8
胃が口から飛び出るかと思った。
鼓膜をつんざくような風の音と、内蔵を鷲掴みにされるような凄まじいGの暴力。
魔物の群れを間近に見ながらのジェットコースターは、景色を楽しむ余裕もなかった。いや、そのほうが良かったと言えるのだが。
目の前でニ階建ての建物ほどもあるオーガの、首があっけなく飛んだかと思えば、次の瞬間にはふわりと宙に浮かび、気がついたときには終点である城壁の上にいた。
大剣が光へと還っていく。
そして頑なに俺を抱えて離さなかったブリュンヒルトがついにその腕を緩める。
まるで鳥の雛を扱うかのような柔らかい手つき。
俺はいつ以来かの硬い石畳の感触を味わうことが出来たのだった。
「っ、げほっ、おぇぇ……」
もっとも、久々に地に足がついたというのに、たまらずその場にうずくまることになったのだが……。
えずくのみで、辛うじて吐き気をこらえる俺の背中を、白銀の腕が優しく擦る。
「申し訳ありません、少々急ぎすぎました」
「うぅ……」
気遣いながらも涼し気な声に、俺は涙目で視線を向けることしかできない。
だが、そんな余裕はすぐに消え去った。
顔を上げた俺は、周囲の異様な空気に気がついたのだ。
白亜の防壁の向こうからは絶え間なく魔物の咆哮が聞こえてくるというのに、ここだけは時間が止まったかのように静まり返っている。
取り囲んでいるのは、革鎧やローブなどバラバラの装備に身を包んだ者たち——誰もが血と汗に塗れ、ボロボロに疲弊している。
皆一様に武器を下ろし、ぽかんと口を開けてこちらを食い入るようにみつめていた。
とても、得体のしれない闖入者を見るような警戒の雰囲気ではなかった。
ただ純粋な驚きと、どこか拝むような熱っぽい視線。
(まあ、無理もないか)
突然、神々しいまでの威容を誇る白銀の騎士が、戦場を無傷で駆け抜け降り立ったのだ。
唖然とし、また見惚れるのも無理はないだろう。
「指揮官はどなたでしょうか」
凛とした声が、静まり返った城壁に響き渡る。
「俺だ。いや、本来の守備隊長はもう死んじまった。俺は代理……ヴァルハルトで冒険者をやっているバルガスってもんだ」
ハッと我に返ったように、一人の大柄な男が進み出た。
そのギラギラとした眼は、劣勢の防衛戦にあっても戦意を保っていたことを伝えてくる。
「あんたらは、一体何者だ?敵ってわけじゃなさそうだが……」
「私はブリュンヒルト。 理由あって身分を明かすことはできませんが、こちらにいらっしゃるカナタとともに旅をしていたところ、こうして此度の災害に巻き込まれてしまったのです」
この戦火の中にあって微塵の揺らぎもないブリュンヒルトの佇まい。
だがその白々しい嘘に、俺に若干の冷や汗が流れる。
「不躾ながら、我々の力が一助になるかもしれません。状況を共有していただけますか?」
「見ての通りだ……。軍も冒険者の高ランクの連中も、軒並み遠征に出払った後さ。残ってるのは俺みたいなロートルと、新米どもばかり。あんたらが来てくれなかったら今日一日も保ったか怪しいところだった」
バルガスは城壁から眼下を見て、一つため息をついた。
ブリュンヒルトが突き進んだ進路には道ができ、倒れたオーガの巨体に押しつぶされた多くの魔物が骸を晒している。
「……正直、助かったぜ」
—————
バルガスによると、古都ヴァルハストの外壁が破壊されたあと、生き残った多くの市民と防衛戦力は中心部のこの城へと籠城しているらしい。
逃げ込んだ避難民の数はおよそ五千に対して、戦える者はかき集めても三百に満たないほど。
さらに絶望的なのが、唯一の遠距離通信設備のある尖塔——電波塔のようなものだろうか?——が破壊されたために、外部との連絡が取れず、援軍を呼ぶことも遠征軍を呼び戻すこともできないのだという。
