36 ※別視点
この回は視点が変わります
時は数日を遡る。
嘆きの渓谷を吹き抜ける風はひどく生暖かい。
だ足元に広がるのは無数の骸と、黒く変色した大地。血と臓物の匂いが鼻腔を撫でる……。
古都が送り出した精鋭、遠征軍の威容はもはやなく、今や泥に塗れ肉塊へと成り果てている。
ザガンはその惨状を静かに見下ろし、深く皺の刻まれた顔をわずかに歪めた。
ガチャリ、と背後で鈍い金属音が鳴る。
身の丈ほどもある大剣を担ぐ、黒い重鎧の戦士だった。
「なかなかの手応えだった……火の連中も捨てたものではないな!」
「カカッ……想定以上の被害じゃ……。お前を連れてきて正解だったわい、バルバロス」
「ふん、軍団長の共同戦線など用心のしすぎだと思ったが、いくらかは骨のあるやつも混じっていたな。見ろ、この傷を!」
「カカカッ……」
黒い鎧に僅かについた刀傷をなぞり、バルバロスと呼ばれた戦士は兜の奥で低く喉を鳴らす。同格たる軍団長を二名も投入するなどと思ったが、自らに触れられるだけの相手に満足しているようだった。
「スタンピードも随分と削られたが……まあよい。どのみち最後は我らで制圧する予定じゃったしのう……。手間が省けたというべきか」
ザガンは枯れ木のような手で、鈍く光る水晶玉を撫でる。
濁った瞳は遥か彼方の古都ヴァルハストを見据えていた。
堅固な城壁は崩れ、主要な戦力はもはや大地に還った。盤上であればすでに詰みと言って良い状況だろう。
「後はさっさと古都を落として終わりというわけだ」
「そうなると良いがのう……」
ガハハと哄笑して見せるバルバロスをよそに、ザガンは小さく乾いた息を吐く。
「今代の『竜騎士』……あれは歴代でも屈指の実力じゃろうな。数万の軍勢を相手にするよりよほど肝が冷えるわい」
「ほお……それは楽しみだ」
大剣が風を切って肩に担ぎ直された。
見開かれる双眸が血に飢えた狂戦士の熱を帯び、周囲の澱んだ空気をビリビリと震わせる。
ひどくやかましい覇気をやり過ごすようにザガンはカラカラと喉を鳴らす。
「カカカッ……もはや放っておいても詰みじゃ。儂としてはこのまま帰還してもよいのじゃが——」
「おいおい、冗談はよしてくれ。俺を誘ったからには最後まで付き合ってもらうぜ」
「カカッ、血の気の多いことじゃ」
そうして灰の軍勢が再び進軍を始める。
——『灰骨の愚者』ザガンと『暴食の灰刃』バルバロス
二つの厄災が再び絶望の影を落そうとしていた。
古都ヴァルハストへ向けて……。
——————
しかし、盤面はザガンの予測から大きく外れることとなった。
古都を望む小高い丘。
薄暗い灰に潜むように、ザガンは戦場を睥睨していた。
先行させた灰の軍勢が足を止めている。否、押し戻され殺戮されていた。
視界を埋め尽くすほどの軍勢をもって、寡兵のヴァルハストを『竜騎士』もろともに圧殺する。単純だが、これ以上無いほどに強力な戦術のはずだった。
無論、かの英雄をそれだけで仕留められるとは思うほど、彼は楽観していない。しかし——
「カカカッ……計算が狂うわい」
籠城を捨てて打って出た敵軍。よもや捨て身の特攻かと、水晶玉を覗き込んだザガンの濁った瞳がわずかに見開かれる。
眩い白銀の煌めきとともに、古の騎士の装いをした大軍が突如として現れたのだ。数だけではない。その練度たるや、ザガンの長い生の中でも五指に入るほどだった。
これを成しているのが、水晶玉に映る一人の女騎士だというのだから驚く他無い。
「カカッ……規格外もよいところじゃが、あれほどの術そう長くは保たぬわな」
圧倒されている自軍を見ながらも、ザガンに焦りはなかった。
背後で湿った風が撫でる。
いつの間にか大剣を地についたバルバロスが、兜の奥で獣のような呼気を漏らしている。
狂戦士の双眸はすでに眼下で灰の海を蹂躙する鋼の騎士たちに釘付けになっていた。分厚い装甲が軋む音を立てる。小刻みに震えているのは恐怖ではない、敵への歪んだ渇望。
「おい、ザガン」
「あー……好きにせい」
ザガンはため息とともに、枯れ枝のような手をひらひらと振って見せる。
もとより制御しようとは思ってはいない狂戦士だ。自由に戦わせておけば、勝手に敵が死ぬ。
「あいつらは、俺が喰う」
敵の重装騎馬隊が灰の軍勢を割り、楔を打ち込もうとしている。
バルバロスは低く獣のように喉を鳴らすと、堪えきれぬといった様子で大地を砕いた。
黒い獣が重力を無視したような跳躍で戦場のど真ん中へ向かって落下していく。
まるで隕石が堕ちたかのような爆発。
金属のひしゃげる絶叫に、舞い上がる土煙と灰——
圧倒的な暴力が、迫りくる騎士たちを跡形もなくすり潰していた。
不気味な静寂が落ちる。だが、それも一瞬のことだった。
空気を切り裂き、獣の咆哮が戦場を揺るがす。
「——オオオオオオオオオオッ!!」
吹き荒れる重圧に、騎士団の進撃は完全に足を止める。
土煙の晴れ間から姿を現した漆黒の巨躯は、歓喜に嗤っていた。




