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光の闇司祭① 黒狼の楽園  作者: parupuntist


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第一章 光の闇司祭

 昼寝ほど尊いものは、この世にそうはない。


 街道沿いの楡(にれ)の木陰。腹はほどよく満ちていて、風はぬるく、木漏れ日がまぶたの上でちらちらと踊っている。遠くで雲雀(ひばり)が鳴き、近くで蜜蜂が羽音を立てる。


 完璧だった。


 これ以上、何も要らない――と言いたいところだが、正直に言えば、ここに冷えた麦酒が一杯あれば文句なしだった。


 レオニス・アルヴェイン、二十二歳。


 職業、闇司祭。


 目下(もっか)の欲望――日暮れまで、この木陰から一歩も動かないこと。


 闇神教の教えは「汝、欲望のままに生きよ」である。ならば昼寝も、立派な信仰の実践だ。師匠が聞いたら拳骨が飛んでくるだろうが、ここに師匠はいない。枕にしている古い鉄剣が、ほんのりと陽だまりの匂いを吸っていた。


 ――と。


 ぬるい風に、焦げ臭さが混じった。


 レオニスは、片目だけを開けた。


 なだらかな丘の向こう、抜けるような青空に、黒い煙がひと筋、ふた筋と立ちのぼっている。風に乗って、かすかな悲鳴も。


 しばらく、そのまま煙を眺めた。


 眺めて、眺めて――盛大に、溜め息をついた。


「……昼寝の邪魔しやがって」


 鉄剣を掴んで、跳ね起きる。


 次の瞬間には、もう丘を駆け上がっていた。


 丘の上から見下ろしたトルカ村は、ひどいありさまだった。


 三十戸ばかりの小さな村だ。黄金色(こがねいろ)の麦畑と、ゆっくり回る風車(ふうしゃ)小屋。村の真ん中に井戸がひとつ。そののどかな景色のあちこちから、火の手が上がっている。


 馬に乗った男たちが、十五、六人。手に手に松明(たいまつ)や棍棒を振りかざし、納屋に火を放ち、麦袋を荷馬車へ放りこんでいる。広場には村人たちが追い立てられ、子供を抱えた女たちが身を寄せあって震えていた。


 山賊だ。


「年貢を払えねえなら、麦で払ってもらうだけだ! 文句のある奴は前に出ろ!」


 頬に古傷のある頭目らしき男が、馬上から怒鳴る。


 その足もとで、白髪の老人が――村長だろうか――額から血を流して膝をついていた。


「お、お許しを……今年は麦の出来が悪く、これを持っていかれては、冬が越せません……!」


「知るかよ」


 頭目が、棍棒を振り上げた。


 老人が、固く目を閉じる。


 ――がつん、と。


 鈍い音が響いた。


 だが、それは骨の砕ける音ではなかった。


 老人の頭上、ほんの拳ひとつ分のところで、棍棒は止まっていた。薄氷のように透きとおった、白い光の板に阻まれて。


「……は?」


 頭目が、間の抜けた声を上げる。


「あのさあ」


 村人たちの間を、ひとりの青年がのんびりと歩いてきた。


 寝癖のついた黒髪に、琥珀色の瞳。旅塵(りょじん)にまみれた黒い外套をはおり、肩には古びた鉄剣を担いでいる。欠伸(あくび)をひとつ噛み殺してから、青年は言った。


「俺、さっきまでそこの丘で昼寝してたんだよ。すっげえ気持ちよく。わかる? 人生で五本の指に入る昼寝だったの」


「……な、なんだ、てめえ」


「で、あんたらのせいで起こされた。どうしてくれんの」


 山賊たちは、顔を見合わせた。


 それから、どっと笑った。


「頭のおかしい奴が来やがった!」


「かまわねえ、やっちまえ!」


 馬上から、三本の矢がいっせいに放たれた。


 青年は、避けもしなかった。


 ただ、指先をひょいと振る。


 白い光が瞬き、三本の矢は空中で見えない壁にぶつかって、ぽとり、ぽとりと地面に落ちた。


 笑い声が、止まった。


 山賊のひとりが、青年の胸もとを指さして、裏返った声を上げた。


「お、おい……あれ……」


 外套の襟もとで、黒鉄の聖印が揺れていた。


 ランタンをかたどった、小さな首飾り。


「闇司祭……!」


 その一言に、山賊たちだけでなく、村人たちまでもが息を呑んだ。子供を抱いた女が、ひっと喉を鳴らして後ずさる。


 闇神教。人の欲望につけこみ、魂を堕落させる邪教。――世間のそういう評判を、レオニスは嫌というほど知っていた。


 まあ、半分くらいは本当だしな。


「闇司祭が、なんで村の味方なんかしやがる!」


「味方?」


 レオニスは、首をかしげた。


「違う違う。これは俺の都合。――誰かが泣いてると、飯がまずくなるんだよ。俺はこのあと、この村でうまい飯を食って、うまい酒を飲んで、ふかふかの藁(わら)の上で寝るつもりなんだ。だから、あんたらには帰ってもらう」


