プロローグ 真欲の鏡
酒が飲みたい。
地下聖堂の冷えた石壁に骨ばった長身をあずけ、白髪まじりの無精髭をさすりながら、オズワルドは心の底からそう思った。
神聖なる叙階の儀の最中に考えることではない。――よその宗派であれば、の話だが。
ここでは違う。《黒き母》を奉じる闇神教において、それはむしろ模範的な信仰の姿と言ってよかった。
なにしろ、この教えの第一の掟はこうだ。
――汝、欲望のままに生きよ。
ここは国境の街のさらに外れ、とうに打ち捨てられた修道院の、地下深く。
三百年前、アルディアの建国王が闇神教を邪教と断じ、経典を焼き、司祭たちを火刑台へ送って以来、《黒き母》の子らは陽の当たらぬ場所でしか祈れない。
燭台の火が揺れるたび、黒い石壁に信徒たちの影が伸び縮みする。祭壇の奥には、顔のない女神像。胸に抱いた小さなランタンには、三百年のあいだ一度も絶やされたことのない守り火が、ほそく灯っている。
そして女神像の足もとに、それはあった。
人の背丈ほどもある、黒硝子の大鏡。
夜をそのまま切り取って嵌めこんだような、底のない黒。
――《真欲の鏡》。
前に立った者の魂の、いちばん深いところにある欲望――核欲を、色と炎で暴き出す鏡である。
「次の者、前へ」
しわがれた声が、聖堂の冷気を震わせた。
鏡の傍らで黒杖をつく、長老マグダ。百に届こうかという老婆だ。白く濁ったその片目で、もう五十年もこの儀を見届けてきたという。
進み出たのは、でっぷりと肥えた若い男だった。どこぞの商家の三男坊らしい。
「汝、何を欲す」
「わ、我、欲す」
男はごくりと唾を呑み、それから一息に言った。
「――金を。兄貴どもが一生かかっても稼げねえくらいの、山ほどの金を!」
黒い鏡の底に、ぽつりと火が点った。
溶かした金貨のような、濁った黄金の炎。それは見る間に鏡面いっぱいに燃え広がり、男のにきび面を下から照らし上げた。
「よき欲なり」
マグダの黒杖が、こつりと床を打つ。
「黒き母は、汝の欲を嘉したまう」
聖堂に拍手が湧き、誰かが指笛を鳴らした。ランタンをかたどった黒鉄の聖印を首にかけられると、男は今にも泣き出しそうな顔でそれを握りしめた。
次は、青白い顔をした痩せた娘だった。
「我、欲す。……あの人に、愛されたい」
鏡は、春の夜明けのような薄紅に染まった。
その次は、頬に焼け爛れた痕をもつ青年。
「我、欲す。父さんを吊るした代官を、この手で殺したい」
鏡の底から、乾いた血の色をした赤黒い炎が噴き上がる。聖堂はしんと静まり返り――やがて、低いどよめきに満ちた。
称賛の、どよめきだった。
ここに、それを咎める者はいない。
金を欲するのも、愛を欲するのも、仇の命を欲するのも、等しく魂の叫びである。欲望を恥じ、押し殺すことこそが、己の魂への裏切りなのだ――それが、闇神教の教えだ。
だからこそ。
この聖堂で許されない罪は、ただひとつしかない。
「我、欲す」
次に進み出たのは、身なりのいい細面の青年だった。胸に手を当て、朗々と声を張る。
「虐げられた民を救いたい。飢えも涙もない国を、この手で――」
鏡が、燃えた。
どろりと濁った、沼の底のような緑に。
青年の顔から、さっと血の気が引いた。
マグダの濁った片目が、じろりと彼を見上げる。
「妾腹と蔑まれた。腹違いの兄どもを、足もとに這いつくばらせたい。……鏡は、そう言うておるの」
「ち、ちが……っ」
「よき欲ではないか」
老婆は、心底ふしぎそうに首をかしげた。
「なにゆえ恥じる。なにゆえ偽った。――欲を偽る者に、黒き母は夜を与えぬ」
黒杖が、床を打つ。
青年は両脇を信徒に抱えられ、蒼白な顔のまま聖堂の外へ連れ出されていった。
それが、闇神教のただひとつの罪だ。
己の欲を、偽ること。
《真欲の鏡》は嘘を映さない。映すのはいつだって、嘘の下に隠れたものだけだ。
――さて。
オズワルドは、酒の代わりに溜め息を呑みこんだ。
問題は、次なのだ。
