第二章 黒狼
――二日目:昼寝。朝寝坊。宿の朝食を三人前。
――三日目:昼寝。二回。
革表紙の帳面に並んだ文字を、ミレイア・セレスは苦い顔で見下ろした。
表紙に『罪状帳』と書いたのは、ほかならぬ彼女自身だ。闇司祭の怠惰と不品行を洗いざらい書き留め、いずれ教会に突きつけてやるつもりだった。
それなのに、三日分の「罪状」は、このありさまだった。
トルカ村を発って、四日目の朝。
騎士団の馬は、村に預けてきた。あとから着くはずの討伐隊に返してもらえるよう、村長に頼んである。命令を振りきって飛び出してきた身で、騎士団の馬まで連れ回すわけにはいかない。それに、監視する相手が歩いて旅をするのに、自分だけ馬の背にいるのも筋が通らない――と思ったのだが、三日も歩いた今となっては、少しだけ後悔している。
ミレイアは帳面を閉じ、焚き火の燃えさしの向こうに転がっている毛布の塊を、剣の鞘でつついた。
「起きてください」
「……あと半刻」
「昨日も一昨日も、そう言って一刻半寝ていました」
「……じゃあ、あと一刻半」
「増えています!」
毛布を引き剥がすと、レオニスは丸まったまま、情けない声を上げた。
「寒い……鬼……」
「起こすと言いました。あなたも、それを承知で同行を許したはずです」
「許したっけ……」
「許しました」
ミレイアは剥ぎ取った毛布をきっちり畳み、自分の荷物の上に置いた。返すつもりはない。
レオニスはしばらく恨めしそうにこちらを見上げていたが、やがて観念したように、寝癖だらけの頭を掻きながら起き上がった。
街道は山へ近づくほど細くなり、今ではもう、灰色の岩肌が両側から迫る山道に変わっている。灰狼山脈。この先の谷のどこかに、黒狼団の砦がある。
そして、ここまでの道中で――
ミレイアは、帳面には書けなかったものを、いくつも見てきた。
二日目の朝。
ぬかるみに車輪を取られた荷馬車の前で、でっぷりとした行商人の親父が頭を掻きむしっていた。
「金だ、金! 昼までに隣町の市に着かなきゃ、今月の儲けはぱあだ!」
あさましい、とミレイアは思った。聖光教会の教えでは、金銭への執着は魂を曇らせるものだ。
ところが、レオニスはあっけらかんと言ったのだ。
「いいじゃん、金。俺も好き」
そして、ぬかるみに白い光の板を差しこんで梃子にすると、荷馬車をひょいと道の上に戻してしまった。ついでに荷台の塩樽を覗きこんで、
「塩なら、隣町より峠向こうの市のほうが二割は高く売れるぜ。あっちは岩塩が採れねえから」
親父は目を丸くし、それから満面の笑みでレオニスの手を握った。礼だと言って押しつけられた黒麦酒の小瓶を、レオニスはほくほく顔で荷物にしまいこんでいた。
同じ日の夜。
泊まった宿屋の裏で、宿の娘がひとりで泣いていた。会ったこともない男との縁談を、父親に勝手に決められたのだという。
「こんな家、出てってやる。どこか遠くで、ひとりで生きていくの」
家族を捨てる、と娘は言った。止めるべきだ、とミレイアは思った。
レオニスは、止めなかった。
「出てくなら、雪が降る前にしとけ。それと、行き先は誰かひとりにだけは言っとけよ。帰りたくなったとき、迎えに来てもらえるように」
娘は泣きやんで、長いことレオニスの顔を見上げていた。
三日目の昼。
年貢を払えずに村を捨てていく一家の中で、ひとりの少年が、痩せた山羊にしがみついたまま動かなかった。
「ぼくは行かない。ここがいい。じいちゃんの畑があるんだ」
今度こそ説得するのだろう、とミレイアは思った。ゆうべ、家出の手ほどきをしたばかりの男なのだから。
ところがレオニスは、少年の家の崩れかけた井戸を、法術で直しはじめた。
「残りたいなら、残れるようにしてやる。――水さえ出りゃ、畑はなんとかなるだろ」
出ていく娘には、出ていき方を。
残る少年には、残り方を。