「ふざけやがって……!」


 頭目が、馬の腹を蹴った。


 棍棒を振りかざして突っこんでくる。それを合図に、山賊たちが一斉に襲いかかってきた。


 レオニスは、肩の鉄剣を下ろした。


 鞘(さや)はない。要らないのだ。


 刀身はあっても、刃は丸く潰してある。抜き身のまま担いでいたところで、何ひとつ斬れはしないのだから。


 最初の一騎が振り下ろした棍棒を、白い光の板が受け止める。がら空きになった手首を、鉄剣の平たい腹が打つ。悲鳴とともに、棍棒が地面に転がった。


 二騎目、三騎目。横から突き出された槍は光の壁に弾かれ、背後から迫った馬は、足もとに生まれた小さな光の段差につまずいて、乗り手ごとゆっくりと藁山へ倒れこむ。


 斬らない。殺さない。


 ただ、叩いて、弾いて、転がしていく。


 踊るような足取りだった。村人たちは、呆然とそれを見ていた。


「このっ……!」


 頭目が、馬上から棍棒を横薙(な)ぎに振るう。


 レオニスは身を沈めてそれをくぐり、ついでに馬の尻をぽんと叩いた。驚いた馬が棒立ちになり、頭目は見事な弧を描いて宙を舞い――家畜用の水桶に、頭から突っこんだ。


 派手な水しぶき。


 一拍おいて、村の子供のひとりが、ぷっと吹き出した。


「く、くそっ……引け! 引けぇっ!」


 ずぶ濡れの頭目が怒鳴り、山賊たちはほうほうの体で馬に飛び乗った。麦袋を満載した荷馬車に御者が飛びつき、鞭をくれる。


「あ、こら」


 レオニスは、ひょいと指を振った。


 走り出した荷馬車の真ん前に、白い光の壁がそびえ立つ。驚いた馬が前脚を上げていななき、荷馬車はつんのめるように止まった。御者は荷台を諦めて転がり落ち、仲間の馬の尻にしがみついて逃げていく。


「飯は置いてけっての」


 土煙の向こうへ、山賊たちの背中が小さくなっていく。


 レオニスは鉄剣を肩に担ぎなおし、大きな欠伸をひとつした。


◆


 それからが、忙しかった。


 怪我人は七人。いちばんひどいのは鍛冶屋の息子だという若者で、肩口をざっくりと斬られていた。


 レオニスはその傍らに膝をつき、傷口に手をかざした。


「我、欲す。――痛いの、どっか行け」


 なんとも締まりのない詠唱だった。だが掌(てのひら)から溢れた白い光は、確かに傷口を撫でていった。裂けた肉がゆっくりと寄りあい、血が止まり、薄桃色の新しい皮膚が張っていく。


 若者は目を丸くして、自分の肩を何度もさすった。


「い、痛くない……」


「だろ? はい次」


 火傷を負った老婆。転んで膝を擦りむいた幼い娘。額を割られた村長。ひとりずつ治していくうちに、村人たちの顔から怯えが消え、代わりに奇妙な熱が宿りはじめた。


 最後に、レオニスは焼け落ちた建物の前に立った。


 納屋が二つ、家が三軒。梁(はり)は黒く焦げ、屋根は崩れ落ちて、まだ細い煙を上げている。


 額に包帯を巻いた村長が、震える声で言った。


「こ、これはもう……冬までに建て直すのは……」


「ん。まあ、見てなって」


 レオニスは、焦げた柱にぺたりと掌を当てた。


 目を閉じる。


 ――欲しいものは、なんだ。


 闇司祭の力は、欲望の力だ。どれだけ強く、どれだけ正直に欲しがれるか。それだけが、法力のすべてを決める。


 だから、レオニスは正直に欲しがった。


「我、欲す」


 静かに、告げる。


「――今夜この村の連中が、ちゃんと屋根の下で眠れることを」


 白い光が、掌から柱へと流れこんだ。


 光は焦げた木目を伝い、梁から梁へ、壁から壁へと広がっていく。まるで傷口が塞がるように、炭と化した木が、みるみる元の木肌を取り戻していった。崩れた屋根の骨組みが軋(きし)みながら持ち上がり、焼けた藁は金色の束へと還っていく。


