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泥の底を歩いているような全身の重さは、もう無かった。
奇跡的に潰されずにすんでいたが、周囲の瓦礫の山はいつ崩れてもおかしくない。
俺は右手に握った『天眼の琥珀』を支えに、見えている隙間へと左手をねじ込んだ。
少しでも身を捩る空間を広げようと、渾身の力を込めて押し上げる。
——しかし、ピクリとも動かなかった。
それどころか、押し当てた自分の手を見て、命を脅かされている危険とは別に、冷たい汗が流れるのを感じた。
砂や泥で汚れてはいるが、それはどう見ても成人男性の無骨な手ではない。
細く、しなやかで、手首など少し力を入れれば折れてしまいそうな華奢な腕に、太陽を吸い込んだような琥珀色の肌——。さらに言ってしまえば、さきほどから胸部に感じる強烈な違和感。瓦礫に押し当てられ、明確にひしゃげる何かの圧迫感は人生で初の経験として脳髄に叩き込まれている。
震える思考を必死に麻痺させ、パニックを喉の奥へと押し込む。
まずはこの危機を脱しなければならない。
頼りない細腕を懸命に動かす。
その力は平和ボケした現代人の俺よりも、さらに非力で、致命的なほどにか弱い……。
火事場の馬鹿力というやつを期待して、全身の力を使いがむしゃら押すが、やはり隙間を大きく広げるには至らなかった。
再び絶望の海に投げ出されかけたとき、俺はふと気づいた。
外からの光が差し込む穴は、確かに俺がとても通り抜けられそうにないように思える。
——今の俺ならば?
(もしかしたら……)
俺は大きく息を吐き出し、肺を限界までしぼませた。
そして外への道に、衣服を泥だらけにしながら身体をねじ込む。
狭い空間を無理やり這いずるたびに、細い肩や胸の柔らかな質量が石に押し付けられる生々しい摩擦。
痛みに顔を歪めながらも、無理矢理に身体を捩っていく。
そして、重力を失う感覚。
「うがぁ……!?」
勢い余って、俺はごろごろと瓦礫の斜面を転がり落ちた。
ひび割れた石畳に身体を打ち付けたが、その痛みは生を実感させるもののように思われた。
仰向けのまま、大きく息をする。
灰色の空からは火の粉が舞い落ちてくるが、肺いっぱいに吸い込んだ空気は、その熱気を含んだ不快な風すらも、澱みなく、澄んでいた。
死の淵から這い出した安堵が、震える指先まで波紋のように広がっていく。
しかし、そんな余韻など感じる暇などない。
この広々とした外の世界は、やはりというべきか「戦場」だった。
甲高い金属音に、何かが爆発するような音、至るところから悲鳴が聞こえてくる。
縋り付くように『天眼の琥珀』を杖にして立ち上がる。
視界をよぎるのは戦火の炎をも焦がすような、鮮やかな赤髪。
「はは……」
乾いた笑いすら、美しく、澄んでいた。
自然と心臓の鼓動が早くなる。
胸に手を当てると、そこには服の上からでもわかるような豊かな膨らみが掌を通して伝わってくる。
思考の奥底でばらばらだった欠片がたちまちに組み上がっていくようだった。
顔を上げてみれば、かつては立派な街並みだったものが広がっている。
それは白亜の真珠とも称えられた『古都ヴァルハスト』の無惨な姿だった。
壮麗な白亜の城を中心に広がる、人類側の前線における最大の交易拠点。
広場には常に噴水が虹を作り出し、大通りにはNPC商店と共にプレイヤー達の露店がところ狭しと立ち並ぶ、平和そのものを形にしたような都市は、今や地獄と化していた。
建物は崩落し、憩いの場であったはずの大理石のベンチは砕け、その白地を赤黒いシミが汚している。石畳のあちこちに衣服の端切れや、荷車の中身が散らばっている。
そして、何より俺の心を寒くさせたのは、至るところに横たわるモノたちの姿だ。何かを掴もうと伸ばした手、虚空を見つめる光のない目……。
現実感がない光景。
いや、こんなものがリアルであって良いはずがない。
だが、この杖が、この身体が、この感覚が、そしてこの絶望的な光景のすべてが。
「悪夢」という名の逃避を無慈悲にに食い破っていくのだった。
「グルルルル……」
唸る獣の声。
茫然と佇む俺を、戦場はまるで容赦なく追い立てる。
大の人間を容易く押し倒すことができそうな、獰猛な獣。
周囲の死体に引き寄せられたのか、あるいは最初から俺を獲物と認識していたのか。立ち込める煙の中から何体ものそれが姿を現した。
『屍狼』——『エターナルレジェンド』における魔物と呼ばれる敵である。
その群れが俺を取り囲もうとしていた。