この闇司祭は、誰の願いも否定しなかった。行けとも、残れとも、自分からは決して言わない。ただ、その人が選んだほうへ、当たり前のような顔で手を貸すだけだった。
――そんなこと、罪状帳のどこに書けばいいのだろう。
そして、四日目の昼過ぎ。
砦まであと一日という谷あいで、二人は焼け落ちた集落に行き当たった。
焼かれてから、まだひと月と経っていないのだろう。黒く焦げた柱が墓標のように立ち並び、風が吹くたびに灰が舞いあがる。人の気配は、なかった。
――いや。
一軒だけ、半分焼け残った家の戸口に、老人がひとり座っていた。
しゃり、しゃり、と。
乾いた音が、灰の中に響いている。
老人は、砥石で包丁を研いでいた。
がっしりとした体つきの老人だった。木樵だったのだろう、節くれだった大きな手をしている。伸び放題の白い髭の奥で、落ちくぼんだ目が、手もとの刃だけを見つめていた。
「……じいさん。何してんの」
レオニスが声をかけると、老人は手を止めずに答えた。
「見りゃわかるだろう。包丁を研いどる」
「なんのために?」
「黒狼の砦へ行く」
しゃり、と刃が鳴った。
「先月、年貢が払えんでな。奴らが来て、村に火をつけた。倅が鍬を持って、止めに入って――」
老人の手が、止まった。
「抵抗した者は、殺してもいい決まりなんだそうだ」
ミレイアは、息を呑んだ。
抵抗しない者は殺すな。トルカ村で、あの下級闇司祭が得意げに口にした掟。その裏側が、今、目の前にあった。
「村の者は、みな逃げた。わしだけ残った。……この包丁で、ひとりでもいい。倅の仇を討つ」
老人は、また刃を研ぎはじめた。
しゃり、しゃり。
ミレイアは、自分の剣の柄を知らず握りしめていた。
わかる、と思った。
わかりすぎるほど、わかった。九年間、自分がただ剣だけを磨き続けてきたのも――
「止めねえよ」
レオニスの声に、ミレイアは顔を上げた。
止めないのか。この男は、これさえも止めないのか。
「でも、その前に飯食え」
レオニスは、老人の隣にどっかりと腰を下ろした。
「腹減ってちゃ、決めることも決められねえ」
半分焼け残った家の竈に火を入れ、レオニスは荷物から干し肉と根菜を取り出した。峠の親父にもらった黒麦酒の小瓶も出てくる。
「……料理が、できるのですか」
「これだけな。師匠の直伝」
玉ねぎを、真っ黒になるまで焦がす。黒麦酒を注ぎ、干し肉と根菜を放りこみ、最後にほんのひと匙、蜂蜜を垂らす。
灰の匂いしかしなかった集落に、甘く香ばしい湯気が立ちのぼった。
「まあ、師匠の味には、まだ全然届かねえんだけどな」
何度作っても、どこか一歩足りないのだと、レオニスは鍋をかき回しながらぼやいた。
木の椀によそったシチューを、レオニスは老人の前に置いた。
老人は、しばらくそれを見つめていた。
それから包丁を置き、震える手で匙を取った。
ひと口。
ふた口。
「……あったけえ」
ぽつりと、老人は言った。
三口目は、口もとまで運べなかった。匙を握りしめたまま、大きな肩が小刻みに震えはじめた。
「倅は……ヨハンは、飯を食うのが早くてな。わしが一杯食う間に、三杯食う。いつも、母親に叱られとった」
「へえ。俺みたいだな」
「木を削るのがうまかった。村の子供らに、木彫りの馬を作ってやって……鍬なんぞ、握ったこともなかったくせに……」
老人は、泣いた。
ひと月分の涙を、灰の上に落とすように。
レオニスは、何も言わなかった。慰めも、励ましも口にしなかった。ただ、老人が息子の話をするたびに相槌を打ち、ときどき質問をして、空になった椀におかわりをよそった。
ミレイアも、いつの間にか、老人の話に聞き入っていた。
ヨハンが初めて彫った、脚の長さが揃わない不格好な木彫りの馬のこと。その馬が、焼け残った棚の上に、まだ置いてあること。
日が傾くころ、老人は長い息をついた。
「わしは……」
灰にまみれた手で、顔を拭う。
