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光の闇司祭① 黒狼の楽園  作者: parupuntist


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1/10

プロローグ 真欲の鏡

 酒が飲みたい。


 地下聖堂の冷えた石壁に骨ばった長身をあずけ、白髪まじりの無精髭をさすりながら、オズワルドは心の底からそう思った。


 神聖なる叙階の儀の最中に考えることではない。――よその宗派であれば、の話だが。


 ここでは違う。《黒き母》を奉じる闇神教において、それはむしろ模範的な信仰の姿と言ってよかった。


 なにしろ、この教えの第一の掟はこうだ。


 ――汝、欲望のままに生きよ。


 ここは国境の街のさらに外れ、とうに打ち捨てられた修道院の、地下深く。


 三百年前、アルディアの建国王が闇神教を邪教と断じ、経典を焼き、司祭たちを火刑台へ送って以来、《黒き母》の子らは陽の当たらぬ場所でしか祈れない。


 燭台(しょくだい)の火が揺れるたび、黒い石壁に信徒たちの影が伸び縮みする。祭壇の奥には、顔のない女神像。胸に抱いた小さなランタンには、三百年のあいだ一度も絶やされたことのない守り火が、ほそく灯っている。


 そして女神像の足もとに、それはあった。


 人の背丈ほどもある、黒硝子(ガラス)の大鏡。


 夜をそのまま切り取って嵌(は)めこんだような、底のない黒。


 ――《真欲の鏡》。


 前に立った者の魂の、いちばん深いところにある欲望――核欲を、色と炎で暴き出す鏡である。


「次の者、前へ」


 しわがれた声が、聖堂の冷気を震わせた。


 鏡の傍らで黒杖(こくじょう)をつく、長老マグダ。百に届こうかという老婆だ。白く濁ったその片目で、もう五十年もこの儀を見届けてきたという。


 進み出たのは、でっぷりと肥えた若い男だった。どこぞの商家の三男坊らしい。


「汝、何を欲(ほっ)す」


「わ、我、欲す」


 男はごくりと唾を呑み、それから一息に言った。


「――金を。兄貴どもが一生かかっても稼げねえくらいの、山ほどの金を!」


 黒い鏡の底に、ぽつりと火が点(とも)った。


 溶かした金貨のような、濁った黄金の炎。それは見る間に鏡面いっぱいに燃え広がり、男のにきび面(づら)を下から照らし上げた。


「よき欲なり」


 マグダの黒杖が、こつりと床を打つ。


「黒き母は、汝の欲を嘉(よみ)したまう」


 聖堂に拍手が湧き、誰かが指笛を鳴らした。ランタンをかたどった黒鉄(くろがね)の聖印を首にかけられると、男は今にも泣き出しそうな顔でそれを握りしめた。


 次は、青白い顔をした痩せた娘だった。


「我、欲す。……あの人に、愛されたい」


 鏡は、春の夜明けのような薄紅に染まった。


 その次は、頬に焼け爛(ただ)れた痕をもつ青年。


「我、欲す。父さんを吊るした代官を、この手で殺したい」


 鏡の底から、乾いた血の色をした赤黒い炎が噴き上がる。聖堂はしんと静まり返り――やがて、低いどよめきに満ちた。


 称賛の、どよめきだった。


 ここに、それを咎(とが)める者はいない。


 金を欲するのも、愛を欲するのも、仇(かたき)の命を欲するのも、等しく魂の叫びである。欲望を恥じ、押し殺すことこそが、己の魂への裏切りなのだ――それが、闇神教の教えだ。