 村人たちの間から、どよめきが上がった。


 五つの建物がすっかり元の姿を取り戻すまで、さほど時間はかからなかった。


 レオニスは柱から手を離し――そのまま、ずるずると地面に座りこんだ。


「……腹、減った」


 ぐうううう、と。


 村じゅうに聞こえそうな腹の虫が鳴いた。


 山と積まれたふかし芋が運ばれてきたのは、それからすぐのことだった。


 塩をひとつまみ振っただけの、ほくほくの芋。井戸で冷やした林檎酒。村の女たちが持ち寄った山羊(やぎ)のチーズ。


「うっめえ……!」


 三つ目の芋にかぶりつきながら、レオニスは心の底から唸った。


 その周りを、村人たちがぐるりと取り囲んでいる。さっきまで闇司祭と聞いて後ずさっていたのが嘘のように、誰もが熱っぽい目で彼を見つめていた。


「聖者さまだ……」


「闇司祭さまなんかじゃない。きっと、神さまのお遣いだよ」


「ありがたや、ありがたや……」


 腰の曲がった老婆が、両手を合わせて拝みはじめる。つられて何人かが膝をつきかけたので、レオニスは慌てて芋を振り回した。


「やめろやめろ、拝むな。芋がまずくなる」


「で、ですが……」


「いいか、勘違いするなよ」


 レオニスは、指についた塩をぺろりと舐めた。


「俺は、俺が勝手にやりたかったからやっただけだ。昼寝を邪魔されて腹が立ったし、泣いてる奴がいたら飯がまずいし、あとは――」


 言いかけたところで、頬にやわらかいものが触れた。


「――ありがと、司祭さま」


 振り向くと、栗色の髪をおさげに編んだ村娘が、顔を真っ赤にして笑っていた。十七、八だろうか。そばかすの散った頬が、熟れた林檎みたいだ。


 囃(はや)し立てる声と、口笛。


 レオニスは頬を押さえたまま三秒ほど固まり――それから、だらしなく目尻を下げた。


「……いやあ。まあ、あれだな。うん。やっぱ、たまには人助けもしてみるもんだな」


「さっき、勝手にやっただけだって言ったじゃないか」


 肩を治してもらったばかりの鍛冶屋の息子が笑い、広場がどっと沸いた。


 娘の名は、リラといった。


 笑い声の輪から少し離れたところに、ひとりだけ、その輪に加わらない男がいた。


 村はずれの、小さな墓の前。


 日に焼けた痩せた老人が、墓石にもたれるように座りこみ、ぼんやりと宙を見ていた。


 レオニスは、食べかけの芋を置いて立ち上がった。


「……じいさん。芋、食わねえの?」


 老人は、ゆっくりと顔を上げた。


「ああ……あんたか。村を助けてくれて、ありがとうよ」


「どういたしまして。――そこ、誰が眠ってんの?」


「娘だ。アンナという」


 老人は、節くれだった指で墓石を撫でた。


「去年の冬、熱病にかかってな。街の薬が届きさえすれば、助かるはずだった。だが、薬を積んだ荷馬車が、山で賊に襲われて……」


 それきり、老人は黙りこんだ。


 レオニスも、黙って隣に腰を下ろした。


 墓の前には、今朝摘んだばかりらしい野の花が供えてあった。その脇には、萎(しお)れた花の束がいくつも、きちんと重ねて置かれている。


 風が、麦畑を渡っていく。広場の笑い声が、遠く聞こえる。


 やがて、老人がぽつりと言った。


「なあ、司祭さま。あんた、傷を治せるんだろう。焼けた家まで、元どおりにしちまった」


「まあな」


「だったら……」


 老人の骨ばった手が、レオニスの外套の袖を掴んだ。震えていた。


「この悲しみも、消してくれんか」


「……」


「一年だ。一年経っても、朝起きるたびに、あの子がいないことを思い出す。飯を食っても味がしない。夜は眠れない。……もう、疲れちまったんだよ。頼む。あんたの法術で、この胸の痛みを消してくれ。あの子のことを思い出しても、もう苦しくならないように――」


 レオニスの指先が、ぴくりと動いた。


 できる。


 できて、しまうのだ。


 《浄化》の法術は、傷の穢(けが)れを祓(はら)う。熱の毒を祓う。そして――その気になれば、心に刺さった棘(とげ)さえも、きれいに抜き去ってしまえる。


 まぶたの裏で、白い光がちらついた。


 ――笑っている。


 ずっと、ずっと、笑っている。


 レオニスは、ゆっくりと息を吐いた。


 それから、顔に貼りついていた飄々(ひょうひょう)とした笑みを、はじめて消した。


「それだけは、やらない」


 静かな声だった。


「……なぜだ」


「その痛いのは、じいさんが娘さんを想ってる証だからだ」


 レオニスは、墓の前に重ねられた、萎れた花の束を見た。


「毎朝、摘んできてるんだろ。一年、毎朝。――それを消しちまったら、じいさんの中から、アンナさんが本当にいなくなっちまう」


 老人の顔が、くしゃりと歪んだ。


「悲しいのは、消せねえよ。消しちゃいけない。……でもさ」


 レオニスは懐から小さな酒瓶を取り出して、栓を抜いた。広場で村人に押しつけられた林檎酒だ。


「一緒に飲むくらいは、できる。――アンナさんって、どんな人だった?」


 老人は、しばらく何も言わなかった。


 それから、震える手で酒瓶を受け取り、ひと口あおって、盛大にむせた。


「……よく笑う、子だった。わしに似ず、器量よしでな」


「へえ」


「料理は下手だった。塩と砂糖を間違えるんだ。毎回だぞ」


「毎回はすげえな」


 老人は、泣きながら笑った。


 泣き止ませる方法なら、知っている。


 けれどレオニスは、ただ隣に座って、老人の話が尽きるまで、黙って酒瓶を回し続けた。


◆


 遅かった――と、ミレイア・セレスは唇を噛んだ。


 丘の上から見下ろしたトルカ村に、もう煙は上がっていなかった。


 山賊の蹄(ひづめ)の跡を追って、半日。討伐隊の到着を待てという隊長の命令を振りきり、たったひとりで馬を駆ってきた。それでも、間に合わなかったのだ。煙が消えているのは、きっと、燃えるものがなくなったからだ。


 手綱を握る指が、白くなる。


 ――また、間に合わなかった。


 九年前の夜が、胸の底でうずいた。


 床下の、狭くて暗い隙間。板の継ぎ目から漏れる炎の色。頭上で響く父の怒鳴り声と、母の悲鳴と――それきり途絶えた、ふたつの声。


 声を出しちゃだめ。何があっても、出てきちゃだめ。


 母にそう言われて、十歳の少女は両手で口を塞ぎ、朝まで震えていた。


 山賊。


 その二文字を聞くだけで、今でも指先が冷たくなる。


 アルディア王国聖光教会、神殿騎士見習い。十九歳。剣の腕だけなら、正騎士にも引けを取らない自負がある。そのために、ただ剣だけを磨いてきた。


 今度こそ、間に合うために。


 ミレイアは馬の腹を蹴り、丘を駆け下りた。


 そして、村の入り口で――手綱を引いた。


 目の前の光景が、理解できなかった。


 家は、焼けていなかった。


 納屋も、柵も、風車小屋も、何ひとつ壊れていない。畑の麦は風に揺れ、井戸端では女たちが洗い物をしている。子供たちの笑い声まで聞こえてきた。


 山賊の蹄の跡は、確かにこの村へ続いていたはずなのに。


 そして、村の広場の真ん中に――その男はいた。


 空の樽に腰かけて、ふかし芋を齧っている。


 村の子供たちに囲まれて、何やら身振り手振りで話しては、どっと笑わせている。黒い外套に、寝癖のついた黒髪。年は二十をいくつか過ぎたくらいだろうか。締まりのない、いかにも怠け者らしい顔つきだった。


