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8 影を見た日

嫁いでから、時は確かに流れています。

けれども、美野はまだ、夫のいる場所へ辿り着けずにいたのです。


 ふたりの距離を少しは縮められたと思っていた美野だったが、それが進展することはなかった。あの日以来、義経と語り合うどころか、顔を見ることもなく、どこで何をしているのかさえ、わからなかった。

 美野は、昼は自分の部屋で過ごし、夜は寝所ひとりで眠る――そんな毎日を続けていた。


 そんなある日――。


「お方さま」


 と声をかける者があった。


「増尾……」


 美野の虚ろな表情を見て、増尾は心配そうに言った。


「どうなさいました?」


「……どうしたらいいか……わからないの」


 本音を言える相手を見つけ、美野は言いつのった。


「わたくしは何をしたらいいのか……いえ、何もしないことがいいのかもしれない。九郎さまが何をなさっているのか知りたい。でも、知ってはいけない気もする」


「義経さまは、毎日、天皇のいらっしゃる御所へお出かけです。それが、仕事でもありますから……美野さまは、北の方さまなのです。この館の女性の中では、一番の位なのです。何も気遣う必要はありません。堂々と、心のままになされればよいのです」


 優しい目だった。上総の父を思い出した。


「……重房さまに、兄上さまに会いに行かれたらどうですか?」


 増尾は名案が思いついたという風に、手をたたいて言った。


「兄上さまに……ですか。よろしいでしょうか」


「お会いになりたければ、いつでもお会いになればよいのです」


 美野は心が少し晴れた気がした。増尾と重房と――少なくとも、自分の味方は二人いる。


「そうね。会いに行くわ。増尾、供を」


 美野の言葉を聞いて、増尾は晴れやかに微笑んだ。


「堀川館に嫁いで、ひと月あまり経つか……。どうだ、少しは慣れたか」


 重房はたずねられ、美野は苦笑するしかなかった。

 どこまで本当のことを兄に話してよいのか、悩んだ。


「九郎殿とはうまくやっているか。優しくしてもらっているか」


 からかうような口調は微塵もなかった。兄として、妹のことを心底心配している表情だった。


「あまり、お逢いできないのです」


 会ったのはただ一度だけ……とは、さすがに言えなかった。


「九郎殿は、今、お忙しいから……」


 慰めの言葉は宙に浮く。それが美野にもわかったし、重房にもわかっているようだった。

 河越で熱っぽく義経のすばらしさについて語り「お前は幸せものだ」と言っていた重房の自信に満ちた言葉は、遠い過去になっていた。


「そんなにお忙しいのですか」


 それでも、美野がたずねると、重房は教えてくれた。


「法皇さまから、従五位下の位を授かったので、その儀式があるのだ」


 美野は、河越を発つ前に父の言ったことを思い出し、つぶやいた。


「九郎さまは、また鎌倉殿の許しなく、任官してしまったのですか」


 その瞬間、重房の表情が変わった。美野に対する同情から、怒りへ。重房は、その怒りを隠そうとしなかった。


「おまえまで、そんなことを言うのか。九郎殿の任官は当然のことなのだ」


 怒りを直接ぶつけられ、美野は、重房が誤解していることに気づいた。


「わたくしも、鎌倉殿のなさりようは片手落ちだと思います。でも、今、新たに任官してしまうのは、鎌倉殿の怒りに火を注ぐことになるのではありませんか。九郎さまにとって、よいことはないと思うのです」


 美野の落ち着いた言葉に、重房の怒りはおさまった。


「そうだな。美野は、十分承知であったな」


「以前の任官でも、鎌倉殿はお怒りでした。それを承知で、九郎さまは、何故、また……」


 そんなに、位に執着があったのだろうか……そんな風には思えないが……。


「以前の任官は、断り切れなかったのだと思う。法皇さまが九郎殿を気の毒に思われて、検非遣使左衛門尉に任じられたのだ。それほどの高官ではない。法皇さまから直接の申し出だ。断るわけにはいかないだろう」