「本当は、誰かに聞いてほしかっただけなのかもしれんな。……あいつが、どんな奴だったのか」
老人は、研ぎ澄ました包丁を手に取った。
ミレイアは、思わず身構えた。
けれど老人は、その刃で、レオニスが荷物から出した黒パンを、厚めに三つに切り分けただけだった。
「……砦へ行くかどうかは、明日、決める」
「おう。決めるのは、じいさんだ」
レオニスは切り分けられたパンを受け取って、うまそうに齧った。
その夜。
焼け残った納屋の藁の上で、ミレイアは眠れずにいた。
「……なぜ、止めなかったのですか」
暗がりに向かって問うと、少し離れた藁の山から、眠そうな声が返ってきた。
「んー?」
「あの方が本当に砦へ行けば、殺されます。わかっていたはずです」
「わかってたよ」
「では、なぜ」
「止めたら、じいさんの『欲しい』を、俺が勝手に取り上げることになるだろ」
ごそり、とレオニスが寝返りを打つ気配がした。
「否定はしねえ。……けど、放っとくつもりもねえよ」
「……」
「誰かが何かを欲しがってるなら、俺は、その願いのために何ができるかを考える。今日は、それが飯だった。――それだけ」
それきり、寝息が聞こえはじめた。
ミレイアは暗闇の中で、膝の上の剣に触れた。
九年間、磨き続けてきた剣。
――仇を、討ちたい。
あの老人と同じ願いを、自分もまた、胸の底に抱えている。
もしそれを口にしたら、この男は、何を考えるのだろう。
ミレイアは燭台を引き寄せ、罪状帳を開いた。
――四日目:昼寝。
そこまで書いて、ペン先が止まった。
老人の話を、最後まで聞いていた。
そう書きかけて、やめた。
それはどう考えても、罪ではなかったから。
◆
五日目の昼。
谷をひとつ越えたところで、道が尽きた。
正確には、道を塞ぐように、巨大な石の砦がそびえ立っていた。
切り立った崖と崖の間に、蓋をするように築かれた城壁。かつて国境の守りに使われていたという古い砦の上で、黒い狼を染め抜いた旗が、山風にばたばたと翻っている。
「でっけえなあ」
レオニスは、口笛を吹いた。
「……黒狼団の、根城」
隣で、ミレイアが呟いた。その横顔は、トルカ村の夜と同じように白かった。剣の柄にかけた手が、かすかに震えている。
レオニスは、何も言わなかった。
城門の前には、見覚えのあるひょろりとした若い男が立っていた。
「お、お前ら……本当に来やがった……」
焦げた袖を新しい布で継ぎあてたドルフが、引きつった顔でこちらを見ている。
「よう、ドルフ。腕の調子はどうだ」
「う、うるせえ!」
ドルフは真っ赤になって怒鳴り、それから、ぼそぼそと付け加えた。
「……動く。ちゃんと、動く。……べ、別に礼を言ってるわけじゃねえからな!」
「そっか。よかった」
レオニスが笑うと、ドルフはますます赤くなって、そっぽを向いた。
城壁の上から、弓を構えた見張りたちが身を乗り出した。
「止まれ! 何者だ!」
レオニスは、城門の前で足を止めた。
黒い外套の襟もとで、ランタンの聖印が揺れる。肩には、刃引きの鉄剣。
大きく息を吸って――
「闇司祭、レオニス・アルヴェイン!」
谷じゅうに響く声で、名乗った。
「黒狼の頭に、会いに来た!」
一拍の、静寂。
それから、城壁の上がざわめいた。
「おい、あれが……」
「ドルフの言ってた、白く光る闇司祭……」
重い軋みを上げて、城門がゆっくりと開きはじめた。
レオニスは、ミレイアより半歩だけ前に出て、門をくぐった。
砦の中は、思っていたよりずっと賑やかだった。
石畳の中庭には、奪ってきたのだろう荷馬車が何台も並び、酒樽や絹の反物や銀の食器が、無造作に積み上げられている。焚き火の上では豚が丸ごと炙られ、どこからか陽気な笛の音まで聞こえてきた。
山賊の根城というより、祭りの広場だった。
その真ん中に、人だかりができていた。
輪の中心にいたのは、一頭の白馬だった。