 だからこそ。


 この聖堂で許されない罪は、ただひとつしかない。


「我、欲す」


 次に進み出たのは、身なりのいい細面(ほそおもて)の青年だった。胸に手を当て、朗々と声を張る。


「虐げられた民を救いたい。飢えも涙もない国を、この手で――」


 鏡が、燃えた。


 どろりと濁った、沼の底のような緑に。


 青年の顔から、さっと血の気が引いた。


 マグダの濁った片目が、じろりと彼を見上げる。


「妾腹(めかけばら)と蔑まれた。腹違いの兄どもを、足もとに這いつくばらせたい。……鏡は、そう言うておるの」


「ち、ちが……っ」


「よき欲ではないか」


 老婆は、心底ふしぎそうに首をかしげた。


「なにゆえ恥じる。なにゆえ偽った。――欲を偽る者に、黒き母は夜を与えぬ」


 黒杖が、床を打つ。


 青年は両脇を信徒に抱えられ、蒼白な顔のまま聖堂の外へ連れ出されていった。


 それが、闇神教のただひとつの罪だ。


 己の欲を、偽ること。


 《真欲の鏡》は嘘を映さない。映すのはいつだって、嘘の下に隠れたものだけだ。


 ――さて。


 オズワルドは、酒の代わりに溜め息を呑みこんだ。


 問題は、次なのだ。


 聖堂のいちばん後ろ。供物台の陰で、ひとりの少年がもぐもぐと口を動かしていた。


 黒パンを齧(かじ)っている。


 どう見ても供物台から失敬した、黒き母に捧げられたはずの黒パンを。


「……おい。それ、供物だぞ」


 隣の候補者が青ざめて囁く。少年は、ごくんと飲みこんでから答えた。


「知ってる」


「知ってるって、お前――」


「欲望に忠実であれ、だろ? 腹が減ってたんだよ」


 オズワルドは、片手で顔を覆った。


 あの馬鹿弟子。


「――最後の者。前へ」


 マグダの声に、少年は残りのパンを口に押しこむと、指についた粉を法衣の裾で拭いながら祭壇へ歩いていった。


 十五歳。背丈ばかりひょろりと伸びた痩せっぽちで、寝癖のついた黒髪は好き勝手な方角を向いている。


 ただ、目だけが違った。女神の抱くランタンの灯(ひ)を、そのまま溶かしこんだような琥珀色の瞳。


 名を、レオニス・アルヴェインという。


 三年前の冬に、オズワルドが路地裏で拾った子供だった。


「汝、何を欲す」


 少年は、鏡を見上げた。


 黒い鏡面に、痩せた自分の姿がぼんやりと浮かんでいる。そのさらに奥を透かし見るように、レオニスは少しのあいだ目を細め――


「我、欲す」


 はっきりと、言った。


「世界中のみんなが――自分の欲しい幸せを、ちゃんと手に入れることを」


 一拍。


 聖堂が、爆笑に揺れた。


「聖人ごっこかよ!」


「坊や、光の教会なら山の向こうだぜ!」


「誰か白い法衣でも仕立ててやれ!」


 さっき金貨色の炎を燃やした三男坊が、腹を抱えて笑っている。信徒も、候補者も、誰も彼もが笑っていた。無理もない。たったいま、似たような綺麗事を吐いた青年が、嘘つきとして叩き出されたばかりなのだ。


 笑わなかったのは、オズワルドひとりだった。


 笑えるものか、と思う。


 三年前の、雪の路地裏。飢えて、凍えて、半分死にかけていた子供に、オズワルドは一杯のシチューを差し出した。


 子供は震える手で椀(わん)を受け取り――それを、隣でうずくまっていた、もっと小さな子供の前に置いたのだ。


 ――こいつが先。俺は、あとでいい。


 ひび割れた唇で、そう言った。


 結局その晩、オズワルドは鍋ごと路地裏へ運ぶはめになった。


 あの日から、オズワルドはこの小僧の欲を知っている。


 鏡は、沈黙していた。


 黄金も、薄紅も、赤黒も灯らない。ただ黒いまま、底のない夜を湛(たた)えている。


「ほら見ろ、空っぽだ!」


「口先だけの坊やじゃねえか!」


 笑い声が、いっそう大きくなる。マグダが眉間の皺(しわ)を深くし、宣告を下すべく、黒杖をゆっくりと持ち上げた。


 だが、オズワルドは見ていた。


 鏡の、はるか奥。


 底などないはずの黒の、そのまた底に――針の先ほどの白い光がひとつ、灯ったのを。


 星のようだ、と思った。


 次の瞬間。


 鏡が、白く燃え上がった。


 音もなく、熱もなく。ただ圧倒的な白が、鏡面から溢れ出した。燭台の炎が一斉に鏡のほうへ吸い寄せられるように傾き、石壁に揺れていた信徒たちの影が、ひとつ残らず掻き消える。