聖堂のいちばん後ろ。供物台の陰で、ひとりの少年がもぐもぐと口を動かしていた。
黒パンを齧っている。
どう見ても供物台から失敬した、黒き母に捧げられたはずの黒パンを。
「……おい。それ、供物だぞ」
隣の候補者が青ざめて囁く。少年は、ごくんと飲みこんでから答えた。
「知ってる」
「知ってるって、お前――」
「欲望に忠実であれ、だろ? 腹が減ってたんだよ」
オズワルドは、片手で顔を覆った。
あの馬鹿弟子。
「――最後の者。前へ」
マグダの声に、少年は残りのパンを口に押しこむと、指についた粉を法衣の裾で拭いながら祭壇へ歩いていった。
十五歳。背丈ばかりひょろりと伸びた痩せっぽちで、寝癖のついた黒髪は好き勝手な方角を向いている。
ただ、目だけが違った。女神の抱くランタンの灯を、そのまま溶かしこんだような琥珀色の瞳。
名を、レオニス・アルヴェインという。
三年前の冬に、オズワルドが路地裏で拾った子供だった。
「汝、何を欲す」
少年は、鏡を見上げた。
黒い鏡面に、痩せた自分の姿がぼんやりと浮かんでいる。そのさらに奥を透かし見るように、レオニスは少しのあいだ目を細め――
「我、欲す」
はっきりと、言った。
「世界中のみんなが――自分の欲しい幸せを、ちゃんと手に入れることを」
一拍。
聖堂が、爆笑に揺れた。
「聖人ごっこかよ!」
「坊や、光の教会なら山の向こうだぜ!」
「誰か白い法衣でも仕立ててやれ!」
さっき金貨色の炎を燃やした三男坊が、腹を抱えて笑っている。信徒も、候補者も、誰も彼もが笑っていた。無理もない。たったいま、似たような綺麗事を吐いた青年が、嘘つきとして叩き出されたばかりなのだ。
笑わなかったのは、オズワルドひとりだった。
笑えるものか、と思う。
三年前の、雪の路地裏。飢えて、凍えて、半分死にかけていた子供に、オズワルドは一杯のシチューを差し出した。
子供は震える手で椀を受け取り――それを、隣でうずくまっていた、もっと小さな子供の前に置いたのだ。
――こいつが先。俺は、あとでいい。
ひび割れた唇で、そう言った。
結局その晩、オズワルドは鍋ごと路地裏へ運ぶはめになった。
あの日から、オズワルドはこの小僧の欲を知っている。
鏡は、沈黙していた。
黄金も、薄紅も、赤黒も灯らない。ただ黒いまま、底のない夜を湛えている。
「ほら見ろ、空っぽだ!」
「口先だけの坊やじゃねえか!」
笑い声が、いっそう大きくなる。マグダが眉間の皺を深くし、宣告を下すべく、黒杖をゆっくりと持ち上げた。
だが、オズワルドは見ていた。
鏡の、はるか奥。
底などないはずの黒の、そのまた底に――針の先ほどの白い光がひとつ、灯ったのを。
星のようだ、と思った。
次の瞬間。
鏡が、白く燃え上がった。
音もなく、熱もなく。ただ圧倒的な白が、鏡面から溢れ出した。燭台の炎が一斉に鏡のほうへ吸い寄せられるように傾き、石壁に揺れていた信徒たちの影が、ひとつ残らず掻き消える。
三百年、陽の光を知らなかった地下聖堂が――真昼のように、白く染まっていた。
笑い声が、途切れた。
誰ひとり、口がきけなかった。
目を灼く白のなかで、オズワルドは見た。女神像の胸で、決して消えぬはずの守り火が、怯えるように細く、細く震えているのを。
そして、白の奥で――
何かが、微笑んだ気がした。
顔はない。目も、鼻もない。ただ口もとだけが、穏やかに、どこまでも優しく微笑んでいる――
ぴしり、と。
凍った湖が割れるような音が、聖堂に響いた。
鏡の中心から、ひと筋の亀裂が走っていた。
光が、消えた。
燭台の炎がもとの形に戻り、影が石壁へと這い戻ってくる。暗がりは、さっきまでよりもずっと深く感じられた。
静寂。
耳が痛くなるほどの長い静寂のあとで、マグダの黒杖が、からん、と床に落ちた。
「……本気で」
老婆の唇が、わなないていた。
「本気で、〝欲しがって〟おるのか。……この世の、全員の幸福を」
鏡は嘘を映さない。
