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9 影武者の名

この夜、美野は、九郎義経の「影」を知ることになるのです。


 その夜、めずらしく義経は、美野の部屋に入ってきた。だが、義経は酔っていた。そんな姿を見たことがなかったので、美野はとまどった。

 かなり酔っているにもかかわらず、それでも義経は酒の支度をさせた。美野が酒をつごうとすると、無言で拒まれた。

 一人で黙々と酒を喉に流し込む義経には、まるで美野の存在が見えていないように感じられた。


 『何か話さねば……』と美野は焦った。とにかく義経と打ち解けたいと思った。少しでも心を許してもらえれば、自分が間者を命じられていること、だが、その役目をするつもりはないこと、自分も、河越の父も兄も義経の味方であること……などを正直に話すつもりだった。そうすれば、きっと、わかってもらえる。

 だが、先に口を開いたのは義経だった。


「昼間、杉目(すぎのめ)と話をしていたようですが……」


「杉目……」


 はじめて聞く名前に戸惑っていると、義経が乱暴に盃をおいた。


「隠さずともよい」


 じっと見つめられて、その面差しに似た人を思い出した。


「あの方……杉目という名前なのですね。名乗られなかったので……」


 すると、義経はふっと笑った。唇をゆがめた皮肉な微笑みだった。


「確かに、杉目が自分から名乗ることはないでしょう」


 義経の郎等なのに、何故北の方である自分に名乗らないのか……その意味を考えていたら、義経が、その理由を語ってくれた。


「杉目は、私の影武者です」


 驚く美野に、ひどく冷たい声での説明が続く。


「杉目は、平泉の藤原秀衡殿が、私につけてくれたのです」


「では、佐藤兄弟と同じように奥州からご一緒にいらしたのですね」


「だが、杉目は継信たちと違い、自分の存在を敵に知られてはならない。私の代わりに死に、世の人に……特に敵に『九郎義経は死んだ』と思わせる役目なのですから。ゆえに、あなたにも名乗らなかった」


 そう言われた瞬間に腑に落ちた。彼が名乗らなかったわけ。そして、はじめての夜に、姿を見せず、声だけで美野に義経の言葉を伝えたわけを。

 影武者ならば、存在は人に知られてはならないし、戦で華々しく活躍も出来ないだろう。


「杉目は、私に似ていたでしょう?」


 問われて、杉目の顔を思い出す。確かに似ていたが、瓜二つというわけではなかった。義経が日輪だとすれば、杉目は月。穏やかな表情の奥に憂いを隠しているような杉目に、美野はふと心が揺れた。そして、その心のままに、尋ねてしまっていた。