 旅人だろうか、とミレイアは思った。


 その胸もとで揺れる、黒鉄の首飾りに気づくまでは。


 ランタンをかたどった、小さな聖印。


 神殿の教本で、何度も見た。


 ――闇神教の、聖印。


 全身の血が、一瞬で沸き立った。


 闇司祭。人の欲望につけこみ、魂を堕落させる邪教の徒。教本は教えていた。彼らの中には、人の心を惹(ひ)きつけ、意のままに操る欲法を使う者もいる、と。


 壊れていない村。笑う村人たち。その真ん中で、我が物顔にくつろぐ闇司祭。


 答えは、ひとつしかないように思えた。


 ミレイアは馬から飛び降り、剣を抜き放った。


「そこの闇司祭!」


 広場じゅうの視線が、こちらを向いた。


「村人から離れなさい! アルディア聖光教会、神殿騎士ミレイア・セレスの名において、あなたを討ちます!」


 厳密には見習いだが、今それを言う必要はない。


 男は芋を咥(くわ)えたまま、きょとんとこちらを見た。


「……え、俺?」


「ほかに誰がいるというのです!」


 ミレイアは、地を蹴った。


 一足で間合いを詰める。子供たちを巻きこまぬよう、剣筋は男の肩口だけを狙った。迷いのない、鋭い斬り下ろし。


 がきん、と。


 硬い手応えが、腕に跳ね返った。


 剣は、男の目の前で止まっていた。いつの間にか現れた、透きとおった白い光の壁に阻まれて。


 男は、樽に腰かけたまま、一歩も動いていなかった。


「おー」


 芋をもぐもぐやりながら、感心したように言う。


「いい腕してんな。今の、けっこう本気で危なかった」


「ふざけないで!」


 二の太刀、三の太刀。ミレイアは踏みこみ、角度を変え、息もつかせず斬りつけた。神殿の稽古場で、正騎士たちさえ舌を巻いた連撃だ。


 そのことごとくが、白い壁に弾かれた。


 しかも男は、そのあいだ、ずっと芋を食べていた。


「……っ、この……っ!」


「ちょっと待って、これ最後のひと口だから」


 男は芋の残りを口に放りこみ、指を舐め、それからようやく面倒くさそうに立ち上がった。傍らに立てかけてあった古い鉄剣を、ひょいと手に取る。


 ミレイアは、渾身の突きを放った。


 男の鉄剣が、ひらりと動いた。


 飛んできた羽虫でも払うような、軽い動き。それだけでミレイアの剣先はあらぬ方向へ逸らされ、たたらを踏んだ体を、男の片手がひょいと支えた。


 その一瞬、ミレイアは見た。


 男の剣には、刃がついていなかった。


 刀身の縁(ふち)を、丁寧に、念入りに、丸く潰してある。これでは、紙一枚だって切れはしないだろう。


「……刃が、潰して……」


「ああ、これ?」


 男は、手の中の鉄剣に目を落とした。


「斬るためじゃねえよ。――断つための剣だ」


 そう言ったとき、男の琥珀色の瞳が、ほんの一瞬だけ、どこか遠くを見たような気がした。


「待って、騎士さま!」


 甲高い声が、割って入った。


 五、六人の村の子供たちが、わっと男の前に飛び出して、両手を広げた。


「お兄ちゃんをいじめないで!」


「お兄ちゃんが、山賊をやっつけてくれたんだ!」


「燃えちゃったおうちも、ぜんぶ直してくれたんだよ!」


 ミレイアは、剣を構えたまま凍りついた。


 子供たちだけではなかった。額に包帯を巻いた白髪の老人が、よろよろと進み出る。


「騎士さま、どうか剣をお納めください。わしは村長のボリスと申します。この方は今日の昼、山賊どもからこの村を救ってくださった恩人なのです」


「救っ……た?」


「ええ。怪我人もみな治していただきました。焼かれた家も、ほれ、このとおり」


 村長が指さした先では、真新しい藁屋根が、傾きかけた陽を受けて金色に光っていた。


 ミレイアは、唇を噛んだ。


 惑わされるな、と自分に言い聞かせる。心を操る欲法。その可能性は、まだ否定できない。


 左手で、自分の胸もとの聖印を握った。聖光教会の、白銀の太陽の聖印。邪な術が人の心を縛っていれば、それに反応して熱を持つはずだ。


 聖印は、ひんやりと冷たいままだった。


 誰も、操られてなどいない。


 この村の人々は、心の底から、この闇司祭に感謝しているのだ。


「……そんな、はず」


 ミレイアは、ゆっくりと剣を下ろした。


 足もとが、ぐらりと揺れた気がした。今日まで信じてきた何かが、音もなく崩れていくような。


「あなたは……闇司祭でしょう」


「そうだけど」


「闇司祭は、人の欲望を喰らって、不幸をまき散らす邪教の徒です。人を幸福にする闇司祭なんて……そんなの、矛盾しています」


 男は、きょとんとした顔で首をかしげた。


「そうか?」


 それから、にっと笑う。


「俺なんて、自分の欲望に従ってるだけだぞ」


「……あなたの欲望とは、何なのですか」


「ん? 昼寝と、うまい飯と、うまい酒。あと、できればモテたい」


「…………」


 ミレイアは、生まれてはじめて、心の底から人を軽蔑するという感情を知った。


「あ、そうだ。俺、レオニス。あんたは――ミレイア、なんだっけ」


「ミレイア・セレスです! 先ほど名乗りました!」


「そっか。よろしくな、ミレイア」


「気安く呼ばないでください!」


 ミレイアは剣を鞘に叩きこみ、きっと男を睨みつけた。


「……今夜は、私もこの村に留まります」


「へえ。なんで?」


「あなたを見張るためです。闇司祭がこの村で何を企んでいるのか、この目で見極めます」


「企んでるのは、晩飯のことくらいだけどな」


 レオニスは、また新しい芋に手を伸ばした。


◆


 日が傾き、村が茜(あかね)色に染まるころ。


 ミレイアは井戸端に腰を下ろし、無言で剣の手入れをしていた。


 視線の先では、レオニスが村の男たちと一緒に、山賊の置いていった麦袋を納屋へ運びこんでいる。重い袋を担いではよろけ、男たちに笑われ、自分でもげらげら笑っている。


 見張ると宣言してから、半日。


 怪しいところは、ひとつもなかった。


 子供に肩車をせがまれれば応じ、老婆の腰痛を法術で治してやり、鍛冶屋の親父と酒の銘柄について真剣に議論していた。一度、干し草の上で居眠りしかけていたので、それだけは記録に値すると思った。


