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『凶星の灰竜』が、天を仰ぐようにして大きく顎を開いた。
その周囲の空気が、熱波と共に口内へと吸い込まれていく。禍々しくも圧倒的な熱量が、その喉の奥で臨界点に向けて圧縮されていくのがはっきり分かる。
ゲームでは地面に表示される赤い範囲から外れさえすれば、敵の攻撃は簡単に回避できた。パターンも一定で、慣れたプレイヤーならば次の攻撃の場所を予測して立ち回ったりもしていた。
だが、現実は違う。足元には石畳がめくれたむき出しの土と瓦礫ばかりで、親切な警告などありはしない。仮に直撃しなくとも、大規模な火炎は、その余波だけで容易に命を刈り取るだろう。
背筋に強烈な悪寒が走る。
熱波の中心にある赤黒い双眸——『凶星の灰竜』と視線が絡み合ったのだ。
間違いない。おそらく放たれようとしてる致死のブレス。その射線上にあるのは、ここだ。
殺意が、膨れ上がる。
足がすくんで、一歩も動けない。
そして、城壁すらも焼き尽くした灼熱が、ついに解き放たれた。
最初に『凶星』を認識し、喉が潰れそうなほどの叫びを上げて警告してから、ほんの僅かの時間だった。広場の者たちはどれくらいが退避できただろうか——。
「あ、」
思考が白く染まる。逃げることも、目を閉じることすら間に合わない。
圧倒的な死の奔流が迫る。
その刹那だった。
——視界が、眩い白銀に覆われた。
鼓膜を破るほどの爆音と共に、世界が紅蓮に飲み込まれる。地面を溶かすほどの業火——しかし、俺達の身体が灰と化すことはなかった。
眼前には、白銀の鎧を身に纏う騎士、ブリュンヒルトが立ちふさがっていた。
彼女が顕現させた大盾は地面に深々と突き刺さり、俺達を覆うように半球状の光の壁を作り出している。激流のように押し寄せる炎を、軋みを上げながらも受け止めていた。凄まじい熱気が壁を通して肌を焼くが、致命的なほどではない……。
未だ勢いの収まらない灰竜のブレスは、彼女の背中の向こう側で二つに分かれて、周囲の瓦礫を溶かしながら破壊の限りを尽くしていく。
「なるほど。カナタ、貴女の話した『レイドボス』の知識は、おおよその灰竜の特徴を捉えているようです」
灼熱の中でも、ブリュンヒルトは涼し気な様子を崩さない。
世界が終わりを迎えるかのような業火の嵐の中で、揺らぐことの無い城のような白銀の騎士。絵画から抜け出してきたような立ち姿は、神々しさすら感じられた。
炎が収まり、焦げた匂いと黒煙が広場を包み込む中、ブリュンヒルトの叱責が飛ぶ。
「——ですが、このような危険を冒すのは褒められたことではありませんね。貴女の役目は刃を振るうことではないのですから」
「す、すまない……」
「全くです。なぜこのような——」
背後にいる俺達をちらりと見たブリュンヒルトは、束の間、沈黙する。彼女の背後には、俺と数名の兵士、そして倒れ伏すガーディムたちがいた。
彼女は一つ嘆息して、口を開いた。
「……例え戦いの中でも、貴女の身に危険が迫れば気づくことができますが、自分の命を第一に考えるのをお忘れなく」
「……あ、ありがとう。助かった……」
勝手な行動を咎めつつも、身を挺して俺を守ってくれるという。その頼もしい背中を見上げていると、張り詰めていた糸が緩んでいくのを感じる。
だが、その時だ。ピキリ、と不吉な音が響いた。
「ブリュンヒルトっ……、盾が!」
ブリュンヒルトの持つ大盾には、大きな亀裂が入っていた。そして幾筋もの罅が表面を走り、ガラスの割れるような音を立てると共に、光の粒子となって空中に溶けていく。
「少々、魔力を使いすぎました。……まずいですね」
彼女が厳しい視線を向ける先、煙が晴れつつある広場の中央を見る。
(そうだ、そうだった……)
ゲーム中の『凶星の灰竜』がもつ厄介な特性として、灰の中では急速に体力を回復することがあった。体力が減ると熱波を放出し、火炎を吐き出し自ら灰を作り出すのだ。こちらは近づけず、敵は急速に傷を癒す——故にゲーム内では即死級のブレス攻撃を避けながら、ギリギリの距離を保って攻撃をする手腕が求められた。
そして、現実にそれが出来る唯一の存在、ブリュンヒルトは俺の側にいる。つまり——。
焦熱地獄が終わり、世界は舞い散る灰に覆われていた。ある種、幻想的とも言える光景の中で、不気味な音が響く。『凶星の灰竜』が自らが生み出した灰を、その巨体へ吸い込んでいるのだ。熱と灰を糧にして、みるみるうちにひび割れ抉れた身体や、切断された尾すら再生していく。
「は、はは……」
あまりの絶望に、乾いた笑いが漏れた。
思い出したのだ。『エターナルレジェンド』で俺が『地雷』と呼ばれていた理由を。
俺はゲームが上手くない。否、下手だった……。幸運にも、ブリュンヒルトという超高性能な召喚獣を手に入れたときには、その流麗かつ力強い見た目に見惚れつつ、「これでやっと人並みに活躍できる!」と喜んだものだった。
『召喚士』とは召喚獣を顕現させて戦うクラスで、『エターナルレジェンド』では数え切れないほどの種類の召喚獣に、それぞれ独自のAIが搭載されていた。
攻守に優れ、希少性も高い『白銀の騎士ブリュンヒルト』も当然ながら高性能な独自行動機能を備え「召喚士がダメージを受けそうになると必ず側で守る」のである——敵への攻撃や味方への支援、全ての命令を無視して。
召喚士は後衛で指示を出すのがメインのクラス。耐久力は低いが、そもそも被弾が少ないので問題にはならない、はずだった。
……そう、プレイヤーがまともならば。
俺のセレアの操作は10年以上経っても拙いままで、ブリュンヒルトが本来の性能を発揮することはほぼなく、あらゆる戦いでパーティーの連携を破壊するだけの存在だったのだ。
そしてこれは、ゲームではない。やり直しの効かない現実……。
ずしりと重く冷たい罪悪感が、臓腑を締め付けてくる。
灰竜はすでに再生を終えた無傷の翼を誇示するように広げ、低い唸り声を上げていた。
「カナタ、私がいなくなったあとは、アルベルト殿を頼りなさい」
「え……?」
凛とした声。些かの揺るぎもなく告げられる言葉に、思考が止まった。
俺の困惑に答えるまでもなく、大剣を構え、腰を大きく沈めるブリュンヒルト。それは、城壁の上で灰竜に向けていたものと同じだった。
『—————————!!』
『凶星の灰竜』の咆哮が、空間を揺るがす。力強く翼をはためかせ、吹き荒れる風と共に巨体が宙へと浮き上がる。再び、空からの無慈悲な蹂躙が始まろうとしている。
ブリュンヒルトの全身から爆発的に何かが噴き上がるのを感じる。肌が粟立つほどの凄まじい圧迫感——闘気や剣気といったものがあるならこういうものを言うのだろう。周囲の空間を軋ませるほどの魔力が、大剣へと収束していく。
ただでさえ魔力を消費している彼女が、これだけの技を放てばどうなるか、俺にだって分かった。俺の悲痛な叫びも、力の奔流にかき消されていく。
その刹那だった。
「——『翠緑の流星』」
天からの涼やかな声と共に、上空へと飛び上がろうとしていた『凶星の灰竜』の頭上に、一条の流星が堕ちた。