「それでは、今度も断り切れなかったのでしょうか」


「というより、以前の任官の続き……のようなものだ。検非遣使の方は変わらず、位だけ従五位下になったのだから。前の任官のとき――おそらく頼朝殿に遠慮なさったのだろうが――儀式を行わなかったので、今度はするのだろう。それくらい、しても当然なのだ」


 話していくうちに、重房の語気はだんだん強くなる。怒りは美野にではなく、頼朝に向けられているのだろう。

 ふと、気になった。重房は、美野の本当の役目――間者――を知っているのだろうか。


「兄上さま……わたくしの役目……政子さまから言いつかってきたこと……ご存じですか」


「間者をしろと、言われたのか?」


 重房は、あっけないほど、あっさりと言った。


「知っていらしたのですね」


「はっきりとは知らされていない。だが、たぶんそんなことだろうと思っていた。父上はご存じか」


 うなずくと、重房は声をひそめて問うた。


「それで、父上は何とおっしゃった」


「政子さまの言ったことは忘れろ、九郎殿は立派なお方ゆえ、一生添いとげよ……と」


「やはり……」


 重房は、ふっと笑った。


「案ずるな。私も父上も、九郎殿の味方だ」


 重房のたのもしい言葉は、美野に勇気を与えてくれるようだった。


 数日後の十月十五日、義経は拝賀の式を行った。


 これは、義経が従五位下という位を、帝から授かったためである。この位になると、昇殿が許される。そのときに行う儀式を拝賀の式という。

 義経は、八葉車と呼ばれる美しい牛車に乗り、院へ向かった。お供に騎馬に乗った武士が二十人ほどついていた。


 義経の姿は立派だった。太刀を履き、笏をかかげた姿はりっぱだった。義経は小柄だったが姿形は整っていたし、何しろ動作が機敏で美しかった。

 そんな義経を見て、美野は誇らしさと不安が綯い交ぜになった妙な気分を味わっていた。その気持ちをひと言で表すならばやはり『危うさ』になるのだろう。


 これは、頼朝からは許されていない儀式のはずである。それなのに、八葉車に乗って院へ向かう義経の表情は晴れ晴れとしていた。嬉しさを隠していない。そんな、あまりにも素直な義経に、美野は『危うさ』を感じたのだ。


 毎日毎日が、同じように過ぎていった。昼は自分の部屋で一人で過ごし、夜は寝所で一人で眠った。

 嫁いだときの決意――九郎さまを守ってさし上げたい――は、完全に空回りしていた。

 美野は、義経に妻として出来る限りのことはしようと思っていた。夫婦として支え合い、信頼し合えるように努力するつもりでいた。自分が心をこめて接すれば、義経も自分を妻として愛しんでくれるのではないか……。そんな甘い期待も、抱いていた。

 しかし、実際には、夫婦として過ごすどころか、親しく言葉を交わすこともない毎日が続いている。


 わずかな救いは、増尾と重房の存在だった。重房は、頻繁に堀川館を訪れ、いろいろな話をしてくれた。増尾も、何くれとなく気遣ってくれた。義経の様子は、増尾と重房の話でようやくわかる、といった具合だった。

 そのことを嘆くと、重房は、


「……御大将も、お忙しいのだ」


 と、美野を慰めてくれたが、時折、気まずそうな表情をすることがあった。何かを隠しているようだったが、追求しようとすると、うまくはぐらかされてしまう。そんなことがたびたびあった。

 もっとも、義経が忙しいのは事実だった。たとえ、重房の言葉に何か隠されているものがあったとしても、忙しいというのは、嘘ではなかった。


 拝賀の式が終わっても、義経は休む暇はなかった。

 この年の五月、新しい天皇が即位した。安徳天皇は、平氏とともに西海へ落ちてしまったので、その弟の後鳥羽天皇が即位した。その大嘗会が十月二十五日に行われたのだ。

 大嘗会に際して、義経は法皇の御幸の先陣に供奉していた。美野も、その姿を見ることができた。義経は堂々としていて、他のどの武将よりも、立居振舞いが優雅だった。


「判官さま(義経)のりっぱなこと」


 見ている町の人々も、ささやきあっていた。美野は、それを聞いても少しも嬉しいと思わなかった。義経の誇らしげな姿に『危うさ』だけしか感じない自分は、妻としては失格なのかもしれない……と思いながらも、不安は募るばかりだった。


