くの広間からは、まだ宴の歌声が漏れ聞こえていた。


 ――なら、俺の幸せも、認めるんだろ?


 ガルドの声が、耳の奥で繰り返される。


 答えられなかった。


 今も、答えは見つからない。


「……負けたなあ」


 天井を見上げたまま、レオニスは呟いた。


「悪い。賭け、取れなかった。村のこと」


「……」


 ミレイアは、答えなかった。


 卓の上に、革表紙の帳面が開いたまま置かれていた。


 ――五日目:


 そこで、文字は止まっていた。


 その先には、何も書かれていなかった。


「……あなたは」


 やがて、ミレイアが口を開いた。


「訊かないのですね」


「なにを?」


「私が、なぜあの男に斬りかかったのか」


 レオニスは、少し考えてから答えた。


「話すかどうかは、お前が決めることだろ」


 ミレイアの肩が、小さく揺れた。


 膝の上の剣を、白い指がきつく握りしめる。


 長い、長い沈黙のあと。


「……九年前の、夜でした」


 月明かりの中で、ミレイアは、震える声で言った。


「あの男の団に……私の両親は、殺されました」


 窓の外で、黒い狼の旗が、夜風に大きくはためいた。

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