雪のように白い毛並みに、銀の飾りをつけた鞍。どこぞの貴族の馬車から奪ってきたのだろう、見事な駿馬だ。その手綱の前で、まだ十六、七ほどの少年団員が、目を輝かせて馬を見上げていた。
「おい、坊主」
低い声が、中庭に響いた。
人だかりが、さっと割れた。
大広間へ続く石段の上に、ひとりの大男が立っていた。
無造作に束ねた黒髪。無精髭の浮いた顎。肩には、黒い狼の毛皮。そして、鈍く光る鋼色の目。
見た瞬間に、レオニスにはわかった。
――こいつが、黒狼だ。
「そいつが、欲しいのか」
「へ? あ、い、いや、俺なんかが……」
「欲しいのか、って訊いてんだ」
少年は、ごくりと唾を呑んだ。それから真っ赤な顔で、こくりとうなずいた。
「……ほ、欲しいです」
「じゃあ、お前のだ」
男は手綱を掴むと、ぽんと少年に放った。
一瞬の静寂。
それから、中庭が歓声に揺れた。
「頭ぁ!」
「さすが頭だ!」
少年は手綱を抱きしめ、今にも泣き出しそうな顔で、何度も頭を下げている。周りの男たちが、その背中をばんばんと叩いて笑っている。
レオニスは、その光景を黙って見ていた。
男たちの目にあるのは、恐怖ではなかった。
心の底からの、敬愛だった。
鋼色の目が、ゆっくりとこちらを向いた。
「よう」
男は、にやりと笑った。
「来たな、欲張り」
大広間では、すでに宴が始まっていた。
壁には奪ってきた綴れ織り。長卓には山盛りの肉と果物。杯が打ち鳴らされ、笑い声と歌声が、石の天井にわんわんと響いている。
レオニスとミレイアは、上座の長卓に通された。
熊の毛皮を敷いた大椅子に、ガルド・バルガスがどっかりと腰を下ろす。その傍らには、腰に黒い鎖を幾重にも巻いた、鋭い目つきの女――イルザが控えていた。
「飲め。蔵でいちばん上等なやつだ」
ガルドが手ずから、銀の杯に葡萄酒を注いだ。
ミレイアは、杯に手も触れなかった。背筋を伸ばし、膝の上で拳を握りしめたまま、じっとガルドを睨みつけている。
レオニスは、遠慮なくひと口飲んだ。
「……うっま」
「だろう?」
ガルドは、腹の底から愉快そうに笑った。
「ドルフから聞いたぜ。お前、世界中の全員を幸せにしたいんだってな」
「ああ」
「全員だぞ? 全員」
「全員」
ガルドは杯を置き、まじまじとレオニスを眺めた。
それから、天井を仰いで大笑いした。
「欲張りだな、お前!」
「そうだよ」
レオニスは、あっさりとうなずいた。
「俺は、欲張りなんだ」
ガルドの笑い声が、ぴたりと止まった。
鋼色の目が、面白そうに細められる。
「……気に入った」
「で、本題なんだけどさ」
レオニスは、杯を置いた。
「年貢を取ってる村から、手を引いてくれねえか。トルカ村も、その先の村も、全部」
「断る」
即答だった。
「なんでだ?」
「欲しいからだ」
ガルドは、骨つき肉にかぶりついた。
「麦も、金も、酒も。俺は、欲しいもんは全部欲しい。欲しいから、奪う。闇神教の教えどおりだろうが」
「奪われた側が、泣いてる」
「だろうな」
「去年の冬、薬を積んだ荷馬車を襲っただろ。トルカ村の娘がひとり、その薬が届かなくて死んだ」
一瞬だけ、ガルドの顎が止まった。
だが、それだけだった。
「覚えちゃいねえ。荷馬車なんざ、いくらでも襲ってる」
「……奪われた側にだって、『欲しい』はあったはずだろ。薬が欲しい、娘に生きててほしい、って」
「なら、奪われねえくらい強くなりゃいい」
ガルドは、こともなげに言った。
「俺は、そうした」
その一言だけが、妙に低く、重く響いた。
ガルドは肉を飲みこみ、脂のついた指を舐めた。
「なあ、欲張り。こいつらを見ろ」
顎で、広間をしゃくる。
歌い、笑い、杯をぶつけ合う男たち。
「あそこの髭面は、年貢を払えずに畑を取り上げられた百姓だ。あっちの片目は、貴族の戦に駆り出されて、使い捨てにされかけた脱走兵。あの小せえのは、孤児院から逃げてきた。――どいつもこいつも、国に我慢しろと言われ続けて、我慢した挙げ句に捨てられた連中だ」