「……わからない」


 ミレイアは、砥石(といし)を持つ手を止めた。


 闇司祭は、悪だ。そう教わってきたし、その教えを疑ったことは一度もない。


 それなのに――


「司祭さま」


 声がして、ミレイアは顔を上げた。


 麦袋を運び終えたレオニスのもとへ、栗色のおさげの娘が駆け寄ってくるところだった。昼間、彼の頬に口づけしたという娘だ。確か、リラといったか。


 リラは、レオニスの前でもじもじと指を組んだ。


「あの……ちょっと、話を聞いてもらってもいい?」


「ん? いいけど」


 レオニスは、井戸の縁に腰かけた。ミレイアのすぐ隣だった。立ち去るべきかと迷ったが、リラはミレイアのことなど目に入っていない様子で、ぽつぽつと話しはじめた。


「今日は、ほんとうにありがとう。村を助けてくれて。……でもね」


 リラは、うつむいた。


「助かったのに、私……この村を、出たいの」


 ミレイアは、思わず眉をひそめた。


「王都に行きたいの。仕立て屋さんで働きたい。刺繍の腕を、試してみたいの」


 リラはエプロンのポケットから、一枚の手巾(ハンカチ)を取り出した。


 白い麻布に、青い糸で小鳥が刺繍されていた。羽の一枚一枚までもが、今にも風をはらんで羽ばたきそうに縫いとられている。


「うわ、すげえ」


 レオニスが、素っ頓狂な声を上げた。


「これ、あんたが? 売り物みたいじゃん」


「……ほんと?」


「ほんとほんと。王都の店でこんなの見たら、俺でも欲しくなる」


 リラは、泣き笑いのような顔をした。


「ずっと、春になったら行こうと思ってたの。お金も少しずつ貯めてた。でも、今日、村が襲われて……家が焼けて、みんな怪我して。こんなときに私だけ出ていくなんて、できないって思った。建て直すのに、人手だって要るし」


 リラは、茜色に光る真新しい屋根を見上げた。


「なのに、司祭さまが全部直しちゃったから。……もう、言い訳がなくなっちゃった」


「家族を捨てるのですか」


 気づけば、ミレイアは口を開いていた。


 リラが、びくりと肩を震わせてこちらを見る。


「こんなときに。ご両親もいて、村の人たちもいて、今日みんなで生き延びたばかりなのに。それを置いて、自分だけ――」


 言いながら、胸の奥がきしんだ。


 帰りたい家も、会いたい家族も、ミレイアにはもうない。それを持っていながら手放そうとする娘が、どうしようもなく――


「じゃあ、出ればいい」


 あっさりとした声が、ミレイアの言葉を遮った。


 レオニスだった。


「残ることだけが、幸せじゃない」


「な……」


 ミレイアは絶句した。


 リラもまた、目を丸くしてレオニスを見ていた。


「……いいの、かな」


「いいも悪いも、決めるのはあんただろ」


 レオニスは、手巾をリラの手に戻した。


「行きたいなら、行けばいい。親父さんたちとちゃんと話して、それでも行きたいなら、なおさらだ。――で、もし話してみて、やっぱり残るって決めたなら、それもいい。そっちの幸せも、俺は応援する」


「……どっちでも?」


「どっちでも。あんたが選んだほうなら」


 リラは、手巾を胸に抱きしめた。


 しばらくそうしていたが、やがて、ぱっと顔を上げた。


「私……父さんと母さんに、話してくる!」


 おさげを揺らして駆けていく背中を、レオニスはひらひらと手を振って見送った。


 ミレイアは、何も言えなかった。


 この男は、あの娘に何も与えなかった。行けとも、残れとも言わなかった。ただ、どちらを選んでもいいのだと――選ぶのはお前だと、そう言っただけだ。


 それなのに、駆けていくリラの横顔は、今日見たどの村人の顔よりも晴れやかだった。


 幸せにする、のではなく。


 幸せを、選べるようにする。


 この闇司祭の言う「幸せ」とは、そういうものなのだろうか。


「……あなたは、おかしな人です」


 ようやく絞り出した言葉に、レオニスは肩をすくめた。


「よく言われる」


◆


 その夜。


 村長の家の納屋の二階、干し草を敷きつめた寝床で、レオニスは仰向けに寝転がっていた。


 宴(うたげ)のあとの、腹いっぱいのまどろみ。ほどよく回った林檎酒。小窓の外では、ばらまいたような星が瞬いている。


 昼寝ほどではないが、夜寝も悪くない。


 枕もとには、古い鉄剣が立てかけてあった。


 刃を潰した、斬れない剣。


 ――斬るためじゃねえ。断つための剣だ。


 そう言って笑っていた男は、もういない。この剣は、あの人が遺(のこ)していった、たったひとつの形見だった。


「……師匠」


 梁を見上げたまま、レオニスは呟いた。


「俺、今日はちゃんと選ばせたぞ。リラのこと。……褒めてくれてもいいんだぜ」


 返事はない。


 当たり前だ。


 それでも、あの嗄(しゃが)れた声が「調子に乗るな、坊主」と笑った気がして、レオニスは少しだけ口の端を上げた。


 幸せにしようとするな。選ばせろ。


 あの夜、シチューの湯気の向こうで聞いた言葉は、七年経った今も、胸の真ん中に刺さったままだ。


 ――難しいな、それ。


 ――ああ、難しい。


 ほんとうに、難しい。


 墓の前で、悲しみを消してくれと言われたとき。ほんの一瞬、自分の指は動いていた。泣いている顔を見るのが、どうしようもなく嫌だったからだ。


 あれは、じいさんのためだったのか。


 それとも――


 レオニスは、まぶたを閉じた。


 そのとき、鐘が鳴った。


 かん、かん、かん、かん――!