 三百年、陽の光を知らなかった地下聖堂が――真昼のように、白く染まっていた。


 笑い声が、途切れた。


 誰ひとり、口がきけなかった。


 目を灼(や)く白のなかで、オズワルドは見た。女神像の胸で、決して消えぬはずの守り火が、怯えるように細く、細く震えているのを。


 そして、白の奥で――


 何かが、微笑んだ気がした。


 顔はない。目も、鼻もない。ただ口もとだけが、穏やかに、どこまでも優しく微笑んでいる――


 ぴしり、と。


 凍った湖が割れるような音が、聖堂に響いた。


 鏡の中心から、ひと筋の亀裂が走っていた。


 光が、消えた。


 燭台の炎がもとの形に戻り、影が石壁へと這い戻ってくる。暗がりは、さっきまでよりもずっと深く感じられた。


 静寂。


 耳が痛くなるほどの長い静寂のあとで、マグダの黒杖が、からん、と床に落ちた。


「……本気で」


 老婆の唇が、わなないていた。


「本気で、〝欲しがって〟おるのか。……この世の、全員の幸福を」


 鏡は嘘を映さない。


 黄金の欲も、薄紅の欲も、赤黒い欲も、この鏡は余さず暴いてきた。その鏡がいま――ひとりの少年の欲の大きさに耐えきれず、ひび割れたのだ。


「白く燃える鏡など……三百年前の書にしか……」


 マグダはそこで言葉を呑みこみ、固く口を閉ざした。


 凍りついた沈黙を破ったのは、あの三男坊だった。


「は……はは。なんだよ、それ」


 引きつった笑い声。後に続く者はいない。


「光ってやがる。闇司祭のくせに。――光の闇司祭さま、ってか」


 冗談のつもりだったのだろう。


 だが、笑う者はひとりもいなかった。その言葉だけが、白い残光の漂う聖堂に、いつまでも浮かんでいた。


 皮肉と、隠しきれない畏れを込めて。


 その夜、少年はそう名づけられた。


 ――《光の闇司祭》。


 当の本人はといえば、ひび割れた鏡をしばらく眺めたあと、おそるおそる振り返り、


「……あー。これって、弁償?」


 マグダは震える手で黒杖を拾い上げ、少年の脳天に振り下ろした。


「たわけ」


 ごつん、と。ひどく間の抜けた音が、聖堂に響いた。


 それから老婆は長い、長い息を吐き、黒鉄の聖印を少年の首にかけた。


「……黒き母は、汝の欲を嘉したまう」


 その手が震えていたことに、気づいた者は多くなかった。


◆


 その夜更け。


 修道院跡の片隅、オズワルドが寝起きしている狭い厨房に、煮込みの匂いが満ちていた。


 黒麦酒(ビール)でじっくり煮込んだ、干し肉と根菜のシチュー。隠し味は、真っ黒になるまで焦がした玉ねぎと、ほんのひと匙(さじ)の蜂蜜。オズワルドが作れる、唯一の料理である。


「うめえ!」


 三杯目の椀を空(から)にして、レオニスは幸せそうに叫んだ。


「やっぱ師匠のシチューは世界一だな。聖堂のパン、ぱっさぱさだったし」


「供物に文句をつけるな、罰(ばち)当たりが」


「黒き母が、腹空(す)かせたガキにバチなんか当てるかよ」


「……まったく」


 オズワルドは卓の向かいでパイプをくわえ、指先をぱちんと鳴らした。


 ぽっ、と小さな火が灯る。


 藍と金を溶かしあわせたような、夕暮れの色の火。


「師匠の火ってさ、いつ見ても夕焼けみたいだよな」


「夜になる手前の色だ。……悪くねえだろ」


 紫煙を吐きながら、オズワルドは弟子を見た。


「お前。――本気で言ったのか、あれ」


「本気じゃなきゃ、鏡は光らないんだろ」


 レオニスは四杯目をよそいながら、事もなげに言う。


「別に、聖人になりたいわけじゃねえよ。俺だって金は欲しいし、楽したいし、昼まで寝てたいし。……あと、できればモテたい」


「最後のは諦めろ」


「ひでえ」


 笑ってから、少年は湯気の立つ椀に目を落とした。


「ただ、さ。隣で誰かが腹空かせてると、飯がまずくなるんだよ。誰かが泣いてると、せっかくのシチューの味がしなくなる」


 だから、と匙を振る。


「俺がうまい飯を食うためには、世界中のみんなに幸せになってもらわなきゃ困るんだ。――な? ただの欲張りだろ?」


 オズワルドはしばらく黙って、煙をくゆらせた。


 ただの欲張り。


 まったく、その通りだ。この小僧は聖人などではない。慈悲深いわけでも、自分を犠牲にしたいわけでもない。ただ途方もなく――世界の果てまで届くほど、欲が深いだけなのだ。