孤児院、という言葉が、小さな棘のように胸に引っかかった。
ガルドの声は、静かだった。
「国は、こいつらに何をくれた? 何もくれやしねえ。我慢しろ、我慢しろ、我慢すりゃいつか報われる――そう言って、搾れるだけ搾っただけだ」
「……」
「俺は言わねえ。俺は、誰にも我慢を強いちゃいねえ。欲しい奴には、欲しいもんをくれてやる。さっきの馬みてえにな。――それを望まねえ奴は、俺の邪魔さえしなきゃいい」
ガルドが、身を乗り出した。
鋼色の目が、真っ直ぐにレオニスを射抜く。
「お前は、全員を幸せにしたいんだろ?」
「……ああ」
「なら――俺の幸せも、認めるんだろ?」
レオニスは、口を開きかけた。
そして、何も言えなかった。
この男の幸せは、奪うことの上に建っている。認めれば、トルカ村の涙を、墓の前の老人を、灰の中で包丁を研いでいた老人を、認めることになる。認めなければ――「全員」の中から、この男だけを弾き出すことになる。
どちらを選んでも、自分の欲は、嘘になる。
「答えられねえか」
ガルドは鼻を鳴らした。つまらなそうに――いや、なぜか、ほんの少しだけ寂しそうに。
「まあいい。安心しな。俺たちは、国の兵隊よりよっぽど行儀がいいぜ。抵抗しねえ奴は殺さねえ。子供もだ。それが、俺の決めた掟だ」
がたん、と。
椅子が倒れる音がした。
ミレイアが、立ち上がっていた。
「……嘘です」
低く、掠れた声だった。
銀の髪の下で、蒼白な顔が震えている。
「嘘です。あなたたちは、そんな……っ」
言葉の続きは、出てこなかった。
代わりに、剣が鞘走った。
「ミレイア!」
レオニスが叫んだときには、もう、彼女は長卓を蹴って跳んでいた。一直線に、ガルドの喉もとへ。迷いのない、殺すための一閃――
「寄越せ」
ガルドが、無造作に手を差し出した。
それだけだった。
次の瞬間、ミレイアの剣は、ガルドの手の中にあった。
剣を失った手が、何もない宙を掻く。体勢を崩した彼女の体に、イルザの黒い鎖が蛇のように絡みつき、床へと引き倒した。
「っ……!」
「威勢のいい嬢ちゃんだ」
ガルドは奪った剣をしげしげと眺め、刃を指でなぞった。
「いい剣だ。よく手入れされてる。――何年、研いできた?」
ミレイアは答えなかった。鎖に押さえつけられたまま、血が滲むほど唇を噛んで、ガルドを睨み上げている。
広間の男たちが、どっと沸いた。
「いいぞ、嬢ちゃん!」
「頭に斬りかかるたぁ、いい度胸だ!」
レオニスは、ゆっくりと立ち上がった。
「悪い、頭。うちの連れが」
「気にすんな。いい余興だ」
「そっか。――じゃあ、ついでにもうひとつ、余興に付き合ってくれねえか」
ガルドの眉が、ぴくりと上がった。
「賭けをしよう。俺が勝ったら、年貢を取ってる村から全部手を引く。それと、そいつを放して、剣も返してもらう」
「俺が勝ったら?」
「なんでも持ってけ」
ガルドは、にやりと笑った。
牙を剥く、狼のように。
「いいねえ。――じゃあ俺が勝ったら、お前の一番大事なもんを貰う」
レオニスは、肩の鉄剣を下ろした。
「……乗った」
◆
長卓が壁際へ押しやられ、大広間の真ん中に、男たちの輪ができた。
口笛と野次が飛び交い、賭け金代わりの銀貨があちこちで宙を舞う。鎖を解かれたミレイアは、イルザに腕を掴まれたまま、輪の端に立たされていた。
ガルドが、狼の毛皮を脱ぎ捨てた。
分厚い胸板。丸太のような腕。その左の手首に、色褪せた小さなリボンが巻かれているのが見えた。
「我、欲す」
低い声が、広間の空気を震わせた。
「――全部だ」
ガルドの足もとから、黒い影が立ちのぼった。
影は床を這い、壁を這い、やがて天井に届くほどの、巨大な狼の形を取った。欲望そのものが牙を剥いたような、飢えた獣の影だった。