「しかし、解せませんね。先程の魔物の群れは数だけは多かったですが、これほどの都市を陥とすにはあまりに、弱い……。何か別の要因が?」
ブリュンヒルトの疑問。
「あんたらは見てないのか?ああ、いくら上の連中がいねえといってもこの程度の魔物、本来なら外壁だけで十分に守れてたんだ。実際、最初は俺も前線にいたが、これよりもっと規模がでかい群れでも鎧袖一触ってやつだったしな。……ヤツが来るまではな」
そう言って、忌々しく灰色の雲を睨むバルガス。
「『凶星の灰竜』さ。突然雲から出てきて全部ぶっ壊してしていきやがったッ!」
外壁を守備隊ごと吹き飛ばし、街を蹂躙し、白亜の城をその結界ごとぶちやぶった怪物。
俺が意識を失う前、吹き飛ばされる原因となった爆発もそいつなのだろう。尖塔もそのときにやられたのか。
「『凶星の灰竜』……っ」
聞き覚えのある名前に思わず声を漏らす。
現実離れした単語だが、『エターナルレジェンド』では何度も聞いたことがある響きだった。俺の脳はまだ、現実と仮想の狭間で軋む音を上げている。
ブリュンヒルトは思案げな顔で、更に問う。
「その敵は今どこに?」
「わからねぇ……。尖塔をへし折った後、気づいたら雲の上に飛んでいっちまった。巣に帰ったのか、あるいは……」
バルガスの絶望に染まった返答に彼女は少しだけ目を伏せるが、すぐに顔を上げた。
「状況は理解しました。破壊の規模をみるに『凶星の灰竜』とやらの襲撃が現状で最大の脅威といって間違いないでしょう。その対策は急務、ですのでまずは足元の敵を殲滅してしまいましょう」
「それは、できればそうしたいが……」
ブリュンヒルトの提案は的を得てはいるのだろうが、バルガスは渋い顔を見せる。
『凶星の灰竜』は『エターナルレジェンド』でもかなりの強敵だ。
理不尽なまでの範囲攻撃に機動力でプレイヤーを苦しめたレイドボス。本来ならば、こんな街にいるはずのない敵。
現実にあっても……これが現実であるならば、目の前の惨状を作り出せるほどの存在が、いつまた戻ってくるともしれない。
早急に対策すべきなのだろうが……。
俺は周りを見渡す。
ここにいるのは、自身の武器を杖代わりにしてようやく立てているような者たちばかり。
とてもではないが、打って出ることが出来るほどの戦力があるとは思えない。
「安心なさい。私が一人で出ます」
「ッ!本気か!?あんたが強いのはわかってるが、流石にあの数を一人でってのは……」
「あの程度の敵相手に、数の多寡など何の問題もありません。それに——」
ブリュンヒルトの雰囲気が変わる。
空気がひりつき、彼女の両手に光の粒子が収束し、武具の形へと変化していく。
右手に握られるのは、先ほどオーガの首を容易く斬り飛ばした分厚い大剣。左手には、その体躯にふさわしい巨大な盾が顕現していた。
「——カナタの耳をこれ以上、あの汚らわしい獣の咆哮で汚すわけにはいきませんので。少々掃き掃除をしてくるだけです」
巨躯であるバルガスよりも、さらに頭一つ分の長躯を誇る白銀の鎧を身に纏う女騎士。
その手にある大剣も白銀の盾も、決してお飾りなどではない。凄まじい膂力と技量を見せつけられたばかりなのだ。
例えるなら、神話から抜け出してきたような戦乙女、どれほど絶望の波が打ち寄せようとも揺らがない、白銀の城壁……。
満身創痍の兵士たちもまた、彼女の背に同じような畏敬の念を見ていたに違いない。
「私が居ない間、カナタをこの場でお守りなさい。万が一にも、その美しい髪の一本、柔らかな肌にかすり傷一つついたなら——魔物の群れよりも恐ろしい悪夢をお見せしましょう。よいですね?」
もっとも、すぐに言い放った彼女の言葉に、彼らの顔は引きつったものになっていたのだが。