黄金の欲も、薄紅の欲も、赤黒い欲も、この鏡は余さず暴いてきた。その鏡がいま――ひとりの少年の欲の大きさに耐えきれず、ひび割れたのだ。
「白く燃える鏡など……三百年前の書にしか……」
マグダはそこで言葉を呑みこみ、固く口を閉ざした。
凍りついた沈黙を破ったのは、あの三男坊だった。
「は……はは。なんだよ、それ」
引きつった笑い声。後に続く者はいない。
「光ってやがる。闇司祭のくせに。――光の闇司祭さま、ってか」
冗談のつもりだったのだろう。
だが、笑う者はひとりもいなかった。その言葉だけが、白い残光の漂う聖堂に、いつまでも浮かんでいた。
皮肉と、隠しきれない畏れを込めて。
その夜、少年はそう名づけられた。
――《光の闇司祭》。
当の本人はといえば、ひび割れた鏡をしばらく眺めたあと、おそるおそる振り返り、
「……あー。これって、弁償?」
マグダは震える手で黒杖を拾い上げ、少年の脳天に振り下ろした。
「たわけ」
ごつん、と。ひどく間の抜けた音が、聖堂に響いた。
それから老婆は長い、長い息を吐き、黒鉄の聖印を少年の首にかけた。
「……黒き母は、汝の欲を嘉したまう」
その手が震えていたことに、気づいた者は多くなかった。
◆
その夜更け。
修道院跡の片隅、オズワルドが寝起きしている狭い厨房に、煮込みの匂いが満ちていた。
黒麦酒でじっくり煮込んだ、干し肉と根菜のシチュー。隠し味は、真っ黒になるまで焦がした玉ねぎと、ほんのひと匙の蜂蜜。オズワルドが作れる、唯一の料理である。
「うめえ!」
三杯目の椀を空にして、レオニスは幸せそうに叫んだ。
「やっぱ師匠のシチューは世界一だな。聖堂のパン、ぱっさぱさだったし」
「供物に文句をつけるな、罰当たりが」
「黒き母が、腹空かせたガキにバチなんか当てるかよ」
「……まったく」
オズワルドは卓の向かいでパイプをくわえ、指先をぱちんと鳴らした。
ぽっ、と小さな火が灯る。
藍と金を溶かしあわせたような、夕暮れの色の火。
「師匠の火ってさ、いつ見ても夕焼けみたいだよな」
「夜になる手前の色だ。……悪くねえだろ」
紫煙を吐きながら、オズワルドは弟子を見た。
「お前。――本気で言ったのか、あれ」
「本気じゃなきゃ、鏡は光らないんだろ」
レオニスは四杯目をよそいながら、事もなげに言う。
「別に、聖人になりたいわけじゃねえよ。俺だって金は欲しいし、楽したいし、昼まで寝てたいし。……あと、できればモテたい」
「最後のは諦めろ」
「ひでえ」
笑ってから、少年は湯気の立つ椀に目を落とした。
「ただ、さ。隣で誰かが腹空かせてると、飯がまずくなるんだよ。誰かが泣いてると、せっかくのシチューの味がしなくなる」
だから、と匙を振る。
「俺がうまい飯を食うためには、世界中のみんなに幸せになってもらわなきゃ困るんだ。――な? ただの欲張りだろ?」
オズワルドはしばらく黙って、煙をくゆらせた。
ただの欲張り。
まったく、その通りだ。この小僧は聖人などではない。慈悲深いわけでも、自分を犠牲にしたいわけでもない。ただ途方もなく――世界の果てまで届くほど、欲が深いだけなのだ。
だからこそ、恐ろしい。
「……光の闇司祭、だとよ」
「な。変なあだ名つけられちまった」
「よりにもよって、真っ白とはな」
レオニスは、ほんの少しだけ顔をしかめた。
「俺、光って嫌いなんだけどな」
「ほう。なんでだ」
「……眩しすぎると、泣いてる顔が見えなくなるだろ」
ぽつりと落ちたその言葉に、オズワルドはパイプを持つ手を止めた。
この小僧が、聖光教会の孤児院から逃げてきたことは知っている。そこで何があったのかは、三年経ったいまも、一度として口にしたことがない。
訊かなかった。話すかどうかは、こいつが決めることだ。
「レオニス」
オズワルドは、パイプを卓に置いた。
「ひとつだけ、覚えとけ。――欲がでかい奴ほど、堕ちたときの獣もでかい」
「獣?」
「《欲獣》だ。自分の欲だけが正しいと思いこんで、他人の欲を踏みにじったとき――欲は持ち主を喰い破って、獣になる」