レオニスは、鉄剣を構えた。
「我、欲す」
静かに、告げる。
「――今夜、ここで、誰も死なないことを」
白い光が、広間いっぱいに広がった。
レオニスを、ミレイアを、輪を作る男たちを、ひとり残らず包みこむ光の膜。流れ矢一本、飛び散る破片ひとつ、誰にも届かせないための壁。
ガルドが、目を丸くした。
「おいおい……俺の手下まで守ってやがるのか」
「全員って言ったろ」
「――はっ」
ガルドは、心底愉快そうに笑った。
「本物の馬鹿だな、お前。……だが」
大きな手が、白い光へと伸びた。
「いい壁だ。寄越せ」
ぞわり、と。
広間を満たしていた白い光が、一斉に波打った。
光が、剥がれていく。布でも引き剥がすように、レオニスの障壁が、ガルドの手のひらへと吸い寄せられていく。
そして白い光は、ガルドの体に巻きついた。
肩に、胸に、腕に。黒い狼の影の上に、白く輝く鎧が形づくられていく。
「なっ……」
「貰っとくぜ」
レオニスの光をまとった黒狼が、床を蹴った。
速い。
大男とは思えない踏みこみ。ミレイアから奪った剣が、横薙ぎに襲いかかってくる。
レオニスは、鉄剣で受けた。
がぎん、と火花が散る。腕が痺れる。重い――重すぎる。受け流しきれず、体ごと後ろへ弾き飛ばされた。
「ほら、どうした!」
二撃目、三撃目。レオニスは身を捻り、床を転がり、跳ね起きざまに鉄剣の腹でガルドの脇腹を打った。
手応えは、なかった。
打ちこんだ先にあったのは、白く輝く鎧――自分の障壁だった。
「硬えだろ?」
ガルドが笑う。
「自分の壁ってのはよ」
舌打ちする暇もなかった。振り下ろされる剣を受け、弾かれ、また受ける。
強い。
力も、速さも、法力の桁も違う。何よりこの男は、奪ったものを、奪った瞬間から自分の手足のように使いこなしていた。
そのとき、視界の端で、銀色が閃いた。
ミレイアだった。
イルザの手を振りほどき、長卓の上から銀の燭台を掴んで、ガルドの背中へと飛びかかっていく。
「ミレイア、よせ!」
ガルドが、振り返りざまに剣を返した。
刃ではなく、柄頭で。それでも、あの膂力で叩きこまれれば、細い骨など簡単に砕ける――
考えるより先に、体が動いていた。
レオニスは、ミレイアとガルドの間に飛びこんだ。
障壁は、もうない。
ごきり、と。
脇腹で、嫌な音がした。
息が止まった。視界が白く弾け、レオニスは石の床に膝をついた。口の中に、鉄の味が広がっていく。
「レオニス……!」
背後で、ミレイアの声がした。
ガルドが、見下ろしていた。
「……庇いやがったか」
鋼色の目から、笑みが消えていた。
「約束だ、欲張り。お前の一番大事なもんを、貰う」
大きな手が、レオニスの胸へと伸びた。
指先が外套に触れ――そのまま、沈んだ。
血は出なかった。痛みもなかった。ただ冷たい手が、水の中に差し入れられるように、胸の奥へ、奥へと潜りこんでくる。
そして、掴んだ。
いちばん奥にある、いちばん温かいものを。
――やめろ。
声にならなかった。
引きずり出されていく。雪の路地裏で差し出されたシチューの湯気。師匠の、夕暮れ色の火。トルカ村の子供たちの笑い声。墓の前で泣いた老人の背中。灰の中で黒パンを切り分けた、包丁の音――
ぜんぶ、持っていかれる。
自分が、空っぽになっていく。
その感覚の、底の底で――
ふいに、手が止まった。
「…………っ」
ガルドの顔が、歪んでいた。
レオニスの胸から引き出された手の中で、小さな白い光が、心臓のように脈打っている。
ガルドの腕が、震えていた。
丸太のような腕が、その小さな光の重みに耐えかねるように、がくがくと震えている。額に脂汗が噴き出し、太い膝が、ぐらりと揺れた。
白い光が、指の間からこぼれ落ちた。
光は床に落ちる前にふわりと浮かび、レオニスの胸へと還っていった。
どさり、と。