「杉目……なんとおっしゃるのでしょう、御名前は」


「杉目小太郎行信(ゆきのぶ)です」


 挑むような口調に、はっとする。義経は、ひどく厳しい表情をしていた。

 冷静に考えてみれば、おかしな話だった。影武者などという内密にしなければならないことを、何故教えてくれたのか。


「杉目は私に似ている。だが、違うところもある。今のあなたなら、言うことができるでしょうね。杉目が私の身代わりで死んだとき、これは九郎義経ではない。影武者だと」


「そんなことっ……!」


 絶対に言いません、という言葉は続けられなかった。まるで、そういう事態を望んでいるかのように聞こえてしまう気がしたから。だから、代わりに言った。


「わたくしは……杉目が身代わりで死ぬようなことがないよう祈ります。九郎さまのためにも、杉目のためにも……」


 義経は、そんな美野をじっと見つめていたが、ふいっと顔をそらすと言った。


「甘いな……。河越殿の息女とは、とうてい思えない」


 その言葉に、美野は思わず息をのんだ。単に、武士の娘らしくないという意味にもとれる。だが、美野を河越重頼の娘ではないと疑っているのなら……。

 義経が、自分を間者として疑っているのは間違いのない事実だ。それと同時に、自分が河越重頼の実の娘ではないことも疑っているのなら……。

 確かに、美野は義経にいくつもの隠し事をしている。だが、それはしたくてしているわけではない。上総介広常の娘であることも、いつかは告白したいと思っていた。


 けれども、義経は、言い訳を言う隙さえ与えてくれない。

 ほんの少し心を開いてくれれば、嫁いだ事情も話せるし、自分も河越の父兄も義経の味方だと告げることも出来るのに。

 そんな想いが渦巻いて……。そして、美野は言ってしまった。


「そう言えば、お庭の水辺で、美しい女の方を見ました。花を摘んでらしたのです。まだ、お若くて、きゃしゃな感じの方で……動きが、まるで舞を舞うように優雅でした」


「なにが言いたい?」


 盃を持った手が、ぶるぶるとふるえていた。

 逆鱗に触れてしまったのかもしれない。彼女が側室ならば、知っておきたいと思っただけだったのだが……触れて欲しくなかったのだろう。つまり、彼女は鎌倉には知られたくない存在なのかもしれない。

 なにも言えないでいると、義経は、盃をたたきつけるように膳の上に置いた。そして、いきなり立ち上がると、美野を睥睨する。


「やはりおまえは、鎌倉の手先。義経の妻ではない!」


 そう言うと、部屋を出ていってしまった。

 後を追おうと回廊に出たが、足早に立ち去る義経の背中は美野を拒否しているように見えて、それ以上前に進むことは出来なかった。

 美野は、ふと空を見上げた。


「……鼓星……」


 夜空に、並ぶ三つの星。それを囲むのは一際輝く四つの星――。


「お父さま……」


 くっきりと見えていたはずの鼓星がにじんだが、それでも美野は、空を見上げ続けた。


 美野は、増尾を捜した。昨夜のこと――杉目や庭で見かけた女性の話をして義経の怒りをかってしまったこと――を、増尾と兄に相談したかった。増尾を見つけ、そして、兄の館まで供をしてもらわなければならない。

 しかし、増尾はどこにもいなかった。

 厩舎の前まで来たとき、行信の姿を見つけた。


「行信……」


「お方さま」


 名を呼ばれたことに、行信は驚かなかった。義経が自分の存在を話したことを知っているのだろう。


「増尾を見ませんでしたか? 兄の……河越小太郎重房の館に行きたいので、供を頼みたいのです」


「河越殿の御館に……ですか?」


 行信はちょっと考えてから、言った。


「河越殿は、御大将の書状を届けに、高野山まで行ってらっしゃるはずですが……」


「知りませんでした」


「急なお発ちだったのです。紀伊ノ国で、もめごとがあって、御大将がそれを収める書状をお書きになって……急いで届けなければなりませんでしたから……」


「九郎さまは、検非違使尉でいらっしゃいますものね……」


 その任を受けたことで、頼朝の怒りをかったのだが……。

 受けたからには、任務は全うしようとする義経を、それでも好もしく思う自分を、美野は少し哀れに感じた。


「兄はいつごろ帰るのでしょう?」


「さあ……少なくともあと十日はかかると思いますが……」


 仕方のないこととはいえ、十日も待たなくてはならないのは、つらかった。だが、ほかにどうしようもない。

 あきらめのため息をついた美野だったが、行信が手入れしている馬が気になった。


「この馬は?」


「御大将の御馬です。この黒馬は、法皇さまから賜ったものです。『大夫黒』という名も。大夫というのは五位の位のことを言うので……五位になられたときの記念に」


 誰もが知っていることを、妻である自分が知らない……。

 行信の表情は、とまどいから、同情へ変わっていくのを見て、美野は、自分が情けない表情をしていたのだな……と気づいた。

 そして、その表情を見て、美野はふと、行信に相談してみようか……と思いついた。行信とは、昨日の昼、ほんの少し顔を合わせ、話しただけだ。けれど、父も兄も身近にはいない今、美野がいくらかでも心が許せると思うのは、行信だけだった。


「連れて行ってほしいのです。この前見かけた、あの美しい人のところへ」


「ですが、あのお方は……」


「九郎さまの御側室なのは気づいています。わたくしは正室ですから、どんな方が側室なのか、知っておきたいのです」


 行信は、しばらく考えこむような様子をしていた。が、やがて言った。


「私と一緒に来てください」


 行信が美野を連れていったのは、堀川の館の隅にある、小さな館だった。本当に目立たない所にあって、行信に案内をされなければ、自分は永久に気づかなかっただろう……と、美野は後々も思ったものだった。