夕暮れ色の火が、老人の顔に深い影を刻んだ。
「俺は一度だけ、見たことがある。……ありゃあ、ひでえもんだ」
レオニスは匙を止め、少しも笑わずに言った。
「大丈夫だって。人の心にだけは、絶対に触らない。そう決めてるから」
「……そうか」
オズワルドはうなずき、それから、弟子の手もとの椀を顎でしゃくった。
「そのシチュー、うまいか」
「世界一」
「なら、訊くがな。世の中には、辛いもんが好きな奴もいりゃ、甘いもんが好きな奴もいる。肉が食えねえ奴も、シチューそのものが嫌いな奴もいる」
「えー。いるかな、そんな奴」
「いるんだよ。――そいつら全員の皿に、お前がこのシチューをよそってやったとする。世界一うまいシチューをだ。……それは、幸せか?」
レオニスは、匙をくわえたまま固まった。
「……うまいのに?」
「うまいのに、だ」
オズワルドは、弟子の額を指で弾いた。
「そこが、お前の危ねえところだ」
いてっ、と額を押さえる少年に、老司祭はゆっくりと言い聞かせた。
「いいか、坊主。幸せにしようとするな。――選ばせろ」
「選ばせる……」
「皿を並べて、好きなのを選ばせるんだ。辛いのを取る奴もいりゃ、何も食わねえって奴もいる。そいつが自分の皿を自分で選べるようにしてやる。それ以上は、余計なお世話ってもんだ」
少年は長いこと黙って、手の中の椀を見つめていた。
やがて、ぽつりと言う。
「……難しいな、それ」
「ああ、難しい」
オズワルドは、ふっと口もとを緩めた。
「だから、お前みたいな欲張りには、ちょうどいい」
それから、ついでのように付け加える。
「もうひとつ。経典の続きを、教えてやる」
「続き?」
レオニスが目を丸くした。
「経典って、『汝、欲望のままに生きよ』で終わりだろ」
「そいつは、焼け残った頭の一文だけだ」
三百年前、建国王の兵は闇神教の経典を焼いた。灰の中から拾い上げられたのは冒頭の一文だけで、残りは口伝えに細々と受け継がれ――いまではもう、知る者は数えるほどしかいない。
「俺が師匠から聞いたのは、最後の一行だけだ。間にもう一行あったらしいが、そいつは師匠も知らなかった」
オズワルドは卓に身を乗り出し、弟子の耳もとで囁いた。
「――誰かの幸福を、誰かの不幸の上に築くなかれ」
煮込みの湯気が、ゆらりと揺れた。
レオニスは口の中で、その言葉をゆっくりと転がした。
「誰かの幸福を、誰かの不幸の上に……」
「覚えたか」
「うん。……でもそれ、『欲望のままに生きよ』と矛盾してねえ?」
「さあな」
老人は、にやりと笑った。
「その答えは、お前が自分で見つけろ」
◆
四杯目を平らげたところで、少年は卓に突っ伏して眠ってしまった。
匙を握ったまま、口の端にシチューをつけて。さっき鏡を割った《光の闇司祭》とは、とても思えない寝顔だった。
オズワルドは自分の外套を脱ぎ、痩せた背中に掛けてやった。
パイプに火を入れ直す。夕暮れ色の火が、ぽっと灯る。
――欲がでかい奴ほど、堕ちたときの獣もでかい。
弟子に言い聞かせたその言葉は、そのまま老人自身の胸に突き刺さっていた。
あの白の奥で、微笑んでいたもの。
顔のない、ただ優しく笑うだけの何か。
目の錯覚だと思いたかった。だが、四十年闇司祭をやってきた勘が、そうではないと告げている。
いつか、この小僧の前に、あれが立ちはだかる日が来るのかもしれない。
あるいは――この小僧自身が、あれになる日が。
オズワルドは、眠る弟子の寝癖頭に、そっと手を置いた。
守ってやる、とは言えなかった。
導いてやる、とも。
それはきっと、自分のシチューを、こいつの皿によそうことだから。
だから、ただ。
「……見届けてやるよ」
かすれた声で、老人は呟いた。
「お前が何を選んで、どこまで行くのか。――この目で、全部な」
夕暮れ色の火が、ひときわ明るく揺れた。
それが、オズワルドという男の、最後の欲だった。