ガルドが、片膝をついた。
広間が、静まり返った。
誰ひとり、声を出せなかった。黒狼が膝をつくところなど、きっと誰も見たことがなかったのだ。
イルザの手の中で、黒い鎖が、ちりりと小さく鳴った。
「……重てえ」
ガルドは、自分の手のひらを見つめていた。
「なんだこりゃ。……お前、こんなもん背負って、よく笑ってられるな」
かすれた声だった。
その手が、ゆっくりと握りしめられる。握った拳を、ガルドは無意識のように、左の手首に――色褪せたリボンに、押し当てていた。
白い鎧が、音もなく崩れて消えた。
ガルドは、立ち上がった。もう、いつもの顔に戻っていた。
奪った剣を手の中でくるりと回し――ミレイアの足もとへ放る。剣は石の床に突き立ち、澄んだ音を立てて震えた。
「返すぜ、嬢ちゃん」
それから、床に崩れたレオニスを見下ろした。
「賭けは、俺の勝ちだ。……だが、貰いそこねた。お前の一番大事なもんは、俺には重すぎる」
鋼色の目が、細められる。
「答えが見つかったら、また来い」
踵を返しかけて、ガルドは、ふと足を止めた。
「……いや。その前に、俺の縄張りを見ていけ」
肩越しに、振り返る。
「見たうえで、同じ台詞が吐けるならな」
イルザが、呆れたように溜め息をついた。
「頭。また、悪い癖」
「うるせえ。――おい、こいつらを客間に運べ。医者を呼んで、上等の酒もつけとけ」
ざわめきが、戻ってくる。
遠のいていく意識の中で、最後に見えたのは、自分を抱き起こそうとするミレイアの顔だった。
泣きそうな顔だった。
「……泣くなよ」
「泣いて、いません……!」
震える声で言い返されたところで、レオニスの意識は、ぷつりと途切れた。
◆
目を覚ますと、石の天井が見えた。
窓の外は、とっぷりと暮れている。蝋燭の灯りの中、寝台の脇の卓に、葡萄酒の瓶と杯が置かれていた。
本当に、上等の酒をつけてくれたらしい。
「……律儀な山賊だな」
起き上がろうとして、脇腹に激痛が走った。胸から腹まで、包帯がぐるぐると巻かれている。
「動かないでください。肋骨が二本、折れています」
窓辺から、声がした。
ミレイアだった。
開け放った窓の縁に腰かけ、膝の上に剣を横たえている。月の光が、肩で切りそろえた銀の髪を、白く縁取っていた。
「自分で治せるって。……我、欲す――」
「駄目です。その体で法術を使えば、今度こそ倒れます。医者がそう言っていました」
「山賊の医者が?」
「……腕のいい医者でした」
悔しそうに言うミレイアに、レオニスは小さく笑った。笑うと、また脇腹が痛んだ。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
窓の外で、黒い狼の旗が夜風にはためく音がする。遠くの広間からは、まだ宴の歌声が漏れ聞こえていた。
――なら、俺の幸せも、認めるんだろ?
ガルドの声が、耳の奥で繰り返される。
答えられなかった。
今も、答えは見つからない。
「……負けたなあ」
天井を見上げたまま、レオニスは呟いた。
「悪い。賭け、取れなかった。村のこと」
「……」
ミレイアは、答えなかった。
卓の上に、革表紙の帳面が開いたまま置かれていた。
――五日目:
そこで、文字は止まっていた。
その先には、何も書かれていなかった。
「……あなたは」
やがて、ミレイアが口を開いた。
「訊かないのですね」
「なにを?」
「私が、なぜあの男に斬りかかったのか」
レオニスは、少し考えてから答えた。
「話すかどうかは、お前が決めることだろ」
ミレイアの肩が、小さく揺れた。
膝の上の剣を、白い指がきつく握りしめる。
長い、長い沈黙のあと。
「……九年前の、夜でした」
月明かりの中で、ミレイアは、震える声で言った。
「あの男の団に……私の両親は、殺されました」
窓の外で、黒い狼の旗が、夜風に大きくはためいた。