 だからこそ、恐ろしい。


「……光の闇司祭、だとよ」


「な。変なあだ名つけられちまった」


「よりにもよって、真っ白とはな」


 レオニスは、ほんの少しだけ顔をしかめた。


「俺、光って嫌いなんだけどな」


「ほう。なんでだ」


「……眩しすぎると、泣いてる顔が見えなくなるだろ」


 ぽつりと落ちたその言葉に、オズワルドはパイプを持つ手を止めた。


 この小僧が、聖光教会の孤児院から逃げてきたことは知っている。そこで何があったのかは、三年経ったいまも、一度として口にしたことがない。


 訊(き)かなかった。話すかどうかは、こいつが決めることだ。


「レオニス」


 オズワルドは、パイプを卓に置いた。


「ひとつだけ、覚えとけ。――欲がでかい奴ほど、堕ちたときの獣もでかい」


「獣?」


「《欲獣》だ。自分の欲だけが正しいと思いこんで、他人の欲を踏みにじったとき――欲は持ち主を喰い破って、獣になる」


 夕暮れ色の火が、老人の顔に深い影を刻んだ。


「俺は一度だけ、見たことがある。……ありゃあ、ひでえもんだ」


 レオニスは匙を止め、少しも笑わずに言った。


「大丈夫だって。人の心にだけは、絶対に触らない。そう決めてるから」


「……そうか」


 オズワルドはうなずき、それから、弟子の手もとの椀を顎でしゃくった。


「そのシチュー、うまいか」


「世界一」


「なら、訊くがな。世の中には、辛(から)いもんが好きな奴もいりゃ、甘いもんが好きな奴もいる。肉が食えねえ奴も、シチューそのものが嫌いな奴もいる」


「えー。いるかな、そんな奴」


「いるんだよ。――そいつら全員の皿に、お前がこのシチューをよそってやったとする。世界一うまいシチューをだ。……それは、幸せか?」


 レオニスは、匙をくわえたまま固まった。


「……うまいのに?」


「うまいのに、だ」


 オズワルドは、弟子の額を指で弾(はじ)いた。


「そこが、お前の危ねえところだ」


 いてっ、と額を押さえる少年に、老司祭はゆっくりと言い聞かせた。


「いいか、坊主。幸せにしようとするな。――選ばせろ」


「選ばせる……」


「皿を並べて、好きなのを選ばせるんだ。辛いのを取る奴もいりゃ、何も食わねえって奴もいる。そいつが自分の皿を自分で選べるようにしてやる。それ以上は、余計なお世話ってもんだ」


 少年は長いこと黙って、手の中の椀を見つめていた。


 やがて、ぽつりと言う。


「……難しいな、それ」


「ああ、難しい」


 オズワルドは、ふっと口もとを緩めた。


「だから、お前みたいな欲張りには、ちょうどいい」


 それから、ついでのように付け加える。


「もうひとつ。経典の続きを、教えてやる」


「続き?」


 レオニスが目を丸くした。


「経典って、『汝、欲望のままに生きよ』で終わりだろ」


「そいつは、焼け残った頭の一文だけだ」


 三百年前、建国王の兵は闇神教の経典を焼いた。灰の中から拾い上げられたのは冒頭の一文だけで、残りは口伝えに細々と受け継がれ――いまではもう、知る者は数えるほどしかいない。


「俺が師匠から聞いたのは、最後の一行だけだ。間にもう一行あったらしいが、そいつは師匠も知らなかった」


 オズワルドは卓に身を乗り出し、弟子の耳もとで囁いた。


「――誰かの幸福を、誰かの不幸の上に築くなかれ」


 煮込みの湯気が、ゆらりと揺れた。


 レオニスは口の中で、その言葉をゆっくりと転がした。


「誰かの幸福を、誰かの不幸の上に……」


「覚えたか」


「うん。……でもそれ、『欲望のままに生きよ』と矛盾してねえ?」


「さあな」


 老人は、にやりと笑った。


「その答えは、お前が自分で見つけろ」


◆


 四杯目を平らげたところで、少年は卓に突っ伏して眠ってしまった。


 匙を握ったまま、口の端にシチューをつけて。さっき鏡を割った《光の闇司祭》とは、とても思えない寝顔だった。


 オズワルドは自分の外套(がいとう)を脱ぎ、痩せた背中に掛けてやった。


 パイプに火を入れ直す。夕暮れ色の火が、ぽっと灯る。


 ――欲がでかい奴ほど、堕ちたときの獣もでかい。


 弟子に言い聞かせたその言葉は、そのまま老人自身の胸に突き刺さっていた。


 あの白の奥で、微笑んでいたもの。


 顔のない、ただ優しく笑うだけの何か。


 目の錯覚だと思いたかった。だが、四十年闇司祭をやってきた勘が、そうではないと告げている。


 いつか、この小僧の前に、あれが立ちはだかる日が来るのかもしれない。


 あるいは――この小僧自身が、あれになる日が。


 オズワルドは、眠る弟子の寝癖頭に、そっと手を置いた。


 守ってやる、とは言えなかった。


 導いてやる、とも。


 それはきっと、自分のシチューを、こいつの皿によそうことだから。


 だから、ただ。


「……見届けてやるよ」


 かすれた声で、老人は呟いた。


「お前が何を選んで、どこまで行くのか。――この目で、全部な」


 夕暮れ色の火が、ひときわ明るく揺れた。


 それが、オズワルドという男の、最後の欲だった。

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