 物見櫓(やぐら)の、早鐘だった。


 レオニスは跳ね起き、干し草を蹴散らして小窓に取りついた。


 闇の向こう、村を囲む麦畑の彼方(かなた)に、無数の松明の火が揺れていた。


 昼間の倍――いや、三倍はいる。


 そして、その先頭に立つ馬の上で、ひとりの男が両手を夜空へ掲げていた。


「我、欲す!」


 甲高い、裏返った声が、夜を裂いた。


「燃えろ、燃えろ、全部燃えちまえ! 村ごと灰にして――頭(かしら)に、褒めてもらうんだぁっ!」


 男の両手から、黒い炎が噴き上がった。


 夜よりも黒い、不吉な炎。それは渦を巻いて夜空へ昇り、無数の火の粒となって、村の上へと降りそそいでくる。


「……うわ。同業者かよ」


 しかも、なんとも正直な欲望だ。


 レオニスは鉄剣を掴み、小窓から屋根へと飛び出した。


 黒い火の雨が、村へ迫る。


 広場に飛び出してきた村人たちが、空を見上げて悲鳴を上げた。子供を抱えて逃げまどう母親。立ちすくむ老人。昼間やっと取り戻したばかりの屋根へ、黒い炎が落ちていく。


 ――泣き声が、聞こえた。


 どこかで、子供が泣いている。


 レオニスは屋根の棟に立ち、鉄剣を夜空へ突き上げた。


「我、欲す」


 腹の底から、声を出す。


 欲しいものは、ひとつだった。


「――この村の誰も、今夜、泣かなくていいことを!」


 光が、爆ぜた。


 レオニスを中心に、白い光が波紋のように広がっていく。屋根を越え、広場を越え、麦畑の端までをすっぽりと包みこみ――巨大な白い光の円蓋となって、村の上に覆いかぶさった。


 降りそそいだ黒い炎が、円蓋に触れた。


 じゅっ、と。


 水に落ちた火の粉のような音を立てて、黒い炎は、ひとつ残らず掻き消えた。


 夜が、白く染まっていた。


 星明かりしかなかったはずの村が、真昼のように明るい。広場の石畳も、井戸の釣瓶(つるべ)も、逃げまどっていた人々の顔も、やわらかな白に照らされている。


 悲鳴が、止んだ。


 人々は立ち止まり、ぽかんと口を開けて、頭上の光を見上げていた。


 その中に、昼間レオニスの周りをちょろちょろしていた男の子がいた。確か、ピムといったか。鼻水を垂らしたまま、泣くのも忘れて、屋根の上のレオニスを見上げている。


「……光の、司祭さま?」


 レオニスは、ちょっとだけ顔をしかめた。


「惜しい」


 それから、にっと笑ってみせる。


「闇のほうだ」


 ――白は、嫌いな色なんだけどな。


「な、なんだよ、それ……!」


 麦畑の向こうで、黒い炎の男が喚(わめ)いた。


「ふざけんな! 燃えろって言ってんだろ! 燃えろ、燃えろ、燃えろぉっ!」


 黒い炎が、さっきの倍の勢いで噴き上がる。何本もの火柱が円蓋に叩きつけられ、白い光の表面が、ざわりと波打った。


 レオニスは、眉ひとつ動かさなかった。


 この程度の炎で揺らぐほど、彼の欲は安くない。


 そのとき。


 円蓋の内側を、ひとつの影が駆け抜けていった。


 肩で切りそろえた銀の髪をなびかせ、抜き身の剣を手にした――ミレイアだ。


「おい、どこ行く!」


「決まっているでしょう!」


 振り返りもせずに、ミレイアは叫んだ。


「私は騎士です! 守られているだけなど、性に合いません!」


 彼女はそのまま、円蓋の縁へと突っこんでいく。


「ったく……!」


 レオニスは指を振った。円蓋の縁に、人ひとり分の隙間が開く。ミレイアはそこを、ためらいもせずに駆け抜けていった。


 そこから先は、まるで銀の風だった。


 ミレイアの剣が閃くたび、山賊たちの手から松明が、剣が、弓が、次々と弾き飛ばされていく。馬の脚をすり抜け、槍の穂先をかいくぐり、踏みこんでは斬り、身を翻してはまた斬る。命までは奪わない。けれど、立ち上がれる者もいない。


 昼間、レオニスに向けられた連撃が、今は山賊たちを薙ぎ払っていた。


「……すげえな」


 素直に感心した、そのときだった。


「こ、この女ぁっ!」


 黒い炎の男が、ミレイアの背中へ両手を突き出した。


 黒炎の奔流が、彼女へ襲いかかる。


 ミレイアが振り返る。間に合わない――


 ぱん、と。


 乾いた音を立てて、彼女の背後に小さな白い光の盾が生まれていた。黒炎は盾に弾かれ、四方へ飛び散って消える。


 ミレイアが、きっとこちらを睨んだ。


「余計なことを!」


「どういたしまして!」


 屋根の上から、レオニスは手を振り返した。


 そこから先は、あっけなかった。


 ありったけの欲を燃やしきった黒い炎の男は、最後の火柱を放ったところで、ぷすんと煙を吐いて膝をついた。暴れた炎の余波で、自分の両袖まで焦がしている。


 欲法は、欲望の力だ。燃料が尽きれば、火は消える。


 頼みの闇司祭が崩れ落ちたのを見て、山賊たちは今度こそ、我先にと闇の中へ逃げ散っていった。


 あとに残されたのは、ミレイアに首根っこを掴まれ、ずるずると引きずられてくる焦げた男ひとりだけだった。


◆


 捕らえた黒い炎の男は、ドルフと名乗った。


 ひょろりとした、二十歳にもならない若者だった。広場の真ん中に縛られて座らされ、村人たちに遠巻きに睨まれて、すっかり縮みあがっている。焦げた袖の下では、自分の炎で負った火傷が、両腕を赤く腫れあがらせていた。