 その小館に近づくと、笛と鼓の音が聞こえた。行信に導かれるまま、庭を回る。すると、館の中がよく見える場所に来た。こちらからはよく見えるが、向こうからは草木が邪魔をして、見えないはずだった。

 そこには、二人の男女がいた。女は、昨日の女性だった。彼女が鼓を打っていた。そして、その隣で笛を吹いているのは、義経だった。


 笛の音は小鳥のさえずりに似て、鼓は川の流れのような澄んだ音を響かせていた。二人の息がぴったりと合っていることは、楽器の素養がない美野にもよくわかった。

 やがて二人は演奏をやめ、ささやくような声で、何か話し始めた。と、思うと、二人で仲よく笑いあった。この二人の心が、ひとつに通じあっていることは、誰の目にも明らかだった。


「静御前とおっしゃいます。もとは、京の白拍子です」


「白拍子」


 つぶやいた言葉を疑問ととったのか、行信が説明をはじめた。


「水干に袴、立烏帽子という男姿で舞を舞う……」


「白拍子は……知っています」


 つぶやきながら、静を見る。関東育ちの自分にはとうてい真似できない優美な物腰に、ふっとため息が漏れた。


「舞の名手なのでしょうね。とても優雅な……所作のひとつひとつが、舞を舞っているようだと、昨日も思いました」


 行信は、まだ何か言いたそうだったが、言うのをためらっていた。


「もと白拍子ということは、今は違うのですね。ずっと、この小さな館で暮らしていらっしゃる……」


 おそらく、美野が嫁ぐ前から静はこの館にいる。義経にとって「妻」は、静御前。美野の存在など、邪魔なだけだろう。

 すると、行信は、突然怒ったような口調で話し出した。


「お方さまは優雅とおっしゃいますが、白拍子は、武家の出の方とは違います。御大将のようなお立場の方が、妻を複数持たれるのは、家のため。御父君にも側室はいらっしゃったと聞いておりますが、嫡子である頼朝さまの母上は、ただ一人、御正室でした。違いは……あるのです」


 行信は、言葉を切るように息をついた。


「世の理は、そういうものだと、私は教えられてきました」


 行信は必死だった。自分をなぐさめようとしてくれているのが、よくわかる。だが、美野には、行信の言葉の矛盾が見えてしまった。


「気持ちはうれしいけれど……それ以上は言わないで。本心からの言葉ではないでしょう? 正室の子であろうと、側室の子であろうと、その人の価値に変わりはありません。九郎さま御自身も、側室の御子なのはわかっているでしょう?」


 行信は、頬を赤らめた。美野をなぐさめるのに夢中で、自分の話に筋道が通らなくなっていることに気づかなかったのかもしれない。


「それに、あの静御前という方……お話ししたことはないけれど、九郎さまが、あんなに楽しそうにしていらっしゃる。きっと九郎さまとあの方は、心が通じ合っている」


「お方さま……」


「静御前という方は、それだけ、素晴らしい方なのでしょう。不思議ね。わたくし、少し嬉しいのです。九郎さまが、身分や政治的な目論見ではなく、人柄でご自身の『妻』をお選びになったことが……。もちろん……わたくしは淋しいけれど……」


 最後の一言が、涙声になってしまったことにあわてて、口をつぐむ。

 行信も何かを言いかけたが、言葉を失ってしまったように口を閉じた。


「あなたは、九郎さまの影武者なのですってね?」


 美野は、楽しそうに談笑している義経と静御前のほうを見やりながら、言った。


「わたくしも同じかもしれません」


 二人を見つめたまま、美野は言った。


「九郎さまの本当の妻は、静御前……わたくしは影武者……北の方という名の……」


 一瞬、行信の呼吸が止まった。


「……それは、違います」

正室でありながら、心の居場所を持たぬ美野。

そして、光の裏で生きる影武者・行信。

二人はまだ、自分たちが同じ「影」に立っていることを、はっきりとは理解していません。

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