 美野は、堀川館の庭を散策していた。

 風が、冷たい……。冬の訪れを感じ、ふと思った。

 ――まもなく一年になるのだ。上総介広常が命を落としてから。

 波乱の一年――言葉に表せば、そんなふうになるのかもしれないが、そんなひと言ではすまされない一年であったと、美野は思う。


 ずいぶん非道な仕打ちを受けたが、美野は、その生活の中に光を見い出していた。

 それは、自身の敵でもある梶原景時から、夫である義経を守ること。美野は、自分の進むべき道を、ようやく見つけ出した……そう思っていた……はずなのに……。守るべき義経に拒絶されている。目の前に立ちはだかる壁は大きく厚すぎて、美野にはどうしていいかわからない。


「父上さま、教えてください。わたくしは、どうしたらいいのでしょう」


 そう問いかける相手は、もちろん、上総介広常で……。美野は、今までのどんな時より強い気持ちで、父の言葉を求めていた。だが、いつも、美野に道を示してくれた父の声は、どこからも聞こえない。

 自然に涙があふれてきた。河越の娘の身替わりになってから、一度も泣いていない。泣けば、負けのような気がしたから。


 でも、でも……今だけは、許してもらおう。泣くだけ泣けば、きっと、新たな道が見える。美野は、自分に泣くことを許した。美野はその場にうずくまり、声を上げて泣いた。泣いて泣いて、最後には声も出なくなるまで泣いた。けれども、新たな道など見えてこない。涙と一緒に魂まで抜けてしまったような気がして、うずくまることもできなくなり、美野はその場に倒れ込んでしまった。


 その時――。


「どうなさったのですか?」


 美野にかけられた声は、ひっそりとしていながら響きのよい、だが、とても控えめな声だった。義経のものでも、継信忠信兄弟のものでもない。

 けれど、その声に、美野は聞き覚えがあった――が、思い出したくない響きだった。

 その時、ためらいがちな声が続けた。


「お方さま……」


 そう言うからには、声の主は義経の郎等なのだろう。義経にどう思われようと、彼らににとって、美野は北の方なのだ。毅然としていなければならない。

 涙をぬぐい、身を起こした。そこには、義経とよく似ている――だが、相容れないはっきりとした違いのある若武者が控えていた。


「お身体の具合が悪いのでしょうか」


 いいえ、と答えようとした瞬間、美野は、声の主が誰であるか思い出した。

 堀川館での初めての夜、「御大将は、今宵、こちらにはうかがえないご様子……」と教えてくれた声だ。


「具合は悪くありません。あなたの名前を教えてください」


 名を問うた美野を、若武者は少し困ったような顔で見た。


「名乗るほどのものではありません」


 意外な返事に美野は戸惑い、重ねて尋ねようとしたが、


「お部屋まで、お送りしましょう」


 と言われてしまい、それ以上訊くことはできなかった。

 堀川館は、寝殿造りといわれる貴族の館だった。庭には小さな川が流れ、小さな橋もかかっている。

 夏には夕涼みをする泉殿も、池の上にはりだしていた。

 その池の水辺に若い女がいるのに気づいた。その人は花を摘んでいた。美野は立ち止まって彼女を見た。若い女は、堀川館ではめずらしかった。

 美野がその若い女を見ていることに気づくと、若武者はせかすように、


「お方さま……」


 と、言った。

 その語調に引っかかりを感じ、美野は女をよく見た。小柄で華奢な体つきをした美しい人だった。

 美野自身は、小柄なほうではないので、義経の上背と大差ない。

 だが、その女は本当に小さかった。そして、花を取ろうと伸ばした手は、白く細かった。


「きれいな人……あの方は……」


 ある予測を持って、美野は若武者にに尋ねたが、


「存じません」


 と、視線を逸らされてしまった。その様子に、確信を持つ。この人は、おそらく、正室として迎えられた自分よりも、ずっと長く、ここにいた人なのだろう。

 小柄で美しい人の花を摘む動作は、まるで舞を舞っているように、優雅だった。


この夜、まだ何も始まってはいません。

けれど、美野の心は、もう戻れない場所へ踏み出しています。

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