 ミレイアが、その喉もとに剣先を突きつける。


「答えなさい。あなたたちは、何者です」


「……っ」


「答えなさい!」


「はいはい、ちょっと待った」


 レオニスは、ミレイアの肩越しにひょいと顔を出した。


「その前に、いいか」


 そう言って、ドルフの前にしゃがみこむ。焼けただれた腕に、手をかざした。


「我、欲す。――痛いの、どっか行け」


 白い光が、火傷を撫でた。


 赤く腫れていた皮膚が、見る間にもとの色を取り戻していく。


 ドルフは、ぽかんと口を開けた。


 ミレイアは、それ以上に大きく口を開けた。


「な……なぜ敵を治すのです!」


「え? 痛そうだったから」


「そういう問題では……!」


「そういう問題だよ。痛いと、しゃべれることもしゃべれないだろ」


 レオニスは、ドルフの顔を覗きこんだ。


「で。あんたら、どこの誰?」


 ドルフは、治ったばかりの腕とレオニスの顔を、何度も見比べた。


 それから、観念したように、うなだれた。


「……黒狼(こくろう)団だ」


 その瞬間。


 レオニスの隣で、ミレイアの肩が、びくりと跳ねた。


「この辺り一帯は……街道から山のほうまで、ぜんぶ黒狼団の縄張りなんだ。村は、頭に年貢を納める。そうすりゃ、ほかの盗賊からも魔物からも守ってやる。そういう決まりだ」


「この村は、今年はそれが払えなかったのです」


 村長が、苦い声で言った。


「麦の出来が悪くて……払えば、冬が越せませんでした」


「だから、見せしめに焼きに来た、と」


「頭の決まりじゃ、抵抗しない奴は殺しちゃいけないことになってる。俺たちは、優しいほうなんだぜ」


 ドルフは、へへっと卑屈に笑った。


 ちっとも笑えない冗談だった。


「……去年の冬」


 レオニスは、静かに言った。


「山で、薬を積んだ荷馬車が襲われた。それも、あんたらか」


「さあな。荷馬車なんて、いくらでも襲ってる」


 レオニスは、何も言わなかった。


 ただ、村はずれの小さな墓のほうを、しばらく見ていた。


「頭ってのは、どんな奴だ」


「ガルドさんは……」


 ドルフの目に、はじめて熱が灯った。恐怖ではない。憧れの色だった。


「ガルド・バルガス。《黒狼》のガルド。頭も闇司祭なんだ。すげえんだぜ。欲しいもんは、なんだって手に入れる。剣でも、金でも、魔力でも……人の記憶だって、奪っちまうんだ。俺みたいな半端者でも、ちゃんと食わせてくれる。頭に褒められたくて、俺は――」


 そこで、ドルフは口をつぐんだ。


 レオニスは、ふと隣を見た。


 ミレイアの顔が、真っ白になっていた。


 剣を握る手が、小刻みに震えている。唇が、声にならない言葉をなぞった。


 ――黒狼。


「……ミレイア?」


「なんでも、ありません」


 ミレイアは、ぎこちなく剣を下ろした。その目は、闇の向こうの山並みを見据えている。凍りつくように――あるいは、燃えるように。


 レオニスは、しばらくその横顔を眺めていた。


 それから、ぽん、と膝を打って立ち上がった。


「よし、決めた」


「……何をです」


「ちょっと会ってくるわ。その、頭ってのに」


 広場が、しんと静まり返った。


「……は?」


 ミレイアと、村長と、ドルフの声が、きれいに揃った。


「いや、だってさ。こいつを縛って街の衛兵に突き出したところで、黒狼団は次の奴を寄越すだけだろ。来年も、再来年も。だったら、大元と話をつけたほうが早い」


「は、話をつける……? 相手は黒狼団ですよ!?」


「うん」


「あの男たちは――」


 ミレイアは何かを言いかけて、唇を噛んだ。


 レオニスは、ドルフの縄をほどきはじめた。


「な、なにを……」


「帰っていいぞ。で、頭に伝えといてくれ。今から会いに行くって」


 ドルフは、ほどかれた縄とレオニスを、信じられないという目で見比べた。


「て、てめえ……なんなんだよ。何が目的だ。頭の首か? 縄張りか? 金か?」


「目的?」


 レオニスは、きょとんと首をかしげた。


「決まってんだろ。――俺は、欲張りなんだ」


 夜風が、黒い外套の裾をはためかせた。


「世界中のみんなに、自分の欲しい幸せを、ちゃんと手に入れてほしい。……あんたの頭も含めて、な」


 ドルフは、口を半開きにしたまま、長いこと動かなかった。


 やがて、何か得体の知れないものから逃れるように、転がるように闇の中へ駆けていった。


 その背中が見えなくなってから、ミレイアが、つかつかとレオニスの前に進み出た。


「……行くのですね。本当に」


「おう。明日の昼には出る」


「朝ではなく?」


「朝は寝てる」


 ミレイアは、こめかみを押さえた。


 それから、何かを振りきるように顔を上げた。


「――私も、同行します」


「え」


「闇司祭を野放しにはできません。神殿騎士として、あなたを監視します。あなたが黒狼団と何を話し、何をするのか、この目で見届けます」


 声は硬かった。


 けれどレオニスには、それが理由のすべてではないことが、なんとなくわかった。黒狼、という名を聞いたときの、あの白い顔。震える指先。


 訊かなかった。


 話すかどうかは、彼女が決めることだ。


「……朝、遅いぞ、俺」


「起こします」


「昼寝もするぞ」


「記録します」


 ミレイアは懐から、小さな革表紙の帳面を取り出した。表紙には、几帳面な字で『罪状帳』と記されている。


「……なにそれ」


「あなたの怠惰と不品行を記録するための帳面です。いずれ教会に提出します」


「うわ、やだ」


◆


 翌日の昼。


 トルカ村の入り口には、村じゅうの人々が見送りに集まっていた。


 村長が深々と頭を下げ、子供たちが「また来てね!」と跳びはねる。墓の前にいた老人は、黙って林檎酒の瓶を一本、レオニスの荷物に押しこんだ。


 リラは、目を真っ赤に泣き腫らしていた。けれど、その顔は晴れやかだった。


「父さんと母さんと、一晩じゅう話したの。……春になったら、王都に行く。父さん、最後は泣きながら『行ってこい』って」


「そっか」


 レオニスは、心の底から笑った。


「よかったな」


「うん。……司祭さまが、選んでいいって言ってくれたから」


「違うよ」


 レオニスは、首を振った。


「選んだのは、あんただ」


 リラは一瞬きょとんとして、それから、ぱっと花が咲くように笑った。


「これ、お礼。受けとって」


 差し出されたのは、あの青い小鳥の手巾だった。


「いいのか? 売り物になるって言ったろ」


「だからだよ。私の、最初のお客さん」


 レオニスは手巾を丁寧にたたんで、外套の内ポケットにしまった。


 それから、半刻(はんとき)後。


 村を出て最初の楡の木陰で、レオニスは早くも仰向けに寝転がっていた。


「……何をしているのです」


「昼寝」


「出発して、まだ半刻も経っていません!」


「昼寝ってのは、昼にするから昼寝なんだよ」


 寝息が聞こえはじめるまで、十も数えなかった。


 ミレイアは長いこと、呆れ果てた顔でその寝顔を見下ろしていた。


 それから、ため息をひとつついて、革表紙の帳面を開いた。


 ペン先が、紙の上を走る。


 ――一日目:昼寝。


◆


 同じころ。


 灰狼(はいろう)山脈の奥深く、切り立った谷を塞ぐように築かれた古い砦(とりで)に、荒くれ者たちの笑い声が響いていた。


 かつて国境の守りに使われていたという石の砦は、今では黒狼団の根城だった。大広間の壁には奪ってきた綴(つづ)れ織りが無造作に吊るされ、床には酒樽が山と積まれている。焚き火の上では猪(いのしし)が丸ごと炙(あぶ)られ、脂の焦げる匂いが立ちこめていた。


 その大広間の真ん中で、ドルフは床に額をこすりつけていた。


「――以上、です。村は焼けず、年貢も取れず……仲間も、ずいぶん怪我をして……」


 周りを取り囲む男たちから、嘲りの声が飛ぶ。


「だらしねえなあ、ドルフ!」


「闇司祭が聞いて呆れるぜ!」


 ドルフは、顔を上げられなかった。


 広間の奥。熊の毛皮を敷いた大きな椅子に、ひとりの男が座っていた。


 三十をいくつか過ぎた、大柄な男だった。無造作に束ねた黒髪。無精髭の浮いた顎。黒い狼の毛皮を肩にはおり、どこぞの貴族から奪ってきたのだろう銀の杯(さかずき)で、葡萄(ぶどう)酒をあおっている。


 ガルド・バルガス。


 《黒狼》と呼ばれる男。


「ドルフ」


 低い声が、広間のざわめきを一瞬で黙らせた。


「は、はいっ」


「誰か、殺したか」


「い、いえ……村の奴らは、誰も」


「ならいい」


 ガルドは、傍らの酒袋を掴んで、ぽんとドルフに放った。


「よく生きて帰った。飲め」


 ドルフは酒袋を抱きしめたまま、しばらく呆然としていた。それから、ぐしゃりと顔を歪めて、もう一度深々と頭を下げた。


 広間の男たちの間から、今度は野次ではなく、温かい笑い声が起こった。


「で?」


 ガルドは、杯を傾けながら言った。


「その、白く光る闇司祭ってのは、何者だ」


「わ、わかりません。レオニスって名乗ってました。でたらめに強くて、変な奴で……俺の火傷まで、治しやがった」


「ほう」


「それで、頭に伝えろって。――今から会いに行く、って」


 広間が、ざわりと揺れた。


「何が目的だって訊いたら、あいつ……」


 ドルフは、ごくりと唾を呑んだ。


「世界中のみんなに、自分の欲しい幸せを手に入れてほしい、って。……頭も、含めて、って」


 一拍の、沈黙。


 それから――


 ガルドは、腹を抱えて笑いだした。


 大広間の天井が震えるほどの、豪快な笑い声だった。つられて、男たちもどっと笑いだす。


「全員を幸せに、だと?」


 ガルドは、目尻に涙まで浮かべていた。


「世界中の? 俺も含めて? ――はっ、とんだ欲張りがいたもんだ!」


「頭。また悪い癖が出てますよ」


 傍らに控えていた女が、呆れたように肩をすくめた。腰に幾重にも黒い鎖を巻きつけた、鋭い目つきの女。黒狼団の幹部、イルザだった。


「面白そうな奴を見ると、すぐそれなんだから」


「面白えだろうが」


 ガルドはにやりと笑い、杯を高く掲げた。


「おい、蔵から上等の酒を出しとけ。――客が来るぞ」


 宴が果て、男たちが酔い潰れて寝静まったころ。


 ガルドはひとり、砦の城壁の上に立っていた。


 眼下には、月明かりに沈む黒い森。その向こうに広がる平野の、はるか果てに、王都ルクセリアの灯りが星屑のようにかすかに瞬いている。


 夜風が、冷たかった。


 ガルドは、左の手首に目を落とした。


 色褪(あ)せたリボンが、巻かれている。もとは鮮やかな茜色だったのだろう。今では擦り切れて、灰をかぶったような薄紅にしか見えない。子供の髪を結ぶための、小さなリボンだった。


 無骨な指先で、そっとそれをなぞる。


 ――全員を幸せに。


 笑える話だ。


 本当に、腹の底から笑える話だった。


 そんな都合のいい奴は、この世にいない。いるはずがない。二十年前のあの夜に、嫌というほど思い知った。


 夜空を焦がす炎。


 井戸の底の、凍えるような水。


 遠ざかっていく蹄の音の中で、誰かが自分の名を呼んでいた。何度も、何度も。


 ――ガルドにいちゃん。


 ガルドは、固く目を閉じた。


 夜風が、リボンの端を揺らした。


「……そんな奴が」


 誰にも聞こえない声で、《黒狼》は呟いた。


「二十年前に、いりゃあな」

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